もう少し上   作:自動車好き/飛行機も好き

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買えるもの

2008年 アリゾナ州ツーソン

 

「考えていること」の中身を、ケンが言葉にしたのは、それから数日後のことだった。エリヤの家の居間ではなく、今度はケンの自宅の書斎だった。テーブルの上には、いつものコーヒーの他に、ケンが数日かけて書きためたらしいメモの束が置かれていた。

 

「戦闘機を買おうと思っている」

 

エリヤは一瞬、聞き間違えたかと思った顔をした。

 

「戦闘機」

 

「ああ。うちの資金で買える範囲の、退役した軍用機だ。個人所有できる機種はいくつかある」

 

書斎の壁には、額に入った古い写真が一枚かかっていた。二人がまだ現役だった頃、並んで写った一枚だ。背景に写り込んでいるのは、当時乗っていた機体だった。エリヤはその写真を一瞥してから、ケンに視線を戻した。

 

「本気で言っているのか」

 

「本気だ。金の使い道を探しているだけじゃない。ただ運用先を選ぶような真似はしたくないと、前にも言ったはずだ」

 

その言葉に、エリヤは思わず笑いそうになった。ケンらしい理屈だった。使い道に困った金を、意味のあるものに変えたいという気持ちは分かる。だが、その答えが戦闘機だというのは、誰にでも思いつく発想ではなかった。

 

エリヤは腕を組み、しばらく黙っていた。突拍子もない話だとは思わなかった。むしろ、なぜ自分がその可能性を考えていなかったのか、不思議なくらいだった。ケンは空を飛ぶことを、エリヤは空を飛ばし続けることを、それぞれ仕事にしてきた人間だ。仕事の形は違っても、軍を離れてからずっと、二人とも似たような物足りなさを抱えていたのかもしれない。

 

「悪くない」

 

エリヤは短くそう言った。長年連れ添った妻でさえ驚くような話を、エリヤはあっさりと受け止めていた。突飛な思いつきに見えても、二人の間ではむしろ自然な帰結だったのかもしれない。ケンはメモの束をテーブルの上に広げた。

 

そこから先は、二人にとって馴染みのある作業になった。軍で乗ってきた機種、退役後に民間へ払い下げられている機体、耐空証明の取得可否、維持費の概算。ケンは元パイロットらしく、機体の性能と操縦性を軸にリストを作っていた。速度、上昇率、運動性能。どれも、乗っていた頃の感覚がそのまま数字に置き換わったような選び方だった。

 

「F-4はエンジン支援の基盤がもう薄い。F-5は個人所有の実例がある。A-4も候補には入る」

 

ケンが挙げていく機種を、エリヤは一つずつメモに書き足していった。声に出すたびに、ケンの口調はどこか若返っているようにエリヤには聞こえた。乗り味の記憶が、まだ体のどこかに残っているのだろう。エリヤはそれを黙って見ていた。

 

エリヤの視点は、ケンとは少し違っていた。整備畑を歩いてきた人間として、真っ先に気になるのは性能ではなく、維持のしやすさだった。

 

「型式ごとの整備資格者の数は調べたか。機体側の部品は、退役機自体が世に出回っている以上、金さえ出せばアフターマーケットでどうにでもなる。エンジンの部品にしても、同じことだ。問題は物じゃない。それを開いて診断し、直せる人間の数の方だ」

 

ケンは一瞬、答えに詰まった。

 

「そこまでは、まだだ」

 

「そこが一番大事だ」

 

エリヤの口調に、責めるような響きはなかった。ただ、事実として指摘しているだけだった。ケンも、それが正しい指摘だということは、すぐに理解した。飛行機は、飛んでいる時間よりも、地上で整備されている時間の方が圧倒的に長い。その現実を、二人とも軍で嫌というほど叩き込まれてきたはずだった。

 

エリヤはさらに続けた。

 

「複座機か単座機かも決めておいた方がいい。俺も後ろに乗るつもりなら、選べる機種は自然と絞られる」

 

その一言に、ケンは初めて明確な像を思い描いたようだった。ケン一人が操縦する機体を買うのか、エリヤも同乗できる機体を買うのか。これまで漠然と「戦闘機」としか考えていなかった計画に、初めて具体的な輪郭が生まれた。

 

