もう少し上 作:自動車好き/飛行機も好き
2024年9月 カリフォルニア沖二百マイル 夜 民間空母フォーティチュード艦載監視機ピットボス
ケヴィンが最初に気づいたのは、音ではなく、静けさの変化だった。
夜の洋上は、いつも通りに退屈だった。雲の上、高度二万五千フィート。ピットボスの機内には、計器の淡い緑の光と、ヘッドセットの向こうの低い雑音しかない。後席の管制員席に座って三時間。ケヴィンは、周辺空域の貨物機の位置を、一つずつ確認する作業を繰り返していた。
五十三歳になる。この機体の後席に座るようになって二十五年以上が過ぎた。若い管制員たちは、彼を主任と呼ぶ。耳が良い、というのが、彼の数少ない取り柄だった。
その耳が、雑音の中の細い音を拾った。
びよ、びよ、びよ。
上から下へ、滑り落ちるような二つの音。一瞬、無線の混信かと思った。だが、次の繰り返しで、背筋が冷えた。
「機長」
声は、自分でも驚くほど低かった。
「どうした」
前席のダリル・オコナーが、振り返らずに答えた。六十代後半になった今も、時々こうして機長席に座る。この夜は、艦が二度目の洋上演習の最中で、人手が足りなかったからだった。
「緊急周波数で、掃引音を受信しています。二百四十三。強度は弱いですが、継続しています」
機内の空気が、一瞬で変わった。副操縦士のサラが、計器から顔を上げる。ダリルが、ヘッドセットのスイッチを切り替えた。
「聞こえた。ケヴィン、方位」
「取ります」
ケヴィンは、受信機の表示を睨んだ。針が、ゆっくりと左へ振れた。
「右前方、三百三十度付近。距離は不明」
「艦に報告する。コース変更、三百三十度」
ダリルの口調は、淡々としていた。その淡々とした声が、かえってケヴィンの喉を乾かせた。
びよ、びよ、びよ。
この音は、落ちた人間が鳴らしているのかもしれない。そう思った瞬間、二十三年前の九月の光景が、頭に蘇った。胃を押さえながら、空母に降りてきた老パイロットの声。あのときは、降りる場所があった。今夜は、どうか。
「こちらピットボス。緊急周波数で信号受信。方位三百三十度、距離不明。位置の特定を続ける」
「フォーティチュード、了解。救難態勢を取る」
艦の管制室からの返答は、短く、速かった。
その管制室では、マギー・ヴォスが、壁一面の画面の前で腕を組んでいた。HFAの二度目の洋上演習のために、試験統制の一員として乗艦していた。
「どうしました」
「ピットボスが、緊急信号を拾ったそうです」
運航部の当直士官が答えた。
「演習の想定ではなく、本物ですか」
「分かりません。ですが、本物として扱います」
マギーは、一瞬、黙った。それから、言った。
「演習は、中断してください。うちのことは後でいい」
「ありがとうございます」
当直士官は、短く頭を下げた。
甲板では、夜勤の甲板員たちが、救難ヘリの周りに集まりはじめていた。
「機長はクレイ。救難員はロス。出るぞ」
甲板長の声が、風に消されそうになる。ビル・ハドソンが、白いヘルメットを被って、ヘリの脇に立っていた。
「信号は、いつから続いている」
「ピットボスが受信して、十分ほどです」
「十分」
ビルは、短く頷いた。
「海の水は冷たい。十分で気を失う人間もいる」
「分かっています」
ナオミ・クレイは、ヘルメットの紐を締めた。六月の訓練で、ライアンとコーリーを十七分で拾った機長だった。
「ビルさん。あまり脅かさないでください」
「脅しじゃない。覚悟の話だ」
ヘリのローターが、夜の空気を叩きはじめた。
ピットボスの機内では、ケヴィンが、位置の絞り込みを続けていた。
機体が旋回するたびに、受信の強度が変わる。強いほうへ、さらに強いほうへ。針の動きを追いながら、彼は数字をダリルに読み上げた。
「三百二十八度。強度、上昇」
「近づいている」
「はい。距離、おそらく五十マイル以内」
「艦のヘリとの会合までに、位置を確定させたい。あと何分で、確定できる」
「八分で」
ケヴィンは、時計を見た。海の上の八分は、短い。その八分のあいだに、誰かの命の見込みが決まる。
びよ、びよ、びよ。
額に、汗が滲んでいた。副操縦士が、黙って水筒を差し出す。受け取る手が、わずかに震えていた。
「ケヴィン」
ダリルの声が、静かに響いた。
「焦るな。焦って間違えるより、少し遅れたほうがいい」
