もう少し上 作:自動車好き/飛行機も好き
2020年8月9日 アリゾナ州ツーソン近郊 High Frontier Aviation
機体が停止してから格納庫へ牽引されるまでの間、誰も詳細記録には触れなかった。データを見てから話すのと、見る前に話すのとでは、証言の意味が変わってしまう。それは十年前からHFAが守ってきた手順の一つだった。記録は嘘をつかないが、記録を先に見た人間の記憶は、いつの間にか記録に寄り添う形へ変わってしまう。だからこそ、証言は記録より先に、記録を知らないまま固定される。
ケンとエリヤはヘルメットを外し、与圧服のまま会議室へ移動した。まだ服を脱ぐ余裕はない。今この場でしかできないことが、先にあった。
「所見の固定を始める」
マギーの声に、いつもと変わらない事務的な響きが戻っていた。搭乗員三名それぞれが、記憶している範囲だけを、記憶している順序のままで語る。それが最初の作業だった。
ケンから始まった。
「99,500ft到達前、予定外の機首上げが発生。機首下げ入力への応答なし」
高度の数字は、あえて曖昧にしない。だが、それより先の細かな進行順序については、断定しなかった。エンジンの異常に気づいた時点、姿勢が乱れ始めた時点、それぞれの前後関係は覚えている。だが分単位、フィート単位まで記憶を追い込んで語ることはしない。それは記録が答えるべき領域だ。
「エンジン推力の低下を確認した後、機首上げが進行。通常回復が成立しなくなった時点で、地上へ試験中止を要請した」
エリヤの証言も、同じ形を守っていた。「たぶん」「おそらく」を挟まず、確認できた事実だけを、確認できた順番のままで並べる。EGTの低下に気づいた瞬間、回転数がさらに落ちた瞬間、推力実質ゼロと判断した瞬間。それぞれの間にどれだけの時間が流れたか、正確な秒数までは言い切らない。時間の感覚は、あの高度ではいつも歪む。そのことを、エリヤは誰よりもよく知っていた。
二人の証言は、互いに見せ合う前に、それぞれ別の記録用紙へ書き取られた。同じ飛行に乗っていた二人でも、見ていた計器と意識を向けていた対象は違う。証言が完全に一致しないことは、むしろ自然なことだった。
ライアンの証言は短かった。
「離脱後は視認できる範囲になく、テレメトリー越しに状況を追った。再合流時、機体外観に見えた異常はなし」
自分の目で見ていない時間帯について、想像で補うことはしない。それは他の誰よりも、彼が徹底していた点だった。
三者の証言が出そろってから、初めてマギーは記録装置のデータへ手を伸ばした。証言と記録を照らし合わせる作業は、今日ではなく、これから何日もかけて行われる。
格納庫では、すでに整備班が動き始めていた。テオが点検班を割り振り、優先順位を口頭で伝えていく。回復専用シュートの収納区画、翼端ユニットの残骸、脚とフラップの作動系統。飛行中に「異常なし」と報告された箇所も、地上で改めて一つずつ確かめ直す。空の上で見えたことと、地上で確かめられることは、必ずしも同じではない。
「翼端ユニット、両側とも回収。焼損は想定範囲内だが、念のため分解して内部も見る」
テオの指示は具体的だった。想定範囲内という言葉を、そのまま鵜呑みにする男ではない。想定範囲内だったという結論も、確かめてから初めて言えることだ。
シュート収納区画の点検には、特に時間がかかった。展開機構、切離し機構、収納部の耐熱材。この系統だけは、これまでも整備班が念入りに扱ってきた場所だった。今日、その積み重ねが実際に機能したことを、テオは誰よりも実感していた。だが実感と点検は別の作業だ。彼は淡々と、いつもどおりの手順を進めていく。
若い整備士の一人が、焼け跡の残る翼端ユニットを見て、思わず声を上げそうになった。テオはそれを手で制した。驚くのは後でいい。今は、部品ごとに何が起きたのかを記録することが先だ。感情を挟む余地は、点検表のどこにもなかった。
会議室には、証言を終えたばかりのケンとエリヤ、記録を持ち帰ったマギー、テレメトリー班を代表するプリヤ、そして無線の内容をすべて書き起こしてきた通信担当が集まっていた。誰も声を荒げない。今日という日を、大声で語るべき出来事にはしない。それが、この部屋にいる全員が共有している態度だった。
「承認高度の扱いは」
誰かが尋ねる必要のある質問だった。答えたのはマギーだった。
「99,500ft付近への到達が記録されていても、これは成功でも承認更新でもない。承認高度は99,000ftのまま据え置く」
数字の上では、目標にほとんど届いていた。だがその数字は、狙って手に入れたものではなく、推力を失った機体が慣性で押し上げられた結果にすぎない。到達と成功は、同じ言葉ではなかった。
「100,000ftへの挑戦は、当面凍結する」
その一言に、誰も異を唱えなかった。次の500ftへ進む前に、今日の500ftで何が起きたのかを、まず理解しなければならない。60,000ftから始まった十年近い積み重ねの中で、凍結という言葉が使われるのは、これが初めてだった。
「試験カード自体は、悪くなかったと思う」
プリヤが控えめに言った。手順どおりに進め、手順どおりに中止し、手順どおりに回復した。その意味では、今日の飛行は失敗ではない。だが到達した高度と、そこで起きたことを並べれば、単純に成功とも呼べない。誰もその矛盾を、無理に解消しようとはしなかった。
「次の500ftは、いつ頃になりそうだ」
ケンが尋ねると、マギーは即答しなかった。
「原因が分かって、改修して、地上で再現できて、それでも安全だと確認できてから。時期は約束できない」
