ザンスカール帝国のディストピア〜カテジナ・ルースの女王の系譜〜 作:ロドニー
人類平等法可決後、カガチ派は一気に力を失い始めた。
人類平等法可決の報は、地球圏と各コロニー群の歴史を決定的に塗り替えた。
後に「ルナマリア皇后の平等宣言」と呼ばれることになるルナマリア皇太子妃の演説は、プラントとナチュラルの間に厳然と存在していた見えない壁を打ち砕き、熱狂的な支持の声が瞬く間に世界を包み込んだのである。
その光に影が差すように、ザンスカール帝国の保守派たるフォンセ・カガチの一派は、一気にその権勢を失いつつあった。
焦燥に駆られたカガチは、かつて木星を支配しようとしたクラックス・ドゥガチの孫にあたる軍中枢の人物と手を結び、木星帝国とのバイパスを強固にすることで逆転を画策していた。
しかし、その目論見はマリア・ピァ・アーモニア女王の暗部、そして帝国開発局長たる私――カテジナ・ルース大公当主の耳へ、とうに筒抜けであった。
「――まったく、往めの悪い老人たちですこと」
ザンスカール帝国開発局、局長執務室。
私は大きなお腹をさすりながら、手元の報告書に目を落として小さく溜息をついた。
第八子、妊娠八ヶ月。
さすがにこの身で現場を飛び回るわけにはいかず、現在の開発局は、私の夫であり局長側付き技士を務めるキラ・ルース大佐が局長代理として前線を取り仕切っている。
計画は最終段階にあった。
超巨大モビルアーマー「ドッゴーラⅡ」を二機同時に運用可能とするための、巨大タイヤ戦艦アドラステアの大改装。
そしてオーブから接収したアークエンジェル、エターナル、ミネルバの三隻に対する、圧倒的な超近代化改修。
これらはすでに八割の工程を完了していた。
「キラが頑張ってくれているもの。私もここで、しっかり睨みを利かせていなくてはね……っ!?」
突如、下腹部を貫いたのは、これまでの七度の出産で経験したことのないような、激烈な激痛だった。
「あ、が……っ!? な、に、これ……まだ、八ヶ月、なのに……うあ、ああっ!」
机の上の書類が派手に散らばる。
私は椅子から転げ落ち、冷たい床の上に頽れた。
意識が遠のくほどの痛みの波が、容赦なく押し寄せてくる。まだ産まれる時期ではない。
それなのに、身体が、子宮が、異常なほどの拒絶反応を起こして収縮しているのが分かった。
「誰か……だれ、か……っ!」
その時、執務室の重厚な扉が勢いよく開いた。
「失礼いたします、カテジナ様。ツクヨミお嬢様からの伝言を――って、カテジナ様!?」
部屋に入ってきたのは、長女ツクヨミの専属秘書官兼侍女を務めるメイリン・ホークだった。
彼女は手にしたファイルを取り落とし、血相を変えて私のもとへと駆け寄る。
「メイ、リン……お腹、が……あ、ああっ!」
「大変、床が……! イザークさん! 誰か、お医者様を! カテジナ様が、陣痛です! 早く!!」
メイリンの悲鳴のような叫びが響き渡り、大公邸はまるで蜂の巣を突いたような大騒ぎへと一瞬で変貌した。
「カテジナ様! しっかりしてください! 今、すぐにベッドへ!」
普段は冷静沈着な執事のイザークが、顔を青白くして部屋に飛び込んできた。
彼はすぐさま私を抱き抱え、常駐している医療班のもとへと走る。
しかし、そこからが本当の地獄の始まりだった。
通常であれば回数を重ねるごとに軽くなると言われる出産だが、今回の痛みは異常だった。
三十時間以上を超える壮絶な苦痛。
意識が途切れそうになるたびに、私は自分の舌を噛み切らんばかりに堪えた。
「カテジナ! 目を開けてくれ、カテジナ!」
連絡を受けて戦艦の改装ドックから文字通り飛んできたキラが、私の手を握りしめて必死に声を枯らしている。
