もう少し上 作:自動車好き/飛行機も好き
2008年 アリゾナ州マラナ近郊 Pinal Airpark
翌日の電話は、拍子抜けするほど簡単につながった。エリヤが名乗った瞬間、電話の向こうの声が一段高くなった。
「エリヤ・ムーア? まさか、あのエリヤか」
「そのエリヤだ。ケンも一緒にいる」
その名前を聞いて、ラッチの記憶がすぐに巻き戻ったらしい。教官として厳しく、それでいて理不尽な指導は一度もしなかったケン。稼働率管理の現場で、パイロットの都合よりも機体の事実を優先して物を言うことで知られていたエリヤ。二人の名前は、ラッチにとって現役時代の記憶と直結していた。
「ケン教官まで一緒か。何の用だ、揃って」
ラッチの声には、記憶にあるままの軽さが残っていた。用件を伝えると、電話口はしばらく黙り、それから短く笑った。
「話が早いな。来ればいい。見せるものはいくらでもある」
その「見せるもの」という言葉の響きに、ケンはわずかな引っかかりを覚えたが、深くは考えなかった。翌々日、二人は車を走らせ、ツーソン近郊の乾いた平地に広がるPinal Airparkへ向かった。
滑走路の脇には、退役した大型機が何列にもわたって並び、砂漠の光を浴びて眠っていた。保管と解体を専門に扱う飛行場だと、事前に聞いてはいたが、実際に目にすると規模の大きさに圧倒される。翼を並べたまま止まった機体の列は、動く気配もなく、ただそこにあるだけだった。かつて空を飛んでいた機体が、こうして地上に留め置かれたまま朽ちていく様子を目にすると、ケンの胸の奥に、説明のつかない重さが差し込んだ。
その一角に、ラッチが賃借している格納庫があった。周囲の保管機とは違い、こちらは手入れが行き届いている。少なくとも、外から見る限りは。
「ケン教官。それにエリヤ。よく来た」
ラッチは以前より少し肉がついていたが、笑い方は変わっていなかった。三人は握手を交わし、格納庫の中へ入った。
そこに、非武装化されたF-15が一機、静かに佇んでいた。塗装は綺麗に保たれ、外観だけを見れば、いつでも飛べそうに見える。だが、格納庫の隅には、外された部品が並んだ作業台がいくつも置かれていた。
「見たままだ。飾ってあるわけじゃない。今、飛べない」
ラッチはそう言うと、作業台の一つを指した。エンジン関連の部品らしきものが、いくつかの箱に分けて置かれている。
「エンジンだよ。取り外して定期のオーバーホールに出す段取りは、部品も金もすぐに揃った。F-15はまだ現役で飛んでる機体だ、部品の流通自体は今も生きている。ただ、それを実際に開いて診断できる技術者が、頼んでいた工場からいなくなった。工場自体は潰れちゃいない。ただ、その仕事を任せられる人間がいなくなって、順番待ちの列に俺の機体が並ばされているだけだ」
半年という数字に、ケンとエリヤは思わず顔を見合わせた。軍にいた頃なら、そうした事態は組織のどこかが吸収してくれた。個人で機体を持つということは、その吸収先を自分一人で用意し続けるということでもあるらしかった。
「金の問題か」
ケンが尋ねると、ラッチは首を振った。
「金は何とかなる。部品も、探せば出てくる。問題は、それを扱える人間の数が、年々減っていくことだ。型式の資格を持つ整備士は、俺が金を積んだところで、急に増えたりはしない」
その言葉に、ケンは作業台へ歩み寄った。外された部品を一つずつ確かめ、整備記録らしき書類の束にも目を通していく。操縦士としての目ではなく、この機体が今どういう状態にあるのかを、記録から丹念に追う目だった。取り外された部品には、それぞれ管理タグがついている。いつ外し、どこへ出し、いつ戻る予定なのか。予定の欄には、いくつも訂正線が引かれていた。
