ザンスカール帝国のディストピア〜カテジナ・ルースの女王の系譜〜 作:ロドニー
オーブがザンスカール帝国に無条件降伏してから、早くも三ヶ月の月日が流れていた。
コズミック・イラ(C.E.)の世界にザンスカール帝国という異物が文字通り「乱入」し、世界秩序を塗り替えてから十三年。
かつて宇宙世紀という名の世界でリガ・ミリティアに敗北し、光を失い、雪の中で孤独に死んでいくはずだった私――カテジナ・ルースは、なぜかこの世界で若き日の姿のまま命を吹き返した。
いまや私はザンスカール帝国の開発局局長であり、階級は中将。そして、かつて「オーブの不沈戦艦」とまで謳われた大天使の同胞でありながら、巡り巡って我が夫となったキラ・ルース(旧姓キラ・ヤマト。現在は開発局局長側付き技士の大佐である)の妻でもあった。
さらに言えば、私の腹には八番目の子供、つまり八女が宿っており、すでに妊娠八ヶ月。
普通であれば、帝国の重鎮として、また一人の母親として、何事にも動じない威厳を保つべき立場にいる。
だが。
いま、カテジナ・ルース大公邸の応接室で、私は自分自身の身体が目に見えてガタガタと震えているのを止めることができなかった。
「……カテジナ様? いかがなされましたか。お顔色が紙のように真っ白です。……キラ大佐、何かおいたわしい病気の前兆では?」
怪訝そうな声をあげたのは、長女ツクヨミの専属秘書官であり、現在は我が家の侍女も兼ねているメイリン・ホークだった。
彼女はこの世界における常識人であり、実務能力に長けた苦労人だ。
私のあまりの怯えように、本気で心配しているらしい。
「病気なものか。おい、キラ。貴様、局長に無理な開発案件でも押し付けたのではないだろうな? ただでさえ臨月の近い妊婦だぞ。それとも、私の淹れた茶が不満とでも言うのか、カテジナ中将」
低い、だが酷くよく通る声で、私の背後からそう告げたのは、我がルース家の七人の娘たちをその知識と実力(主に苛烈なまでの説教と完璧な作法)で泣かし続けている執事、イザーク・ジュールだった。
元ザフトの白服だというのに、どういう因果か今は我が家で執事服を着て平然と控えている。
「ち、違うのよ、イザーク、メイリン……。そういうことでは、なくて……っ」
私は歯の根が合わないまま、隣に座る夫、キラの袖をきつく掴んだ。
キラは穏やかな、しかしどこかすべてを悟ったような複雑な表情で、私の背中を優しく撫でてくれている。
「大丈夫だよ、カテジナ。僕が隣にいるから。でも……君がここまで怯えるなんて、本当に珍しいね。あの『ザンスカールの苛烈なる女王の妹』と恐れられる君が」
「……無理もないわ、キラ。私にとって、あの人は……あの御方は、恐怖の象徴というだけではないの。マリア女王のお母様である先代女王陛下に、身寄りのない私を養女にしていただいた、その大きな恩がある……それと同時に、宇宙世紀の歴史において『最強』の一角を占めた、絶対に敵に回してはならない男がそこにいるのだから」
私の視線の先。
豪奢なソファに腰掛けているのは、二人の人物だった。
一人は、若い女性。
その顔は、四十代の先代女王とともに描かれた古い肖像画、あるいは私の記憶の奥底にある「ある高貴なる血統」の姿そのものだった。
彼女の名はとテテニス・ドガッチ。そして、その隣に並んで座る、荒々しくもどこか飄々とした雰囲気を纏った若い男。
トビア・アロナクス。
宇宙世紀の私の記憶が確かであるならば、彼は木星帝国(ジュピター・エンパイア)を滅ぼした「鋼鉄の七人」の一人であり、戦いの果てに失明しているはずの、伝説の宇宙海賊だった。
普段の彼らは、私の故郷だった場所。
ポイント・サカテリア。
すっかり年老いたシーブック・アノーとセシリー・フェアチャイルドいや、アノー夫妻が営む小さなパン屋『鋼鉄のパン屋』で、静かにパンを焼いて暮らしているはずなのだ。
だが、目の前にいる二人は、あまりにも若すぎた。
特にトビア様は、失明する前、まさに肉体も精神も「全盛期」と呼ぶにふさわしい、光を宿した鋭い眼光を放っている。
(まるで……私と同じだわ。私が十三年前、メサイヤ要塞の乱入戦でこの世界に復活したときと、全く同じ……!)
