もう少し上 作:自動車好き/飛行機も好き
2025年7月 ネバダ州 旧空軍飛行場
地平線まで、乾いた白い路面が続いていた。
エリヤ・ムーアは、レンタカーの助手席から降りて、熱風に顔をしかめた。気温は朝の九時で、すでに華氏百度に近い。足元のアスファルトには、細かい亀裂が網目のように走り、その隙間から枯れた草が頭を出している。
「長いな」
運転席から降りたケンが、帽子のつばを持ち上げて、路面の果てを見やった。
「ここが、一万三千フィートあるそうだ」
「一万三千」
「冷戦時代に、爆撃機の予備基地として作られたらしい。閉鎖されたのは、三十年前だ」
エリヤは、地面を爪先で蹴った。ひび割れたアスファルトが、乾いた音で欠けた。
「路面は、相当傷んでるな」
「分かっている。だから、見に来た」
二人の後ろには、キャサリン・ロックウッドが、書類の束を抱えて立っていた。彼女は、この飛行場の所有者である郡の担当者と、三週間かけて連絡を取り合い、今日の見学を取り付けたのだった。
「リース契約の条件は、現地を見てから決めます。路面の補修費用の分担、使用期間、保険。全部、交渉の余地があります」
「頼む」
「ただ、その前に」
キャサリンは、遠くの空を見上げた。
「ラッチさんが来るまで、少し待ちましょう」
ラッチ。その名前が出たのは、先月の夜、ケンがかけた電話の中だった。
「新造機の離陸場所を探している。重い機体で、長い滑走路が要る」
そう打ち明けたケンに、電話の向こうのラッチは、しばらく黙っていた。それから、静かに言った。
「ネバダの旧飛行場を、知っているか。リーグの砂漠大会の帰路にある、あの」
「ラリー・ベンソンさんが、燃料車を並べた場所か」
「そうだ。あそこの滑走路は、もともと爆撃機用だ。空軍にいた頃、一度だけ降りたことがある」
「使えるか」
「見てみないと分からん。ただ、俺なら、上から見て判断できる」
ラッチの声は、いつもの低いままだった。けれど、その奥に、わずかな高揚があった。
「俺が飛んで、先に見てやる。ついでに、ラリーにも会わせてやろう」
その約束の日が、今日だった。
十時ちょうど。西の空から、低い唸りが近づいてきた。
「来た」
エリヤが、手でひさしを作った。
灰色の双発機が、地平線の上に小さな点として現れた。みるみる大きくなる。二枚の垂直尾翼。角張った機首。F-15。ラッチの愛機だった。
機体は、滑走路の端から、高度を落とすことなく、超低空で突っ込んできた。風が、荒れた路面を舐めるように吹き抜ける。轟音が、三人の頭上を通り過ぎた。
「速いな」
「ローパスです。路面の状態を目視しているんでしょう」
キャサリンが、耳を押さえながら言った。
F-15は、滑走路の端でゆっくり上昇し、大きく旋回して、再び低空で戻ってきた。二度、三度。ラッチの目は、上空から、路面のひび割れを一つずつ数えているはずだった。
四度目の進入で、機体は降着装置を出した。
「降りるぞ」
「いいんですか。路面は、傷んでいるのに」
「あの人は、降りられるかどうか、上から判断できる人だ」
ケンは、短く言った。
F-15は、傷んだ路面の中央に、そっと車輪を下ろした。タイヤが白煙を上げ、機体は、ほとんど揺れずに減速していく。ブレーキの音が、遠くまで響いた。
三人は、滑走路の端へ歩み寄った。
停止した機体から、ラッチが降りてきた。ヘルメットを脱ぐと、白髪混じりの短い髪が、汗で額に貼りついていた。六十一歳。顔に刻まれた皺が、いっそう深くなっている。
「どうでした」
ケンが、声をかけた。
「中央部は、大丈夫だ」
ラッチは、手袋を外しながら言った。
「継ぎ目の割れは深いが、基礎はしっかりしている。爆撃機用に作られた滑走路は、頑丈だよ。ただし」
