ザンスカール帝国のディストピア〜カテジナ・ルースの女王の系譜〜 作:ロドニー
「ふぅ……。この国の礼法というのは、砂漠の砂をすべて数え上げろと言われているようなものだな」
オーブ連合首長国、元代表首長カガリ・ユラ・アスハは、重厚なマホガニーの机に向かって深いため息をついた。
かつて獅子の娘と呼ばれ、戦火の中でさえ毅然としていた彼女も、いまや見慣れぬ格式張ったドレスに身を包み、ザンスカール帝国の『淑女の嗜み』という名の拷問に頭を悩ませている。
窓の外を見れば、美しく整えられたルース大公家の庭園が広がっていた。
そこでは、カガリの4歳になる一人娘、ヒナが、カテジナの2歳になる七女ナナミと並んで、楽しそうに花を摘んでいる。
ナナミは夫であるキラをそのまま女の子にしたような、信じられないほど優しい目元をしていた。
それでいて、幼いながらに周囲の空間をすべて把握しているかのような、恐るべきニュータイプの片鱗を覗かせる。
「本当、天使のようね。ヒナもナナミちゃんも。あの二人が並んでいるところだけは、この世の地獄のオアシスだわ」
カガリの傍らで、同じく慣れない侍女の制服を着たマリュー・ラミアスが、紅茶を淹れながら優しく微笑んだ。そのマリューの手も、一月前までの極限状態の飢えに比べれば、ずいぶんと肉付きが戻っている。
オーブは、ザンスカール帝国による3年間に及ぶ海上・軌道上封鎖という非情な兵糧攻めに遭い、飢餓の限界を迎えて無条件降伏した。
アークエンジェル、エターナル、ミネルバの乗員たち、そしてアスランやイザーク、シン、レイといった主要メンバーの全員が、餓死寸前の状態で捕虜となったのだ。
本来なら、国家元首であるカガリをはじめとする全員が、女王マリアの提唱する『地球クリーン作戦』の象徴としてギロチン刑に処されるはずだった。
それを覆したのが、ルース大公家の当主、カテジナ・ルース中将。
そして、その夫となったキラ・ルース――旧姓キラ・ヤマトの存在だった。
キラは十三年前、メサイヤ要塞戦でカテジナに捕虜とされ、ギロチン刑の代わりに『公開種付け』という名の凌辱刑を受け、そのまま彼女の夫としてルース家に組み込まれた。
一時は絶望で瞳から光を失っていたキラだったが、長女ツクヨミと次女アマテラスが新型モビルスーツ『ドッゴーラⅡ』の専属パイロットとしてロールアウトした報を聞いた瞬間、何かが吹っ切れた。
カテジナの狂気を受け継ぎ、彼女に瓜二つで育っていく娘たちへの恐怖が、極限状態で精神の崩壊と反転を引き起こしたのだ。
結果、キラの瞳には眩いばかりの光が戻り、今や妻であるカテジナを盲愛し、娘たちを溺愛する完璧な『スパダリ』へと変貌を遂げていた。
カテジナの方がむしろ、その甘すぎるキラの寵愛に耐性がなく、毎度少女のように悶える羽目になっているというのだから、世の中の因果は分からない。
カガリがキラの唯一の肉親(双子の姉)であったこと。
そして、キラの姉を処刑すれば、ザンスカール帝国内で第二位の発言力を持つルース大公家の政治的地位を揺るがしかねないという政治的判断から、カガリたちは命を救われた。
オーブの主要メンバーは全員、本来なら領地を持たないはずのルース大公家が強引に毟り取って私領とした子爵領へと組み込まれ、ルース家の私兵となるか、使用人として仕えるかの二択を迫られたのだ。
「まったく、キラのやつ、すっかりあの大公家の『飼い犬』になりおって……いや、犬どころか、今やあの狂気のルース家を裏から支配しているような新種の怪物だな。あの変わり果てた溺愛っぷりは、姉として見ていて背筋が寒くなるぞ」