「エリヤも乗れる機体がいい。せっかく二人で始めるんだ」

 

ケンがそう言うと、エリヤは初めてはっきりと笑った。

 

「操縦は当分お前に任せる。だが、後ろで黙って乗っているだけで終わるつもりもない」

 

その言葉に、ケンは片方の眉を上げた。

 

「免許を取る気か」

 

「いつかは、な。今はまだ言わないでおく」

 

エリヤはそう言うと、話を本筋へ戻した。この時点では、まだ思いつきの域を出ない一言だった。だが、それが後にどれほどの意味を持つことになるか、二人ともまだ知らなかった。

 

「予算はどれくらいまで考えている」

 

エリヤの問いに、ケンは数字を挙げた。老後資金と当面の生活費を除いた、共同で自由に使える資金の範囲。決して小さな額ではなかったが、無制限でもない。一機を買って終わり、という金額でもなければ、何機も買えるという金額でもなかった。

 

「機体そのものの値段だけを見るなら、余裕はある。だが、それを維持する分まで含めると話は変わってくる」

 

「維持費がどれくらいかかるか、正確には分からないということか」

 

「分からない」

 

ケンは正直にそう答えた。軍にいた頃は、維持のためのコストを個人として意識したことは一度もなかった。すべては組織が背負っていたものだった。個人でその全てを引き受けるとなると、話はまるで違ってくる。

 

その夜、二人は具体的な機種の絞り込みまでは進まなかった。代わりに、維持費用の概算を調べることが、次の宿題として残った。ケンは機体の性能と可用性を、エリヤは整備体制とエンジン支援基盤を、それぞれ別に調べる。役割分担は、特に相談するまでもなく自然に決まった。長年、飛行と整備という別々の持ち場から言葉を交わしてきた二人にとって、それはごく自然な分担だった。

 

「一つ、確認しておきたい」

 

エリヤがメモを閉じる前に言った。

 

「なんだ」

 

「これは、道楽か。それとも、もう一度何かを始めるつもりか」

 

ケンはすぐには答えなかった。しばらく考えてから、ようやく口を開いた。

 

「まだ分からない。ただ、道楽で終わらせるつもりで買う金額じゃないのは確かだ」

 

その答えに、エリヤは満足したようにうなずいた。はっきりとした計画があるわけではない。だが、二人とも、これがただの余暇の延長では終わらないという予感だけは、すでに共有していた。

 

その予感の正体を、二人ともまだ言葉にはできなかった。ただ、退役してからずっと感じていた物足りなさに、初めて具体的な方向が示された気がした。方向が正しいかどうかは、まだ分からない。それでも、何もしないまま日々を過ごすよりは、はるかにましだった。

 

数日にわたる調べものの間、二人はそれぞれ別々に動いた。ケンは航空機ブローカーや退役機の払い下げ情報を扱う業者に電話をかけ、エリヤは整備関連の業界紙や、エンジンのオーバーホールを引き受けられる工場、型式資格を持つ整備士の在籍状況を洗い直した。夜になると二人でまた顔を合わせ、その日分かったことを突き合わせる。それを何日か繰り返した。

 

エリヤが持ち帰った資料を前に、二人の表情は思ったより重かった。個人所有の元軍用機を飛ばし続けている実例は、確かに存在した。だが、それらの多くが、想定より遥かに高い維持費に苦しんでいるという話も、同じくらい多く出てきた。機体を手に入れることと、その機体を飛ばし続けることの間には、思っていた以上の隔たりがあるらしかった。

 

「機体の値段だけを見て、安いと判断するのは危ないな」

 

エリヤがそう言うと、ケンはうなずいた。まさに自分たちがやろうとしていたことだった。

 

資料には、個人所有の元軍用機が、型式資格を持つ整備士の不足を理由に何年も地上に留め置かれている例がいくつも載っていた。機体本体や周辺部品、エンジンの交換部品も、退役機自体が相応の数出回っている以上、金さえ払えばアフターマーケットでどうにか手に入る。だが、それを開いて診断し、直せる人間は、金だけでは簡単に揃わない。中には、購入時の価格の何倍もの金額を維持費に注ぎ込みながら、それでも人が確保できずに、結局まともに飛ばせなかった例もある。華やかな写真の裏側に、そうした苦労が積み重なっているのだと、資料を読むほどに実感させられた。

