もう少し上 作:自動車好き/飛行機も好き
2024年11月 HFA本社 地上燃焼試験場
試験台の上で、銀色の配管の束が、朝の光を冷たく跳ね返していた。
ミリアム・ルークは、その配管を、端から端まで指でなぞるように目で追った。液体酸素の供給ライン。カクテルの供給ライン。窒素のパージライン。圧力計。温度計。弁。全部で二百を超える部品が、一つの小さなエンジンのために、整然と組まれている。
台座に据えられているのは、実機の何分の一かの縮小型だった。長さは二メートルほど。見た目は地味な、黒い円筒でしかない。けれど、この円筒の内側に、半年分の計算と、四回の配合の失敗と、ドン・フェアバンクスの古い釜の記憶が詰まっている。
「ミリ、液体酸素のタンク車が着いた」
ソフィア・ベランディが、手袋のまま走ってきた。
「受け入れ確認は」
「済ませた。純度証明も見た。移送は十時から」
「ありがとう。慎重にね」
「分かってる。あなたが一番分かってるでしょ」
ソフィアは、笑って肩をすくめた。ミリも、少しだけ笑った。
試験場の入口に、見慣れない若い女性が立っていた。作業服の袖を肘までまくり、手首に小さなタトゥーが覗いている。
「ヘレン」
「おはようございます、ミリさん。最後の一缶を、持ってきました」
ヘレン・ブーシェは、台車に載せたドラム缶を指した。淡い黄色の液体が入った缶には、手書きの配合番号が貼ってあった。第四回配合。ドンの字だった。
「ドンさんは」
「自宅で待っています。テレビ電話の準備をして、朝からそわそわしていました」
「ここに来たかったでしょうに」
「医者から止められているんです。長旅は無理だと。でも、結果は電話で聞くと言って聞きません」
ヘレンは、少し笑ってから、真顔になった。
「見学させてもらっていいですか。私たちの油が、本当に燃えるところを、見たいんです」
「もちろん。ただし、掩体の中からよ」
ミリは、ヘレンの肩を軽く叩いた。
九時、試験前の打ち合わせが始まった。
掩体と呼ばれる半地下の制御室に、関係者が集まっている。壁際のモニターには、試験台の映像と、各系統の数値が並ぶ。中央の席に座るのは、飛行試験統制責任者のマギー・ヴォスだった。今日は、地上燃焼試験の試験統制も兼ねている。
「手順を確認します」
マギーは、淡々と言った。
「今日は、ロケットモードの単独燃焼を行います。燃焼時間は三十秒。目的は三つ。着火の確実性、燃焼室圧力の安定、冷却路の状態です」
ネイト・ヴェイルが、手元の資料を持ち上げた。
「燃焼室圧力の目標値は、定格の八割。いきなり全開にはしません。冷却路の温度が想定内に収まることを確認してから、次回以降に引き上げます」
「冷却は、カクテルで行うのね」
「はい。燃料が燃焼室の壁の内側を通って冷却し、その後に噴射されます。ここで煤が付くと、冷却路が詰まって壁が焼ける。細管試験は通りましたが、本物の燃焼室で同じ結果になるかは、燃やしてみるまで分かりません」
ネイトの声は、いつもより硬かった。
プリヤ・ナイルが続けた。
「計測点は、燃焼室圧力が三、壁温度が十二、燃料流量が二、酸化剤流量が二。すべて千サンプル毎秒以上で記録します。映像は、四方向から」
「緊急停止の権限は」
「テストディレクターのあなたが一括で。個別系統の異常は、各担当の合図でも停止できます」
「分かりました」
マギーは、全員の顔を一度ずつ見た。
「確認します。燃焼室圧力が定格の一割を超えて振動したとき、壁温度が上限に届いたとき、配管から漏れが見えたとき。どれかが起きたら、私が止めます。止めることは、失敗ではありません」
誰も何も言わなかった。それから、ケンが、後ろの席から静かに言った。
「マギー。任せる」
「承知しました」
エリヤ・ムーアが、隣で小さく頷いた。
「浮かれないでください。今日は、まだ最初の一歩です」
「分かっている」