「はい」
「お前の耳は、悪くない」
その一言が、不思議と呼吸を楽にした。ケヴィンは、深く息を吸った。
八分後、位置が絞れた。
「方位三百二十六度、十八マイル」
「近いな」
「はい。しかも、ほとんど動いていません」
ダリルの表情が、わずかに曇った。
「動いていない。海に浮いている人間なら、潮に流されるはずだ」
「その通りです。固定されている可能性があります」
「船か」
「付近に、貨物船の航跡があります」
画面の端で、一隻の大型貨物船が、ゆっくりと南下していた。信号の位置と、重なっていた。
「呼んでくれ」
「はい」
ケヴィンは、船舶の識別を引いた。名前は、ノーザン・ファルコン号。パナマ船籍、全長二百メートル級のコンテナ船。
ダリルが、国際緊急周波数で貨物船を呼び出した。
「ノーザン・ファルコン、こちら民間空母フォーティチュードの艦載機ピットボス。応答願います」
雑音のあと、疲れた男の声が返ってきた。
「こちらノーザン・ファルコン。船長のベルグだ。何か用か」
「貴船の位置で、航空機用の緊急信号を受信しています。船内に、航空機の部品か何かを積んでいませんか」
沈黙があった。
「航空機の部品」
「はい。古い戦闘機の座席のようなものです。生存用の信号を発する装置が付いたまま、運ばれている可能性があります」
「少し待ってくれ。一等航海士に確認させる」
その沈黙の十数秒が、ケヴィンには永遠のように感じられた。
もし違っていたら。もし、船とはまったく別の場所で、誰かが沈んでいたら。
びよ、びよ、びよ。
「ピットボス、こちらファルコン。お待たせした」
ベルグの声が戻ってきた。
「甲板に積んだ木箱の一つから、変な音が出ているそうだ。中身は、日本向けの古い戦闘機の座席。何かのはずみで、スイッチが入ったらしい」
ダリルの肩が、ゆっくりと落ちた。
「箱の中身は、確認できましたか」
「今、開けている。……ああ、ある。黄色いランプが点いている。座席のそばの小さな箱から、音が出ている。止める方法を教えてくれ」
ダリルは、ケヴィンのほうを見た。ケヴィンは、小さく頷いた。
「ベルグ船長。装置に、赤いつまみか、スライドスイッチがあるはずです。それを、オフの側へ」
「待て。……これか。切ったぞ」
その瞬間、受信機の中の音が、ふつりと途切れた。
びよ、びよ、の余韻が、耳の奥にだけ残っている。機内は、完全な静けさに包まれた。
「止まりました」
ケヴィンは、小さな声で言った。
「そうだな」
ダリルは、ゆっくりと息を吐いた。
「ベルグ船長。ご協力に感謝します。こちらの誤認でした。お騒がせして」
「いや、構わんよ。さっきから音がして、乗組員が気味悪がっていてな。正体が分かって、助かった」
「それなら、よかった」
ダリルは、少しだけ笑った。
艦のヘリは、すでに発艦していた。クレイ機長の声が、無線に入った。
「ピットボス、救難一号。誤報と聞いた」
「そうだ。ご苦労だった。帰投してくれ」
「誤報でよかった。ですが、引き返す前に一つだけ」
クレイの声が、わずかに硬くなった。
「こちらの受信機にも、何か入っています。さっきの音とは違います」
ケヴィンは、思わず身を乗り出した。
「違う音、ですか」
「はい。弱いですが、間隔が少し短い。周波数は、百二十一・五です」
ケヴィンは、受信機の周波数を切り替えた。雑音。雑音。雑音の底に、細い音が、確かに混ざっていた。
びよ、びよ。
さっきの音より、わずかに高い。間隔も短い。ケヴィンの背筋が、再び冷えた。
「機長」
「聞こえた」
ダリルが、低く言った。
「さっきのは、箱の音で、その裏に隠れていたのか」
「おそらく。最初の音が強すぎて、こちらの受信機は、二つ目を拾えていませんでした」
ケヴィンは、受信機の表示を睨んだ。方位を取る。針が、さっきとは別の方向へ振れた。
「方位二百五十度。強度は弱い。距離、三十マイル前後」
「動いているか」
「動いています。ゆっくりと、南東へ」
「流されている」
ダリルの声が、硬くなった。
「ケヴィン、位置を詰めてくれ。クレイ機長、引き返すな。そのまま、二百五十度へ」
「了解」
ヘリの声が、短く返ってきた。
今度は、誤報かもしれないという思いは、誰の頭にも浮かばなかった。
動いている信号は、箱ではない。海に浮かんでいる何かだ。
