もう少し上 作:自動車好き/飛行機も好き
2025年1月 HFA本社 格納庫
格納庫の床に、巨大な白い腹が横たわっていた。
KC-135。HFAが貨物機として使ってきた、四発の古い機体だった。いまその胴体は、整備用の足場に囲まれ、床板のあちこちが外されている。むき出しの床下から、銀色の配管の束と、黒い継手と、見慣れない赤いテープが覗いていた。
「テオさん、後ろのタンクの排出、終わりました」
足場の上から、若い整備士が声を張り上げた。
「残量は」
「ゼロです。目視で確認しました」
「ゼロじゃない。ゼロに見えるだけだ。もう一度、抜けた量を量る」
整備主任のテオ・イバラは、手元の記録簿に目を落としたまま答えた。短く刈った髪は、ここ数日ですっかり白髪が増えた気がする。
「古い燃料の残りが、ほんの少しでも配管に残っていたら、カクテルと混ざる。ケンさんたちが半年かけて作った燃料を、俺たちが台無しにするわけにはいかない」
「はい」
若い整備士は、慌てて足場を降りていった。
春に見積もった三か月は、とうに過ぎていた。部品が届かなかったのだ。特殊な継手と、燃料に耐える新しい封止材と、専用の流量計。どれも、古い機体用の部品を扱う業者が、棚の奥から探し出すのに時間がかかった。結局、作業が本格的に始まったのは、年が明けてからだった。
「テオ」
後ろから声をかけたのは、オーウェン・キーツだった。
「どうだ」
「後部の胴体タンク、抜き取りは終わった。いま、洗浄の準備をしている」
「洗浄剤は」
「灯油系の溶剤で一回、窒素で乾燥。それから、実際のカクテルを少量流して、濯ぎをする。濯ぎの液は、全部捨てる」
「手間だな」
「手間でいい。ここを間違えたら、飛行機が飛ばない」
オーウェンは、頷いた。
「前は、どうだ」
「前部のタンクは、午後から」
テオは、上を見上げた。胴体の天井に近い辺りで、作業員たちが二人がかりで、新しい配管を引き回していた。
KC-135の胴体には、主翼のほかに、床下にも燃料タンクがある。前と後ろに一つずつ、大きな袋のようなタンクが収まっている。普通の給油任務では、このタンクの燃料も、主翼の燃料と同じ系統でブームへ送られる。
だが、今度の仕事は違った。カクテルを積むのは、この床下のタンクだけだ。主翼のタンクは、機体自身のエンジン用の通常の燃料のまま残す。二つの系統を、完全に切り離す。配管も、ポンプも、弁も、別々に。
「頭が痛くなる」
テオは、図面を睨みながら呟いた。
「ここの弁を一つ閉め忘れたら、カクテルがエンジンに流れる。エンジンが止まる。いや、止まるだけなら、まだいい」
「縁起でもないことを」
「縁起でもないから、考えておくんだ」
その日の午後、格納庫の入口に、一台の白い車が停まった。
降りてきたのは、灰色のスーツを着た背の高い女性だった。眼鏡の奥の目は、相変わらず鋭い。手には、厚いバインダーを持っている。
「ホルトさん」
テオが、手を拭いながら近づいた。
「お久しぶりです。わざわざ、お越しいただいて」
「検査官の立会いは、条件ですから」
ダイアン・ホルトは、短く笑った。
「今日は、作業の途中経過を見せてください。完成した状態は、後日でも構いません。ただ、途中でしか見えないものがあるので」
「途中でしか、見えないもの」
「ええ。配管が壁の中に隠れてしまう前の姿です」
テオは、頷いた。
「ご案内します」
ホルトは、足場を登り、機体の床下をのぞき込んだ。ライトを当て、配管の継ぎ目を一つずつ指で確かめていく。時々、小さなメモを取る。
「ここの継手は、新品ですか」
「はい。専用の耐燃料仕様です。通常の航空燃料にも、カクテルにも、どちらにも耐えます」
「製造番号は」
「全部、記録簿に控えてあります」
「見せてください」
テオは、記録簿を差し出した。ホルトは、ページをめくりながら、時折ペンを走らせた。
「一つ、質問があります」
「どうぞ」