「ははあ、なるほど。お前がカテジナ・ルースか。噂には聞いていたが、ずいぶんと手荒な世界で、ずいぶんとまっとうな母親をやってるじゃないか」
トビア様は、私のガクブル振りを隠そうともしない様子を見て、苦笑しながら頭を掻いた。
その仕草一つに、私は心臓が跳ね上がるような恐怖を覚える。
この男が、あの狂気の木星帝国を地獄の底へと叩き落としたのだ。
「トビア、無礼ですよ。カテジナ様はこれでもザンスカール帝国の重鎮なのですから。……久し振りね、カテジナ。私はテテニス・ドガッチ。貴女の義母にあたる先代女王陛下には、かつて大変お世話になりました」
テテニス様が静かに一礼する。
その洗練された所作の中に、隠しきれない重圧(プレッシャー)がある。
「あ、ありがとうございます、テテニス様……。お初にお目に掛かります、と言いたいところですが、私の魂が貴女を覚えております。……して、本日は……我が邸宅に、どのような御用で……?」
私は声を震わせながら、なんとか用件を切り出した。
すると、テテニス様の表情が、一瞬にしてシリアスなものへと一変した。
その背後に立つトビア様の目つきも、海賊のそれに変わる。
「単刀直入に申し上げます。カテジナ様、貴女の義姉であるマリア女王陛下への取次ぎをお願いしたいのです。それも、公の場ではなく、極秘裏に」
「マリア女王陛下に……? それは構いませんが、一体、何をお話しされるおつもりなのですか」
私が問い返すと、テテニス様はトビア様と視線を交わし、重く、信じがたい言葉を口にした。
「我が父、クラックス・ドガッチが遺した、あの忌まわしき『木星帝国』。――その流れを汲むザンスカール帝国の皆様に、お伝えせねばなりません。……復活したのです。トビアたち『鋼鉄の七人』が、あのとき確かに息の根を止めたはずの皇帝、そして木星帝国が、このコズミック・イラの世界で、完全に復活を遂げました」
「なっ――!?」
私の口から、情けない悲鳴が漏れた。
隣でキラが目を見張り、背後ではイザークが
「木星帝国だと? 何をふざけたおとぎ話を……」
と眉をひそめている。
だが、私は知っている。
それがおとぎ話などではないことを。
宇宙世紀において、地球を、そして人類を恐怖のどん底に叩き落とそうとした、あのガスマスクの狂信者たちの集団。
それが、この世界に蘇ったというのか。
「……メイリン、すぐにマリア女王陛下への通信回線を開きなさい。イザーク、貴方は女王陛下とクロノクル皇太子殿下、そしてルナマリア皇太子妃殿下に、至急、我が邸宅へお越しいただくよう、ザンスカール特権階級の最高暗号で連絡を回して!」
私は恐怖を気力でねじ伏せ、怒鳴るように指示を出した。
「は、はいっ! ただちに!」
メイリンが慌てて端末を操作し始める。
一方、イザークはふんと鼻を鳴らしつつも、私のただならぬ様子に事の重大さを察したのか、いつになく素早い動きで応接室の通信機へと向かった。
「ったく、どいつもこいつも、妊婦のヒステリーならまだ可愛げがあるが、この空気は本物だな。おい、キラ! 貴様は局長の護衛を怠るなよ! もしものことがあれば、ルース家の娘たちに私がどう言い訳すればいい!」
「わかってるよ、イザーク。ありがとう」
キラが苦笑しながら答える。
それから一時間もしないうちに、我が邸宅の地下にある皇族専用会議室には、ザンスカール帝国の最高権力者たちが集結していた。
マリア・ピァ・アーモニア女王陛下。
その弟であり、帝国の未来を担うクロノクル・アーモニア皇太子殿下。
そして、その妻であり、現在妊娠四ヶ月のルナマリア・ホーク皇太子妃殿下(メイリンの実の姉でもある)。
「カテジナ、急に呼び出してどうしたのです? 貴女の身体のこともあります。妊娠八ヶ月の身で、そう動き回っては……」
マリア女王が心配そうに私を見つめるが、その視線が、会議室の対面に座るテティス様とトビア様に留まった瞬間、女王の身体がピキリと凍りついた。
