ザンスカール帝国のディストピア〜カテジナ・ルースの女王の系譜〜 作:ロドニー
アドラステア級戦艦の特等会議室。
外宇宙の冷徹な闇を映す窓を背に、重苦しい沈黙が満ちていた。
オーブの無条件降伏。
それは地球圏、そしてアステロイドベルトに至る宇宙圏のすべてがザンスカール帝国の軍門に降ったことを意味していた。
すでに十年前から進められていた木星圏開発の成果――ジュピトリス級ヘリウムガス輸送艦がもたらす莫大なエネルギーを背景に、帝国は絶対的な覇権を握ったのだ。
その覇権の象徴たる大艦の内部で、かつて独立を誇ったオーブの首長、カガリ・ユラ・アスハと、ジュール隊を率いたイザーク・ジュールは、あまりにも不条理な現実に直面していた。
二人の前には、二通の書類の控えが置かれている。それを取り出したのはメイリン・ホーク。
そしてその隣には、もはや生きているのが不思議なほどにカピカピに干乾びたディアッカ・エルスマンの姿があった。
「……信じられないかもしれないけれど、これが真実です」
メイリンの声は、張り詰めた糸のように鋭く、そしてひどく疲弊していた。
「私とディアッカさんは、オーブを発つ前にきちんと『長期休暇願』、そして電波ジャック放送で生存が確認された姉――ルナマリア・ホークの婚約の真意を確かめるための渡航申請を出していました。ですが、ザンスカールに到着してすぐに狂信的なガチ党員に拘束されかけた。それを救ってくださったのが、カテジナ・ルース女大公閣下です。私たちは大公邸に匿われ、姉さんとも再会できた。それなのに……オーブ本国は私たちを『脱走兵』として指名手配した。帰る場所を失った私たちは、カテジナ閣下と姉さんの計らいで亡命せざるを得なかったんです。もし、あのままガチ党員に捕まっていたら、私たちはスパイ罪で間違いなく――ギロチンにかけられていました」
メイリンの告発に、カガリは目を見張り、イザークは忌々しげに顔を歪めた。
「そんな書類、私は見ていないぞ……!」
「軍統括からの報告では、貴様たちが前触れもなく戦線を離脱したとあった! 政治的問題に発展する前に拘束するため、やむなく指名手配の措置をとったのだ!」
イザークの弁明は事実だった。
当時のオーブ軍内部は混沌の極みにあった。
一年前のオーブ沖海戦で撃墜され、戦死したと思われていたルナマリアが生存しており、あろうことかザンスカールの皇子クロノクルとの婚約と彼の立太子が同時に発表されたのだ。
軍の主要メンバーからは「メイリンは真意を確かめに行ったのではないか」という声も上がったが、混乱の渦中でその声はかき消されていた。
だが、メイリンが今、本当に訴えたいのは、過去の政治的誤解などではなかった。
「……事情は分かりました。でも、もうそれはいいんです。問題は『今』なんです」
メイリンはすがるような目で、イザークを凝視した。
「イザークさん。お願いです。ルース大公家の私兵部隊のパイロットではなく……ルース大公邸の『執事』になってくれませんか!?」
「はあ!? 何を言っている貴様は!」
イザークが声を荒らげるのも無理はなかった。
一国のエースパイロットに向かって執事になれというのだから。
だが、メイリンの眼差しは真剣そのもの、いや、狂気すら孕んでいた。
「もう、私とディアッカさんだけじゃ、あの『七姉妹』へのツッコミが追いつかないんです……!」
カガリとイザークの脳裏に、先ほどこの艦内で目撃した、あまりにも奇怪で凄惨な光景が蘇る。
捕虜としてカテジナ女大公への謁見を待つ間、二人が目にしたもの。
それは、長女ツクヨミがバスタオル一枚の姿でオーブ一行の前に現れ、一目惚れしたシン・アスカを「私の婿にする!」と堂々と宣言する姿。
