もう少し上 作:自動車好き/飛行機も好き
2024年6月 カリフォルニア沖二百マイル 民間空母フォーティチュード
海は、見た目より冷たかった。
コーリー・フィッシャーは、救命胴衣の紐を二度確かめてから、ヘリコプターの開いた扉の縁に足をかけた。眼下に、濃い藍色の波がうねっている。高度は、わずか三十フィート。ホバリングの風圧が、飛行服の袖をばたばたと鳴らした。
「フィッシャー。落ちたら、まず胴衣は膨らませるな。傘を外してからだ」
隣で、ライアン・マーサーが言った。ヘルメットの下の顔は、いつもと変わらず穏やかだった。
「分かっています」
「声が硬いぞ。恋人に振られたときより硬い」
「寒いのが怖いわけじゃないんです。ただ、あなたと一緒に、本番でこれをやるのかと思うと」
ライアンは、短く笑った。
「本番はやらない。だから今日やる」
扉の脇で、救難員のトレヴァー・ロスが指を二本立てた。降下の合図だった。
二人は、並んで海に落ちた。
衝撃は、思ったより軽かった。冷たさが体を包み込む。コーリーは、教わった通りに、落下傘の索を外す動作を始めた。指が、かじかんで言うことをきかない。それでも、ひとつずつ手順をこなす。背中の座席の模型が、遅れて水面に浮かんでくる。
「胴衣、膨らませ」
ライアンの声が、水面越しに聞こえた。コーリーは、紐を引いた。ぽん、と音がして、体が浮き上がった。
上空で、ヘリのローター音が低く響いている。ロスが、ロープを伝って降りてくるのが見えた。
「二名、確認。意識あり。ケガなし」
「ロス、引き上げ開始」
無線の声は、ナオミ・クレイ機長のものだった。
その十五分前。フォーティチュードの航空管制室では、マギー・ヴォスが、壁一面の画面を睨んでいた。
「訓練の想定は、サブオービタル機の試験飛行の最終段階で、予定外の事象が起きて、乗員が脱出するというものです」
説明しているのは、運航部長のダリル・オコナーだった。画面の隅に、ピットボスの飛行軌跡が表示されている。
「ピットボスは、現在、試験空域の西側で待機。脱出信号を模した発信器は、ヘリが投下した位置で作動します」
「信号の周波数は」
「四百六メガヘルツ。二十年以上前の二百四十三メガヘルツとは違い、衛星経由で位置情報も一緒に飛びます。ピットボスは、直接聞く側と、衛星の情報を照合する側の両方で、位置を固めます。それから、古い機体の旧式ビーコン、二百四十三メガヘルツも、ピットボスは同時に聞いています。競技用のF-4のような古い機体は、今も旧式のままですから」
「それなら、現場から外れる心配は少ないわね」
「はい。ただし、ここで試すのは、信号を受けてから、人を引き上げるまでの全体の流れです」
マギーは、頷いた。画面の中で、小さな赤い点が、ゆっくりと点滅しはじめた。
「信号、受信。ピットボスより報告」
管制員が言った。
「位置、特定。艦から北西、百十マイル」
「ヘリに伝達。救難一号、出動」
数秒おいて、別の画面にヘリの機影が現れた。ダリルが、時計を見る。
「出動から現場到着まで、二十分以内が目標です」
「二十分」
マギーは、時計を見た。
「実際は」
「十七分で到着しました」
「十七分」
マギーは、小さく息を吐いた。彼女にとって、その数字は、何度見ても重かった。人が落ちてから、助けが来るまでの時間。
「訓練としては、悪くない」
「ですが、冷たい海に十七分漂うのは、楽ではありません」
ダリルが静かに言った。
「ええ。だから、今日は本人たちにも浸かってもらいました」
マギーは、少しだけ口元を緩めた。
ヘリの機内で、コーリーは毛布に包まれて震えていた。
「十七分で拾ってもらえたのに、この寒さなのか」
「十五分漂って、まだ指が動くなら上出来だ」
ライアンが、向かいの座席で言った。彼の唇も、わずかに紫がかっている。