「あら、でもキラ君がカテジナ様をあそこまで骨抜きにしてくれているからこそ、私たちがこうして生きていられるのよ、カガリ」
マリューが苦笑していると、応接室の扉がドォン!と凄まじい音を立てて開いた。
入ってきたのは、仕立ての良い執事服を完璧に着こなしたイザーク・ジュールだった。
だが、その美しい銀髪は乱れ、端正な顔はこれ以上ないほどに引きつっている。後ろからは、胃薬の瓶を抱えたメイリン・ホークが、今にも泣き出しそうな顔でついてきていた。
「おい、イザーク! 執事の仕事はどうしたんだ? ずいぶんと酷い顔だぞ」
カガリが声をかけると、イザークは机に両手を叩きつけ、血管を浮かび上がらせて怒鳴った。
「黙れ、カガリ! 貴様、他人事だと思って気楽に言いやがって! あのルース家の『化け物七姉妹』どもが、どれだけ常軌を逸しているか分かっているのか! 特に次女のアマテラスだ! あのガキ、まだ十二歳のくせに、今度は何を血迷ったかディアッカの部屋に夜這いを仕掛けおった!!」
「よ、夜這い……!? アマテラスちゃんがディアッカに!?」
マリューが思わずティーカップを落としそうになる。
メイリンが青ざめた顔で補足した。
「そうなんです……! アマテラス様は、お母様譲りの圧倒的なスタイルと天真爛漫さを持ちながら、その裏にとんでもない残虐性と計算高さを隠し持っていらして……。ディアッカさんに一目惚れしたとかで、『既成事実を作ってできちゃった婚を狙うのが一番確実ですわ!』って、毎晩のように警備を潜り抜けて襲撃しているんです! ディアッカさんも毎晩寝不足で、泣きながら天井の隅で震えてるんですよ!」
「あ、あいつ、あのディアッカをそこまで追い詰めるとは……」
「それだけではない!」
イザークは自身のこめかみを指で突きながら、さらに声を荒らげる。
「長女のツクヨミ(十三歳)はカテジナに生き写しの容姿と性格で、あろうことかシン・アスカをロックオンしやがった! 『シン、お前は今日から私の婿だ。異論は認めん』と、あのドッゴーラⅡの火力を背景に全力攻勢をかけている! シンは毎日、レイの背中に隠れて『レイ、助けてくれ! あの女、目が笑ってないんだ!』と絶叫しているぞ!」
「シン……可哀想に。あいつ、ルナマリアを奪われたショックからまだ立ち直っていないというのに」
カガリは同情の混じったため息をついた。
そう、シンの恋人であったルナマリア・ホークは、3年前にアマテラスが駆る『ドッゴーラⅡ』単機によるオーブ領海への強行偵察の際、あっけなく撃墜されて捕虜となっていた。
その際、アマテラスに弱みを握られた叔父のクロノクル・アシャーが、なぜか「お嫁さん候補」としてルナマリアを押し付けられる形になり、なんと今ではクロノクル皇太子と正式に結婚して、帝国の『皇太子妃』の座に収まっているという。
運命の皮肉にも程がある。
「さらにだ!」
イザークの愚痴は止まらない。
「七歳になる三女ハルミと四女ナツキの双子、そして六歳になる五女アキネと六六ユキの双子! あの幼女4人組が、寄ってたかって私に軍事、経済、果ては量子力学の専門知識での『知識の暴力』を仕掛けてきおる! 一言でも論理的破綻を見せれば、『まぁ、ジュール執事はそんなことも知らないのですか? オーブの軍神(笑)とは呆れた名前ですね』と冷笑を浮かべるのだ! 私は毎日のように、あのクソガキどもを知識と実力で論破して、全力で泣かせて撃退してやっているが、精神的疲弊が半端ではない!!」