ケンは、短く答えた。
十時過ぎ、液体酸素の移送が始まった。
白い霧が、配管の継ぎ目から立ちのぼる。極低温の液体が、ゆっくりと試験台のタンクに満たされていく。ミリは、画面の圧力計を睨みながら、頭の中で何度も手順をなぞった。
液体酸素は、危険な液体だ。油や煤と触れれば、わずかな火花で爆発する。だからこそ、ソフィアたち燃料系統班が、配管の洗浄に何日もかけた。指紋の油分すら、拭き取った。
「移送完了。タンク圧力、規定内」
「ありがとう。ソフィア」
「一旦、ここまで」
ソフィアは、額の汗を袖で拭った。
十一時半、最初のカウントダウンが始まった。
「T-マイナス六十。全系統、準備完了」
プリヤの声が、掩体に静かに響く。
「T-マイナス三十。パージ開始」
「T-マイナス十。点火系統、アーム」
ミリは、目を閉じた。心臓の音が、耳の中で鳴っていた。
「T-マイナス五、四、三」
そのとき、プリヤの声が鋭くなった。
「待って。酸化剤弁のタイミング信号が、遅れている」
「中止」
マギーが、間髪を入れずに言った。
「全系統、安全状態へ。パージ継続」
画面の数値が、ゆっくりと落ち着いていく。誰も声を出さなかった。ミリは、目を開けて、モニターを見つめた。
「弁の位置センサーのタイミングが、規定より零点三秒遅れていました」
プリヤが、淡々と報告した。
「原因は」
「調べます。二時間ください」
「許可します」
マギーは、表情を変えなかった。
ミリは、深く息を吐いた。悔しかった。けれど、それ以上に、中止の判断が即座に下されたことに、どこかで安堵していた。
「ミリさん」
ヘレンが、小さな声で言った。
「止まったのは、失敗ですか」
「いいえ」
ミリは、首を振った。
「止まるべきときに止まれた。それは、成功の一部よ」
二時間後、原因が見つかった。弁の位置センサーの配線のコネクタが、液体酸素の冷気で、わずかに収縮していた。ネイトとオーウェン・キーツが、二人がかりでコネクタを交換し、断熱を追加した。
「昔、似た症状を見たことがある」
オーウェンが、工具を片付けながら言った。
「寒さで金属が縮むんだ。夏には出ない不具合が、冬に出る」
「助かりました」
「若いのは、こういうところで経験を買う。今日の一件は、いい教材になる」
オーウェンは、そう言って、ぽんと台座を叩いた。
午後二時、二度目のカウントダウンが始まった。
「T-マイナス六十」
プリヤの声は、さっきと同じ調子だった。ミリは、手を握りしめた。
「T-マイナス三十。パージ開始」
「T-マイナス十」
「T-マイナス五、四、三、二、一」
「点火」
画面の中で、試験台の先端が、一瞬、白く光った。それから、轟音が、掩体の分厚い壁を通して、腹の底に響いた。
橙と青の混じった炎が、ノズルの先から水平に吹き出している。炎の根元は鋭く、先端は長く尾を引く。空気の振動が、掩体の床を震わせた。
「点火確認」
プリヤの声が、轟音の合間に聞こえた。
「燃焼室圧力、立ち上がり良好。定格の五割、六割」
「七割」
「八割に到達」
ネイトが、数値を睨んだまま、息を止めていた。
「圧力、安定。振動は一割以内」
「壁温度、上昇中。想定内。最大点十二番で上限の七割」
「燃料流量、安定。酸化剤流量、安定」
ミリは、画面と炎を、交互に見つめた。炎は、美しかった。色が澄んでいる。煤の黒が、炎の中に見えない。
「十秒経過」
「二十秒経過」
マギーは、微動だにせず、画面を見つめていた。
「二十五秒」
「燃焼室圧力、まだ安定」
「三十秒。燃焼終了」
轟音が、ふっと途切れた。耳の中に、静寂が降りてきた。ノズルの先から、白い蒸気が、ゆっくりと立ちのぼっている。
「燃焼終了確認」
プリヤの声が、かすかに震えていた。
「全系統、正常。異常なし」
誰かが、小さく息を吐いた。それから、ヘレンが、掩体の隅で口元を押さえた。
「燃えた」
「燃えたわね」
