もう少し上 作:自動車好き/飛行機も好き
2008年 アリゾナ州ツーソン近郊
面会の申し込みへの返事は、思っていたより早く届いた。会社の名前は「デザート・エッジ・エアクラフト・サービス」。創業から二十年以上、退役軍用機や個人所有の旧式ジェットの整備を手がけてきた会社だった。返事の文面は簡潔で、警戒するような硬さもなく、むしろどこか安堵しているような響きがあった。まるで、誰かが手を差し伸べてくれるのを、ずっと待っていたかのような文面だった。
指定された日、ケンとエリヤは会社の事務所を訪れた。事務所は決して立派な建物ではなかったが、入口の看板は丁寧に手入れされている。長く続けてきた会社への矜持のようなものが、その一点だけからも伝わってきた。応対に出てきたのは、創業者ではなく、整備主任を名乗る男だった。
「マテオ・イバラです。テオと呼んでください。社長は今日、体調が悪くて」
その言い方に、ケンとエリヤは一瞬視線を交わした。体調が悪いという理由だけではない何かが、その場の空気に混じっている気がした。テオは四十手前ほどの年齢で、油の匂いを漂わせた作業服の上に、来客用のジャケットを慌てて重ねたような格好をしていた。整備主任という立場でありながら、社長の代わりに客の前へ立たされている。その立ち位置そのものが、この会社の内情を暗に語っていた。
「単刀直入に聞く。経営状態は、外から見えている以上に厳しいのか」
ケンがそう切り出すと、テオはしばらく黙り、それから小さく頷いた。
「隠しても、すぐに分かることです。給与の支払いが、ここ数か月、遅れています。今月分も、まだ全員には払えていません」
テオの声は、恥じるでもなく、開き直るでもない、ただ事実を述べるだけの平坦な調子だった。長く抱え続けてきた問題を、初めて誰かに正直に話せる相手が現れたことへの、わずかな安堵も混じっているように、ケンには感じられた。
その言葉に、エリヤはすぐに反応した。
「全員には、ということは、一部には払っているのか」
「経営者の判断です。俺には、その順番を決める権限はありません」
テオの声には、明らかな苦さがあった。整備主任という立場でありながら、給与の遅配という現実を止める手段を持たない。その無力さを、彼はずっと抱え続けてきたらしかった。
「工場の中を、見せてもらえるか」
ケンが尋ねると、テオは一瞬躊躇したが、結局は案内を承諾した。格納庫に入ると、そこには十数機の機体が並んでいた。整備の手が入っている機体もあれば、部品待ちのまま止まっている機体もある。作業する人間の数は、機体の数に比べて明らかに少なかった。
「今、何人で回している」
エリヤの問いに、テオは正確な数字を答えた。有資格者の人数、見習いの人数、この半年で辞めた人数。辞めた人数の方が、新しく入った人数を上回っていた。
「辞めた理由は」
「給与の遅配です。それ以外の理由を挙げる人間は、ほとんどいません」
作業場を歩きながら、エリヤは一人ひとりの整備士の様子を見ていった。手つきに乱れはない。工具の扱いも、部品の管理も、教育が行き届いている証拠が随所に見える。だが、誰もが口数少なく、表情に疲労が滲んでいた。ラッチの格納庫で見たハビエルの姿が、エリヤの頭の中で重なった。ここには複数の人間がいる。それでも、疲弊の質そのものは、あの一人きりの格納庫と、驚くほど似ていた。
工具棚の一角に、経年で色褪せた表彰状が飾られていることに、エリヤは気づいた。地域の整備コンテストで、この会社が受賞した記録らしい。かつて誇りを持って仕事をしていた時期が、確かにあったのだろう。今の疲弊した空気と、その表彰状の対比が、エリヤの胸に小さく刺さった。
「腕は悪くない」
エリヤが小声でそう言うと、ケンも同意した。
「悪いのは、腕じゃない。仕組みの方だ」
