もう少し上 作:自動車好き/飛行機も好き
2025年5月 HFA本社 新造機組立棟
床に、白いチョークの線が一本だけ引かれていた。
長さは四十メートル近い。格納庫の端から端まで、まっすぐに伸びている。線の左右には、二列に並んだ巨大な鋼鉄の架台が、まだ何も載せられないまま、静かに待っている。
メイリン・チャオは、その線の端に立ち、手元の図面と床を、何度も見比べた。
「ずれてない?」
「ずれてません。三回測りました」
答えたのは、ガブリエラ・ソーサだった。四十歳前後。短い黒髪と、油の染みた作業服。構造設計の責任者として、半年前に迎え入れられた女性だった。
「三回で足りる?」
「十回測っても、結果は同じです。この床は、ここだけ特別に基礎を打ち直しました」
ガブリエラは、そう言って、踵で床を軽く叩いた。コンクリートが、鈍く答えた。
「ありがとう。あなたが来てくれて、よかった」
メイは、素直に言った。
「SR-71の構造を、ここまで読める人は、世界にも多くない」
「読めてなんかいませんよ」
ガブリエラは、苦笑した。
「ただ、分解した三機のおかげで、分かったことがたくさんあるだけです」
格納庫の奥には、三機のSR-71の残骸が並んでいた。いや、残骸ではなかった。飛行不能のまま買い取られ、慎重に分解され、一枚ずつ寸法を記録された胴体と翼の部品が、棚に整然と並べられている。黒い塗装の下から現れたのは、鈍い灰色のチタンの肌だった。
「この波打った外板、見てください」
ガブリエラは、棚から一枚の外板を取り出した。薄い金属の板に、縦方向の細かい波が刻まれている。
「胴体と翼の外板には、わざと波を付けてある。熱で膨らむとき、その波が伸びて、応力を逃がす仕組みです。当時の設計者は、機体が飛行中にどれだけ膨らむかを、計算で割り出して、そこから逆算して作った」
「地上では、隙間だらけの機体だった」
「ええ。だから、燃料が漏れる」
メイは、小さく笑った。
「燃料タンクの継ぎ目が、地上では漏れる。高速で飛んで熱が回ると、隙間が詰まって塞がる。設計者は、それを前提にしていた」
「だから、離陸前は燃料を少ししか入れず、離陸したらすぐ給油機から補給する。あの運用は、不便の産物ではなく、設計の一部だった」
ガブリエラは、棚に外板を戻した。
「今回の新造機でも、その構造を残すことにしましたよね」
「ええ。決めたのは、先月」
メイは、あの会議のことを思い出した。
先月の設計会議は、四時間に及んだ。
「タンクは、現代の技術で完全に封止すべきだ。漏れる設計をわざわざ新造機に再現する理由が分からない」
そう言ったのは、ネイトだった。
「理由は二つあります」
メイは、図面を指しながら答えた。
「一つは、熱膨張です。この機体は、高速域で、機体全体が数百ミリ伸びます。完全に封止したタンクを剛に固定すれば、伸びる力でタンクが壊れる。波打つ外板と隙間のある継ぎ目は、その伸びを逃がすための構造です」
「柔軟な封止材を使えば」
「使えます。ただし、その封止材が、数百度の熱と、燃料と、振動に何十回も耐えなければならない。信頼性の確認に、さらに年数がかかります」
「つまり、古い設計のほうが、実績がある」
「そうです。この機体は、新しい発想ではなく、実績のある構造に、新しいエンジンを載せる計画です。全部を一度に新しくしたら、何が原因か分からなくなる」
ネイトは、しばらく黙って考え込んだ。それから、短く言った。
「浮かれないために、古い部分を残すのか」
「ええ。浮かれないために」
最終的に、設計会議は、その方針で決着した。
ただし、一つだけ新しい要素が加わった。液体酸素のタンクだ。これは、波打つ外板の内側に、独立した容器として収める。熱が直接伝わらないよう、断熱層を挟む。酸素タンクだけは、完全に密閉する。漏れることを許さない。