それを「服を着ろ!」と悲鳴を上げながら私室に押し込むメイリンの姿だった。
さらにその背後からは、二組の双子たちが、鈍器のような厚みの専門書『ミノフスキー粒子力学 応用編Ⅱ』を掲げ、容赦のない質問攻めでメイリンに精神的暴力を加えていた。
胃薬を狂ったように貪り飲むメイリンの姿は、戦場のいかなる地獄よりも凄惨に見えた。
そして何より、隣で干乾びているディアッカの理由。婚約者である次女アマテラスに毎晩のように夜這いをかけられ、文字通り「骨の髄まで」絞り取られ、周囲からは「目指せディアッカとできちゃった婚」と無慈悲な命名をされているという。
極めつけは、あのキラ・ヤマトだ。カテジナに対し、完璧なスパダリ(スーパーダーリン)振りを地で行くキラ。
それを受け、あれほど苛烈だったカテジナ女大公が、顔を真っ赤にして悶えながら、まるで恋する少女のような反応を示していた。
部屋を満たす、目を覆いたくなるような濃厚なピンク色の空間。
カガリとイザークは、同時に沈黙した。あまりの情報の過多と、世界を統べる者たちの私生活の崩壊ぶりに、言葉を失うしかなかった。
「……もう、胃薬が効かないんです」
メイリンがぽつりと言った。
その声は、アドラステアの装甲よりも重く、深く、絶望に沈んでいた。
「限界なんです。このままだと、ザンスカールに殺される前に、あの姉妹に私たちが殺されます。イザークさん、あなたのような苛烈で容赦のないツッコミができる人材が、今の大公邸には絶対に必要なんです……!」
静まり返る会議室。宇宙の覇権を巡るシリアスな政治劇の裏で、一人の少女の精神は、完全に臨界点を突破していた。
「……ふぅ。これでツクヨミ様の『対シン・アスカ陥落計画書(修正版Ver.14)』の整理は終わりですね……」
ルース大公邸の一室。
メイリン・ホークは机の上に山積みになった書類を前に、深く、本当に深い溜息をついた。
彼女の手元には、すでに空になりかけた胃薬の瓶がある。
「それにしても……ツクヨミ様、13歳にしてあのカテジナ様の美貌と苛烈な性格、そしてスタイルまで受け継いでいらっしゃるのは素晴らしいことなんですけど……シンさんへのアプローチが肉食獣のそれなんですよね……。あ、また胃が……」
カリカリとペンを走らせるメイリンの背後に、すっと音もなく、しかし圧倒的な威圧感を伴う影が差した。
「おい、メイリン。その効率の悪い書類整理はなんだ。貴様、元ザフトの管制官でありながら、ルース大公邸の事務処理能力をこの程度にまで落とすつもりか?」
「ひゃいっ!?」
メイリンが跳び上がって振り返ると、そこには完璧に着こなされた高級な執事服に身を包み、非の打ち所のない姿勢で立つ男がいた。
白銀の髪、鋭い眼光。
かつてザフトの白服を纏い、今はジュール隊の隊長……ではなく、わけあってこの邸宅の『執事』に就任した男、イザーク・ジュールである。
「イ、イザークさん!? なんですかその格好! ものすごく様になってますけど、なんで執事服なんですか!?」
「フン、成るからには容赦はしないと言ったはずだ! ルース大公邸の規律が乱れていると聞き、俺自らが正しに来てやったのだ。文句があるか!」
その時、廊下から
「キャーッ!」
「見て、新しい執事様よ!」
「なんて冷徹で素敵なお顔かしら!」
という上級使用人の侍女たちの黄色い悲鳴が響いてくる。
イザークはそれをフンと鼻で笑い飛ばした。
「全く、騒々しい。おいメイリン、まずはその無駄な恋愛妄想書類を……」
イザークが書類に手を伸ばしたその時、部屋の扉がバタンと開いた。
