もう少し上 作:自動車好き/飛行機も好き
2024年4月 ルイジアナ州レイクチャールズ
製油所の匂いは、風向きで変わる。
ミリアム・ルークは、レンタカーの窓を少し開けて、その匂いを嗅いだ。硫黄ではない。軽い油と、焼けた鉄の匂いだった。
「ミリ、ここで合ってるのか」
運転席のソフィア・ベランディが、ナビの画面と目の前の看板を見比べた。「ガルフ・スペシャルティ・ペトロリアム」。大手の巨大なタンク群の向こうに、ぽつんと取り残されたような小さな施設だった。
「合ってる。ここが、JP-7の古い図面を持っている工場」
「持っている、じゃなくて、持っていたんでしょ」
「持っていた人が、まだいる」
ミリは、そう言ってシートベルトを外した。
応接室に現れたのは、七十代前半の痩せた男だった。白い作業服の胸に、ドナルド・フェアバンクスと刺繍がある。
「ドンでいい。みんなそう呼ぶ」
握手の手は、乾いて硬かった。
「フェアバンクスさん。お電話で話した件ですが」
「JP-7だろう。分かってる。座ってくれ」
ドンは、二人に椅子を勧めてから、棚から古びたバインダーを一冊取り出した。背表紙には、色の褪せたマジックで数字が書いてある。
「最後に作ったのは、二十年以上前だ。あの頃は、機体の数が決まっていたから、量も決まっていた。それが突然、いらなくなった。工場の釜は、別の仕事に変わった」
「今は作れないんですか」
「作れる。ただ、あれを作るには、原料の選び方から違う。普通の灯油と同じ顔をしているが、中身は別物だ。揮発しにくく、熱に強く、高温の配管の中で煤が出にくい。そのために、余計な成分を徹底的に削る」
ソフィアが、身を乗り出した。
「うちの技術者は、その熱安定性が欲しいんです。ただ、ロケットの燃料としても使うので、純度はRP-1に近いものが要ります」
「RP-1か」
ドンは、鼻で笑った。
「あれは、ロケット屋が決めた灯油だ。硫黄を削って、不飽和の成分を減らして、煤を出さないようにしてある。JP-7とは、目指す方向が少し違う。片方は高温の空気の中を飛ぶ機体の冷却用、片方は高圧の燃焼室を冷やす用だ」
「両方、ほしいんです」
ミリが言った。
「都合のいい話だな」
「分かっています。だから、混ぜたいんです」
ドンは、しばらく黙った。それから、バインダーを開いて、一枚のグラフを指で叩いた。
「混ぜるのは、簡単じゃない。普通の混合は、性質の悪いところだけが目立つことがある。特に高温で煤を出す成分は、少量でも効く」
「だから、原料の段階から選び直してほしいんです」
「ほう」
ドンの目が、初めて少し光った。
「どのくらいの量が要る」
「最初は、ドラム缶で十本。試験を重ねて、量を増やします。最終的には、タンクローリー数台分を、定期的に」
「小さな話だな」
「はい。小さいうえに、面倒です」
ドンは、声を出して笑った。
「正直だな。いいだろう。やってみよう」
その日のうちに、ドンは案内役として、若い女性を紹介した。
「ヘレン・ブーシェ。うちの分析屋だ。孫の年だが、腕は私より上かもしれん」
ヘレンは、二十代後半に見えた。作業服の袖を肘までまくり、手首に小さなタトゥーが覗いている。
「ブーシェです。よろしくお願いします」
「ルークです。こちらはベランディ」
「ソフィアでいいわ」
三人は、小さな試験棟に入った。ガラス張りの部屋に、蒸留塔の小型模型が立っている。
「原料の油は、この地域の複数の井戸から集めています。まず、成分を細かく分けます」
ヘレンは、慣れた手つきで装置を動かした。細いガラス管の中を、透明な液体が、ゆっくりと流れていく。
「軽い成分から順に、取り出していきます。ここで、使いたい範囲だけを切り出します」
「どのくらいの範囲を」
「JP-7の沸点帯を基準にして、そこから少しだけ軽いほうへ広げます。RP-1の範囲に近づけるためです」
