もう少し上 作:自動車好き/飛行機も好き
2025年8月 HFA本社 格納庫
ホワイトボードに書かれた文字は、すでに三十を超えていた。
「ハッピーアワー」「ストロー」「おかわり」「大食い」「ガソリンおばさん」「飲み友達」。字の癖は、書いた人間ごとに違う。誰かが「ふざけすぎ」と赤ペンで線を引き、誰かがその上に「いや、いい」と書き足していた。
オーウェン・キーツは、ホワイトボードの前で腕を組んだまま、深く溜息をついた。
「これじゃ収拾がつかん」
「収拾をつける気がないんですよ」
隣で、プリヤ・ナイルが、笑いを堪えながら言った。
「ケンさんが『ふざけた名前のほうが、長く愛される』と言ったのを、みんな真に受けているんです」
「真に受けすぎだ」
事の発端は、一週間前だった。給油機の改修が正式に終わり、ホルトの仮承認が下りた翌日、ケンが全社員向けの連絡に一行だけ書き添えたのだ。
「給油機に名前を付けたい。案を募る。ふざけた案、歓迎」
それから一週間、格納庫の片隅のホワイトボードは、社員たちの落書き帳になった。
その一週間、ホワイトボードの前を通りかかる人間は、必ず足を止めた。
マギー・ヴォスは、朝一番に通りかかって、案の一つに目を通すなり、眉を寄せた。
「ガソリンおばさん、というのは、女性の機長に失礼ではありませんか」
「本人に聞いてみましょう」
隣にいたキャサリンが、涼しい顔で答えた。
「ヴェラさんは、そういうのを気にする人ではありません。ただし、面白がるかどうかは別です」
「面白がられたら、もっと困ります」
マギーは、赤ペンを取り出して、その案の横に小さく「却下候補」と書き込んだ。それを見たマイケル・ドノヴァンが、後ろから覗き込んで言った。
「書類上の名前が三つになると、登録の手間が増えます。できれば一本化してほしい」
「ケンさんが決めるでしょう」
「決めてくれるのを、祈っています」
マイケルは、真顔でそう言った。
ホワイトボードには、日に日に案が増えていった。誰が書いたのか分からない落書きも混じっていた。ある朝には、「ミルクの牛」と書かれた隣に、小さな牛の絵が添えられていた。絵の下手さが、かえって愛嬌だった。
金曜日の夕方、仕事を終えた社員たちが、自然にホワイトボードの前に集まってきた。缶ビールを持った者、紙コップのコーヒーを持った者。給油機の巨大な腹の下に、パイプ椅子がずらりと並べられた。
「では、選考会を始める」
マイクを握ったのは、テオ・イバラだった。整備主任は、こういう場の進行役に、なぜか向いていた。
「ルールは単純だ。一案ずつ読み上げる。拍手の大きさで決める。異議のある者は、その場で言う」
「審判は」
誰かが声を上げた。
「ケンさんと、ヴェラさんと、ロイさんだ。三人で拍手の音量を判定する」
前の席に座ったヴェラ・コルダーが、腕を組んで鼻で笑った。
「軍にいた頃、機体の名前は、上から降ってきた。こういうのは初めてね」
「面白そうじゃないか」
隣でロイ・ハスキンズが、嗄れた声で言った。
「始めてくれ」
読み上げが始まった。
「ハッピーアワー」
控えめな拍手。
「ストロー」
さらに控えめな拍手。
「大食い」
笑い声。拍手は、少し大きかった。
「ガソリンおばさん」
爆笑。ヴェラが、眉をひそめた。
「どうして、おばさんなの」
「女性の機長が操縦するので」
「それは理由になってないわ」
ヴェラの冷たい声に、会場がさらに沸いた。
「次。ミルクタンク」
その瞬間、前列から、鋭い拍手が上がった。ライアン・マーサーだった。
「いいな。パイロットは、そう呼ぶ」
「呼ぶ、とは」
「軍には昔から、給油機を『ミルクタンク』と呼ぶ連中がいた。あれは愛称だ。空の上で、ミルクを運んでくる牛みたいなものだから」