「イ、イザークさん、お願いですからお嬢様方を泣かせるのはほどほどにしてください……!」
メイリンが胃を押さえながら懇願する。
「ツッコミ役が私一人じゃ全然足りないんです! だからイザークさんを必死で説得して執事に誘ったのに、イザークさんまで全力で応戦するから、大公邸の廊下が毎日戦場みたいになってるんですよぉ!」
「フン、ジュール家の男は何事においても全力だ! 相手が幼児だろうが容赦はせん!」
イザークがフンスと鼻を鳴らしたその時、応接室の重厚な扉が再び、今度は静かに、しかし絶対的な威圧感を持って開かれた。
「あらあら、ずいぶんと賑やかですこと。ジュール執事、あまり娘たちを苛めないでもらえるかしら? 私の可愛いお腹の赤ちゃんに響いたらどうするの?」
現れたのは、大きくなったお腹を愛おしそうに撫でる女性――ルース大公家当主、カテジナ・ルース中将であった。
現在、八女を妊娠六ヶ月。
その美貌には母性的な優しさが加わっているように見えるが、放たれるオーラはかつて地球を恐怖に陥れた戦士そのものである。
そしてそのすぐ後ろには、影のように付き従う一人の男の姿があった。キラ・ルース大佐。
かつてのオーブの最高戦力であり、自由の翼と呼ばれた男。
今の彼は、体に完全にフィットした高級な技士服を纏い、その瞳には冷徹なまでに澄み切った、しかし狂気的なまでの『光』を宿している。
「カ、カテジナ……。それに、キラ」
カガリが身構える。キラはカガリを一瞥すると、ふっと、完璧なまでに美しい、しかしどこか人間味を欠いた微笑を浮かべた。
「やあ、カガリ。ルース大公家での『淑女教育』は順調かい? 君は昔からガサツだったから、カテジナの提唱する完璧な礼法を身につけるには、少し時間がかかるかもしれないね。でも、心配しなくていい。僕の姉として、恥ずかしくないだけの教育プログラムは僕がすべて構築し直してあるから」
「き、キラ……お前、本当にすっかり変わっちまって……」
カガリが戦慄する。
かつての優しく気弱だった弟の面影はそこにはない。
今のキラは、カテジナという絶対的な太陽の周りを回る、冷徹で完璧な守護星だった。
「変わってなどいないさ。僕はただ、自分の進むべき道と、愛すべき存在に気づいただけだよ。ねえ、カテジナ?」
キラはそう言うと、カテジナの腰にそっと手を回し、その耳元で極めて甘い、とろけるような低音で囁いた。
「今日もとても綺麗だ、カテジナ。お腹の子も、きっと君に似て美しい女の子になる。僕の技術のすべてを注いで、次の娘のためにも最高最強の『ドッゴーラⅢ』を開発してみせるよ。だから、あまり怒って自分の体をいじめちゃ駄目だ。僕の愛しい女王(マリア)……いや、僕だけのカテジナ」
「ひゃ、ゃ、ぁ……っ!? き、キラ……ッ!?」
先ほどまで冷酷な大公家当主の顔をしていたカテジナが、キラに囁かれた瞬間、顔を真っ赤に染めて身を震わせた。
彼女は完全に耐性を失った初な少女のように、内股になりながら両手で顔を覆う。
「な、何を言っているのよ、みんなの前で……! 私は当主よ!? 中将なのよ!? も、悶えさせないでちょうだい……っ! ああ、もう、キラのバカ……ッ!」
「バカでいいさ。君を愛しているからね」
キラはクスリと笑うと、カテジナの手を取ってその甲に深くキスを落とした。
その視線は熱烈で、カテジナは完全に「ひうっ……」と声を漏らしてメロメロになっている。
((((こ、このスパダリ、本当にタチが悪い……!!))))