ソフィアは、メモを取りながら尋ねた。
「煤の出やすさは、どう確かめるんですか」
「加熱した細い管の中を、少しずつ流します。管の壁を高温にして、何時間か流し続けて、内側に付いた煤の量を量ります」
「それは、うちでもやります」
ソフィアは、小さく笑った。
「実は、ネイトが、その装置を社内で作ったんです。ロケットの冷却路を模した、細い管の試験機です」
「ネイトさん」
「うちの技術者です。理論屋ですが、手も動く人です」
三週間後、第一回の試料が、HFAの本社に届いた。
ドラム缶一本分の、淡い黄色の液体だった。ミリとソフィア、それにプリヤが、試験室で缶を開けた。
「匂いは、悪くないわね」
ソフィアが、鼻を近づけた。
「悪くない、じゃ困るの。結果を見ないと」
ミリは、ネイトが作った試験機に試料をつないだ。細い管が、ゆっくりと赤熱していく。管の壁温度の数値を、プリヤが読み上げた。
「壁面、規定温度に到達。流量安定。二時間経過」
「煤は」
「まだ見えません。四時間経過」
試験室に、機械の低い音だけが響いた。
六時間が過ぎたとき、管の出口の流量が、わずかに揺れた。
「流量、落ちています」
プリヤが、鋭く言った。
「管の内側に何か付いたわ」
ミリが、装置を止めた。細い管を外し、断面を拡大鏡で覗き込む。内側に、薄い黒い膜が張っていた。
「煤です。思ったより、早いわね」
「第一回は、失敗か」
ソフィアが、肩を落とした。
「失敗じゃない。条件が一つ分かっただけ」
ミリは、記録簿に数字を書き込んだ。
「ドンに連絡する。軽い成分の比率を、少し下げてもらう」
その夜、ミリはドンに電話をかけた。電話口のドンは、結果を聞いて、ふむ、と唸った。
「六時間で煤が出たか。思ったより頑張ったな」
「頑張った、ですか」
「最初から完璧なものは、できない。JP-7だって、最初の試料は散々だった。あの頃は、一回の試験で釜を三つ潰した」
「三つ」
「ああ。だから、気にするな。次の配合を、ヘレンと考える」
ミリは、電話を切ってから、しばらく机に向かっていた。燃料の配合は、料理に似ている。レシピは決まっていない。作っては試し、試しては直す。その繰り返しだった。
二回目の試料は、四週間後に届いた。三回目は、その二週間後。四回目の試料が届いたとき、ネイトが、試験機の前で腕を組んでいた。
「ミリ、これは行けるかもしれない」
「十二時間回してから言いなさい」
「分かってるよ」
試験は、翌日の朝まで続いた。
管の壁温度は、規定値を保ったまま。流量は、一定。プリヤが、時計を見て読み上げた。
「十二時間経過。流量、変化なし。煤の付着、確認できません」
ソフィアが、小さく拳を握った。
「二十時間まで回す。もし、ここまで耐えたら」
「その先は、燃焼試験ね」
ミリが、静かに言った。
二十時間が過ぎた。管は、きれいなままだった。
ネイトが、細い管を外して、拡大鏡で内側を確かめた。
「ほとんど、付いてない」
「ほとんど、じゃなくて」
「うん。目に見える範囲では、ない」
試験室に、短い沈黙が流れた。それから、ソフィアが、笑い出した。
「やった。やったじゃない」
「まだ、第一関門よ」
ミリは、そう言ったが、顔は緩んでいた。
その夜、四人は試験室の隅で、簡易な机を囲んだ。紙コップのコーヒーが、湯気を立てている。
「名前を決めなきゃね」
ソフィアが言った。
「記録簿に、配合番号しか書いてないのは寂しいわ」
「正式名称は、後でいい」
ミリが言った。
「でも、呼び名は必要ね」
「カクテル、はどうだ」
ネイトが、ぽつりと言った。
「JP-7とRP-1を混ぜたようなものだし。ドンも、配合を決めるときに、そんな言い方をしてた」
「安直ね」
「安直なほうが、現場には定着する」