 

「機体を持つことと、飛行機乗りでい続けることは、別の才能が要るということか」

 

ケンがそう漏らすと、エリヤは短く笑った。

 

「今頃気づいたのか」

 

「薄々は分かっていた。だが、数字で見せられると重みが違う」

 

軍にいた頃は、飛行時間だけを見て機体の状態を判断できた。整備の裏側は、専門の部隊が見えないところで支えてくれていたからだ。個人でその裏側までまるごと引き受けるということが、どれほどの重みを伴うのか、これまでの人生では想像する必要すらなかった。二人とも、その事実に今さらながら向き合わされていた。

 

「誰か、実際にやっている人間に話を聞ければ、話が早いんだが」

 

ケンがそう漏らしたとき、エリヤの表情がふと変わった。何かを思い出そうとしている顔だった。

 

「いる」

 

「いるのか」

 

「スコット・カルダー。覚えているか」

 

その名前に、ケンは記憶の奥から何かが引き出されるのを感じた。

 

「ラッチか」

 

「ああ、ラッチだ。あいつ、退役してすぐにF-15を買ったという噂を聞いた覚えがある」

 

ケンの脳裏に、若い頃の記憶が蘇った。ラッチというコールサインの由来を、本人以外は誰も正確に知らなかった。ただ、腕は確かで、口は悪く、退役後も戦闘機から離れられない男だという評判だけは、はっきりと記憶に残っていた。

 

一度だけ、演習の後の酒場で隣に座ったことがある。ラッチは自分の乗機の話になると人が変わったように喋り続け、誰も口を挟めなくなるほどだった。あの頃はただの豪快な男だと思っていたが、今振り返れば、それは執着に近いものだったのかもしれない。ケンは苦笑しながら、その記憶を頭の中で辿った。

 

「あいつなら、機体を維持するためなら手段を選ばないタイプだったな」

 

「そういう男だ。だからこそ、今どうしているのか、聞く価値がある」

 

執着の強さは、時に成功の理由にもなり、失敗の理由にもなる。ラッチがどちらの側にいるのかは、話を聞いてみるまで分からなかった。

 

噂どおりなら、彼はすでに自分たちがこれからやろうとしていることを、一足先に実行に移していることになる。

 

「連絡は取れるのか」

 

「基地時代の伝手をたどれば、どうにかなるはずだ」

 

エリヤはそう言うと、古い連絡先を探すように、棚の奥から名刺入れを取り出した。

 

「話を聞くだけなら、損はない」

 

ケンも同意した。機種を決める前に、まず確かめるべきことがある。金を出して機体を買うことと、それを飛ばし続けることは、まったく別の問題らしい。それを身をもって知っている人間が、幸い近くにいる。

 

その夜遅く、エリヤは古い名簿を引っ張り出し、何本かの電話をかけ合わせた。異動を重ねた元同僚たちの連絡先は、あちこちに散らばっていた。一人に聞いては次を紹介され、また次を紹介される。そんなやり取りを繰り返し、ようやくラッチの現在の連絡先らしきものにたどり着いた頃には、時計はとうに日付をまたいでいた。

 

「マラナの辺りにいるらしい。個人で格納庫を借りているという話だ」

 

エリヤがそう報告すると、ケンは意外そうな顔をした。

 

「本当に飛ばし続けているのか」

 

「そこまでは、電話でしか確かめようがない」

 

電話をかけるのは翌日でいい。今夜のうちにできることは、もうこれ以上なかった。

 

「明日、連絡を取ってみる」

 

エリヤの言葉に、ケンは短くうなずいた。窓の外はすでに暗く、書斎のテーブルには、機種名と数字がびっしり書き込まれたメモが何枚も広がったままだった。

 

「もし、あいつがうまくやれていなかったら」

 

ケンがふと漏らした問いに、エリヤはすぐには答えなかった。

 

「それならそれで、聞く価値はある。うまくいかなかった理由を知ることも、うまくいく理由を知ることと同じくらい大事だ」

 

その言葉に、ケンは小さくうなずいた。買えるかどうかは、もはや問題ではない。問題は、買った後、それを飛ばし続けられるかどうかだった。その答えを、二人はまだ持っていなかった。それを持っているかもしれない男に、明日、電話をかける。今夜できることは、それだけだった。

 

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