「見つけたわ! ツクヨミお姉様の事務を邪魔する、新入りの生意気な執事!」
入ってきたのは、6歳になる五女アキネと、その双子の片割れである六女ユキだった。
ユキの手には、およそ6歳児が持つには分厚すぎる専門書『ミノフスキードライブエンジン 上級編』が握られている。
アキネが後ろでニヤニヤと笑う中、ユキは天才児特有の傲慢な笑みを浮かべてイザークを見上げた。
「ふん、新入りの分際で偉そうに。ねえ、あなた。この本に書かれている『光の翼』の収束磁場における、最大出力時のエントロピー減少率と、それに伴う空間歪曲の相互関係について説明できるかしら? どうせただの顔だけの男には……」
ユキが言い終わる前に、イザークの書類をめくる手がピタリと止まった。
その目が、冷酷な輝きを帯びる。
「……おい、小娘」
「な、なによ」
「貴様、その程度の初歩的な記述で、この俺に知的暴力を仕掛けたつもりか? 笑わせるな」
イザークはユキの手から本をひったくるように奪うと、パラパラとページをめくった。
「いいか、よく聞け! ミノフスキードライブにおける磁場収束は、前提として結晶化されたミノフスキー粒子の格子状配列による縮退圧を利用している! 最大出力時におけるエントロピーの減少率は、貴様が言ったような単純な線形関数ではない! 空間歪曲との相互関係を論じるならば、まず第13象限における超重力場の相転移式を代入してみせろ! それすら理解せずに『上級編』などと抜かすな! この本の著者の計算も甘い! 十ページ目のここの数式、熱力学第二法則を完全に無視した机上の空論だ! こんなものをドヤ顔で持ち歩くなど、片腹痛いわーーーッ!!」
「……え?」
ユキは呆然とした。
6歳にして神童と呼ばれ、大人の学者を論破してきた彼女が、完璧に、かつ一切の容赦のない大声量で叩き潰されたのだ。
「う……うわああああああん! お母様にもそんなに怒られたことないのにぃぃぃ! 大嫌い! あんたなんて、絶対に、ぜーーーったいに泣かしてやるんだからねーーーッ!!」
ユキは涙をボロボロとこぼしながら、キッとイザークを睨みつけ、足音を荒々しく立てて部屋を飛び出していった。
アキネも「あ、待ってよユキ!」と慌てて後を追う。
部屋に取り残されたメイリンは、震える手で胃薬を口に放り込んだ。
「イ、イザークさん……相手は6歳ですよ? なにもそこまで本気で論破しなくても……」
「黙れメイリン! 子供だろうが容赦はせん! それがこの邸宅を預かる執事としての義務だ!」
「絶対違います……。ああ、私の胃薬がまた減る……」
この「六女ユキが新入り執事に完膚なきまでに泣かされた」という噂は、普段からユキの天才的な生意気さに泣かされていた使用人たちの間に、瞬く間に広がった。
使用人たちは陰で「ジュール執事、恐るべし……!」と救世主を崇めるように囁き合ったのである。
だが、ルース七姉妹がそれで引き下がるはずがなかった。
その日の午後。
大公邸の広大な図書室で、イザークの前に新たな刺客が現れた。
三女ハルミと四女ナツキの双子、そして先ほどのリベンジに燃える五女アキネである。
彼女たちの手には、未だに勉強中であるはずの、コズミック・イラ(C.E.)における遺伝子調整と社会工学に纏わる最新の論文が握られていた。
「見つけたわ、イザーク! ユキの仇よ!」
「私たちが血と汗と涙を流して読み解いた、このC.E.の論文で勝負よ!」
「今度こそ、その澄ました顔を歪ませてあげるんだから!」
ハルミが自信満々に論文を突きつける。