カガリ、マリュー、イザーク、メイリンの4人の心が完全に一つになった瞬間だった。
キラのこの「妻限定」の超絶甘々モードは、かつて彼を監禁し精神的に追い詰めたカテジナへの、最大にして最強の復讐(あるいは究極の純愛)として機能していた。
カテジナはキラの愛に溺れ、今や彼なしでは公務もままならないほどに依存してしまっているのだ。
「……コホン。失礼したわ」
カテジナは数分かけてどうにか息を整え、頬を赤らめたまま、いつもの凛とした表情(を作ろうとした顔)に戻った。
「カガリ。あなたがこの家で学ぶべきは、ただの礼儀作法ではないわ。オーブという寄る辺を失ったあなたたちが、このザンスカールという巨大な帝国の歯車の中で、いかにしてルース大公家の『身内』として生き残るか。その処世術を叩き込んでいるのよ。感謝なさい」
「あ、ああ……。分かっている。ギロチンにかけられるはずだった命だ。私一人のプライドなど、とうに捨てているさ。だが、アスランたちは……私兵部隊に入った者たちは、本当に大丈夫なのか?」
カガリの問いに、キラが冷淡に応じた。
「アスランたちのことなら心配いらないよ、カガリ。彼らは元々優秀な軍人だ。ルース家の私兵として、帝国内の他の公爵家――特にあのグリフォン公爵家や、宰相ドガッチ侯爵家への『牽制』として、非常に有効に機能している。アスランは今、僕が調整した専用機に乗って、帝国の国境付近で張り切って任務をこなしているよ。僕の監視下にある限り、彼らが無駄な死に方をすることはない」
「お前が、アスランの機体を調整したのか……?」
「当然さ。僕の設計した機体でなければ、僕の家族を守るための盾にはなり得ないからね。あ、そうそう、シン・アスカだけど」
キラは少しだけ楽しそうに目を細めた。
「ツクヨミがどうしても彼を婿に迎えたいと言って聞かなくてね。今日の夜、大公邸の晩餐会にシンも出席させるように手配した。カテジナに瓜二つのツクヨミに詰め寄られて、彼がどんな顔をするか、今から本当に楽しみだよ」
「キラ、お前……悪趣味が過ぎるぞ!」
イザークが怒鳴る。
「あのガキは十三歳だぞ! シンを婿にするなど、早すぎるわ!」
「ジュール執事、ルース家においては、当主の娘の言葉は絶対よ」
カテジナが冷然と言い放つ。
「ツクヨミが望むなら、アスカ少尉はそれに応えるのが義務。それに、あの子は母親の私に似て、狙った獲物は絶対に逃がさないわ。ルナマリアをクロノクルに奪われて心に穴が空いているのなら、我が娘がその穴を『力技』で埋めてあげるのが情けというものでしょう?」
「力技ってレベルじゃねぇだろ……! モビルスーツの火力で脅す求婚がどこにある!」
イザークの正論も、この夫婦の前では暖簾に腕押しであった。
その時、庭の方から「きゃあ、待って、ナナミちゃん!」というヒナの愛らしい声が聞こえてきた。
窓の外を見ると、2歳のナナミが、ヒナの手を引いて庭の茂みの奥へとトコトコと歩いていく姿が見えた。
ナナミの周囲には、まるで目に見えない光の粒子が舞っているかのような、独特のプレッシャー(しかし極めて心地よいもの)が漂っている。
「……ナナミのニュータイプ能力は、姉たちの中でも群を抜いているわ」
カテジナが誇らしげに窓の外を見つめた。
「あの子はまだ2歳にして、周囲の『悪意』や『敵意』を完全に察知する。ヒナちゃんがこの屋敷で安全にいられるのも、ナナミがあの子を『お気に入り』として保護下に置いているからよ。カガリ、あなたの子は運がいいわね。ルース家の庇護を得られたのだから」
「……ナナミちゃんには感謝している。ヒナも、ナナミちゃんといる時が一番楽しそうだ」
カガリは複雑な表情ながらも、娘の安全が保障されていることに安堵の息をもらした。
ザンスカール帝国という、ギロチンが街を闊歩する狂気の国家において、ルース大公家の内懐に囲い込まれることは、最大の屈辱でありながら、同時にこれ以上ない絶対の安全圏でもあった。