その隣には、先代女王の友人であり、私の恩人でもあるテテニス・ドゥガチの姿もあった。
ルース邸に仲間と共に滞在していた彼女は、私の異変を聞きつけてすぐに駆けつけてくれたのだ。
「カテジナ、しっかりなさい! あなたの子よ、こんなところで負けるわけがないわ!」
「テテ、ニス……様、キラ……私、は……!」
「大丈夫だ、僕がここにいる! 一緒に頑張ろう、カテジナ!」
キラの涙混じりの声と、テテニスの力強い励ましの中、長い長い夜が明け、次の日の昼が過ぎ、再び夜が訪れた頃――。
部屋に、奇跡のように力強い産声が響き渡った。
「産まれました! 女の子です!」
医師の誇らしげな声。
それは冬の始まりを告げる冷たい風が窓を叩く夜だった。
八番目の娘。その子は、この季節にちなんで「フユミ」、そして義姉である女王の名から「マリア」をいただき、「フユミ・マリア・ルース」と名付けられた。
だが、無事出産の報告を聞いて、本当の意味で血の気が引いたのは、別の場所にいた者たちだった。
「馬鹿な……! なぜ生きている! 確実に死産へと至る薬を盛ったはずだぞ!」
ザンスカールのヴァゴ伯爵邸の通信室で、タシロ・ヴァゴは通信機に向かって絶叫していた。
その背後に立つフォンセ・カガチもまた、苦虫を噛み潰したような表情で拳を震わせている。
彼らは、カテジナの第八子出産を力ずくで早め、未熟児としての死産、あるいは母子諸共の命を奪うために、密かに大公邸の食事に特殊な薬物を混入させていたのだ。
カテジナ・ルースという最大の障害を排除するための、捨て身の暗殺計画だった。
しかし、結果はまさかの元気な出産。
カテジナの強靭な生命力と、医療班の迅速な処置が、彼らの陰謀を打ち砕いたのである。
そして、当然ながら。
「――検出、されたのね」
ベッドの上で、まだ顔色を白くさせたまま、私は医師から提出された報告書を睨みつけていた。
私の傍らで、生まれたばかりのフユミを愛おしそうに抱いていたルナマリアが、悲痛な面持ちで私を見る。
彼女もまた妊娠4ヶ月の身であり、大事をとってルース邸に滞在していた身だ。
「カテジナ様、やはりお体に異常な薬物の成分が……」
「カガチね。あるいはタシロか。……あの、老い損ないどもが」
私の口から漏れたのは、氷点下よりも冷たい、絶対的な殺意の籠った声だった。
「私の、私とキラの子供を……命を狙った。その罪、万死に値するわ」
「カテジナ、落ち着いて! まだ出産直後なんだ、動いちゃダメだ!」
キラが必死に私を止めようとするが、私の怒りはとうに限界を突破していた。
点滴の針を引き抜き、ベッドから立ち上がる。
「メイリン! イザーク! すぐに私の軍服を!」
「カテジナ様、しかし!」
「命令よ! 動けない体ではないわ。我が子を害されようとして、黙っていられる母親がどこにいるの!」
その頃、計画の失敗とカテジナの生存を知ったカガチとタシロは、完全にパニックに陥っていた。
「もはや、この国には居られん! 木星へ行くぞ! ドゥガチの遺産を継ぐ者たちと合流し、体制を立て直す!」
カガチ派の貴族たちは一族郎党、家族を引き連れて、大慌てで宇宙港へと逃亡を開始した。
彼らの保有する私設艦隊や、寝返った数隻のザンスカール艦が、一斉に地球圏を離脱し、木星へと向けて急加速していく。
「逃がす、わけが、ないでしょう……!」
大公邸のエントランス、軍服に身を包んだ私は、制止する周囲を振り切って出撃しようとしていた。
そこに立ちはだかったのは、マリア女王と、その義兄であるクロノクル・アシャー皇太子だった。
「退きなさい、クロノクル義兄様! マリア姉様も!」
「カテジナ、正気になれ! お前はまだ産後すぐの身だぞ! それに、軍を動かすには手続きが――」