「燃料は、漏れる。酸素は、漏らさない」
テオが、会議のあとで、そう言って笑った。
「うちの機体は、矛盾を二つ抱えて飛ぶことになるな」
「矛盾じゃない。役割分担よ」
メイは、そう答えた。
格納庫の隅の小さな会議室では、重量の見積もりが議題になっていた。
「現時点の積み上げです」
ガブリエラが、壁のスクリーンに表を映し出した。
「構造重量が約六万二千ポンド。エンジン一式で二万四千ポンド。液体酸素タンクと断熱で九千ポンド。燃料、約五万五千ポンド。酸化剤、約十万五千ポンド。合計で」
「離陸重量は」
ケンが、低い声で尋ねた。
「約二十五万五千ポンドです。目標の二十五万ポンドを、五千ポンド上回っています」
会議室が静まり返った。
「どこを削る」
「構造の肉抜きで二千ポンド。内装と計器の簡素化で千ポンド。ただ、残りの二千ポンドは、設計に手を入れないと難しい」
「手を入れると」
「最悪、図面の引き直しになります」
マギーが、腕を組んだまま、口を開いた。
「ガブリエラさん。無理に重量を削って、強度を落とすことは、受け入れられません」
「承知しています」
「逆に、目標を二十五万五千ポンドに引き上げることは」
「滑走路の長さが、さらに必要になります。離陸距離で約四百フィートの増加」
「四百フィート」
ケンが、考えるように呟いた。
「うちの滑走路で、足りるか」
「足りません。ぎりぎりです」
「ぎりぎりでは、駄目だ」
エリヤが、静かに言った。
「ぎりぎりは、事故の元だ。滑走路が足りないなら、離陸場所を変える。ほかの飛行場を借りる方法もある」
「それなら、補給と整備の手間が増える」
「だが、機体を弱くするよりは、いい」
ケンは、全員の顔を見回した。
「ガブリエラ。まず、肉抜きと内装の簡素化で三千ポンドを削ってくれ。残りの二千ポンドは、離陸重量を受け入れる方向で、離陸場所の検討を進める」
「分かりました」
「マギー。それで、試験計画に支障は」
「ありません。ただし、離陸場所の選定は、早めにお願いします」
「キャサリンに調べてもらう」
ケンは、小さく頷いた。
午後には、ライアンとコーリーが、格納庫の端に設けられたコクピットの実物大模型を見に来た。
木材と発泡材で組まれた箱の中に、前席と後席が並んでいる。計器盤は、紙に印刷された絵が貼られただけで、スイッチの類は何もない。それでも、座席の高さと、視界の抜け方は、実機と同じ寸法で作られていた。
「どう」
メイが、梯子の下から声をかけた。
「狭いな」
ライアンが、前席に収まって、頭をぶつけないように首を傾けた。
「でも、視界は悪くない。機首の長さは、SR-71そのままですか」
「ええ。大きくなったのは、胴体の中ほどと、翼です。機首の形は、ほとんど触っていません」
「それは、嬉しいな。目が覚えてる」
コーリーは、後席に潜り込み、周囲を見回した。
「後席は、前席より少し高いんですね」
「前方視界を確保するためよ。座高が違っても、計器盤が見えるように、座面の調整幅を広げてある」
「コーリー、どうだ」
ライアンが、振り返らずに尋ねた。
「ここで、何時間も座るんですよね」
「そうだ。ロケットに切り替わってからは、ほんの数分だが、そこに至るまでの飛行は長い」
「楽しみです」
コーリーは、小さく笑った。笑った顔に、緊張は混じっていなかった。ライアンは、前を向いたまま、満足そうに頷いた。
一方、組立棟の反対側では、チタンの溶接作業の準備が進んでいた。
「ここが、溶接室です」
ガブリエラが、透明な幕で囲まれた小さな区画を指した。内部には、アルゴンガスが満たされている。