「さて、ジュール執事、ホーク侍女」カテジナが鋭い視線を二人に向けた。
「そろそろアマテラスが、ディアッカ少佐の部屋への『昼の強襲作戦』を企てている時間よ。アマテラスは天真爛漫な顔をして、中将である私の権限を偽造して部屋のロックを解除する知識を持っているわ。あなたたち、早く行って止めなさい。ディアッカ少佐の胃が完全に破壊される前にね」
「な、何だと!? あのガキ、昼夜を問わず襲撃する気か!?」
「ひぃぃっ! 急ぎましょうイザークさん! またディアッカさんが半泣きで通信してきますっ!」
イザークとメイリンは、慌てて応接室を飛び出していった。
廊下からは「待て、アマテラス! ジュール執事が相手をしてやる!」というイザークの怒鳴り声と、「いやぁん、ジュール執事、お邪魔虫はギロチンで行刑ですわよ~!」という、十二歳とは思えない艶然とした少女の高笑いが響いてきた。
「本当に、賑やかな家族だね」キラは満足そうに微笑みながら、カテジナの肩をそっと抱き寄せた。
「カガリ、マリューさん。オーブは滅びたかもしれないけれど、君たちの命と未来は、僕がこのルース大公家の中で完全に保障する。だから、安心してこの新しい世界に馴染んでおくれ」
「キラ……」
カガリは、優しく、しかし絶対的な支配の目を向けてくる弟を見つめ返した。
この歪んだ愛と狂気に満ちたルース大公家で、自分たちは生きていく。
かつての理念も、国家も失った。
だが、目の前で笑う娘の未来のために、そしてこの狂った世界で「スパダリ」として君臨する弟の行く末を見届けるために、カガリ・ユラ・アスハは、静かに覚悟を固めるのだった。
「……分かったよ、キラ。お前の作ったプログラムだ、徹底的に付き合ってやろうじゃないか」
カガリの言葉に、キラは今日一番の、かつての少年時代のような、本当に嬉しそうな笑顔を浮かべるのだった。
あの日から、ちょうど一月が経った。ガラスの向こうに広がるのは、かつてのコズミック・イラの象徴でも、燃え盛る大気圏の狭間でもない。
ザンスカール帝国の首都ラステニア――その一角に聳え立つ、ルース大公邸の豪奢な中庭だった。
美しく整えられた庭園には、地球では見られない色彩の人工植物が咲き乱れ、上空には巨大なコロニーの天井が果てしなく続いている。
「……マリュー、お茶の準備は済んだ?」
背後からかけられた声に、マリュー・ラミアスは我に返った。
振り返ると、そこには自分と同じく、大公家の見習い侍女の制服に身を包んだ女性が立っていた。
タリア・グラディス。
かつてザフトの最新鋭艦ミネルバを駆り、アークエンジェルと死闘を繰り広げた不世出の女性艦長。
今や、彼女も自分と同じ「亡国の人形」の一人に過ぎない。
「ええ、タリア。今、カテジナ様の分を淹れ終えたところよ」
「そう。相変わらず手際が良いわね、元大尉。……いいえ、今は見習い侍女だったわね」
タリアは自嘲気味に微笑み、トレイに載せられた磁器のカップを見つめた。
その眼差しには、隠しきれない疲労と、それ以上の諦念が滲んでいる。
オーブ連合首長国は、滅びた。
それも、華々しい艦隊戦の果てに散ったのではない。
徹底されたインフラ破壊、完全に構築された海上封鎖、そして宇宙からの軌道上封鎖。
物流を、エネルギーを、生命線を完全に断たれたオーブは、ただじわじわと飢え、干からびていった。
かつて「理念」を掲げて戦った国家が、最後は一切の条件を付けられず、ザンスカール帝国に対して無条件降伏を宣言するしかなかった。
あの誇り高きカガリ・ユラ・アスハが、民の飢餓を前に涙を流して署名した光景が、今もマリューの脳裏に焼き付いて離れない。
「一月前が、まるで遠い昔のようね」
マリューが小さく呟くと、タリアはふっと視線を落とした。
「始まりは……十三年前の、あのメサイヤ要塞戦だった。私たちが、本当の意味で未来を見誤ったあの日よ」
十三年前。
連合とザフトの死闘が極限に達していたあの戦場。
突如として虚空から現れた、見慣れぬ識別信号を放つ巨大な艦隊。