「……まさか。貴女は……テテニス、様……? お母様から聞いていた、あの……」
「お久しぶりです、マリア。こうしてお呼びして、お顔を拝見するのは、この世界では初めてですね」
テテニス様が穏やかに微笑む。
だが、その場に漂う緊張感は異常だった。
クロノクル皇太子が、腰のサーベルに手をかけながら、鋭い視線をトビア様に向けた。
「カテジナ中将、説明を求めたい。この若者は何者だ。ただのナチュラルとも、コーディネイターとも違う、異常なプレッシャーを感じる。まるで、戦場を支配する本物の獣だ」
「クロノクル義兄様、お手を引きなさい。そのお方は……トビア・アロナクス様。かつて木星帝国を一人で、いや、七人で壊滅に追い込んだ、伝説のニュータイプです。貴方が束になってかかっても、一瞬で首を刎ねられますわ」
私の言葉に、クロノクルが息を呑む。
そして、その隣にいたルナマリア皇太子妃が、大きなお腹を自愛するようにさすりながら、引きつった声をあげた。
「木星帝国……? 嘘、でしょ……。私、皇太子妃教育の歴史講義で、ザンスカールのルーツについて学んだわ。地球圏のあらゆる歪みを集約したような、あの暗黒の国家……。あれは、過去の幻影として処理されたはずじゃ……」
「ルナ、落ち着きなさい。お腹の赤ちゃんに響くわ」
メイリンがすかさず姉の肩を抱く。
メイリンはツッコミ役でありながら、こういうときのサポートだけは本当に手際が良い。
「落ち着いていられるわけないでしょ! メイリン、あなた何も知らないからそんな冷静でいられるのよ! あの帝国がどれだけ悍ましいか……!」
「はいはい、お姉ちゃん、お姉ちゃん。私はカテジナ様の秘書官として、これまでに山ほどの修羅場を見てきたの。いまさら木星だろうが火星だろうが、驚かないわよ。ほら、深呼吸して」
「ちょっと、メイリン! あなた私の妹のくせに生意気よ!」
「はいはい、いまは皇太子妃殿下、でしょう? 公式の場では私を睨まないでくださいね」
姉妹の小競り合いが少しだけ場を和ませたが、トビア様がコンコン、と机を指の背で叩くと、一瞬で静寂が戻った。
「挨拶はこのくらいにしようや。マリア女王、それに皇太子殿下。俺たちがここに来たのは、お前たちのザンスカールを脅しに来たわけじゃない。むしろ、警告しに来たんだ。……お前たち、最近の『木星圏開発』、ちょっと上手くいきすぎてると思わないか?」
トビア様のその一言に、マリア女王の美しい瞳が大きく見開かれた。
「……木星圏開発……。ヘリウムガスの採掘、ですね」
「そうだ」
トビア様は腕を組み、不敵に笑うが、その瞳の奥は冷徹だった。
「十年前から、ザンスカールはコズミック・イラの世界において、慢性的なエネルギー不足を解決するために木星圏への進出を開始した。ジュピトリス級ヘリウム輸送艦を何隻も建造し、木星ヘリウム船団を結成して、定期的に膨大なヘリウム3を地球圏へ運んでいる。……違いないな?」
「ええ……。それは我が帝国の基幹事業です。コーディネイターの技術と、我がザンスカールの宇宙世紀のノウハウを融合させ、順調そのものの成果を上げています。それが何か?」
クロノクルが不審そうに問う。
だが、マリア女王は違った。
彼女は、自らの直感――サイコキネシスやニュータイプ能力に近い、あの聖母としての守護の波動で、何かに気づいたようだった。
「……待ってください、クロノクル。……確かに、おかしかったのです」
マリア女王の声が震え始めた。
それは、私と同じ、帝国の闇を瞬時に理解した者の震えだった。
「上手く、行きすぎていた……。いくら宇宙世紀のデータがあるとはいえ、この世界の木星は未開の地のはず。それなのに、派遣した船団は一度の事故も起こさず、常に予定通りの、いえ、予定以上のヘリウムを正確に持ち帰ってくる。そればかりか、船団の乗組員たちの報告書は、どれも一言一句、完璧に統制されすぎていた……。まるで、誰かに『管理』されているかのように」
「その通りよ、マリア」
テテニス様が悲痛な面持ちで頷いた。