「つまり、パイロット連中が呼ぶ名前としては、定着しそうだと」
テオがマイク越しに言った。
「ああ。コーリー、お前もそう呼べ」
「はい」
コーリー・フィッシャーが、緊張した顔で頷いた。会場から、また笑いが起きた。
「ミルクタンク、拍手はそこそこ。次」
「ポンプ爺」
その瞬間、格納庫の奥から、野太い声が上がった。
「異議あり」
オーウェンだった。
「爺とは何だ。爺とは」
「いや、オーウェンさん、それは、機体の話で」
「機体の話でも、爺は爺だ。この機体は、確かに七十年近く前の設計だが、爺と呼ぶには、まだ働き盛りだ」
「でも、整備班の間では、前からそう呼んでるじゃないですか」
若い整備士が、おずおずと言った。
「ポンプ爺って」
「それは、お前たちが勝手に呼んでるだけだ」
「呼んでるのは、オーウェンさんも同じです」
会場が、どっと沸いた。オーウェンは、口を開けたまま、言葉に詰まった。
「……いつの間に」
「先月からです。オーウェンさんが、ポンプの点検をしながら『爺さん、頑張ってるな』って、機体に話しかけてました」
「聞いてたのか」
オーウェンは、頭を掻いた。会場の笑いは、収まらなかった。
「分かった、分かった。認める」
オーウェンは、降参するように手を挙げた。
「整備班は、こいつを爺と呼ぶ。それは、否定しない。ただ」
「ただ」
「爺は、愛着の裏返しだ。馬鹿にして呼んでるわけじゃない」
静かな拍手が、会場のあちこちから起きた。オーウェンは、気恥ずかしそうに目を逸らした。
読み上げは、さらに続いた。
「次の案。バーテンダー」
会場が、一瞬、静まった。
提案者は、後方の席にいた。メイ・チャオだった。
「バーテンダー」
メイは、立ち上がって、少し照れたように言った。
「この機体が運ぶのは、カクテルです。あの燃料は、ドンさんとヘレンさんが配合して、うちの子たちが育てた。それを、飛んでいる機体に、一杯ずつ注ぐのが、この機体の仕事です」
「注ぐ、か」
ケンが、低く呟いた。
「ええ。カウンターの向こうで、グラスを差し出す人。客が飛んでいるあいだに、一杯だけ、そっと出す。そんな機体だと思います」
会場に、静かな拍手が広がった。
最初は小さかった拍手が、徐々に大きくなった。パイプ椅子に座った社員たちが、一人、また一人と手を叩く。ヴェラが、腕を組んだまま、わずかに口元を緩めた。
「悪くないわね」
「悪くない」
ロイも、同意した。
ケンが、ゆっくりと立ち上がった。
「全員、聞いてくれ」
会場が、静まり返った。
「名前を決めた。この機体の正式名は、バーテンダーとする」
大きな拍手が起きた。
「ただし」
ケンは、少しだけ笑った。
「パイロットは、ミルクタンクと呼ぶ。整備は、ポンプ爺と呼ぶ。好きなように呼べばいい。正式名は、書類に書く名前だ。呼び名は、愛される名前だ」
会場が、大笑いに包まれた。ヴェラが、頭を抱えるふりをした。
「三つも名前があるなんて、誰が書類を書くのよ」
「キャサリンさんが、書いてくれます」
プリヤが言うと、会場の後ろから、キャサリン・ロックウッドの声が返ってきた。
「ええ、書くわ。三つとも、登録しておきます」
また笑いが起きた。
選考会が終わると、社員たちは、ホワイトボードの前に群がって、記念写真を撮りはじめた。
ロイが、機体の鼻先に近づき、手のひらで軽く叩いた。
「バーテンダーか。いい名前だ」
「あなたが、ブームを握る日が来たら、その名で呼んでやってください」
テオが、隣から言った。
「ああ。そうするよ」
ロイは、静かに答えた。それから、少し声を落とした。
「テオ。ひとつ頼みがある」
「何ですか」
「機首の脇に、名前を書かせてくれ。専用の書体で。昔、軍にいた頃、ブームの脇に描いてもらった名前を、今も覚えてる」