それが、サイド2で密かに勢力を拡大していた「ザンスカール帝国」の先遣隊だった。
戦場に漂う異様な殺気と、異質なテクノロジー。
アークエンジェルを駆っていたマリューは、本能的な恐怖を覚えた。
このまま狂気の泥仕合を続けていれば、あの未知の軍勢に全てを喰い尽くされる。
そう直感したマリューは、国家の枠組みを超え、即座に撤退を決断した。
だが、地獄はそこから始まったのだ。
「キラ・ヤマトのストライクフリーダム……。あの最強と呼ばれた機体が、まさかあんな風に墜とされるなんて、誰が想像できたかしら」
マリューの手が、かすかに震える。殿を務めたキラの前に立ち塞がったのは、カテジナ・ルースが駆る、異形の巨大モビルスーツ『ドッゴーラ改』だった。
コズミック・イラの常識を嘲笑うかのような多節型の挙動と、ミノフスキー粒子による通信・レーダー障害。精神的にも肉体的にも限界を迎えていたキラは、その圧倒的な蹂躙の前に敗北し、生きたまま捕虜となった。
そして、悲劇は連鎖する。
エターナル、クサナギ、そしてアークエンジェルを追撃していたミネルバ。
しかし、世界そのものがザンスカールという巨大な嵐に呑み込まれていく中で、ミネルバは帰るべきプラントの本国を失った。
屈辱に塗れながらオーブへと逃げ帰ったタリアたちは、ただ拠点を失った敗残兵として、その身を寄せるしかなかった。
「……あのジャック放送を、あなたも見ていたでしょう」
タリアの声が、一段と低くなる。
マリューは答える代わりに、きつく唇を噛み締めた。
忘れるはずがない。
全世界の電波をハイジャックして流された、あの狂気と屈辱の映像。
マリア女王の口から厳かに宣言された、キラ・ヤマトへのギロチン刑。
しかし、本当の絶望はその後だった。
画面に映し出されたのは、スーパーコーディネーターとしての遺伝子を欲し、狂気に狂ったカテジナの暴走だった。
全裸の状態でギロチン台に厳重に拘束された、傷だらけのキラ。
その上に、自らも一物の衣服も纏わぬ全裸となったカテジナが跨り、衆人環視の中で彼の身体を性的に貪り尽くしたのだ。
それは処刑前の儀式などという生易しいものではない。
最強の戦士を徹底的に貶め、陵辱し、自らの苗床とするための「公開種付け」という名の、あまりにも凄惨な公開処刑、あるいは儀式であった。
絶叫するキラの尊厳は粉々に砕かれ、彼は死を許されることすらなく、カテジナの「夫」としてザンスカールに幽閉されることとなった。
世界は、その圧倒的な恐怖と、倫理の崩壊に平伏した。それから、十年の月日が流れた。
オーブは生き残るため、なりふり構わず牙を研いだ。
鹵獲したザンスカールの主力機『ゾロアット』の熱核反応炉を徹底的に解析し、その動力を違法にコピーして、最新鋭機『ゲルググメナース』へと搭載したのだ。
ついにロールアウトの日を迎えた時、マリューたちも「これでザンスカールに対抗できるかもしれない」と、微かな希望を抱いた。
だが、その希望は一瞬で絶望へと叩き落とされた。
突如としてオーブ近海に現れた、全長八百メートル級の化け物モビルアーマー。
その圧倒的な巨体と、こちらの兵器を赤子のように扱う戦闘力の前に、最新鋭のはずだったゲルググメナースは一瞬で撃破された。
テストパイロットだったルナマリア・ホークは、抵抗の術もなく、その機体ごと連鎖的に連れ去られた。
「あのモビルアーマーが現れてから、全てが加速したわね。ミノフスキー粒子の完全散布によるレーダーの無効化。そして、一歩も外に出さないための海上・軌道上封鎖……」
インフラを完全に破壊され、電力が底を突いたオーブ。
国家の崩壊を防ぐため、カガリが決断した対抗策は、あまりにも残酷なものだった。
エターナル、クサナギ、アークエンジェル。
数々の戦場を切り抜けてきた奇跡の戦艦たちの武装を全て解体し、街に電力を供給するための「固定発電所」へと改造したのだ。
それは、実質的な強制退役だった。
かつての英雄たちが、ただの鉄の箱として大地に縫い付けられる。