「手続きなど知るか! あの者たちは私の娘を殺そうとしたのよ! この手で八つ裂きにしなければ気が済まない!」
猛り狂う私に、クロノクル義兄様は気圧されながらも必死に腕を掴もうとする。
だが、私はその手を冷酷に振り払った。
その時、静かに、しかし絶対的な威厳を持って、マリア女王の声が響いた。
「――いい加減にしなさい、カテジナ」
「っ……マリア姉様……」
マリアは私に近づくと、その頬を厳しく、しかし慈愛を込めて見つめた。
「あなたの怒りは、母親としての怒りは、痛いほど分かります。我が名を継いだフユミの命を狙われたのです、私とて許すつもりはありません。……ですが、あなたはザンスカール帝国の最高権力者の一人、大公当主なのです。私的な復讐のために軍を私物化することは、あなたがこれまで築き上げてきた『正義』を汚すことになります」
「では、あの者たちを野放しにしろと!?」
「誰もそんなことは言っていません。議会へ行きなさい。貴族議会に、全世界に、あの者たちの罪を訴え、正式な出撃許可を取りなさい。法を以て、正義を以て、叛徒を討つのです。それが、大公としてのあなたの義務でしょう」
マリア女王の峻烈な叱咤に、私はハッと息を呑んだ。胸の中で燃え盛っていた激昂が、冷徹な統治者としての刃へと研ぎ澄まされていくのを感じた。
「……分かりました。お姉様」
私は深く頭を下げ、すぐにメイリンへと振り返った。
「メイリン、緊急貴族議会を召集。全宇宙、全地球圏への公開生配信の準備を。一刻の猶予もないわ」
「はい、局長! ただちに!」
一方その頃、遙か彼方の木星圏。
「カガチの馬鹿者が……! 何という無様な失態だ!」
木星帝国の宮殿。
そこに君臨する、かつての「あの皇帝」――クラックス・ドゥガチの記憶と魂を宿して転生した若き指導者は、地球圏からの報に机を叩いて激怒していた。
「ザンスカール内部のカガチ派を利用し、内応させる手はずだったものを! これほど早く失脚し、挙句に一族諸共我がもとへ逃亡してくるとは何事だ! これでは我が帝国の野心が地球圏に完全に露見してしまうではないか!」
傍らに控える木星帝国の高官たちが冷や汗を流す。
「は、はい……しかも、ザンスカール帝国が秘密裏に進めていた新型モビルスーツ対策、およびアークエンジェル級などの近代化改修は、すでに八割が完了しているとの情報が……」
「何だと!? こちらの新型、アマクサやクァヴァーゼの配備が進まぬうちに、あの化け物どもが牙を剥くというのか!」
皇帝は焦燥に駆られていた。
カガチ派の逃亡は、木星帝国にとって最悪のタイミングでの宣戦布告に等しかった。
そして、その懸念は現実のものとなる。
ザンスカール帝国、中央議事堂。
産後三日目という事実を微塵も感じさせない凛とした足取りで、私は議事堂の演壇へと登った。
その姿は、大型モニターを通じて、地球、プラント、各コロニー群の全人類へと同時配信されていた。
「ザンスカール帝国、ならびに地球圏、コロニー群のすべての同胞たちよ。私は大公当主カテジナ・ルースである」
私の声は、静かに、だが信じられないほどの力強さで議場に響き渡った。
「去る人類平等法の可決により、我らの世界は新たなる共生の歩みを始めた。しかし、その光を憎み、己の既得権益にしがみつく愚者たちがいた。フォンセ・カガチ、ならびにタシロ・ヴァゴら、旧世紀の遺物たる一派である。彼らは我が帝国の転覆を謀り、あろうことか、木星帝国という外部の脅威と手を結び、我が子――生まれたばかりの乳児の命すら暗殺の毒を以て害そうとした!」
議場が、そして配信を見守る世界が大きくどよめく。
