もう少し上 作:自動車好き/飛行機も好き
動く試験場
2024年2月 カリフォルニア州サンディエゴ 民間空母フォーティチュード
桟橋から見上げると、灰色の壁が空の半分を塞いでいた。
ケン・ハラダは、首を反らせたまま、しばらく動かなかった。隣でエリヤ・ムーアが、同じ姿勢で口を開けている。後ろには、マギー・ヴォスとネイト・ヴェイル、プリヤ・ナイル、それにキャサリン・ロックウッドが並んでいた。
「でかいな」
「当たり前でしょう。空母ですよ」
マギーが、呆れた声で言った。
全長八百フィートを超える飛行甲板が、桟橋の上に覆いかぶさるように張り出している。船体は、かつて海軍で使われていた頃の灰色ではなく、落ち着いたネイビーブルーに塗り直されていた。艦橋の側面には、白い文字で艦名が書かれている。フォーティチュード。
「ようこそ。ハラダさん、ムーアさん」
舷門で待っていたのは、六十代半ばの大柄な男だった。日に焼けた顔に白い口髭を蓄え、帽子の下の目が笑っている。
「艦長のロバート・キャラウェイです。艦長と呼ばれるのは、まだ慣れませんがね」
「海軍のご出身ですか」
「二十六年。最後は駆逐艦でした。空母に乗るのは、実はこの艦が初めてなんです」
ケンは、思わず笑った。
「それで、十年以上も動かしているんですか」
「船は船です。飛行機のことは、飛行機の連中に任せています」
キャラウェイは、そう言って、舷門の脇に立っていた男を手招きした。
「紹介しましょう。着艦誘導士官のビル・ハドソン。この艦の甲板の主です」
短く刈り込んだ白髪に、日焼けした顔。七十近いはずだが、背筋は伸びている。ビルは、無言で一礼した。
一行は、昇降機で飛行甲板に上がった。
広い。ケンの口から、思わず息が漏れた。HFAの本社滑走路を見慣れた目にも、洋上に浮かぶこの平らな鉄の板は、まるで別の惑星のように見えた。
「飛行機は、ここへ降りてくるんですか」
プリヤが、恐る恐る尋ねた。
「降りるし、飛び立ちます。この艦のカタパルトは蒸気式で、F-14でも打ち出せます。あの日も、民間のF-14を一機、ここから送り出しました」
ビルが、初めて口を開いた。低くて、よく通る声だった。
「ですが、今日お見せしたいのは、甲板ではありません。下です」
案内されたのは、艦の奥にある、窓のない部屋だった。
壁一面に、画面が並んでいる。机の前では、数人の管制員がヘッドセットを着けて、無言で作業をしていた。薄暗い光の中で、洋上の地図が静かに動いている。
「航空管制室です」
キャラウェイが言った。
「それから、うちの目をご紹介します」
部屋の隅で、一人の男が立ち上がった。六十代後半。穏やかな目をしていた。
「ダリル・オコナーです。いまは運航部長ですが、機長席にも時々座ります。艦載監視機のコールサインは、ピットボスです」
「ピットボス」
ネイトが、思わず繰り返した。
「賭場の見張り役の名前なんて、と笑われますが、気に入っています」
ダリルは、笑って画面を指さした。
「今、うちの機体が、ここから西へ二百マイルの洋上に出ています。画面の点がそれです。あの高度から見えているものを、この部屋でそのまま見られます」
地図の上には、小さな点が幾つも浮かんでいた。大半は民間の貨物機や旅客機だった。その一つ一つに、高度と速度の数字が付いている。
「ハラダさんから頂いた計画書を、拝見しました」
ダリルは、静かに続けた。
「サブオービタル機の上昇経路は、カリフォルニア沖からバハ半島の西を通って、南へ抜ける形になる。違いますか」
ミリがいれば、すぐに答えたはずだった。代わりに、ネイトが口を開いた。
「そうです。高度が上がれば、地上の局から見える範囲は広がりますが、機体がロケットに切り替わった後の加速域では、陸上の受信局が足りなくなります。海の上に、受信できる場所が欲しいんです」
「固定の試験場は、押さえられないんですか」
キャラウェイが尋ねた。
「押さえられます。ただ、予約は半年から一年先まで埋まっていて、天候が悪ければ丸ごと流れます。飛ぶ日を、こちらで選べないんです」
「なるほど」