「いい? この『コズミック・イラにおけるコーディネイターの出生率低下と、精神的バックボーンとしての遺伝子統制社会の是非』についてよ! ここに書かれている『初期型コーディネイターの第三世代における塩基配列の最適化限界』についての反論、あなたにできるかしら!?」
イザークは冷めた目でその論文の表紙を見た。
そして、ふっと鼻で笑った。
「……フン。ハルミ、ナツキ、アキネと言ったか。貴様ら、よくその論文を俺の前に持ってこられたものだな」
「な、何よ! 怖気づいたの!?」
「アホか! その論文の表紙の、著者名(オーサー)の欄をよく見ろ!」
イザークがバンと机を叩く。
三人が視線を落とすと、そこには誇らしげにこう書かれていた。
『――イザーク・ジュール、ディアッカ・エルスマン共著』
「「「えっ!?」」」
「それは俺が十三年前に、プラント最高評議会の要請で書き上げた論文そのものだーーーッ!! 書いた本人に向かって、その内容で論戦を挑むなど、片腹痛いわ! いいか、第二章の出生率に関するデータは、ディアッカの奴がサボりおったせいで統計処理が甘い! だが第三章の遺伝子最適化限界については、俺が徹底的にシュミレーションを重ねた絶対の真理だ! 貴様らが今更突っ込める隙など、微塵も存在せん! 出直してこい、この未熟者どもがーーーッ!!」
「キャーッ! 本人が書いたやつだったのー!?」
「ナツキ、計算が合わないと思ったら、ディアッカ叔父さんのせいでデータがガバガバだったのね!?」
「うわああ、また負けたーーー!」
三人はプライドを粉々に砕かれ、またしても泣きながら退散していった。
イザークはふぅと息を吐き、執事服の襟を正す。
「……フン、他人の書いた論文で俺に挑もうなどと、百年早い。おい、ディアッカ。いつまでそこに隠れている」
図書室の大きなソファーの影から、げっそりとやつれた男が顔を出した。
ディアッカ・エルスマンである。
彼はルース大公邸に滞在して以来、次女アマテラス(12歳)からの容赦のない『夜這い』の常習化により、完全に生気を吸い取られていた。
「……よぉ、イザーク。お前が執事になってくれて助かったよ。お前がその鉄壁の防衛線(モラル)を張ってくれてるおかげで、ここ数日、俺は夜まともに眠れて……」
「情けない声を出すな、ディアッカ! 貴様がしっかりせんから、あの12歳のガキに付け込まれるのだ! いいか、アマテラスの部屋の前に俺が直属の警備兵(※執事の権限)を配置した。夜間の外出は一切許可せん!」
「恩にきるぜ、相棒……。お前は俺の命の恩人だ……」
ディアッカの目にようやく生気が戻りつつあった。
しかし、その一方で、別の場所では凄まじい嵐が吹き荒れていた。
「……信じられないわ。あの新入り執事、何なの?」
大公邸の豪華な客室。
次女アマテラスは、母親(カテジナ)譲りの美しい顔を怒りで歪ませていた。
天真爛漫でありながら、その内面に潜む残虐性と行動力は母親そっくり。
12歳にして、大人顔負けのスタイルを誇る彼女は、お気に入りのディアッカの元へ忍び込めない欲求不満で爆発寸前だった。
「私の夜の楽しみを邪魔するなんて……。ディアッカ、最近やっといい顔になってきてたのに。全部あの銀髪のせいよ!」
「アマテラス、あなただけじゃないわ。私のシンへのアプローチも、あの男のせいで完全に阻まれているのよ」
そう言って部屋のソファーに深く腰掛け、不機嫌そうに爪を弄っているのは、長女のツクヨミ(13歳)だった。
彼女もまた、母親のカテジナに瓜二つの容姿と、13歳とは思えない発育の良いスタイルを持っていたが、その性格の苛烈さもまた一級品だった。
「シンを落とすために、私が用意した『特製・媚薬入り再教育プログラム』の書類を、あの男は『公序良俗に反する』の一言でシュレッダーにかけおったのよ……。おのれイザーク……!」