「彼らは、木星でヘリウムを『採掘』しているのではありません。……すでにそこに存在する『誰か』から、ヘリウムを『買い与えられている』、あるいは『運ばされている』のです。我が父、クラックス・ドガッチのクローン、あるいはその意志を継ぐ者たちが作り上げた、新たなる木星帝国の手によって!」
「そんな……っ!」
ルナマリアが悲鳴をあげ、椅子に深くへたり込んだ。
「馬鹿な……! では、我が帝国の生命線であるヘリウム船団は、最初から敵の掌の上で踊らされていたというのか!?」
クロノクルが机を叩いて立ち上がる。
「落ち着け、クロノクル皇太子。声を荒らげたところで、事態は好転せん」
イザークが冷ややかに、しかしどこか呆れたように口を挟んだ。
「そもそも、そんな怪しいエネルギー源に頼り切るシステムを構築した開発局の責任はどうなんだ、カテジナ中将? お前の夫であるキラ大佐も、技術者として見過ごしていたわけではあるまい?」
「イザーク、私を責めないで頂戴。開発局としては、送られてくるデータの整合性を完璧にチェックしていたわ。コーディネイターの技術をもってしても、あの輸送効率は『異常』の一言に尽きた。だからこそ、私はキラと一緒に、独自にヘリウムの成分分析を進めていたのよ」
私は夫のキラに目配せをした。
キラは静かに頷き、手元の端末からホログラムを投影した。
「……カテジナの言う通りです、ジュール執事。僕が分析した結果、木星から運ばれてくるヘリウム3のコンテナには、ごく微量ですが、特殊なナノマシン粒子が混入していました。これは地球圏の技術でも、ザフトの技術でもない。……あえて言うなら、機体を『自己再生』させるような、あるいは、精神波を増幅させるための受動的な触媒です。つまり……」
「つまり、そのヘリウムを使っているザンスカールのMSや艦艇は、気づかないうちに木星帝国のバックドアを仕込まれている可能性がある、ってことかい? 相変わらず恐ろしい男だな、キラ・ヤマト……いや、キラ・ルース大佐」
トビア様がニヤリと笑う。キラはその視線を真っ向から受け止めた。
「ボクはもう、ただの技術者だよ、トビアさん。でも、自分の家族と、この世界を守るためなら、もう一度フリーダムにだって乗る。……カテジナとお腹の子を、あの狂気へ巻き込ませるわけにはいかない」
キラの言葉に、私は胸が熱くなると同時に、得体の知れない恐怖が少しだけ和らぐのを感じた。
「ふん、大佐殿がその気なら結構なことだ」
イザークがやれやれと首を振る。
「だが、これでハッキリしたな。我がザンスカール帝国は、オーブを無条件降伏させ、地球圏の覇権を握った気でいたが、その足元は木星の化け物に喰い荒らされていたというわけだ。……笑えん冗談だな、まったく。これだからお前たち宇宙世紀の人間が絡むと、話のスケールが無駄に大きくなって困る」
「イザーク、愚痴を言っている場合じゃないわ」
メイリンがすかさずツッコミを入れる。
「これ、防衛線どうするんですか? もし木星船団がそのまま敵の兵器として反転してきたら、地球圏はパニックですよ。オーブを落としたばかりで、我が軍の戦力も再編中なのに!」
「わかっている! だからこそ、最高機密として処理せねばならんと言っているのだ、このバカ者が!」
「誰がバカ者ですか! 私は正確な現状分析をしてるんです!」
二人の言い合いを余所に、マリア女王は静かに目を閉じ、そして開いた。
その瞳には、かつての迷いは消え、一国の主としての覚悟が宿っていた。
「カテジナ。そしてテテニス様、トビア様。……ザンスカールは、木星帝国の復活を公式には認めません。混乱を避けるためです。ですが、軍内部に『対木星特務部隊』を秘密裏に新設します」
「姉上、それは……」
クロノクルが驚く。
「クロノクル、貴方がその部隊の指揮を執りなさい。そして、ルナマリア。貴女は身重ですが、情報部の統括として、メイリンと共にヘリウム船団の通信ログをすべて洗うのです。いいですね?」