ダリルは、画面の地図を少しだけ動かした。
「うちの機体と、この艦のレーダーと、艦の受信設備を組み合わせれば、機体の位置と各系統の数値を、洋上のどこでも拾えます。天候の悪い海域を避けて、艦を動かせばいい。つまり、試験場のほうが、飛ぶ日に合わせて動きます」
プリヤが、目を輝かせた。
「テレメトリーの受信アンテナは、艦のどこに」
「艦橋の後ろと、格納庫の屋根に既存のものがあります。足りなければ、増設します。甲板の端なら、場所はあります」
「失探の対処は」
「うちの機体が、上から二重に見ます。艦のレーダーが落としても、機体が拾う。逆もそうです」
プリヤは、短く頷いた。
「それなら、局の数を増やすより、確実かもしれません」
マギーは、腕を組んだまま、黙っていた。やがて、ぽつりと言った。
「飛行の安全を、誰が監視するんですか」
「艦の側で、専任の管制員を一人、貼り付けます。うちの人間です」
ダリルは、即答した。
「ただし、中止を判断する権限は、貴社のテストディレクターが持つべきです。うちが決めるのは、水平線の向こうに他の機体がいないか、それだけです」
マギーは、わずかに口元を緩めた。
「分かりました。そこは線を引いてもらえて助かります」
次に案内されたのは、艦内の小さな会議室だった。
長い机の端に、灰色のスーツを着た背の高い女性が座っていた。書類の束を手元に積み、眼鏡越しに一行を見ている。
「ご紹介します。連邦航空局のダイアン・ホルトさんです。今日は、非公式にお越しいただきました」
キャサリンが、静かに言った。
「ホルトです。お久しぶりです、ロックウッドさん」
ホルトは、軽く会釈した。それから、ケンとエリヤに視線を移した。
「あなた方のお名前は、書類の上で何度か拝見しています。二〇〇一年の九月に、私は一つの機体の受油口の再封印に立ち会いました」
エリヤが、わずかに目を見開いた。
「パシフィック・スカイラインの」
「はい。あの封印の鉛を、私は今も覚えています」
ホルトは、書類を一枚、机の上に滑らせた。
「単刀直入に申し上げます。ご計画のうち、空中給油の件です。二〇〇一年以降、民間機の空中給油は、一件も許可されていません。今も、状況は変わっていません」
「承知しています」
キャサリンが言った。
「ですから、本日は許可のお願いではなく、条件の相談です」
「条件」
「はい。ご説明します」
キャサリンは、手元の資料を開いた。
「空中給油を行う場所を、米国の領空の外、公海上の空域に限定します。実施は、この艦の運航計画の枠内で、試験として申請します。機体の国籍は米国のままですが、運用管理は、船籍国の海事当局と、貴局の双方に報告する形にします」
「領空外といっても、米国籍の航空機であることに変わりはない」
「はい。ですから、貴局の検査官に、毎回立ち会いをお願いしたい。給油の手順、機体の改修内容、乗員の資格、すべてを見ていただきます」
ホルトは、眼鏡を押し上げた。
「立ち会いを、自分から申し出る会社は珍しい」
「見ていただいたほうが、あとで話が早いので」
キャサリンは、静かに笑った。
ホルトは、しばらく書類に目を落としていた。会議室に、艦の機関の低い振動だけが響いていた。
「正式な許可を出すことは、私の権限ではできません」
ホルトは、ゆっくりと言った。
「ただし、条件を満たす限り、貴局として異議を申し立てない、という書面なら出せる可能性があります。あくまで、可能性です」
「それで十分です」
ケンが、初めて口を開いた。
「許可がないと飛べないと思っていたものが、条件付きで、飛んでもよいことになる。それだけで、半歩は進みます」
ホルトは、ケンの顔を見た。
「半歩、ですか」
「はい。一度に全部は進めません。浮かれると、足元をすくわれますから」
隣でマギーが、小さく頷いた。ホルトの口元に、ほんのわずかな笑みが浮かんだ。
「あの日の封印を覚えている人間が、一人くらい審査側にいてもいいでしょう」
ホルトは、そう言って、書類を揃え始めた。
最後に連れて行かれたのは、艦の中央にある医務区画だった。