その屈辱に、マリューの心は死んだも同然だった。
ただ、ミネルバだけは「いざという時の保険」として、武装を残したまま極秘裏に温存されたが、それも長引く飢餓の前には何の役にも立たなかった。
「……メイリンがオーブを出たのも、そのすぐ後だったわね」
「ええ。一年後、まさか連れ去られたルナマリアが生存していて、あろうことかザンスカールのクロノクル皇太子と婚約したなんてニュースが飛び込んでくるなんて、誰も信じられなかった。メイリンは、姉の真意を確かめたい一心だったのよ」
ディアッカ・エルスマンの手を借り、ザンスカールへと密航したメイリン。
しかし、飢餓と疑心暗鬼に駆られていた当時のオーブ政府は、それを「機密保持のための亡命」と見なし、二人に対して即座に国際指名手配を下した。
帰る場所を失った二人は、結果として本当にザンスカールへと亡命せざるを得なくなったのだ。
そして、訪れたのが――女王マリアからの最終勧告。
拒絶すれば、オーブの全土を灰にするという、冷徹な最後通牒。
無条件降伏を受け入れたマリューたちに、大公家当主となったカテジナから告げられた選択肢は、あまりにもシンプルで、拒絶の余地などないものだった。
『ルース大公家の私兵部隊に入るか。それとも、侍女か執事として私の足元に傅くか。選びなさい、元英雄たち』
「……クスクス、相変わらず陰気な顔をしてるわね、お二人さん」
不意に、休憩室の自動ドアが開き、聞き覚えのある声が響いた。
入ってきたのは、二人と同じ侍女の制服を着た少女――いや、今は「先輩」としての威厳を纏った、メイリン・ホークだった。
彼女はかつての気弱なオペレーターの面影を残しつつも、その瞳には冷徹なまでの落ち着きが宿っている。
現在は、ルース大公家の長女の秘書官兼侍女という、使用人の中でも破格の地位に就いていた。
「メイリン。……長女様のお仕事は終わったの?」
マリューが尋ねると、メイリンはトレイから自分の分のハーブティーを勝手に手に取り、ソファに深く腰掛けた。
「ええ、一区切りついたところ。……それより聞いた? イザークさんの噂」
「イザーク? あのイザーク・ジュールが、どうかしたの?」
タリアが眉をひそめる。
かつてザフトの精鋭であり、プライドの塊のような男だった彼も、今は大公家で「執事」として働いている。
「カテジナ様の娘たち……例の『ルース七姉妹』がね、また悪戯を仕掛けたらしいのよ。でも、イザークさんったら、あの苛烈な性格はそのままに、完璧な執事としての知識と圧倒的な実力で、彼女たちのやらかしを完璧に論破して、最後には全員泣かせちゃったんですって。今じゃ、お嬢様たちもイザークさんの前では借りてきた猫みたいに大人しいわよ」
「ふふ、彼らしいわね。どこに行っても、あのプライドと生真面目さは崩れないということかしら」
タリアが小さく笑う。
その光景を想像するだけで、ほんの少しだけ、張り詰めた空気が和らぐのを感じた。
だが、メイリンの表情はすぐに真剣なものへと変わった。
彼女はカップをテーブルに置くと、声を潜めてマリューたちを見つめた。
「……さっき、カテジナ様が休憩室の近くまで来られているわ。私、直接お話を伺ったの」
「カテジナ様が? 何を……?」
「姉の……ルナマリアのこと。彼女、第一子となる皇女を妊娠したって」
マリューとタリアの息が止まる。
ルナマリア・ホークが、クロノクル皇太子の子供を身ごもった。
それは、ホーク家、そしてかつてのオーブやザフトの血脈が、ザンスカール帝国の皇室に完全に組み込まれたことを意味していた。
「カテジナ様はね、これを機に、私を当主として、大公家の寄子となる『ホーク侯爵家』を新設しようと画策されているわ。私を貴族にして、ザンスカールの新体制の基盤にするつもりなのよ」
「メイリン、あなたは……それを破談にするつもりはないの?」
タリアの問いに、メイリンは静かに首を振った。