「は、はい! マリア様!」
ルナマリアが居住まいを正す。
「カテジナ、貴女は開発局局長として、キラ大佐と共に、我が軍の全兵器のバックドアを排除するプログラムの開発を。猶予はありません。八ヶ月の身体には酷ですが……お願いできますか?」
マリア女王の言葉に、私は深く一礼した。
「お任せください、マリアお姉様。……このカテジナ・ルース、二度もあの狂気に世界を汚させはいたしません。我が娘たちの未来のためにも、必ずや」
私は自分の大きなお腹に手を当て、強く誓った。宇宙世紀で一度死んだ私たちが、なぜこのコズミック・イラの世界に集められたのか。
その意味が、いまようやく分かった気がした。私たちは、今度こそ、あの忌まわしき因縁を断ち切るために、この世界に呼び戻されたのだ。
「よし、話は決まりだな」
トビア様が立ち上がり、不敵な笑みを浮かべた。
「俺たち『鋼鉄の七人』も、影から協力させてもらうさ。……おい、カテジナ。そんなに怯えなくていい。今の俺は、ただのパン屋の小僧に戻る前の、ちょっとお節介な宇宙海賊だからな」
「……肝に銘じておきますわ、トビア様」
私はようやく、少しだけ微笑むことができた。
外では、コズミック・イラの穏やかな風が吹いている。
だが、遥か彼方の木星圏からは、確かに冷たい、狂気の視線が地球へと注がれているのだった。
ここは、ルース大公邸の夫婦部屋、私の心は激しく波打っていた。
若返った姿のテテニス様が齎した情報は、余りにもお腹が一杯になるものだった。
木星帝国の、完全復活。
「うっ……あ、はぁ……っ」
妊娠8ヶ月の重い身体にはその衝撃がキツく、私は耐えかねてベッドに倒れ込んだ。
「大丈夫かい? カテジナ。無理をしないで、横になっているといい」
すぐに駆け寄ってきたキラが、私の身体を優しく包み込む。
かつて私がその精神を壊した筈の、しかし今は私を慈しむように見つめる、私の夫。
そんな甘く歪な空間に、ノックの音と共に現れたのは、先ほどまで話をしていたテテニス様とトビア様の二人だった。
何故、二人があの木星戦役時の若い姿だったのか。
その理由を、私は直感的に理解する。
これは、答え合わせなのだ。
「……気づいたようだね、カテジナ」
トビア様が静かに口を開く。
その瞳には、かつての宇宙海賊としての険しさはなく、深い慈愛が満ちていた。
「ええ、テテニス様。トビア様。……あなたたちも『あっち』から来たのね」
私が身を起こそうとすると、キラがそっと背中を支えてくれた。
十三年前、私はコズミックイラの世界に、ザンスカール帝国の最盛期の記憶と共に、メサイヤ要塞戦の最中に転生した。
宇宙世紀での私の最期は、惨めなものだった。リガ・ミリティアに敗北し、光を失った目で故郷へと帰ったが、ウッソ達には拒絶された。
ただ寒さに震え、雪降りしきる中で、誰に看取られることもなく孤独死した……。
「僕たちも、不思議な経験をしたんだ」
トビア様がぽつりぽつりと語り出す。
「木星戦役が終わって、僕とテテニスはアノー夫妻の元でパン屋を手伝いながら暮らした。孫達に囲まれ、穏やかに寿命を迎えたんだよ。だけど、目を覚ましたら……地球連合とザンスカール帝国の激戦地だった、ヨーロッパ戦線のポイント・サカテリアだった。しかも、驚くべきことに、僕たちだけじゃなかったんだ」
「セシリーとシーブックも、一緒だったのよ」
テテニス様が言葉を継ぐ。
「二人は、コスモバビロニア戦役の時の若さで転生していたわ。目覚めた時、セシリーはシーブックの『右手』を見て、大泣きしていたけれど……。私とトビアも、木星戦役の時の若さでこの世界に生を受けたの」
ポイント・サカテリア。
その地名に、私の胸が締め付けられる。
「……そう、だったのですね」
「覚えているかしら? カテジナ。あの場所で孤児だった貴女が、お腹を空かせて泣いていた時のことを」