ケンはその間、別の場所で記録を確認していた。整備記録、部品管理簿、資格者の証明書類。会社の実態を数字と紙の上で追う作業だった。記録そのものは、丁寧に保管されていた。テオが個人的な誠実さで、それを守り続けてきたことがうかがえた。
一通り見終えたところで、三人は事務所の隅にある小さな休憩室へ戻った。
「正直に聞きたい。この会社を、俺たちが買うとしたら、あなたはどう思う」
ケンの問いに、テオは驚いた顔を見せたが、すぐにその驚きを収めた。どこかで、そういう話が来ることを予感していたのかもしれない。
「今よりひどくなるなら、反対します。今より良くなるなら、賛成します。それだけです」
「具体的に、何を望む」
「給与を、決まった日に決まった額、全員に払ってほしい。それだけで、ここの人間の半分は救われます」
その答えは、拍子抜けするほど単純だった。だが、単純であることが、むしろ現状の深刻さを物語っていた。基本的なことすら満たされていない現場が、そこにはあった。
「もう一つ、聞きたい」
エリヤが口を開いた。
「休みは、まともに取れているのか」
テオは苦笑した。
「取れている人間もいれば、取れていない人間もいます。人が足りない部署ほど、休みが削られていく。悪循環です」
エリヤはその答えに、深く頷いた。ラッチの格納庫で見た構図と、根本は同じだった。人が足りず、その足りない分を、残った人間の無理で埋め合わせる。その無理が続けば、いつか誰かが倒れる。それは時間の問題でしかなかった。人数が複数いる分、表面上はラッチの格納庫より保たれているように見える。それでも、根っこにある問題の形は、驚くほど同じだった。
事務所を出たあと、ケンとエリヤはしばらく車の中で黙っていた。数字だけを見れば、経営状態は決して良くない。だが、そこにいる人間たちの技術と誠実さは、間違いなく本物だった。
「買う価値はある」
ケンが先に口を開いた。
「賭けにはなる。だが、賭ける価値のある会社だ」
エリヤも同意した。二人は、その日のうちに外部の会計士と弁護士を雇い、正式な交渉の準備を始めることを決めた。まだHFAという会社そのものが存在しない段階だ。財務や契約の精査を任せられる専属の人間は、二人ともまだ持っていなかった。
交渉は、思っていたより早く進んだ。創業者は高齢で、後継者もなく、会社を畳むか売るかの二択を、既に自分の中で決めかねていたところだった。ケンとエリヤの申し出は、彼にとっても悪い話ではなかったらしい。財務状況の精査には時間がかかったが、隠された負債や不正の跡は見つからなかった。あるのは、ただ長年の資金不足と、それに耐え続けてきた現場の疲弊だけだった。
数週間の交渉と精査を経て、その年の初夏には、ケンとエリヤはデザート・エッジ・エアクラフト・サービスを買収した。
買収初日、二人が最初にしたのは、大きな演説でも、社名の変更でもなかった。給与の遅配を即日で解消し、全員に決まった日に決まった額を払う体制を整えること。それが、最初の一歩だった。
「これが、俺たちが約束できる最初のことだ」
ケンがそう告げたとき、集まった社員の中に、テオの姿があった。安堵よりも先に、まだ半信半疑の表情が浮かんでいるのが見て取れた。信じるには、まだ一度の約束だけでは足りない。それも当然だった。
「新しい社長が、また同じことを言うのは、これで何度目でしょうか」
集会の後、テオがケンにそう漏らした。皮肉ではなく、これまでの苦労がそのまま滲んだ言葉だった。
「言うのは簡単だ。だから、言葉じゃなく、給与日で証明する」
ケンの答えに、テオは何も言わなかった。ただ、その表情には、わずかな期待が浮かんでいた。