急かす響きはなかった。それでいいと、ケンも思っていた。もう少し上へ進むための時間を、今日、確かに買ったのだから。
原因究明は、その日のうちに担当が割り振られた。燃料系統、RCS供給圧力、FBW制御則。それぞれ別の班が、それぞれの記録を洗い直す。誰か一人の単純な見落としで片づけられる話ではないことは、集まった技術者たちにも、口に出さずとも伝わっていた。系統ごとの境界に生じる不整合は、系統ごとの担当者だけを見ていては、決して見つからない。
「燃料圧力は正常だった。ただし、どのタンクから送られていたかは、まだ分からない」
ある技術者がそう言ったとき、部屋の空気がわずかに変わった。正常という言葉と、分からないという言葉が、同じ一文の中に並んでいた。今日という日を要約するとすれば、それが一番近い形だったのかもしれない。
RCS担当は、供給圧力の記録を洗い直す作業に入っていた。噴射指令に対して実際の推力がどう立ち上がっていたか、過渡的な変動がなかったか。FBW担当は、制御則が前提としていた条件と、実際の機体状態との間にずれがなかったかを確認する。三つの班は、それぞれ自分の持ち場では大きな見落としを見つけられずにいた。個々の系統は、単独で見る限り、これまでの試験基準を満たしていた。だからこそ、マギーは早い段階から一つの見方を崩さずにいた。原因は、どこか一つの系統の中にはない。系統と系統の境目、互いの前提が噛み合わなくなる場所にある。
その日の夜遅く、燃料班の一人が各タンクの実残量を仮に読み合わせ、短い報告を上げた。ガンベイタンクは計画どおりの減り方をしている一方、左右アフトタンク側の残量が、想定よりいくらか多いように見える。ただし計器の較正誤差を除ききれておらず、まだ確定情報として扱えない。マギーはその報告を記録に残しつつ、誰にも結論を急がせなかった。今日わかったことは、明日にはまた別の見え方をするかもしれない。それを承知の上で、一つずつ確かめていく。
「じゃあ、重心がずれてたってことか」
誰かがそう言いかけたが、燃料班の担当者はすぐに首を振った。
「まだそこまでは言えない。数字が一つ、いつもと違って見えるというだけだ」
その慎重さは、この会社が最初から大事にしてきたものだった。数字が一つ違って見えることと、それが原因だと確定することの間には、まだいくつもの検証が必要だ。
会議が終わった後も、マギーはしばらく自分の席を離れなかった。試験中止を告げるか、継続を認めるか。今日、その境界線の上を何度も歩かされた。結果として誰も失わずに済んだが、それは判断が正しかった証明にはならない。次に同じ状況が来たとき、同じ判断で済むとは限らない。彼女はそのことを、誰にともなく頭の中で繰り返していた。共同所有者であるケンとエリヤに対しても中止を宣言できる立場にあるということは、その重さを引き受けるということでもあった。
夕方、ケンとエリヤは格納庫の隅で、しばらく黙って機体を眺めていた。翼端の焼け跡、シュート収納区画の開いた蓋、まだ点検中の脚。派手な損傷はどこにもない。それでも、この機体が今日、二人を連れ去りかけたことを、二人ともよく分かっていた。
「よく戻ってきたな」
ケンがそう言うと、エリヤは短く笑った。
「戻したのは俺たちじゃない。あれを作った全員だ」
その言葉に、ケンは何も言い返さなかった。翼端ロケット、APU、FBW、RCS、回復専用シュート。整備班、部品調達、資格取得、訓練、記録管理。今日この機体を帰したのは、今日この場にいなかった何百人もの積み重ねだった。
「マギーにも、プリヤにも、ライアンにも、あとで礼を言っておけ」
「お前も言えばいい」
「言うさ。今日じゃなくても」
二人のやり取りに、それ以上の言葉は続かなかった。今日という日に対して、大げさな感謝の言葉を並べることは、どちらの性分にも合わない。それぞれのやり方で、それぞれの時に伝えればいい。二人はそう決めていた。
格納庫の反対側では、ライアンがLightningの機体点検を自ら手伝っていた。今日、自分にできたことは、見て、伝えることだけだった。操縦していたのは、あくまでケンとエリヤだ。それでも、待機空域から画面越しに二人を追い続けていた時間の長さを思うと、まだ落ち着かない何かが胸の奥に残っている。彼はそれを言葉にせず、代わりに機体の点検作業へ体を動かした。動いていれば、余計なことを考えずに済む。
事務所へ戻る途中、ケンは自分のデスクの引き出しから、古い一枚の宝くじ券を取り出した。当たったものではなく、当たらなかった一枚だ。捨てずに取ってあるのは、験担ぎでも記念でもない。ただ、あの日から続いている習慣の、一番古い部分だからだった。
「まだ持ってたのか、それ」
後ろから覗き込んだエリヤが言う。
「捨てる理由がない」
ケンはそれだけ答え、引き出しを閉じた。色あせた紙の手触りは、十二年前とほとんど変わっていない。変わったのは、その紙切れの延長線上に積み上がった、十二年分の会社と機体と人だった。
「あの頃は、こんな日が来るなんて思ってもいなかったな」
エリヤがぽつりと言った。ケンは何も答えず、ただ小さくうなずいた。二人とも、今日という日に至るまでの道のりを、いちいち言葉にする必要はなかった。互いの記憶の中に、同じだけの重みで残っている。
窓の外はすでに暗くなり始めていた。今日の飛行で分かったことより、分からないままのことの方が多い。だがそれを一つずつ確かめていく作業は、明日からで構わなかった。
十二年前、二人はまだ現役を退いたばかりで、飛行機を持つことさえ考えていなかった。当たり前に続いていた日常の中の、ある一枚の紙切れから、全てが動き始めた。