「忘れるわけがありません。セシリー様から、焼き立てのロールパンをいただいた……あの温かさを。そして、一緒に暮らしていたテテニス様に拾われ、マリア女王の実母である先代女王の養女にしていただいた。あの時の恩は、決して忘れません」
二人の前で、私の目から涙が溢れ出た。
彼らは最初から、私の正体を知っていたのだ。
宇宙世紀で狂気に走り、すべてを失ったカテジナ・ルースという女の魂であることを。
すべてを知っているからこその、これは懺悔だった。
私は、堰を切ったようにテテニス様に全てを告白した。
「テテニス様……私は、また狂気を繰り返したのです! 16歳で死んで、また16歳でこの世界に蘇った私は……十三年前のメサイヤ要塞戦で、このキラに出会いました。私は彼を捕虜にし、私の歪んだ心のままに、暴虐と屈辱の限りを尽くした……! キラの精神を完全にぶち壊して、私の言うがままになる操り人形にして、夫にしたのです……!」
激しい罪悪感に咽び泣く私を、テテニス様は拒絶しなかった。
それどころか、ベッドに歩み寄り、私の震える肩をそっと抱き締めてくれた。
「知っていたわ、カテジナ。貴女がコズミックイラで、あの狂気の『公開種付け』という凶行に及んだことも。貴女がどれほどの闇を抱えていたかも、私たちは見ていたのよ」
「なのに……なのに、何故そんな私を許してくださるのですか……!?」
「カテジナ。顔を上げて、隣を見てごらん」
トビア様が穏やかに微笑む。
言われるままに涙に濡れた目を向けると、そこには優しく私を見つめ、大粒の涙を拭ってくれるキラの顔があった。
「カテジナ、僕は壊れてなんかいないよ」
キラが、私の手を両手で包み込みながら囁いた。
「確かに最初は、君の仕打ちに心が折れそうになった。でもね、君と一緒に過ごすうちに、君の奥底にある深い孤独と、不器用な優しさに気づいたんだ。……奇跡が起きたんだよ。僕はいつの間にか、君のすべてを愛してしまっていたんだ」
「キラ……? 嘘よ、だって私はあなたに、あんな酷いことを……」
「嘘じゃない。僕は今、君と、僕たちの間に産まれてくるこの子のことを、心から愛している。君を一人にはさせない」
キラの言葉は、私の犯した罪のすべてを溶かしていくようだった。精神を壊した筈の男が、私を狂気から救い出し、本当の愛を与えてくれていた。
「ああ……っ、ああああ……!」
私はテテニス様の胸の中で、そしてキラの腕の中で、激しい幸福感に包まれながら、子供のように声を上げて泣き続けた。
雪の降るあの冷たい世界では得られなかった温もりが、今、確かにここにあった。
テテニスとトビアへの懺悔を終え、私は信じられないほどの多幸感に包まれていた。
かつて狂気に囚われ、多くの血を流した私を、木星帝国戦役時の若々しい姿で復活した二人は優しく許してくれた。
そして何より、私の隣にいる夫――キラ・ルース。
精神が壊れたと噂され、なぜか急激に私への愛を爆発させる「スパダリ」と化した彼だが、先ほど二人きりになった瞬間、耳元で「壊れてなんてないよ。僕はただ、純粋にカテジナを愛しているだけさ」と囁かれたのだ。
その瞬間、私たちは本当の意味での夫婦になれた。
……なれた、のだが。
「ああ、カテジナ。頬が赤いよ。可愛いね。お腹の第八子も、僕たちの愛を感じて喜んでいるみたいだ」
「き、キラ……っ! や、やめてちょうだい、テテニス様たちの前よ……っ!」
懐妊八ヶ月の大きなお腹を優しく撫でさすられ、私は顔から火が出るほど身悶えしていた。
かつて戦場を恐怖に陥れたザンスカール帝国開発局局長、中将にしてルース大公当主であるこの私が、初々しい少女のように縮こまっている。
キラの甘い抱擁に対する耐性が、私にはこれっぽっちも存在しないのだ。
だが、ルース大公邸において、このようなシリアスで甘美な時間が長く続かないのは、言うまでもなかった。
「お父様! お母様! 大変です、ツクヨミがまたやらかしました!」
「お姉様ったら、シン・アスカを組み敷いて『早く私の種を受け入れなさい!』って叫んでるのよ? 微笑ましいわね!」
ドガシャァン!!
