もう少し上 作:自動車好き/飛行機も好き
2008年 アリゾナ州ツーソン
Pinal Airparkからの帰り道、方針はほぼ固まっていた。それでも、その方針を正式な形にするまでには、もう一晩必要だった。翌日、ケンの書斎に再び集まった二人は、これまでのメモを一度すべて脇へ寄せた。機種名と性能数値で埋まっていたページの束は、もう主役ではなくなっていた。
机の上には、ラッチの格納庫で見た光景の記憶が、まだ二人の間にわだかまっていた。丁寧に整理された記録と、外された部品の箱。一人で勤務表を埋め続ける整備士の後ろ姿。あの光景を見なければ、今日この場でこんな話をしていることはなかっただろう。
「戦闘機を買う計画は、いったん止める」
ケンがそう切り出すと、エリヤは短くうなずいた。
「止めるんじゃない。順番を変えるだけだ」
「そうだ。順番を変える」
ケンはその言葉を訂正するように繰り返した。目的が消えたわけではない。ただ、最初に手に入れるべきものが、これまで考えていたものとは違うと分かった。それだけのことだった。いつか自分たちの機体を持つという夢は、少し先へ延びただけで、消えたわけではない。むしろ、先に基盤を持つことで、その夢はより確かなものになるはずだった。
「飛ばし続ける仕組みを、先に持つ」
ケンがそう言うと、エリヤは新しいノートのページを開いた。ここから先は、機種を比べる作業ではない。整備士がいて、資格があって、設備がある場所を探す作業になる。
「ゼロから作るのは、選ばない方がいい」
エリヤが最初にそう言った。ケンも同意した。人を雇い、資格を取らせ、設備を揃え、実績を積む。そのすべてを一から立ち上げるには、何年かかるか分からない。すでに動いている会社を手に入れる方が、確実に早い。
「すでに動いている整備会社を買う、ということか」
「ラッチのハビエルのような人間が、すでにそこで働いている場所を探す。一人にすべてを背負わせている会社じゃなく、体制として機能している場所がいい」
二人の役割分担は、ここでも自然に決まった。ケンは航空機ブローカーや業界紙の伝手を通じて、売却や事業譲渡の話が出ている整備会社を探す。エリヤは、それぞれの会社の実際の技術力と組織の健全さを、資格者数、離職率、顧客からの評判といった側面から確かめる。
数日のうちに、ケンはいくつかの候補を挙げてきた。ツーソン近郊には、退役軍用機や個人所有の旧式ジェットを扱う小規模な整備会社が、思っていたより多く存在していた。基地の近くという土地柄もあるのだろう。退役後もこの土地に残り、機体の整備で生計を立てている技術者は少なくなかった。ブローカーに連絡を取るたびに、思いがけず名前の挙がる会社が増えていく。想像していたよりも、この業界は狭く、互いの評判が伝わりやすい世界らしかった。
「思ったより数がある」
ケンがそう漏らすと、エリヤは笑った。
「数があるということは、選べるということだ。悪い話じゃない」
「候補は五社ある。規模も経営状態もそれぞれ違う」
ケンがそう言うと、エリヤはリストに目を通し、一社ずつ評価を加えていった。
「ここは規模が大きすぎる。買うにも運営するにも、俺たちの手には余る」
「ここは、経営者の年齢からして、そろそろ引退を考えている頃合いだ。話は聞く価値がある」
「ここは、評判がいい割に従業員の入れ替わりが激しい。中で何かがうまくいっていない可能性がある」
エリヤの見方は、常に数字の裏側にある人間の状態を透かして見ていた。表面上の業績だけでは、その会社が本当に健全かどうかは分からない。整備畑を歩いてきた者だからこそ気づける違和感が、いくつもリストの余白に書き加えられていった。
「ここは、離職率だけ見れば悪くない。ただ、求人広告の出し方が気になる。同じ職種を、ここ二年で何度も出し直している」
「人が定着していないということか」
「定着していないか、あるいは、定着させる気がないかだ。どちらであっても、俺たちが探しているものとは違う」
一社ずつ、そうして削られていった。数字だけを見れば悪くない会社も、エリヤの目を通すと、別の顔を見せることが何度かあった。ケンはその都度、自分では気づけなかった視点に感心すると同時に、これまでの機種選びが、いかに表面的な情報だけに頼っていたかを思い知らされた。
「ここは、どうだ」
エリヤが一社を指で示した。ツーソン近郊で、退役機や旧式ジェットの整備を専門に手がけている、中規模の会社だった。創業者が高齢で、後継者が明確でないという話も伝わってきていた。取引先の一つからは、腕のいい整備士が何人か残っているという評判も聞こえてきていた。悪い評判と良い評判が、同じ会社について同時に流れている。それ自体が、外からだけでは判断のつかない状態を物語っていた。
「規模も丁度いい。実績もある。ただ、経営はあまり良くないという噂も聞く」
ケンがそう言うと、エリヤは意外にも興味を示した。
「経営が良くないなら、給与や勤務管理にも、しわが寄っているかもしれない。だが、それは会社の仕組みが悪いという話であって、現場の技術力が悪いという話じゃない」
エリヤの声には、どこか実感めいた響きがあった。軍にいた頃、優れた技術を持つ部下が、上の判断の悪さのせいで正当に評価されず、士気を落としていく様子を、彼は何度も見てきた。悪いのは現場ではなく、その現場を支える仕組みの方だったことも、少なくなかった。
「区別できるのか」
「区別しないといけない。技術がある会社の経営が傾いているなら、それは直せる。技術そのものがない会社は、直しようがない」