「いいですね。描きましょう」
「ありがとう」
ロイは、機体の腹を撫でながら、小さく笑った。
「ブームを握るのも、これが最後の仕事になるだろう。最後に握る機体に、いい名前が付いて、よかった」
テオは、何も言わなかった。ただ、ロイの肩に、そっと手を置いた。
三日後、ロイは約束通り、機首の脇に名前を描いた。
足場の上に立ち、長い筆を握る。下書きの線は、テオが前日に引いておいた。ロイの手は、六十二歳とは思えないほど落ち着いていた。白い胴体に、濃い灰色の太い文字が、一文字ずつ現れる。
BARTENDER。
最後の「R」を描き終えたとき、足場の下から、ヴェラが声をかけた。
「できた?」
「できた」
「見せて」
ヴェラは、離れた場所まで下がって、機首を見上げた。夏の朝日が、新しい文字を斜めに照らしている。
「悪くないわね」
「だろう」
「でも、なんでこんなに太い字なの」
「遠くからでも読めるようにだ。空の上で、後ろにつく相手が、この名前を見て安心できるように」
「安心」
「ああ。ここにいるのは、バーテンダーだ、ってな」
ヴェラは、少し笑った。
そこへ、灰色のスーツを着た背の高い女性が、格納庫の入口から入ってきた。ダイアン・ホルトだった。検査の日程調整のために立ち寄ったのだった。
「おはようございます」
「ホルトさん。ちょうどいいところに」
テオが、手を振った。
ホルトは、機首の新しい文字を見上げ、しばらく黙っていた。それから、手元の書類に目を落とした。
「登録名は」
「バーテンダーです」
「呼び名は」
「パイロットはミルクタンク。整備はポンプ爺」
ホルトは、眼鏡を押し上げた。
「三つも名前がある機体を、検査するのは初めてです」
「申し訳ありません」
「いえ」
ホルトは、小さく笑った。笑った顔が、いつもより少し若く見えた。
「この機体なら、どんな名前で呼ばれても、いい仕事をしそうです」
テオは、頭を下げた。ホルトは、そのまま機体の脇へ歩き、遮断弁の封印を確認しに行った。針金と鉛の封印は、変わらずそこにあった。
その日の午後、ヴェラの操縦する給油機が、初めて新しい名前で、格納庫の前を滑走路へ向かって地上走行した。管制塔との無線で、ヴェラが機体を呼ぶ必要があった。
「タワー、こちらバーテンダー。滑走路へ向かいます」
少しの間のあと、管制官の戸惑った声が返ってきた。
「バーテンダー、了解。……すまない、確認させてほしい。バーテンダーというのは」
「うちの給油機の登録名よ」
「分かった。誘導路を進んでくれ」
その様子を、駐機場の脇で見ていたライアンとコーリーが、顔を見合わせて笑っていた。
「ミルクタンクが走ってる」
ライアンが言った。
「ミルクタンク、ですか」
「パイロット同士なら、そう呼ぶ。無線で『ミルクタンク、後ろにつけ』って言ってみろ。通じる奴は、すぐ分かる」
「僕が、言うんですか」
「いずれな」
コーリーは、少しだけ背筋を伸ばした。
その夜、格納庫は静まり返った。
ホワイトボードの文字は、そのまま残された。誰も消そうとしなかった。三十を超える案の中に、赤い丸で囲まれた文字が一つ。
「バーテンダー」
その下に、小さな字で、二つの呼び名が書き足されていた。
「パイロット:ミルクタンク」 「整備:ポンプ爺」
窓の外では、夏の夜風が、格納庫の扉をわずかに揺らしていた。給油機の巨大な腹が、薄明かりの中で、静かに白く光っていた。
翌朝、出勤してきた若い整備士が、真っ先にホワイトボードの前で足を止めた。赤い丸で囲まれた名前の下に、誰かがもう一行、小さく書き足していた。
「ようこそ、バーテンダー」
字は、オーウェンのものだった。誰も、そのことを本人に尋ねなかった。ただ、その文字は、その日、一日じゅう消されずに残っていた。