ワールド・クライシス 作:2029事件EX
雨が叩きつける夜のプラットホーム。
俺――朧月翡翠は、泥を跳ね上げながら全力で疾走していた。今回のターゲットは、触れた者の記憶を溶かす異常存在を組織「アルカディア」の規定通りに「確保」と「隠蔽」を完了したものの、タイムロスは致命的だった。俺が追うのは、組織が手配した移動式の作戦本部、通称「方舟」だ。テールランプの赤い光が動き出す。俺は肺を焼くような呼吸を堪え、さらに加速した。濡れたアスファルトを蹴り、速度を上げる鉄塊の最後尾デッキにしがみつき、強引に扉をこじ開けて中へ滑り込んだ。
冷たい床に大の字になり、荒い息を吐き出す。だが休む時間はない。俺はすぐに身なりを整え、冷徹な「エージェント」としての顔を取り戻した。目的のコンパートメントは、最奥の重厚な一室だ。衣服の乱れを直し、静かにドアをノックして中へと入る。
室内は静まり返っていた。そこにいたのは、深々とフードを被り、顔を影に沈めた謎の人物だ。
「遅れました。アルカディア本部への報告書は、こちらに」
と差し出した端末を、相手は一瞥もしなかった。それどころか、椅子の背にもたれかかり、気まぐれに指をパチンと鳴らす。
「朧月翡翠、お前に父親はいるのか?」
歌うような掴みどころのない丁寧な声で、俺の生涯に踏み込む質問を重ねてくる。
「任務に関係のない質問にはお答えできません」
俺は眉をひそめた。だが、胸の奥で奇妙な違和感が急速に膨らんでいく。記憶を掘り起こそうとしたが、ない。俺の頭の中にはエージェントとしての記憶しかなく、自分の両親の顔も名前も、一切の過去も存在しないのだ。
影の奥で、謎の人物の唇が愉快そうに歪んだ。
「――誰も助けられなかった方が、随分と偉そうな口を利くな」
その言葉が鼓膜を叩いた瞬間、頭の中で何かが爆発した。激しい頭痛と、炎の記憶が脳裏をよぎる。身体が思考より先に動き、カチャと硬質な金属音を立てて、俺は銃口を瞬時に相手の額へと突きつけていた。しかし、フードの人物は微動だにせず、またしても気まぐれに質問を続ける。
「お前が管理し、利用し、終了してきたその『異常存在』たち。彼らと、記憶を持たないお前自身――一体何が違うと思う?」
紡がれる言葉が俺の脳を抉る中、唐突な疑問が浮かび上がった。
――なぜ、この車両に護衛が一人もいない? いつもなら厳重な警備兵や防衛システムが張り巡らされているはずなのに。なぜ今まで、この強烈な違和感に気づかなかった?
「冥土の土産に教えてやる俺には父親はいない、質問に答えた訳だ...さっさと死ね」
俺は引き金を引いた。だが、乾いた銃声が響いた瞬間、目の前の空間が歪み、フードの人物は物理法則を無視した速度で弾道を回避していた。俺は即座に右腿からタクティカルダガーを引き抜き、超至近距離からの容赦のない連撃を仕掛ける。
しかし男は踊るような身のこなしですべてを受け流し、俺の胸元に掌を当てた。ドォンと衝撃波が炸裂し、俺の身体は部屋の外の通路へと吹き飛ばされた。
背中を床に打ち付けた瞬間、背筋に強烈な悪寒が走る。部屋の奥から恐ろしい速度で一本の槍が飛んできた。
「――っ!」
反射的に横ローリングでその一撃を回避する。ドガァンと、先ほどまで俺の頭があった床に禍々しい穂先が深く突き刺さった。床に這いつくばったまま通路の奥へと視線を巡らせ、俺は息を呑んだ。護衛たちが、全員死んでいる。通路のあちこちに、アルカディアの精鋭たちが物言わぬ肉塊となって転がっていた。
――なぜだ。なぜ部屋に入るまで気づかなかったのかおかしいぐらいに、あたりには大量の血痕が飛び散り、濃厚な死臭が充満している。走って列車に飛び乗り、この通路を通ったはずなのに、俺の五感はあいつに問い詰められるまでこの惨状を完全にスルーしていたのだ。
「やっとちゃんとした『景色』が見えるようになったみたいだな」
男が槍を肩に担ぎながらゆっくりと歩み出てくる。
「さあ、壊し合おうか、朧月翡翠!」
男が言うと同時に、その身体が弾かれた。担いでいた槍が、一瞬で鋭い閃光へと変わる。俺は死体から拾った小銃を連射したが、男は目にも留まらぬ槍捌きで弾丸をすべて叩き落とし、容赦のない突きを喉元へ繰り出してくる。俺は上体を仰け反らせてかわし、死体から奪った手榴弾で爆風を起こしたが、男は槍の反動で天井へと跳ね上がり、そのまま天井を突き破って俺を列車の屋根の上へと跳ね飛ばした。
叩きつけるような豪雨、そして時速百キロを超える暴風が容赦なく身体を打ち据える。俺は右手に赤黒い炎の魔法、左手に極寒の氷の魔法を同時に練り上げ、一気に解放した。まず放った炎の塊で濃厚な水蒸気の壁を作り出し、男の視界を奪う。その隙に氷の魔法を屋根に叩きつけ、無数の氷刃で男の足を止めた。そして、残った魔力で急激な加熱と冷却を同時に発生させ、凄まじい規模の「水蒸気爆発」を直撃させる。
ドガァァァン!
激しい衝撃波が嵐の夜の闇を吹き飛ばす。だが、爆煙の中から現れた男は、ボロボロになりながらも不敵な笑みを崩していなかった。男は初めて槍を両手で深く構え直した。...本気の構えだ。
「……認めよう、朧月翡翠。お前は確かに、アルカディアが誇る最高の『猟犬』だ。――だが、ここで果てろ。」
男が槍を大きく一閃した。漆黒の衝撃波が、列車の屋根ごと空間を真っ二つに引き裂くように押し寄せてくる。俺は瞬時にありったけの魔力で分厚い氷の盾を幾重にも展開したが、その防壁は紙切れのように容易く粉砕された。
「くっ...!」
衝撃をモロに喰らい、俺の身体は激しくバウンドしながら列車の外へと吹き飛ばされた。足場を失い、空中へと投げ出される。視界が上下に激しく回転する中、遥か下には、夜の闇に紛れて激しくうねる濁流の川が見えた。
「 落ちろ、翡翠その深淵の先で、また会おう。」
遠ざかる列車の屋根の上から、男のそんな声が暴風に混ざって聞こえた気がした。