その言葉に、ケンは深くうなずいた。エリヤの視点は、機体を見るときと同じだった。表面の不調と、根本の欠陥は、はっきり分けて見るべきものだ。数字が悪いからといって、そこにいる人間の腕まで悪いとは限らない。故障した部品を見て、その部品自体が悪いのか、それを扱う手順が悪いのかを見極める。エリヤが整備の現場で叩き込まれてきた判断の癖が、そのまま会社選びにも生かされていた。
「もし、そこの人間の腕が本物だったら」
ケンがふと尋ねた。
「経営さえ立て直せば、彼らはこれまでどおりの仕事を続けられる、ということか」
「それだけじゃない。給与を正常化して、休みを取れるようにして、まともな設備を用意すれば、彼らの腕はもっと生きる。ラッチのハビエルのような人間を、二度と一人だけで抱えさせないようにできる」
その言葉に、エリヤは何も言わず、ただ小さくうなずいた。二人の頭の中には、まだ会社の名前も決まっていない計画に対して、すでに一つの理念のようなものが芽生え始めていた。飛ばすことだけを目的にするのではなく、飛ばし続ける人間を大事にする。そう言葉にしてしまえば単純だが、それを実際にやり続けることの難しさは、ラッチの格納庫で十分に見てきたばかりだった。
「一度、外から様子を見てみる価値はある」
ケンがそう言うと、エリヤも同意した。まだ連絡を取る段階ではない。まずは、その会社が本当に自分たちの探しているものに近いのかどうか、外側から確かめる必要があった。
その週末、二人は候補に挙がった会社の周辺を、それぞれ別の日に訪れた。中に入って話を聞くにはまだ早い。まずは外から、その場の空気を確かめるだけにしておく。看板も派手ではなく、駐機場に並ぶ機体も特別に目立つものではない。だが、格納庫の出入りや、駐車場に停まった車の数から、稼働している様子は伝わってきた。
ケンが訪れた日は、平日の午後だった。格納庫の扉は開いたままで、中から工具の音が絶えず響いていた。作業服姿の人間が、機体の周りを行き来している。急いでいるようにも、だらけているようにも見えない、落ち着いた動きだった。少なくとも、表からうかがう限り、崩壊した現場特有の荒っぽさは感じられなかった。
エリヤが訪れたのは、その数日後の朝だった。始業前の時間帯を選んだのは、社員が集まってくる様子を見たかったからだ。車の年式や手入れの状態、挨拶を交わす様子、遅刻してくる者の数。数字には出てこない情報が、そこには詰まっていた。目に映った限り、極端に荒れている印象はなかった。ただ、どこか誰もが疲れているような、覇気に欠けた雰囲気も同時に感じ取った。
「悪い意味で目立たない会社だ」
ケンが後になってそう言うと、エリヤも同じ感想を漏らした。
「目立たないのは、悪いことじゃない。むしろ、地道にやっている証拠かもしれない」
派手な宣伝も、大きな看板もない。だが、そこで働いている人間たちの動きには、無駄がないように見えた。決定的な確信ではない。それでも、二人が探していたものに近い匂いが、確かにそこにはあった。
帰りの車の中で、ケンはふと、これまで見てきた候補のどれとも違う感触を覚えていることに気づいた。数字の上では、他にもっと条件の良い会社があった。それでも、この会社に対する感触だけが、なぜか二人の中に残り続けていた。理由は、まだうまく言葉にできない。
「次は、正式に話を聞きに行くしかないな」
ケンがそう言うと、エリヤは静かにうなずいた。
「経営が傾いているなら、こちらから声をかける方が、むしろ話は早いかもしれない」
「向こうにとっても、悪い話じゃないといいが」
「それは、会ってから確かめる」
「覇気に欠けた雰囲気があった、と言ったな」
ケンが確認するように尋ねると、エリヤはうなずいた。
「疲れているように見えた。ただ、荒れてはいない。疲れと荒れは違う。疲れは、休ませれば戻る。荒れは、簡単には戻らない」
その区別は、エリヤが軍時代から見てきた、稼働率の高すぎる部隊の空気とよく似ていた。無理を重ねた末の疲弊であれば、正しい手当てをすれば持ち直す余地がある。人員を入れ替えなければならないほどの荒廃と、休養と正常な給与さえ取り戻せば立ち直る疲弊とは、見た目こそ似ていても中身は全く別のものだ。そこに、二人は一つの可能性を見出していた。
その夜、二人は連絡先を調べ、面会の申し込みをどう切り出すか、言葉を選びながら文面を練った。宝くじの当選金を持つ二人の退役軍人が、いきなり会社を買いたいと申し出れば、警戒されるのも当然だ。だが、隠すつもりもなかった。事実をそのまま伝え、相手の反応を見る。それが、二人にとって一番自然な進め方だった。
「肩書きは、どうする」
エリヤがふと尋ねた。
「肩書きなんて、まだない。ただの、元パイロットと元整備士だ」
ケンの答えに、エリヤは小さく笑った。
「それでいい。むしろ、それ以上の肩書きを名乗るのは、今はまだ早い」
文面は、結局あっさりとしたものに落ち着いた。事業譲渡や資本提携の可能性について、一度直接お話を伺いたい。日時はご都合に合わせる。多くを語らず、多くを求めない文面だ。飾った言葉を並べるよりも、その方が誠実に見えるはずだった。
「送るのは、明日の朝でいい」
エリヤがそう言うと、ケンも同意した。今夜のうちに送っても、急かす印象を与えるだけだ。急いでいないことを、態度でも示す必要がある。
窓の外では、砂漠の夜が静かに更けていた。まだ会社名も正式には決まっていない。それでも、この夜、二人が探し求めていたものの輪郭は、これまでのどの夜よりもはっきりとした形を持ち始めていた。