「サラ、艦に連絡して。二つ目の信号。位置を送る」
「はい」
副操縦士が、通信機に向かった。声は、少し震えていた。
管制室のマギーが、受話器を取った。
「ヘリは、そのまま向かわせてください。新しい位置を」
「了解しました」
当直士官が、画面に新しい座標を打ち込んだ。ヘリの機影が、わずかに向きを変えた。
びよ、びよ、びよ。
ケヴィンは、受信機から耳を離さなかった。強度が、じわりと上がる。ヘリの無線にも同じ音が入っているはずだった。
「二十マイル」
「十五マイル」
「ヘリ、目視を試みてください。海面に、何か見えませんか」
しばらく、無線は雑音だけだった。それから、ロスの声が飛び込んできた。
「見えた。三時の方向、海面に小さな光。救命いかだだ。二人、手を振っている」
ケヴィンの喉が、大きく動いた。
「生存者、二名。降下準備」
クレイの声が、続いた。ケヴィンは、ヘッドセットを握りしめたまま、動けなかった。
ヘリのサーチライトが、暗い海面を照らす。小さなオレンジ色のいかだが、波に揺れていた。その上で、二人の人影が必死に手を振っている。
ロスが、ロープを伝って降りていった。
「大丈夫か。名前は」
「ハンナ。ハンナ・ウェルズです。もう一人は、デイヴ。……来てくれたのね」
女性の声が、かすれていた。
「飛行機は」
「燃料の計器が、狂ったの。カボまで、あと少しだったのに」
「分かった。もう大丈夫です。まず、あなたから」
ロスの声は、あくまで落ち着いていた。
ヘリは、二人を順に引き上げた。いかだに乗っていた時間は、およそ四十分。低体温の兆候はあったが、意識ははっきりしていた。
「救難一号、二名収容。生存、意識あり。帰投する」
クレイの声が無線に入った。ケヴィンは、深く目を閉じた。
後で聞いた話では、二人はバハ半島の南端へ向かう回送飛行の途中だった。高度の低い小型機で、洋上を飛ぶ間に、燃料の残量が足りなくなった。不時着水して、いかだに乗り、新しい型の非常用発信機のスイッチを入れた。
その発信機は、新しい周波数で、衛星に位置を送っていた。しかし、衛星と地上局を経由して救難機関に届くまでには、まだ時間がかかる。ピットボスが聞いたのは、その発信機が同時に出していた、近距離用の古い周波数の信号だった。
もしあの夜、貨物船の木箱の音がなかったら。
ヘリは、発艦していなかった。ピットボスは、あの方向へ旋回していなかった。二つ目の音は、洋上の誰にも聞かれないまま、波の間に消えていたかもしれなかった。
誤報が、二人を救った。
そう言えば、あまりに出来すぎている。ケヴィンは、航空日誌のペンを持ったまま、しばらく動けなかった。
「ケヴィン」
ダリルが、前席から声をかけた。
「今夜の判断は、全部正しかった。誤報だと分かって、そこで終わらなかったのは、お前の耳のおかげだ」
「いえ。たまたまです」
「たまたまでいい。たまたまを拾えるのが、この仕事だ」
ダリルは、前を向いたまま続けた。
「あの音は、毎回、本物として聞く。そうしないと、本物のときに間に合わない。誤報の日にも、本物の日にも、同じ速さで動く。それだけだ」
ケヴィンは、頷いた。
艦に戻ると、甲板でビルが待っていた。ヘルメットを脱いだ白髪が、夜風に揺れていた。
「ご苦労さまでした」
「ビルさん、誤報のはずだったんです」
「聞いています」
ビルは、小さく笑った。
「だが、あなたが聞いた音は、本物だった。それでいい」
その横を、救助されたハンナとデイヴが、毛布に包まれて医務区画へ運ばれていった。ハンナが、通りすがりに、ケヴィンのほうを見た。
「あなたが、耳の人?」
「いえ。僕は、後ろの席にいただけです」
「ありがとう」
ハンナは、それだけ言って、通路の向こうへ消えた。
その夜、ケヴィンは航空日誌に、短く書いた。
「二百四十三メガヘルツ、掃引音受信。原因、貨物船積載の旧式座席の誤作動。続いて百二十一・五メガヘルツ、別の掃引音を受信。不時着水した小型機の乗員二名を救助。人的被害なし」
書き終えて、ペンを置く。誤報という二文字と、救助という二文字が、同じ頁に並んでいた。
次にあの音を聞くときも、きっと自分は、同じ速さで方位を取るだろう。本物か、そうでないか。それは、音を聞いた瞬間には、分からないのだから。
窓の外では、夜明け前の空が、少しずつ色を変えていた。