凄まじい音を立てて夫婦部屋の重厚な扉が吹き飛んだ。
乱入してきたのは、私たちの愛娘たちである。
「ちょっと、ツクヨミ、アマテラス! ノックくらいしなさい!」
私が大きなお腹を庇いながら一喝するが、十三歳の長女ツクヨミは私と瓜二つの容姿とスタイル、そして性格で、フンスと鼻を鳴らした。
「お母様、私とシンは運命で結ばれているのです! 現在、婿にするべく猛攻撃中ですが、今日の彼は少々手強いわ! 私の高レベルニュータイプ能力とSEEDの力をもってしても、あの不器用な男は照れて逃げるのです!」
「ツクヨミ、女の子がそんなにガツガツしちゃダメだよ。シンが可哀想じゃないか」
キラが苦笑しながら窘めるが、ツクヨミの後ろから現れた十二歳の次女アマテラスがケタケタと笑った。
「お父様、お姉様は甘いわ。私を見習うべきよ? 私は既に既成事実を作ってディアッカ・エルスマンと婚約したわ。最近はさらに夜這いの頻度を上げているから、妊娠も結婚も時間の問題ね! ウフフ、あの人が困り果てた顔、最高にゾクゾクするわ!」
母親譲りの残虐性を天真爛漫な笑顔で炸裂させるアマテラス。
二人とも私に似て超のつく美人なのだが、中身の苛烈さまで私に似てほしくはなかった。
しかも二人とも、卓越したニュータイプ能力とSEEDを覚醒させている。
「う、うわぁぁぁん!! お父様ぁぁ!」
「イザークの分からず屋! 大嫌い!!」
続いて部屋に飛び込んできたのは、七歳の双子、三女ハルミと四女ナツキ。
そして六歳の双子、五女アキネと六ユキだった。四人は私譲りの容姿と高レベルニュータイプ能力、そしてキラ譲りの天才的な頭脳を持っている。
「どうしたの、みんな。またメイリンを泣かせたのかい?」
キラが優しく尋ねると、ハルミが涙をボロボロとこぼしながら訴えた。
「違うの! いつものようにメイリンに専門知識と論文を片手に、知力の暴力を振るって遊んであげてたの!」
「そうよ! メイリンが困って泣きそうになるのが楽しかったのに、最近雇った執事のイザークがしゃしゃり出てきて、私たちの数式も歴史解釈も、全て完璧に論破してきたのよ!」
ナツキとユキが悔しそうに床を叩く。
「『貴様らの浅知恵など、十手先まで読めているわ! 大人を舐めるな、このド低能がァ!』って怒鳴られたの! ひどい、ひどいわぁ!」
「あはは……イザーク、執事になっても相変わらずだね」
キラが引きつった笑いを浮かべる。
執事イザーク・ジュール。
元ザフトのエリートは、我が家の天才児たちの精神的暴力を正面から叩き潰す唯一の防波堤となっていた。
「あぅ、おてて……あうー」
最後に、ヨチヨチ歩きで入ってきたのは二歳の七女ナナミだった。
キラをそのまま女の子にしたような愛くるしい容姿のナナミは、超高レベルなニュータイプ能力の持ち主で、部屋の混沌とした空気を察して私の足元に抱きついてきた。
「あらあら……賑やか、というよりは、凄まじいお嬢さん方ですこと」
呆気にとられた声を出したのは、上品なドレスに身を包んだテテニス様だった。
その隣で、トビアが頭を掻きながら目を丸くしている。
「カテジナさん……あなた、こんな恐ろしい娘たちを七人も育ててるんですか? しかもお腹に八人目って……木星トカゲと戦うよりハードそうだ」
「テ、テテニス様、トビア……面目ありません。これが、今の私の日常なのです」
私は恥ずかしさのあまり、キラの背中に隠れた。
キラは嬉しそうに私を抱き寄せ、「みんな、このお二人はお母様の恩人なんだ。挨拶して」と促す。
「初めまして、木星の王女様! 私は次期ルース大公のツクヨミです!」
「私はアマテラス。ねえ、木星って夜這いし放題って本当?」
「「「「おじさん、おばさん、私たちより頭いい?」」」」
「あうー!」
娘たちの嵐のような洗礼に、テテニス様は優雅に微笑み、トビアは引きつった笑いを浮かべるしかなかった。
「――ところで、カテジナ。お二人をサイド2まで送り届けてくれたマザー・バンガードの皆さんはどうされたんだい?」
キラの言葉に、私はハッとした。
今回のテテニス様たちの復活と地球圏への移動は、アノー夫妻――コスモ・バビロニア戦役時の若い姿のシーブックとセシリーが駆るマザー・バンガードによって成されたのだ。
「そういえば、アノー夫妻は……?」
私が首を傾げると、トビアが親指で階下を指した。
「ああ、シーブックとセシリーさんなら、大公邸の厨房にいるよ。長期航海のストレスが溜まってたみたいでさ……」
嫌な予感がした私は、キラや娘たち、そしてテテニス様たちを連れて一階の大厨房へと向かった。
広い厨房の扉を開けると、そこには異様な光景が広がっていた。
「ふんぬぅぅぅりゃぁぁぁ!!」
バッシィィィン!!!