白い壁の広い部屋に、寝台が六つ並んでいる。奥には、手術台の置かれた小さな部屋があった。
「手術室が二つ。軍医経験者の医師が二人、看護師が六人。それに、ヘリコプターが二機」
ビルが、簡潔に説明した。
「脱出や不時着で、海に落ちた搭乗員を拾う場合、艦の位置が試験空域の中にあるなら、最悪でも二十分で到着できます」
ケンは、窓のない部屋の中を、ゆっくり見回した。
「二十分」
「もっと早く着ける場合もあります。ただ、保証できるのは二十分です」
「十分ありがたいです」
エリヤが、静かに言った。
「サブオービタル機の機体が、万一、予定外の降下に入ったとき、一番怖いのは、拾う者がいない場所に落ちることです。陸の砂漠にも海にも、そういう場所は多い」
「その点は、うちの機体が助けになります」
ダリルが、入口から顔を出した。
「射出座席のビーコンは、谷の底では聞こえないことがあります。ですが、洋上で、上から見下ろす機体には、遠くまで届く。二十年以上前の九月に、モンタナの山中でも、同じことが起きました」
ケンが、眉を上げた。
「その話は、聞いています」
「それなら、話が早い。あのときは、人家のない谷でした。ここでは、うちの機体と、艦と、ヘリが全部同じ指揮系統で動きます。見つけて、呼んで、拾う。一続きです」
ビルが、静かに言い添えた。
「降りてこなくていいんです。ハラダさん。降りる必要のない機体を、うちは何度も見送ってきました。ただ、落ちる先に誰かがいる、というだけで、乗員の顔は変わる」
ケンは、少し考えてから、頷いた。
「ありがとうございます。そう言ってもらえると、心強いです」
その日の夕方、一行は飛行甲板の端に立っていた。
西の空が、薄い橙色に染まっている。艦は桟橋に繋がれたまま、わずかに揺れていた。足元の鉄板から、低い機関の音が伝わってくる。
「どうだ」
ケンが、エリヤに尋ねた。
「悪くない。いや、思っていたより、ずっといい」
エリヤは、水平線を見たまま答えた。
「地面が動く試験場。変な言葉だが、これは使える」
「全部お願いするわけにもいきません」
マギーが、横から口を挟んだ。
「艦の運航費用は、HFAの負担になります。キャサリンの試算では、一回の試験運用で、数十万ドルは見ておく必要があります」
「分かっている」
「分かっているなら、いいんです。浮かれないでください」
「浮かれていない」
ケンは、短く答えた。それから、ふっと息を吐いた。
「怖いと思っている。この艦が助けてくれることと、頼りきってしまうことは、別だ」
マギーは、何も言わなかった。ただ、静かに頷いた。
甲板の反対側から、ビルが歩いてきた。
「ハラダさん。一つだけ、聞いていいですか」
「どうぞ」
「あなたの機体は、ここへ降りられますか」
ケンは、首を横に振った。
「降りられません。着艦装置を積む余裕はないんです」
「そうですか」
ビルは、少し間を置いてから言った。
「それなら、降りなくていい。その代わり、落ちる場所は、ここにしてください」
「落ちる場所、ですか」
「うちの甲板の周りの海です。そこなら、必ず拾います」
ケンは、一瞬、言葉を失った。それから、ゆっくりと手を差し出した。
「お願いします」
ビルは、無言で握り返した。その手は、硬くて、温かかった。
桟橋へ降りる途中、キャサリンが、ケンの隣で小さく言った。
「ホルトさんの書簡が出るのは、早くて三か月後です。その間に、艦の運用計画と、試験の申請書を詰めます」
「頼む」
「はい。マイケルにも、費用の見積もりを急がせます」
エリヤが、後ろを振り返った。夕日を浴びた艦影は、桟橋に静かに横たわっていた。
「あの船が、うちの試験場になるんだな」
「いや」
ケンは、小さく首を振った。
「まだ、なっていない。これから、一回ずつ、確かめていく」
三人は、並んで桟橋を歩いた。足元で、潮が静かに波打っていた。
その夜、本社に戻る機内で、ネイトとプリヤが、翌日からの作業の段取りを小声で話し合っていた。マギーは、窓の外の暗い海を、黙って見ていた。
洋上の動く試験場の、最初の試験日は、まだ決まっていなかった。