ツクヨミがギリ、と歯を鳴らす。
部屋には、上から六人の姉妹全員が集まっていた。ハルミ、ナツキ、アキネ、ユキも、イザークに知的敗北を喫した屈辱で顔を真っ赤にしている。
「お姉様、このままではルース七姉妹の威信に関わりますわ!」
「あの執事を、徹底的に叩きのめして、泣いて謝らせなきゃ気が済まない!」
「でも、普通に挑んでもあの男、頭が良すぎるし、戦闘力も高いわ。どうするの?」
ナツキが首を傾げると、五女のアキネが邪悪な笑みを浮かべた。
「ふふふ……お姉様方。搦め手(からめて)を使うのよ。あの男が、絶対に手を出せない『兵器』を使うの」
「兵器……?」
ツクヨミが眉をひそめる。
アキネがパチンと指を鳴らすと、部屋の奥から、トコトコと二人の小さな幼児が歩いてきた。一人は、七女のナナミ(2歳)。
キラ・ヤマトをそのまま女の子にしたような、信じられないほど優しく天使のような愛くるしさを持つ大公家の末娘。
そしてもう一人は、オーブから大公邸に住んでいる、カガリの娘・ヒナ(4歳)だった。
ヒナは過去の栄養失調による成長不良のせいで、4歳でありながら2歳程度にしか見えないほど小さく、儚げだった。
ルース七姉妹は、この不憫で可愛いヒナをそれはそれは可愛がっており、ナナミも「ひなねえちゃ!」と大層懐いていた。
「この二人を、イザークの前に送り込むのよ」
とアキネが囁く。
「イザークに対策会議の部屋へ突入させ、その瞬間に、この二人にこう言わせるの。『いざーく、お仕事ばっかりしないで、いっしょに遊ぼ?』って。あの堅物執事でも、2歳児二人にウルウルした目で見つめられたら、絶対に断れないわ! そこで時間を奪い、業務を滞らせ、執事としての失態を誘うのよ!」
「なるほど……!」
「完璧な作戦ね!」
「これならあの男も、論破なんてできないわ!」
姉たちが歓声をあげる。
ツクヨミも満足そうに頷いた。
「よし、作戦名『天使の抱擁(エンジェル・ハグ)』。ナナミ、ヒナ、あなたたちの可愛さで、あの生意気な執事を骨抜きにしておしまい!」
「あい!」
とナナミが元気よく手をあげる。
「ひな……がんばる……」
とヒナも小さく拳を握った。
よし、突撃よ!と姉たちが二人を先頭に、廊下へ出ようとしたその時――。
「――随分と楽しそうな作戦会議ね。お前たち」
氷点下の凍りつくような声が、背後から響いた。姉妹たちが恐る恐る振り返ると、そこには美しい金髪をなびかせ、圧倒的な女王の威厳を放つ女性が立っていた。
ルース大公家当主、カテジナ・ルース。
そしてその斜め後ろには、ノートとペンを持たされ、完全に小さくなっているオーブ領領主子爵当主、カガリ・ユラ・アスハの姿があった。
「「「お、お母様……!」」」
姉妹たちに戦慄が走る。
イザークには強気な彼女たちも、母親であるカテジナには絶対に逆らえない。
カテジナは冷たい目で娘たちを見下ろし、ため息をついた。
「ツクヨミ、アマテラス、ハルミ、ナツキ、アキネ、ユキ。あなたたちは、ルース大公家の名を冠しながら、その程度の浅知恵で動き回っているの? 恥を知りなさい」
「だ、だって、お母様! あのイザークとかいう執事が……!」
ユキが弁明しようとするが、カテジナの鋭い視線に射すくめられて言葉を失う。
「イザークは私が正式に雇った執事です。彼が規律を正しているのを邪魔するなど、言語道断。それに……ナナミとヒナをそんなくだらない権謀術数に巻き込むとは何事ですか」
カテジナはすたすたと歩み寄ると、ナナミとヒナを優しく抱き上げ、その後ろに控えるカガリを振り返った。