「これは私的な怨恨ではない。これは、我らが勝ち取った平和と平等に対する、明白な反逆であり、テロ行為である! 彼らは今、罪から逃れるために家族を連れ、木星帝国へと逃亡を図っている。木星帝国は、これを受け入れ、地球圏への侵略の手がかりとせんとしている! 同胞たちよ、我らはこの悪行を断じて許してはならない!」
私は演壇を強く叩き、全宇宙を見据えるようにカメラを睨みつけた。
「我が開発局が総力を挙げて改修した、アークエンジェル、エターナル、ミネルバ、そして超巨大モビルアーマー・ドッゴーラⅡを搭載せし改装アドラステア! これら 帝国親衛艦隊の出撃をここに要求する! 木星帝国の野心を、そして反逆者どもを、宇宙の果てまで追い詰め、完全に叩き潰すための出撃許可を、この議会に求めるものである!」
割れんばかりの拍手と歓声が議場を埋め尽くした。
演壇の背後、玉座から立ち上がったマリア・ピァ・アーモニア女王が、厳かに右手を掲げる。
「――大公当主カテジナの訴えを、全会一致を以て可決とする。ザンスカール帝国軍、ならびに地球圏統一防衛軍は、ただちに反逆者フォンセ・カガチの追撃、および木星帝国の不当な介入に対する自衛反撃を開始せよ。正義は我らにあり!」
世界が熱狂に揺れた。
出撃のファンファーレが鳴り響く。
この歴史的な公開配信を、木星帝国の指令室でリアルタイムで見ていた転生皇帝は、驚愕のあまり総毛立った。
「おのれ……カテジナ・ルース! マリア・アーモニア! よくもそこまで大々的にぶち上げてくれたものだ!」
もはや隠蔽も交渉も不可能。
ザンスカールは、その圧倒的な軍事力をもって、木星帝国そのものを根絶やしにする気だ。
画面の向こうでは、すでに改装を終えたアークエンジェル級の巨体や、禍々しくも美しいドッゴーラⅡのシルエットが、発進準備を整えているのが見える。
「……こうなっては、座して待つなど愚の骨骨(骨頂)! ザンスカール軍が木星圏に到達する前に、こちらから全力を以て迎え撃ち、地球圏の軍勢ごと叩き潰してくれるわ!」
皇帝は狂気を孕んだ目で前方の宙図を指差した。
「全軍に告ぐ! この世界に復活せし我が木星帝国の全艦隊、全モビルスーツ、一機残らず出撃させよ! ザンスカールの増長をここで止めるのだ! 全艦、微速前進! 地球圏を我が手に掴むための、聖戦の始まりだ!!」
木星の赤い大気を割って、無数の木星帝国艦隊が、漆黒の宇宙へと這い出し始める。
それは、地球圏の新たなる守護者となったカテジナ・ルースたちと、深宇宙の覇者を名乗る木星帝国との、世界を揺るがす最終決戦の幕開けであった。
サイド2の1バンチコロニーの空気は、数日前を境に一変していた。
つい先日まで街を包んでいたのは、かつての地球連邦やオーブ連合首長国の無条件降伏から半年、かりそめの平穏を享受するぬるま湯のような空気だった。
しかし、ザンスカール帝国軍総司令本部が発した一本の布告が、そのすべてを文字通り吹き飛ばした。
カテジナ・ルース大公、毒殺未遂事件。
そして、それを受けた帝国貴族議会の迅速極まる「木星帝国(ジュピター・エンパイア)に対する出撃許可」の承認。
ザンスカール帝国は、再び戦時体制へと舵を切った。
だが、今回のそれは、半年前のオーブ制圧の時とは訳が違った。
「おい、聞いたか? 今度の相手はあの『木星』だそうだ」
「木星って、あのガソリンの匂いが染み付いた前時代的な野蛮人の集まりか? 冗談じゃねえ、軍だけじゃなくて、俺たち民間人にまで『完全戦時体制』の徴用令に近いお触れが出てるんだぞ」
アメリアの広場にある大衆酒場。
昼間だというのに、配給の変更やシェルターの確認に追われる市民たちが、不安を紛らわせるように集まっていた。
普段なら憲兵の目を恐れてひそひそと話すような内容だが、今や誰もがそれどころではない。