「ただし」
「端から二千フィートは、だめだ。路面が浮いている。タイヤを取られる」
「補修すれば」
「補修は、必要だ。ただ、一度全部剥がして、舗装し直すほうが早いかもしれん。金がかかる」
キャサリンが、手元の書類にペンを走らせた。
「概算を出します」
「頼む」
ラッチは、機体の脇に回り、車輪を指で確かめた。細かな砂利が、タイヤの溝に挟まっている。
「FOD、というやつだ。小石や破片が、エンジンに吸い込まれたら、機体が壊れる。滑走路を使う前に、徹底的に掃除する必要がある」
「うちの整備士に、やらせます」
「お前のところの整備士なら、大丈夫だ」
ラッチは、少し笑った。
機体の後ろには、いつの間にか、作業服姿の男が立っていた。四十代半ばだった頃から十七年を経て、六十を過ぎたハビエルだった。白髪の混じった髪を、手拭いで押さえている。前日から、牽引車と整備道具を積んだトラックで、先回りして待機していたのだった。
「お疲れさまです」
ハビエルは、短くラッチに声をかけ、すぐに機体の車輪と翼の下に潜り込んだ。タイヤの摩耗、ブレーキの温度、エンジンの排気の色。一つずつ、無言で確かめていく。
「どうだ」
「問題なしです。ただ、前脚のタイヤに小さな傷が入りました。路面の亀裂のせいでしょう。交換しておきます」
「頼む」
ケンは、その様子を黙って見ていた。ハビエルの手際には、無駄がなかった。十七年前の「飛ばない飛行機」の格納庫で、疲れた目をしたまま作業に戻っていった男は、いまも変わらず、ほとんど一人で、この機体を飛ばし続けている。
「ハビエルさん」
ケンが、声をかけた。
「はい」
「いつも、ありがとうございます」
ハビエルは、手を止めずに、ちらりとケンを見た。
「礼なら、機体に言ってください。こいつが、よく頑張ってくれる」
「そうします」
ケンは、小さく笑った。その背中に、乾いた風が、砂埃を静かに運んできた。
そこに、一台の古いピックアップトラックが、砂煙を上げて近づいてきた。運転席から降りてきたのは、年老いた男だった。
七十八歳。背筋は曲がり、手には杖を握っていた。だが、日焼けした顔には、穏やかな目が光っている。
「ラッチ」
「ラリー。待たせたな」
「待ったよ。二十四年ぶりに、ここへ降りる飛行機を見た」
ラリー・ベンソン。かつて競技リーグのクルーチーフとして、三年間、一人で記録を取り続け、この飛行場に燃料車を並べた男だった。いまは、リーグの顧問をしている。
「ハラダさんとムーアさんだね。ラッチから聞いてる」
ラリーは、二人に手を差し出した。
「ベンソンです。この場所のことなら、少し詳しい」
「お目にかかれて光栄です」
ケンは、深く頭を下げた。
「いやいや。こんな年寄りに」
ラリーは、笑った。それから、滑走路の彼方を見つめた。
「この飛行場は、冷戦のあと、閉鎖された。長い滑走路が、そのまま眠っていた。俺たちが燃料車を置くまで、誰も使っていなかった」
「燃料車の件は、ラッチさんから聞きました」
「そうか。あの日は、大変だったな」
ラリーは、少し遠い目をした。
「二十四年前の九月だ。五機の戦闘機が、ここに降りた。ラッチの友人たちも、いた」
「覚えています」
ラッチが、静かに言った。
「あの日、俺は別の場所にいた。だが、後から聞いた話で、胸が熱くなった」
「あれは、ここだからできたことだ」
ラリーは、杖で足元を軽く叩いた。
「長い滑走路は、飛行機の命を預かる場所だ。誰かが、預かる覚悟で守っていれば、いつか誰かを救う。だから、俺は、ここに燃料車を置いたんだ」
エリヤが、静かに頷いた。
「ベンソンさん。私たちは、この滑走路を、機体を飛ばすために使いたいと考えています」
「聞いているよ」
ラリーは、エリヤの顔を見た。