「ライアンさんは、慣れているんですか」
「ピッツの大会で海に落ちたとき、一度やった。もっと冷たい水だった。あのとき振られた彼女は、まだ許してくれない」
「それで、またやるんですか」
「必要だからな」
ライアンは、水筒の蓋を開けて、熱いコーヒーを一口飲んだ。
「機体の中で、何が起きるか分からない。それだけは、誰にも分からない。だから、落ちた後に何をするかだけは、体に入れておく」
コーリーは、毛布の端を握りしめた。
艦に戻ると、甲板の上で、ビル・ハドソンが待っていた。
「お疲れ様です。お二人とも、無事に回収されましたね」
「ありがとうございます、ハドソンさん」
コーリーが頭を下げた。ビルは、首を振った。
「礼なら、救難員に。私は何もしていません」
「いえ。甲板の準備を全部整えてくださったのは、あなたです」
ビルは、小さく笑った。
「長年の癖です。降りてくる人間を、迎える準備をしてしまう」
それから、ビルは真顔になった。
「フィッシャーさん。一つだけ、年寄りの話をしていいですか」
「はい」
「私は、海軍で二十五年、着艦誘導士官をやりました。その間に、落ちた搭乗員を何人も見ました。助かった人も、そうでない人もいる」
コーリーは、背筋を伸ばした。
「分かれ目は、いつも同じです。落ちたときに、慌てなかったかどうか。そして、見ている者が、すぐに動いたかどうか。今日のあなたたちは、前者でした」
「ありがとうございます」
「いや。本番で、この話をしなくて済むのが、一番です」
ビルは、そう言って、二人の肩を軽く叩いた。
二人は、そのまま医務区画へ連れて行かれた。
白い寝台に座ると、軍医経験者だという女性の医師が、体温計を二人の耳に当てた。
「コーリーさんが三十五度ちょうど。マーサーさんが三十五度二分。どちらも、軽い低体温です」
「十七分で、ですか」
コーリーが目を丸くした。
「海水温が十五度前後ですから。三十分漂えば、もっと下がります。一時間なら、意識が怪しくなる」
医師は、淡々と言った。
「だから、救助までの時間が命なんです。あなたたちの機体が飛ぶ空域なら、最悪でも二十分で拾えます。ただし、二十分のあいだ、自分で自分の体を守る必要があります」
「胴衣の中で丸くなる、でしたね」
「その通り。手足を広げると、熱が逃げます」
ライアンが、毛布の下から手を挙げた。
「質問。女性の隊員の連絡先を」
「却下」
医師は、体温計を片付けながら即答した。コーリーが、毛布の中で吹き出した。
昼過ぎ、艦内の会議室では、もう一つの訓練が行われていた。
大きな机に、ケンとエリヤ、マギー、ネイト、プリヤ、それにダリルとピットボスの管制員が、向かい合って座っている。机の中央には、飛行の想定を書いた紙が一枚置かれていた。
「これから、机上訓練を始めます」
マギーが言った。
「想定は、サブオービタル機の離陸後、公海上の会合点で、給油機との接続に失敗した場合です。機体は酸化剤を満載しています。燃料は少ない。陸には戻れない」
「その場合の判断は」
ネイトが尋ねた。
「酸化剤の投棄、そして帰還です」
マギーは、紙を指で叩いた。
「この判断を下すのは、テストディレクター、つまり私です。しかし、私が判断するには、材料が要ります。会合点の位置、残りの燃料、機体の重量、風向、投棄を行う空域の安全。それを、誰が、どの順番で、どう伝えるか」
プリヤが、手を挙げた。
「機体の側から、残燃料と酸化剤の残量、推力の状態を送ります。艦のデータ処理系が、それを整理して、画面に出します」
「ピットボスは」
「周辺空域に、他の機体がいないことを確認して、報告します」
ダリルが続けた。
「投棄は、艦から見て風下の洋上で行います。液体酸素は、蒸発すると周囲の酸素濃度を一時的に上げます。火の元になりうるので、艦からは十分離れた位置で」