「チタンは、高温で酸素や窒素と反応して、脆くなります。溶接中は、空気に触れさせてはいけない。だから、全工程を不活性ガスの中で行います」
「昔のSR-71は」
オーウェンが、腕を組んで尋ねた。
「当時は、品質管理が追いつかなくて、ひどかったそうです。工場の洗浄に使った薬品が、チタンを脆くして、割れた部品が相次いだ。原因が分かるまで、ずいぶん苦労したと聞きます」
「その轍は、踏みたくないな」
「ええ。だから、使う洗浄剤も、工具も、手袋も、全部、事前に試験します。試験片を溶接して、割って、断面を調べる。その繰り返しです」
ガブリエラは、棚から一つの小さな金属片を取り出した。溶接された二枚の板が、きれいな銀色に光っていた。
「これは、先週の試験片です。変色なし。曲げ試験も通過」
「いい色だ」
オーウェンが、感心したように呟いた。
「でしょう。ここまで来るのに、二か月かかりました」
「二か月で、これか。頼もしいな」
「頼もしいかどうかは、本番の部品を溶接してから決めてください」
ガブリエラは、笑って金属片を棚に戻した。
夕方、格納庫の床の白い線の前で、メイが一人、立ち尽くしていた。
そこに、オーウェン・キーツが、ゆっくりと歩いてきた。
「何を考えてる」
「何も」
メイは、苦笑した。
「いえ、嘘です。怖いんです」
「怖い」
「この線から、四十メートルの機体が生まれる。半年前は、設計図の一枚もなかったのに」
オーウェンは、しばらく黙って線を見つめた。
「SR-71は、ここと似たような床で、手作りで作られたんだ」
「手作りで」
「ああ。昔のスカンクワークスの連中は、図面もろくに揃っていない状態から、チタンの板を叩いて、継ぎ目を合わせて、一機ずつ作った。失敗もした。チタンが脆くなって、割れたこともある」
「そんな話、初めて聞きました」
「親父に聞いた。親父は、あの頃、整備の下請けをしていた」
オーウェンは、床の線に、しゃがみ込んで、指先で触れた。
「怖いと思うのは、悪いことじゃない。怖がらずに始めた仕事は、大抵どこかで躓く」
「ありがとうございます」
「いや。年寄りの小言だ」
オーウェンは、立ち上がって、腰を伸ばした。
その夜、ケンとエリヤは、格納庫の二階のバルコニーから、床の白い線を見下ろしていた。
「長いな」
エリヤが言った。
「四十メートルある」
「いや。線じゃなくて、道のりだ」
エリヤは、手すりに肘を置いた。
「十七年前に、小さな整備会社を買った。いまは、この線の上に、四十メートルの機体が載ろうとしている」
「そうだな」
ケンは、短く答えた。
「ケン。怖いか」
「怖い」
ケンは、正直に言った。
「十七年間、怖くなくなったことは、一度もない。ただ、怖いまま進むことには、慣れた」
「俺もだ」
エリヤは、笑った。
階下の格納庫では、床の白い線が、天井の灯りを受けて、静かに浮かび上がっていた。線の両側には、鋼鉄の架台が、これから載るものを待っていた。
翌朝、最初のチタンの塊が、トラックで運び込まれた。ユタ州の鍛造工場から届いた、鈍い銀色の梁だった。ガブリエラが、梁の端を手のひらで撫でた。
「これが、最初の一本です」
「重いな」
「ええ。でも、これが、翼の根元になります」
メイは、梁に刻まれた製造番号を、指でなぞった。小さな数字の列が、これから始まる長い仕事の、最初の記録になった。
その梁は、午後には、床の線の上の架台に載せられた。チョークの線と、梁の端が、ぴたりと揃った。見ていた誰も、拍手はしなかった。ただ、全員が、小さく息を吐いた。ガブリエラが、梁の端に、薄く白いチョークで日付を書き込んだ。それが、この機体の最初の署名になった。
窓の外では、初夏の夕日が、組立棟の屋根を静かに赤く染めていた。