プリヤが、控えめに口を挟んだ。
「私は、いいと思います。覚えやすいですし」
ソフィアが、にやりと笑った。
「じゃあ、カクテルで決まりね。バーテンダーは、ドンとヘレンよ」
コーヒーの湯気の向こうで、ネイトが、空になった管を指で弾いた。かすかな音が、静かな試験室に響いた。誰も、それを口に出して祝わなかった。けれど、四人とも、同じことを考えていた。
記録簿の表紙に、ミリが太い字で書いた。カクテル。その下に、小さく、第四回配合、と添えた。
翌週、ミリとソフィアは、再びレイクチャールズを訪れた。
ドンは、事務所の机に、第四回の試験結果の写しを広げていた。
「聞いた。二十時間、保ったそうだな」
「はい。ありがとうございます」
「礼を言うのは、早い」
ドンは、写しを指で叩いた。
「量を増やすと、また別の問題が出る。釜が大きくなれば、温度の分布が変わる。小さな試験で通った配合が、大きな釜では通らないことは、よくある」
「覚悟しています」
「それなら、いい」
ドンは、立ち上がって、窓の外を見た。小さな釜の群れが、夕日の中で静かに立っている。
「実を言うとな、ルークさん。この数年、うちの釜は、ほとんど眠っていた。大手の安い油に負けて、特別な仕事が来なくなった」
「そうですか」
「だから、あなた方の電話をもらったときは、嬉しかった。死んだ技術が、まだ使えると分かったからな」
ミリは、何も言わずに、ドンの横顔を見た。七十を過ぎた老人の目の奥に、若い頃の熱が戻っていた。
「ドンさん。契約書を、作りましょう」
ソフィアが言った。
「最初の年は、ドラム缶二百本。うまくいけば、翌年から増やします」
「いいだろう」
ドンは、手を差し出した。
「ただし、一つだけ頼みがある」
「何でしょう」
「その燃料で、あなた方の飛行機が飛ぶところを、見せてほしい。生きているうちに」
ミリは、手を握り返した。
「約束します」
翌週の定例会議で、ミリは第四回の結果を、テーブルの全員に報告した。
「二十時間の煤試験を通過しました。次は、燃焼室を模した高圧の試験に進みます」
「量産の見通しは」
マギーが、短く尋ねた。
「精製業者は、年間ドラム缶二百本から始める意向です。増産は、釜の温度分布を見ながら段階的に」
「分かりました。浮かれないでください」
「分かっています」
ミリが返すと、マギーはわずかに口元を緩めた。
「給油機のほうはどうなっている」
ケンが、テオのほうを向いた。
「問題は、燃料タンクです」
整備主任のテオが、図面を机に広げた。
「うちのKC-135は、胴体の床下にも給油用のタンクがあります。今は貨物機として使っているので、そこも通常の航空燃料の系統につながっています。カクテルを積むなら、床下のタンクを専用にして、主翼側の自機用の系統から切り離し、配管も分けなければなりません。混ざったら、全部やり直しです」
「どのくらいかかる」
「三か月は見てください。部品の調達を含めて」
「頼む」
ケンは、短く答えた。それから、ミリに視線を戻した。
「ミリ。ドンという人は、元気か」
「はい。七十を過ぎていますが」
「大事にしてやってくれ。その人が眠らせていた釜に、うちの仕事が乗るんだから」
ミリは、頷いた。会議室の窓の外では、白い機体が、午後の光を受けて静かに格納庫の前に停まっていた。
帰りの飛行機の中で、ミリは、窓に額を付けて、暮れていく空を見ていた。隣のソフィアは、早々に眠り込んでいた。
燃料が決まった。まだ、それだけだった。機体も、エンジンも、給油機の改修も、洋上の試験場も、これから一つずつ、確かめていくものばかりだった。
それでも、最初の一歩は、小さなドラム缶一本の中にあった。ミリは、膝の上のバインダーに、そっと手を置いた。表紙の「カクテル」の文字が、窓の外の最後の光を受けて、鈍く光っていた。