「艦は動くんですか」
エリヤが尋ねた。
「動きます。風上に向けて」
「それなら、安心です」
「投棄に要する時間は」
ネイトが重ねて尋ねた。
「機体側の弁を開いてから、満載の半分が抜けるまでに、数分はかかる想定です」
プリヤが数字を読み上げた。
「その間の機体の姿勢と速度は、私たちが計測します。投棄中に推力が変動することも考えられます」
「分かった。その数分間が、いちばん長い数分になるな」
ケンが、ぽつりと言った。誰も否定しなかった。
訓練は、一時間ほど続いた。想定の中で、マギーは何度も判断を迫られた。一度は間違った。投棄を急ぎすぎて、艦の位置との距離が足りなかったのだ。ダリルが、静かに指摘した。
「今のでは、艦が煙の中に入ります」
「失礼しました。やり直します」
マギーは、表情を変えずに言った。二度目は、条件を一つずつ確認しながら、冷静に指示を出した。
終わったとき、ケンが、ゆっくりと口を開いた。
「マギー。ありがとう」
「いえ。まだ、一回目です」
マギーは、紙の端を揃えながら答えた。
「判断は、早く下せばいいというものではありません。必要な材料が揃うまでの時間と、揃った後の迅速さ。その両方を、体に入れておきます」
「浮かれていない、か」
「浮かれていません」
マギーは、わずかに笑った。
夕方、一行が甲板に出たとき、西の水平線が赤く染まっていた。艦は、ゆっくりと風上へ向きを変えている。
キャサリンが、甲板の端から駆け寄ってきた。手に、衛星電話を握っている。
「ケン、エリヤ。ホルトさんから連絡が来ました」
「書簡か」
「はい。正式なものは、郵送で届きます。内容を、電話で先に伝えてくれました」
キャサリンは、メモを開いた。
「公海上の空域に限定すること。艦の運航計画の枠内で、試験として実施すること。連邦航空局の検査官が毎回立ち会うこと。この三つを満たす限り、貴局として異議を申し立てない、と」
エリヤが、ゆっくりと息を吐いた。
「条件が、そのまま通ったのか」
「はい。ホルトさんが、上を説得してくれたそうです」
「そうか」
ケンは、水平線を見たまま、短く言った。
「礼を言っておいてくれ。いつか、機体が飛ぶ日に、見に来てほしいと」
「伝えます」
キャサリンの声が、少し震えていた。
マギーが、隣で小さく言った。
「半歩、進みましたね」
「ああ」
ケンは頷いた。それから、少し笑った。
「あと、何歩あるのか分からないけどな」
艦の舳先が、夕日の中で、静かに波を切っていた。
日が落ちたあと、ケンとエリヤは、艦橋の脇の通路で、並んで海を見ていた。
「落ちる訓練をする飛行機会社は、あまり聞かない」
エリヤが言った。
「必要だと分かっていても、普通は後回しにする」
「後回しにして、一番困るのは、あとで取り返しがつかなくなることだ」
ケンは、手すりに肘を置いた。
「十五年前は、そんなことを考える余裕もなかった。機体を飛ばすことしか見ていなかった」
「今は」
「落ちたあとのことまで、考える仕事が増えた。それだけ、遠くまで来たんだろう」
エリヤは、小さく頷いた。波の向こうで、ピットボスの灯りが、ゆっくりと夜空へ上がっていくのが見えた。
その夜、艦内の食堂で、コーリーは、熱いスープを両手で包んでいた。
「ライアンさん。さっきの話ですが」
「ん」
「僕、本番ではやりたくないです」
「当たり前だ。誰もやりたくない」
ライアンは、パンをちぎりながら言った。
「だが、やらなくて済むように、やっておく。それが、俺たちの仕事だ」
コーリーは、スープを一口すすった。体の芯が、ようやく温まってきた。
窓の外では、夜の海が、黒く、広く、どこまでも続いていた。その上のどこかで、ピットボスが静かに、迷子のいない空を見張っていた。