「ありません。カテジナ様は、狂気に狂っただけの人じゃない。……今、彼女はマリア女王、そしてクロノクル皇太子と共に、帝国内部で巨大な『反カガチ派閥』を形成しているわ。あの悪名高いフォンセ・カガチ宰相を失脚させるために」
マリューは言葉を失った。
カテジナ・ルース。
かつてキラを陵辱し、オーブを絶望に突き落とした張本人。
しかし、彼女が目指しているのは、ただの破壊ではなかった。
「カテジナ様たちの目的は、新体制の確立。私にこう言ったわ。『ギロチン刑なんていう野蛮な見せしめは、私の代で終わりにする。ナチュラルもコーディネーターも関係ない。すべての争いを禁止する【人類平等法】を制定する』って」
「人類、平等法……」
マリューはその言葉を繰り返した。
それは、かつて地球連合もプラントも、そしてオーブすらも成し遂げられなかった、絶対的な平和へのアプローチだった。
それを、恐怖政治の代名詞であるザンスカールの中心で、あのカテジナが推し進めているという矛盾。
「カガチを排除すれば、次に台頭してくるのは木星圏のドガッチ家……。カテジナ様は『あの狂人どもに、宇宙の覇権を握らせる気は毛頭ない』って、不敵に笑っていらしたわ」
パチパチ、と静かな拍手の音が響いた。
休憩室のドアが再び開き、そこには豪奢なドレスを纏った、圧倒的な存在感を放つ女性が立っていた。
カテジナ・ルース。ルース大公家当主であり、かつて世界を震撼させた女。
「よく勉強しているじゃない、メイリン。私の秘書官としては、合格点をあげてもいいわね」
「カテジナ様……!」
マリューとタリアは、咄嗟に立ち上がり、深く頭を下げてスカートの裾を持ち上げた。
見習い侍女としての、完璧な礼。
カテジナは愉しげに目を細め、二人の前へと歩み寄った。
その足音が、絨毯に沈む。
「頭を上げなさい、マリュー。そしてタリア。貴女たちのような優秀な女性に、いつまでもそんな不似合いなエプロンを着せておくのは、国家の損失だわ」
「……それは、どういう意味でしょうか」
マリューが顔を上げ、カテジナの琥珀色の瞳を見つめ返した。カテジナの唇が、妖艶に歪む。
「木星圏で、いずれ大きな争いが起きる。ドガッチの残党どもは、必ずこの地球圏へ牙を剥くわ。……現在、アンドリュー・バルトフェルドが、我が帝国の新型戦艦のネームシップで、極秘裏に習熟訓練を行っているのは知っているかしら?」
「バルトフェルドさんが……?」
初耳だった。
あの「砂漠の虎」までもが、すでにザンスカールの軍籍に身を置いている。
「ええ。彼には前線での指揮を執ってもらうわ。……そして、マリュー・ラミアス。タリア・グラディス。貴女たちに侍女をさせていたのは、私のちょっとした意地悪と、身元の安全を確保するためのカモフラージュよ。本題はここから」
カテジナは、机の上に三つのデータチップを滑らせた。
「ザンスカール帝国開発局が、持てる技術の粋を集めて建造した、最新鋭新型戦艦が三隻あるわ。……悪いのだけれど、貴女たちには侍女を辞めてもらう。そして、その新型戦艦の艦長に就任してもらうわ」
「私たちが……ザンスカールの、艦長に?」
タリアが絶句する。
「拒否権は?」
マリューの問いに、カテジナは声を立てて笑った。
それはかつての狂気の色を帯びながらも、確固たる未来を見据えた、冷徹な統治者の笑みだった。
「あるわけがないでしょう? 貴女たちの愛したオーブの民を、二度と飢えさせないための条件よ。……それに、木星の狂人どもを駆逐し、真の人類平等法を敷くためには、貴女たちの『不殺』や『戦術』の力がどうしても必要なの。……さあ、選ぶ時間はあげないわ。私の軍門に下り、今度こそ本当の平和をその手で掴みなさい、元英雄たち」
窓の外、人工の太陽がゆっくりと陰り始め、疑似的な夜が訪れようとしていた。
マリューは手の中のデータチップを見つめ、そして隣のタリアと視線を交わした。
生き残るため、そして、守るべきもののために。
彼女たちは、ザンスカールという巨大な軛を受け入れ、新たなる戦場へと赴く決意を固めるしかなかった。