「どんな機体だ」
「全長四十メートルの、重い機体です。離陸重量は、約二十五万ポンド」
「二十五万」
ラリーは、一瞬、口を閉ざした。
「爆撃機並みだな」
「ええ。ですから、この滑走路が必要なんです」
ラリーは、しばらく黙ってから、ゆっくりと言った。
「ちょっと待っていてくれ」
彼は、ピックアップトラックの荷台から、古いリュックを取り出した。中から出てきたのは、擦り切れた表紙の分厚いノートだった。
「三年分の記録だ。毎回の遠征で、燃料の使用量、風向、路面の状態を書き留めた」
ラリーは、ページをめくった。細かな字で、数字と書き込みがびっしり並んでいる。
「この飛行場の路面についても、書いてある。西の端は、雨が降ると水がたまる。東の端は、夏に路面が浮く。どこをどう補修すればいいか、分かる」
「拝見してよろしいですか」
「もちろんだ。持っていけ」
ラリーは、ノートを差し出した。エリヤは、両手でそれを受け取り、重みを確かめた。三年分の、誰にも頼まれなかった記録の重みだった。
「大切に使います」
「使い終わったら、返してくれればいい」
ラリーは、そう言って、笑った。
そして、彼は改めて口を開いた。
「いいだろう。ただし、条件がある」
「条件」
「毎回、離陸の前に、滑走路を歩かせてくれ。端から端まで」
「歩く」
「ああ。俺はもう足が悪いが、杖を突いてでも歩く。亀裂の一本、石ころ一つ、自分の目で見て、指でさわって確かめる。それが、俺の仕事だった」
ケンは、少し考えてから、頷いた。
「お願いします。ベンソンさんに見ていただけるなら、これほど心強いことはありません」
「そうか」
ラリーは、笑った。目尻の皺が、いっそう深くなった。
「ありがとう。俺にも、まだ役目があった」
その夜、四人は、滑走路の端に停めたピックアップトラックの荷台に座って、星空を見上げていた。
昼間の熱が、アスファルトからゆっくり抜けていく。乾いた風が、荒れた路面を静かに撫でていた。
「ラッチさん」
ケンが、口を開いた。
「ひとつ、お願いがあります」
「何だ」
「新造機の初めての離陸のとき、あなたに、F-15で随伴してほしい」
ラッチは、星空から目を離さなかった。
「随伴」
「ええ。離陸直後の機体を、横から見てほしいんです。この機体は、SR-71の血を引いています。地上では、燃料が漏れる。離陸してすぐ、漏れの具合を、目で見て確認する必要があります」
「俺の目で」
「ラッチさんの目で」
ラッチは、しばらく黙っていた。星が、一つ、流れた。
「ケン。俺は、六十一だ」
「知っています」
「新造機が飛ぶのは、再来年だろう。俺は、六十三になる」
「それでも、お願いします」
ケンは、真っ直ぐに言った。
「あなたは、飛行機を最後まで飛ばし続ける人だ。それを、私たちは十七年前に教わった」
ラッチは、帽子を深くかぶり直した。その下で、口元がわずかに動いた。
「分かった」
短い返事だった。
「ただし、条件がある」
「何ですか」
「機体の整備は、ハビエルに任せる。それと」
ラッチは、トラックの荷台から降りて、暗い滑走路を見つめた。
「離陸のとき、この滑走路を、俺が先に歩く」
「先に」
「ああ。ラリーと一緒にだ。二人で歩く。それが、条件だ」
エリヤが、小さく笑った。
「喜んで」
ラリーが、荷台の隅で、静かに言った。
「いい夜だな」
「ええ」
星空の下、長い滑走路が、闇の中へ静かに伸びていた。端は見えない。ただ、その先に、これから飛び立つ機体の影が、うっすらと見えるような気がした。
ハビエルは、翌朝になっても、機体の下で黙々と作業を続けていた。誰に頼まれたわけでもなく、誰に見られているわけでもなかった。
夜明け前の空には、薄い星が残っていた。