「この、二つの系統を切り離す、遮断弁。これは、手動ですか、電動ですか」
「両方です。電動で閉めて、さらに手動のロックで固定します」
「ロックの固定は、運航中でも外せますか」
「機内からは、外せません。地上の整備員が、工具を使って解錠する構造です」
ホルトは、少し黙ってから、静かに言った。
「その手動ロックに、封印をかけることは可能ですか」
テオは、一瞬、言葉に詰まった。
「封印、ですか」
「針金と鉛の封印です。民間の超音速旅客機で、使われなくていい蓋を守るために使われていたものです。二〇〇一年の九月に、私はそれを見ました」
ホルトの目は、真っ直ぐテオに向いていた。
「この遮断弁は、開けてはいけない弁です。開ければ、カクテルが機体自身の燃料系統に流れる。つまり、異常事態の印です。封印がかかっていれば、誰が、いつ、それを破ったか、あとで分かります」
テオは、ゆっくり頷いた。
「分かりました。やりましょう」
「ありがとう」
ホルトは、少しだけ笑った。
「私が言い出すのも変な話ですが、あの封印は、いい仕事でした」
その夜、テオは、オーウェンと並んで、格納庫の隅で缶コーヒーを飲んでいた。
「封印か。昔の検査官は、粋なことを言うな」
「粋かどうかは知らん。ただ、理屈は通ってる」
テオは、缶を手の中で回した。
「うちの機体は、いつか、また誰かに引き継ぐ。そのとき、記録に残らないことは、なかったことになる。封印は、それを残す仕組みだ」
「昔のおやじさんが、よく言っていた。整備は、記録で終わる、と」
「いいことを言うな」
「うちの師匠だよ」
オーウェンは、懐かしそうに笑った。
一週間後、新しい配管の耐圧試験が行われた。
作業員が、窒素ガスを配管に送り込む。圧力計の針が、規定値まで上がっていく。全員が、息を止めて見守った。
「規定圧力、到達」
「保持、十分」
テオは、時計を睨んだ。十分。一秒の針の動きが、いつもより遅く感じられた。
「十分経過。圧力低下、ゼロ」
「ゼロ、確認」
誰かが、小さく息を吐いた。ホルトが、立ち会いの席から立ち上がった。
「合格です」
その一言に、格納庫の空気が、少しだけ緩んだ。
次の試験は、流量試験だった。カクテルの代わりに、水と同じ粘度の模擬液を流し、ポンプから、ブームの先端まで、実際にどれだけの量が、どれだけの時間で届くかを測る。
プリヤが、計測器を抱えて、機体の後ろへ回った。
「ブーム先端、準備完了」
「ポンプ、起動」
低い唸りが、床下から響いた。透明な液体が、ブームの先端から、ゆっくりと、そして一定の勢いで、受け皿に落ちてくる。
「流量、毎分九百ガロン。規定の範囲内」
「安定していますね」
「ええ。脈動もありません」
ブームの根元では、腹ばいになった男が、操作盤を睨んでいた。ロイ・ハスキンズ、六十二歳。元空軍のブーム・オペレーターだった。
「ブームの伸縮、問題なし。先端の首振りも、規定どおりだ」
ロイの声は、ガラガラに嗄れていた。それでも、手元の動きは、年を感じさせないほど滑らかだった。
「ロイさん。久しぶりに、ブームを握った感想は」
テオが、冗談めかして尋ねた。
「悪くないな。腰は痛いが」
ロイは、にやりと笑った。
「三十年、こいつに乗ってきた。引退したときは、もう二度と握ることはないと思ってた」
「また握れて、嬉しいですか」
「嬉しいね。ただし」
ロイは、少し真顔になった。
「今度の相手は、SR-71の血を引く機体だと聞いてる。昔、何度か給油したことがある。あれの首の動きは、独特でな。ゆっくり近づいて、ゆっくり離れる。急いだら、駄目だ」
「ご存知なんですね」
「ああ。だから呼ばれたんだろう」
ロイの隣では、ヴェラ・コルダーが、機長席の計器を点検していた。六十歳。短い銀髪と、鋭い目つき。元空軍のKC-135機長だった。
「ロイ、あなたが言っていた通りよ」
ヴェラは、操縦席から降りてきた。