と、凄まじい破砕音が響き渡る。
そこにいたのは、若き日のセシリー・アノーだった。
彼女は狂気すら感じさせる真剣な眼差しで、凄まじい質量の小麦粉の塊を、調理台に叩きつけていた。
「セ、セシリー、もうそのくらいでいいんじゃないかな? パン生地が可哀想というか、調理台がひび割れてるよ……?」
エプロン姿のシーブックが、おどおどしながら彼女を止めようとしているが、セシリーの耳には届いていない。
「黙っててシーブック! 宇宙(そら)での長期航海、私のストレスがどれほどのものか分かっているの!? こうしてパンを捏ねて捏ねて捏ねくり回さないと、私のコスモ・貴族主義が爆発してしまうわ!!」
「いや、君の貴族主義ってパン捏ねで発散されるものなの!?」
バシィィィン!!
と、さらに強烈な一撃が入り、調理台がミシッと音を立てた。
その背後のオーブンからは、すでに香ばしい、暴力的とも言えるほどに甘く優しい香りが漂ってきている。
「あ……この匂い……」
私は立ち尽くした。
それは、翌朝の朝食のために焼き上げられている、大量のバターロールの香りだった。
ザンスカール帝国の女王マリアは私の義姉で、先代女王はマリアの実母。
だが、私が先代女王の養女になる前、天涯孤独の孤児だった頃――私を救い、飢えから救ってくれたのが、セシリーの焼いたこのバターロールだったのだ。
私の思い出の味。
私の凍てついた心を溶かした、原点の匂い。
セシリーは私に気づくと、ハッと我に返り、頬を赤くして小麦粉のついた手で髪を掻いた。
「あら、カテジナ……見られてしまったわね。ごめんなさい、厨房を汚してしまって」
「ううん……ううん、セシリー。ありがとう。私、この匂いが大好き」
涙ぐむ私を、キラが背後からそっと抱きしめる。
「良かったね、カテジナ。明日の朝食が楽しみだ」
テーブルの端に目をやると、シーブックがホッとしたように息を吐き、セシリーと顔を見合わせて微笑んでいた。
やっぱり、この二人は紛れもなくアノー夫妻だ。
どんなに若返っても、その絆は変わらない。
「トビア、テテニス様。お二人も明日の朝は、セシリーのバターロールを食べていってくださいね」
私が言うと、テテニス様はトビアと視線を交わし、悪戯っぽく笑った。
「ええ、喜んで。……実はね、カテジナ。私たち四人、しばらくこのルース大公邸に留まることにしたの。マザー・バンガードの補修もあるし、何より……」
テテニス様は、未だにシン・アスカを追いかけ回しているツクヨミや、ディアッカへの夜這い計画を練っているアマテラス、そしてイザークへの復讐を誓う四つ子たちを見つめた。
「この退屈しないお嬢さん方の行く末を、見守りたくなってしまったわ」
「ええっ!? 留まるって……ずっとですか!?」
私が驚愕の声を上げると、トビアが笑った。
「よろしく頼むよ、カテジナさん、キラさん。賑やかな毎日になりそうだ」
ルース大公邸のシリアスな時間は、一瞬で消え去る。
だが、私の心は、かつてないほどの温かさと幸福で満たされていた。
騒がしい娘たち、愛するスパダリの夫、そして大切な恩人たち。カテジナ・ルースの新しい日常は、この香ばしいバターロールの香りと共に、どこまでも賑やかに続いていくのだ。