「見なさい、カガリ。これが教育を怠った子供たちの成れの果てよ。貴女も、自分の娘がこんな風に悪知恵の道具にされかかっているのを見て、何も思わないの?」
「う、うぐ……面目ない、カテジナ……。ヒナ、すまない、私が不甲斐ないばかりに……」
カガリはガタガタと震えながら、カテジナによる『領主教育初級編』の厳しさに涙目になっていた。
カガリ自身、現在カテジナから『淑女教育初級編』を徹底的に叩き込まれている最中であり、逆らう余地など1ミリもないのだ。
カテジナは娘たちに向き直ると、冷酷な笑みを浮かべた。
「上6人、全員並びなさい。イザークの手を煩わせるまでもないわ。今日からあなたたちには、私が直々に『ルース家帝王学・地獄の居残り補習』を課します。全員、私の部屋へ来なさい」
「「「「「「そんなぁぁぁぁぁ!!」」」」」」
姉妹たちの悲鳴が響き渡る中、彼女たちはカテジナによって芋蔓式に連行されていった。
これによって、イザークへの復讐計画は完全に頓挫したのだった。
一方、その頃。
大公邸の地下、および隔離された再教育施設エリアでは。
「はぁ……はぁ……。助かった……。本当に助かった……」
オーブの捕虜一行と共に『再教育』を受けている最中のシン・アスカは、ベッドに倒れ込みながら、涙を流して天井を見上げていた。
普段なら、この時間帯にはツクヨミ(13歳)が
「シン、今日も私のために頑張ってくれるわよね?」
と、母親譲りの妖艶な笑みを浮かべて、13歳とは思えない発育の良い体で肉薄してきたり、過激な再教育プログラムを押し付けてきたりする恐怖の時間だった。
しかし、今日はそれが一切ない。静寂だけがそこにあった。
「ジュール隊長が……イザークさんが執事になって、ツクヨミ様の書類を全部没収してくれたって本当か……? 隊長……あんたって人は、戦場だけじゃなく、こんな地獄でも俺の隊長だ……! 一生付いていきます……!」
シンは心からの感謝を胸に、数ヶ月ぶりに訪れた安眠のひとときを噛み締めていた。
翌朝。
執事室にて、イザークは完璧に淹れられた紅茶を口に運んでいた。
そこへ、げっそりとやつれ、目の下にクマを作ったメイリンが入ってくる。
彼女の手には、完全に空になった胃薬の瓶が握られていた。
「イザークさん……おはようございます……。昨日、カテジナ様のおかげで姉妹たちの襲撃は収まりましたけど……私の精神的ストレスは限界です……。胃薬、買ってきていいですか……?」
イザークはカップを置くと、フンと鼻を鳴らし、制服のポケットから一袋の錠剤を取り出してメイリンの机に放り投げた。
「おい、これを使え」
「え……? これって、プラントの軍用特製胃腸薬……? 市販のやつの5倍効くっていう……!」
「貴様が倒れられては、この邸宅の事務が滞るからな。成るからには容赦はしないと言ったが、部下の管理も執事の仕事だ」
ツンとした態度崩さぬまま、そう言い放つイザークを見て、メイリンは「あ、意外と優しい……」と少しだけ救われた気持ちになった。
しかし、イザークの目はすでに次の『業務』へと向いていた。
「さて、今日の予定は……午前中にツクヨミ様の行動監視、午後はアマテラス様のディアッカへの接触妨害、そしてカガリの淑女教育の進捗チェックか。……よし、ルース大公邸の風紀が完全に正されるまで、俺の辞書に妥協という文字はない! 行くぞ、メイリン!」
「あ、はい……!(やっぱりこの人、執事になってもジュール隊長そのままだなぁ……)」
こうして、完璧すぎる執事イザーク・ジュールによる、ルース大公邸の恐怖(?)と規律の支配は、今日も容赦なく続いていくのであった。