「この機体、民間機にしては、悪くないわね。軍の頃のものを、そのまま引き継いでる。ただ、燃料系統は、全然違う。ここは、大変そう」
「ええ。みんな、頭を抱えています」
テオが答えた。
「ヴェラさんには、運航マニュアルの作成もお願いしたいんです。カクテルを積んだ状態での、離陸重量や重心位置の手順」
「やりましょう。ただし」
ヴェラは、少しだけ口元を緩めた。
「安全を、第一にさせてください。軍にいた頃、無理をして、友人を一人亡くしました。同じ過ちは、したくない」
テオは、静かに頷いた。
「それが、うちの流儀でもあります」
二週間後、ホルトが再び格納庫を訪れた。
床下の配管は、全て壁の中に収まり、機体の外観は、改修前とほとんど変わらなかった。ただ、胴体の下側、機体を支える脚の近くに、赤い小さな札が、新しく貼ってあった。
「カクテル専用系統」
「燃料種別、混合禁止」
ホルトは、札を一つずつ指でなぞった。
「確認します」
彼女は、機内に入り、遮断弁の位置に屈み込んだ。そこには、手動ロックと、その上に、細い針金が通されていた。針金の端は、小さな鉛の塊に挟まれていた。
「封印を、確認しました」
ホルトは、鉛の刻印を、ライトで照らした。そこには、テオの整備士番号が、小さく刻まれていた。
「これが、あなたの番号ですね」
「はい。ほかの人間に、やらせたくなかったので」
「分かります」
ホルトは、記録簿に署名した。
「連邦航空局として、この改修を、仮承認します。ただし、実際の給油運用の許可は、別です」
「承知しています」
「本番の給油は、公海上に限り、立会いのもと。その条件は、変わりません」
「はい」
ホルトは、記録簿を閉じ、テオの顔を見た。
「テオさん。この封印が破られる日が来るかどうかは、私にも分かりません。ただ」
「ただ」
「その日が来たら、見に来ます。約束します」
テオは、小さく頭を下げた。
翌朝の定例会議では、マイケル・ドノヴァンが、改修費の最終見積もりを報告した。
「当初の見込みより、およそ三割増えました。部品の調達が遅れて、特注品の割合が増えたためです」
「三割か」
マギーが、眉を寄せた。
「予算を超えた分は」
「予備費で吸収できます。ただし、これ以上の変更が入ると、他の計画に響きます」
「分かりました。これ以上の変更は、入れません」
キャサリン・ロックウッドが、静かに口を挟んだ。
「ホルトさんの仮承認は、取れました。これで、洋上での最初の給油試験の申請に進めます。次の段階は、新造機の完成時期との調整です」
「給油機のほうが、先に整ったのね」
「ええ。機体を待たせるより、待っていただく形が理想です」
ケンは、全員の顔を見て、短く言った。
「一歩ずつ行こう。給油機が先に整ったなら、それで十分だ」
エリヤが、隣で小さく笑った。
「十分どころか、上出来だ」
会議室の窓の外では、白い給油機が、午前の光の中で静かに翼を休めていた。
その夜、ケンが、一人で格納庫に入ってきた。
機体の腹の下に立ち、床下のあたりを見上げる。そこには、何も見えない。ただ、銀色の胴体の底が、静かに天井の光を映していた。
「ケンさん」
後ろから、テオが声をかけた。
「遅くまで、お疲れさまです」
「いや、見に来ただけだ」
ケンは、機体の腹を、軽く掌で叩いた。
「いい仕事だ。ありがとう」
「いえ。まだ、本番は先です」
「分かっている。ただ、お前たちが、一つずつ潰してくれているのが、分かる」
ケンは、少し間を置いた。
「テオ。この機体に、名前を付けようと思う」
「名前」
「ああ。ただの給油機ではなく、うちの仲間だ」
テオは、少し考えてから、笑った。
「ケンさん、今それを言うと、社内の誰かが、ふざけた名前を出してきますよ」
「構わない。ふざけた名前のほうが、案外、長く愛される」
ケンは、笑った。笑いながら、機体の腹を、もう一度叩いた。
格納庫の高い窓から、冬の星が、見えていた。