「記録は残っているんだな」
「もちろんだ。俺だって元は現役の戦闘機乗りだぞ。記録を疎かにするような真似はしない」
ラッチの答えに、ケンは書類の束を手に取った。エンジンの稼働時間、点検履歴、交換部品の型式番号。丁寧に整理された記録は、ラッチが決して無謀な道楽者ではないことを物語っていた。むしろ、その慎重さと知識があってなお、これだけの苦労を重ねているという事実の方が、二人には重く響いた。
「部品はどうなんだ。機体側の部品は」
エリヤが尋ねると、ラッチは肩をすくめた。
「機体側もエンジン側も、部品自体はそこまで困らない。F-15は今も現役で飛んでる機体だからな。厄介なのは、部品じゃない。それを扱える人間の方だ」
その答えは、ケンとエリヤが数日前に自分たちで調べ、たどり着いていた結論と、そのまま重なっていた。二人は思わず視線を交わした。
「整備は、外注か。それとも自分で抱えているのか」
エリヤの問いに、ラッチは苦笑した。
「外注できる範囲は外注する。だが、恒常的に見てくれる人間は、一人だけ雇っている。だが一人だ。休みも取れない。俺が代わりに手を出せる範囲は限られている」
「その一人が倒れたら」
「そのとおりのことが去年一度起きた。二か月、機体はここで完全に止まった」
ラッチの声に、初めて疲れの色が滲んだ。エリヤは格納庫の壁に貼られた勤務表へ歩み寄り、そこに書き込まれた名前と時間を目で追った。一人の名前が、休みの欄も含めてほとんど毎日書き込まれている。代わりの人員を示す欄は、最初から用意されていないようだった。
「この勤務表、代替要員の枠がない」
エリヤがそう指摘すると、ラッチは苦い顔をした。
「枠を作っても、埋める人間がいない。それが現実だ」
エリヤはさらに、休暇の取得実績や、緊急時の呼び出し体制についても尋ねた。ラッチが答えるたびに、エリヤの表情はわずかに硬くなっていった。個人が抱えられる整備体制の限界が、数字として積み重なっていくのが分かる。一人の技術者の健康と気力だけに、機体の可用性がまるごと乗っている。それは、軍にいた頃なら決して許されなかった体制だった。
その勤務表の名前の主が、ちょうど格納庫の奥から姿を見せた。作業服に染みついた油の匂いと、疲れの見える目元が印象的な、四十代半ばほどの男だった。
「ハビエルだ。ここの整備を一人で見ている」
ラッチが紹介すると、ハビエルは軽く頭を下げ、すぐに作業台へ戻っていった。多くを語る余裕はないらしい。エリヤはその後ろ姿を、しばらく黙って見つめていた。
「彼は、ここで満足しているのか」
エリヤが小声で尋ねると、ラッチは短く答えた。
「満足はしていないだろう。だが辞めない。理由は本人に聞いたことがないから分からない。ただ、代わりがいないことは、彼自身が一番よく分かっている」
その答えに、エリヤは何も言わなかった。一人の技術者の善意と忍耐だけに頼って機体を維持している状態は、長くは続かない。それは、エリヤ自身が軍で見てきた組織運用の基本と、正面から矛盾していた。
「機体を持つことと、飛ばし続けることは、別の話だと聞いてはいた」
ケンがそう言うと、ラッチは深くうなずいた。
「聞くのと、実際にやるのとでは、まるで違う。俺は機体を買った日、これで空へ戻れると思った。実際には、機体を買った日から、飛ばし続けるための戦いが始まっただけだった」
その言葉に、格納庫の中がしばらく静かになった。ラッチの持つF-15は、外見だけを見れば見事な機体だった。だが、その裏側には、一人の退役軍人が抱えきれないほどの重さが積み重なっていた。誰も悪くない。ラッチは誠実に機体と向き合ってきた。それでも、個人という単位では、構造そのものに勝てない部分がある。