ミリは、そっとヘレンの肩に手を置いた。
燃焼終了から三十分後、試験台の温度が下がるのを待って、冷却路の検査が始まった。
ネイトとオーウェンが、細い内視鏡を燃焼室の壁に差し込んだ。ミリとソフィア、ヘレンが、後ろから画面を覗き込む。
壁の内側に、細い溝が並んでいる。冷却路だった。燃料が流れていた通り道だ。
「どう見える」
ソフィアが、小声で尋ねた。
「待って。もう少し奥」
ネイトが、内視鏡を進めた。画面の溝の表面は、金属の鈍い光沢を保っていた。ところどころに、薄い茶色の斑点が見える。
「煤か」
「いえ、これは、変色です。熱による酸化膜。厚みは、まだ測っていませんが、見た感じは薄い」
「溝の詰まりは」
「ありません。流路は、全部通っています」
ミリは、画面から目を離せなかった。
細管試験で二十時間耐えた配合が、本物の燃焼室で、三十秒の燃焼に耐えた。まだ、たった三十秒だ。けれど、最初の三十秒を通ったことが、全部の始まりだった。
「ヘレン」
ミリが、振り返った。
「ドンさんに、連絡して。結果を、伝えていい」
ヘレンは、携帯端末を握りしめて、掩体の外へ駆け出した。
しばらくして、ヘレンの端末の画面に、小さな老人の顔が映った。白い髪。丸い眼鏡。背景に、古い家の壁が見える。
「ドンさん。燃えました」
「そうか」
ドンの声は、静かだった。
「三十秒、ちゃんと燃えたのか」
「はい。冷却路も、詰まっていません」
「そうか」
ドンは、同じ言葉を、もう一度言った。それから、画面の外で、少し咳をした。
「ルークさんは、そこにいるか」
「はい」
ミリが、端末を覗き込んだ。
「ドンさん。ありがとうございます」
「礼は早いと言ったろう。三十秒で喜ぶな。次は、三分だ。その次は、三十分だ」
「はい」
「だが」
ドンは、少し間を置いた。
「あの釜が、また火を見たのは、嬉しいな」
ミリは、何も言えなかった。ただ、端末の画面に向かって、深く頭を下げた。
夕方、試験場の片付けが一段落した頃、ケンとエリヤが、掩体の外でミリたちを待っていた。
「お疲れさま」
ケンが、短く言った。
「ありがとうございます」
「結果は、聞いた。よくやった」
「ありがとうございます。まだ、始まったばかりですが」
「それでいい」
エリヤが、隣で笑った。
「ミリ。三十秒って、長かったろう」
「長かったです。三時間くらいに感じました」
「俺は、三日くらいに感じた」
ミリは、声を出して笑った。笑ったら、膝から力が抜けた。ソフィアが、後ろから支えてくれた。
「立てる?」
「立てるわよ。ちょっと、笑っただけ」
「あなた、朝からずっと、肩が上がってたもの」
「そうだった?」
ソフィアは、にやりと笑った。
マギーが、記録簿を抱えて、掩体から出てきた。
「今日の試験は、これで終了です」
「お疲れさま、マギー」
「いえ。まだ報告書があります」
マギーは、全員の顔を見渡した。
「確認します。今日の成果は、着火の確実性、三十秒間の安定燃焼、冷却路の健全性。以上三点を確認できました。しかし」
マギーは、少し間を置いた。
「次回の燃焼時間を延ばすのは、今日のデータを全部解析してからです。浮かれずに、一つずつ進めてください」
「はい」
全員が、声を揃えた。
その夜、試験場の隅の小さな部屋で、ネイトとミリは、記録簿を前に向かい合っていた。
「ミリ」
「ん」
「正直、途中で何度か、吐きそうだった」
「私もよ」
「でも、燃えたな」
「燃えたわね」
二人は、顔を見合わせて、小さく笑った。窓の外では、冬の星が、静かに瞬いていた。
机の上の記録簿の表紙には、太い字で「カクテル」と書いてある。その下に、今日の日付と、短い一行が足されていた。
「第一回燃焼試験、三十秒、異常なし」
ミリは、その行を、人差し指で軽くなぞった。
三十秒。たった三十秒の火が、これから先の、長い道のりの最初の一点になった。