給与の次に手をつけたのは、勤務表だった。エリヤが一人ひとりの勤務時間と休暇の取得状況を洗い直し、無理な配置を段階的に修正していった。全てを一度に直すことはできない。だが、少しずつ、確実に、現場の余裕を取り戻していく。それがエリヤの流儀だった。
「一気にやりすぎると、逆に現場が混乱する」
エリヤはテオにそう説明した。人員を急に増やしても、教育が追いつかなければ意味がない。休みを急に増やしても、引き継ぎの体制がなければ、別の場所にしわが寄るだけだ。段階を踏むことは、遠回りに見えて、実は最も早い道でもあった。テオはその説明に、何度も頷きながらメモを取っていた。
食事にも手を入れた。休憩室に無料のコーヒーを常備し、昼食の補助制度を整えた。些細なことに見えるかもしれない。だが、疲弊した現場にとって、そうした小さな安心の積み重ねこそが、最初に必要なものだった。
「コーヒーくらいで、何が変わるんだ」
最初は、そう鼻で笑う社員もいた。だが、無料のコーヒーポットの前に人が集まり、そこで自然と会話が生まれるようになると、その社員自身が誰よりも足を運ぶようになっていた。小さな変化が、少しずつ現場の空気を作り直していく。それを、ケンとエリヤは実際に目にすることになった。
買収から最初の数週間は、簡単ではなかった。長年の遅配に慣れきってしまった社員の中には、給与が本当に決まった日に払われるのか、半信半疑のまま見ている者も多かった。ケンとエリヤは、その疑いを言葉で解こうとはしなかった。約束を、毎回きちんと守ること。それだけを、黒々と積み重ねていく方針を選んだ。
三度目の給与日が過ぎた頃から、現場の空気は少しずつ変わり始めた。口数の少なかった整備士たちが、休憩室で交わす言葉に、わずかな余裕が戻ってくる。エリヤはその変化を、数字ではなく、現場の音の質で感じ取っていた。工具を置く音、会話の合間の笑い声。疲弊した現場では聞こえなかった種類の音が、少しずつ戻ってきていた。
数か月が経つ頃、辞めていく人間の数は目に見えて減っていった。オーウェン・キーツという古参の整備士が、ある日エリヤにこう言った。
「昔は、こんな会社になるとは思わなかった」
「良い意味でか」
「良い意味でだ。少なくとも、給料の心配をしなくて済むようになった」
オーウェンはそう言うと、作業していた機体のパネルを軽く叩いた。
「昔の職場は、ここより給料が良かった。それでも辞めてここに残ったのは、腕を評価してくれる人間がいたからだ。その人間がいなくなってからは、正直、何のために続けているのか分からなくなっていた」
「それが、今は」
「今は、分かる気がする。まだ気がする程度だが」
その言葉に、エリヤは短く頷いた。まだ道半ばだ。だが、確かに何かが変わり始めていた。
「飛ばせることと、飛ばし続けられることは違う。それを、俺たちはここで学んだ」
ある晩、ケンがそう言うと、エリヤは同意しながら付け加えた。
「機体を飛ばし続けるためには、まず、そこで働く人間を守り続けなければならない」
ケンはその言葉を、しばらく口の中で転がしていた。それから、もっと短く言い直した。
「We keep them flying」
回りくどい言い方を嫌うケンらしい、要点だけを切り取った一言だった。
「気に入ったのか」
エリヤが尋ねると、ケンは小さく笑った。
「言葉にすると、俺たちがやろうとしていることが、案外単純だと分かる」
その一言は、まだ誰かに向けたスローガンでも、正式な社是でもなかった。二人だけの間で生まれた、ただの実感の言葉だった。それでも、後にこの会社が名前を変え、規模を大きくしていく中で、この短い一言が形を変えながら残り続けることになる。まだ社名も「High Frontier Aviation」には変わっていない。それでも、二人が求めていた仕組みの土台は、この年の終わりに、確かに形を持ち始めていた。