「後悔しているのか」
エリヤが静かに尋ねると、ラッチは首を振った。
「後悔はしていない。ただ、もし今からもう一度やるなら、機体を買う前に、飛ばし続けられる仕組みの方を先に手に入れる」
その一言は、ケンとエリヤの中に、これまでのどの資料よりも重く残った。機体の性能や価格を比べていた自分たちのやり方が、根本から違っていたのかもしれない。そんな予感が、二人の中で急速に形を持ち始めていた。
格納庫を出る前に、ケンは改めてF-15の機体を眺めた。塗装は艶を保ち、キャノピーも曇りなく磨かれている。ラッチが機体そのものへ払ってきた愛情の深さは、疑う余地がなかった。それでも、この機体は今、飛べない。愛情と資金だけでは埋まらない部分があるという事実を、目の前の機体そのものが証明していた。
「見せてもらって助かった。感謝する」
ケンがそう言うと、ラッチは軽く笑った。
「礫を投げるつもりで正直に話したが、参考になったなら良かった。まさか、あんたらも同じことを考えているとは思わなかったが」
「まだ、考えているだけだ。決めたわけじゃない」
「決めるなら、俺のところに寄って正解だったと思わせてくれ」
その言葉に、三人は短く笑った。ラッチはハビエルに一声かけ、二人を格納庫の外まで見送った。乾いた風が、駐機場のアスファルトの上を吹き渡っていく。
「また来る」
ケンがそう言うと、ラッチは片手を挙げた。
「いつでも来ればいい。ただし、次は良い報告を持ってきてくれ。俺の分まで、うまくやってくれると助かる」
その一言に、ケンとエリヤは互いに顔を見合わせた。まだ何も決めていない。それでも、ラッチの言葉は、二人の中でまだ形になりきっていない考えに、はっきりとした重みを加えていた。
帰りの車中、ケンとエリヤはしばらく無言だった。見たものの重さを、それぞれ自分の中で整理する時間が必要だった。窓の外を、保管機の列がゆっくりと過ぎていく。それぞれの機体にも、かつて誰かの手が丁寧にかけられていたはずだった。今はただ、砂漠の光の下で止まっているだけだ。
「機体を先に決めるのは、間違いかもしれない」
ケンがようやく口を開くと、エリヤは即座に同意した。
「俺もそう思っていた。ラッチが証明してくれたようなものだ」
「機体はいつでも買える。だが、それを飛ばし続ける仕組みは、一人の資金や意志だけでは作れない」
ケンの言葉に、エリヤは深くうなずいた。ラッチの格納庫で見た、丁寧に整理された記録と、外された部品の箱。その対比が、二人にある一つの考えを固めさせていた。
「なら、俺たちが最初に手に入れるべきものは」
エリヤが問いかけると、ケンは前を見たまま、はっきりと答えた。
「戦闘機じゃない。それを飛ばし続けられる仕組みの方だ」
「具体的には」
「整備士がいて、資格があって、設備がある場所。すでに動いている会社を、そのまま手に入れる方が早い」
エリヤはしばらく黙って、その言葉を頭の中で転がした。
「ゼロから作るより、ということか」
「ゼロから作れば、俺たちがラッチと同じ苦労を、最初から味わうことになる。ハビエルのような人間を、一人で全部背負わせる羽目にもなる」
その名前を口にしたとき、ケンの声にはわずかな重さが混じっていた。今日会ったばかりの整備士の後ろ姿が、まだ頭の片隅に残っているらしかった。
「整備会社を買う、ということか」
エリヤが確かめるように言うと、ケンは短くうなずいた。
「まだ、思いつきの段階だ。だが、探す価値はある」
車はマラナの平地を離れ、ツーソンへ戻る道を走り続けていた。窓の外に広がる乾いた景色は、二日前とまったく変わっていない。だが、二人の頭の中にある計画の形は、この一日でまるで別のものへ変わっていた。