「軍部の奴らだけじゃねえんだ。工場も、農場も、個人の配給枠まで全て木星遠征のために一元管理される。カガチ代表やタシロ総司令の腹の内は分からんが、大公を毒殺しようとしたツケがこれかよ」
「静かにしろ! 誰が聞いてるか分からんぞ。だが……まあ、なんだ。最悪のニュースばかりってわけでもないらしい」
一人の男が、広場の向こう、一際大きくそびえ立つルース大公邸の方角を指差した。
「大公邸から触れ回りがあった。カテジナ大公を狙った毒は、どうやら出産を早める薬物だったらしい。大公は当時まだ妊娠八ヶ月だったそうだが……無事、第八子となるお嬢様が産まれたそうだ」
「おいおい、本当か!? 未熟児だって話じゃないか」
「ああ、名前はフユミお嬢様だそうだ。未熟児での誕生だったが、病院の保育器を跳ね除けるくらい元気に泣いているらしい。大公閣下の血筋は伊達じゃないな」
「へっ、そいつは重畳だ。で、その慶事ってことで、大公邸の御用聞きが広場で何か配ってるぞ」
市民たちが騒ぎ立てる中、広場の中央には、大公邸の上級使用人たちが手配した特設の配給テントが設営されていた。
「さあ、寄ってらっしゃい! カテジナ大公閣下のご無事と、フユミお嬢様のご誕生を祝し、大公邸より振る舞い酒だ! これからの戦時体制を生き抜くためにも、今は飲んで祝おうじゃないか!」
使用人の景気の良い声に、不安面をしていた市民たちが一斉に群がる。
「おお、本当に酒だ! それも安物じゃない、大公邸の蔵出しだぞ!」
「おい、酒だけじゃない。あの匂いは何だ? 信じられないくらい香ばしい、腹の底に響くような匂いがするぞ」
市民の一人が鼻をひくつかせた。酒の匂いに混ざって、広場に漂ってきたのは、およそこの世のものとは思えないほど力強く、そしてどこか懐かしい焼き立てのパンの香りだった。
「パン? いや、しかしこの香りは……ただの合成麦のパンじゃないぞ。本物の、どっしりとした小麦の匂いだ!」
テントの奥から、巨大な木箱に山盛りにされたロールパンや、
表面が鈍い銀色にすら見える頑強そうな食パンが運ばれてきた。
それを配っているのは、エプロン姿の美しい女性と、どこか職人気質の漂う青年だった。
ルース大公邸に滞在しているはずの、セシリーとシーブックである。
「さあ、皆さん、温かいうちにどうぞ! たくさん食べて、元気を出してください!」
セシリーが笑顔でパンを差し出す。そのパンを手にとった市民は、あまりの重量感に目を丸くした。
「な、なんだこのパンは……!? ずっしりと重い。まるで、昔の歴史教科書か、古い噂話に聞いた……『鋼鉄のパン屋』のパンじゃないか!?」
「まさか! あの歴史の波に消えたっていう、伝説の名店の!? なぜそんなものがここに!」
「セシリーさんとシーブックさんが、大公邸の厨房を借りて焼き上げたんだそうだ! 本物だ、本物の鋼鉄のパンだ!」
市民たちは驚喜乱舞した。
一口齧れば、外側はカリリと驚くほどの歯ごたえがありながら、中は噛めば噛むほど小麦の旨味が溢れ出す。
木星帝国の恐怖や、完全戦時体制の息苦しさなど、その圧倒的な美味と力強さの前には消し飛んでしまうようだった。
「美味い、美味すぎる! おい、これなら木星の野蛮人が攻めてきても、このパンを投げつければモビルスーツの装甲くらい叩き割れるんじゃないか!?」
「馬鹿言え、こんな美味いもん投げつける奴があるか! 胃袋に収めて血肉にするんだよ!」
広場は、一時にして戦禍の予感を忘れたかのような、狂乱の祝祭会場へと変貌していた。
その頃、大公邸の巨大な厨房は、戦場さながらの熱気に包まれていた。
ゴォオオオ、と文字通り爆音を立てて燃え盛る巨大なオーブン。
その前で、髪を固く結び、額に汗を浮かべたセシリーが、まるでモビルスーツを操縦するかのような鋭い眼光で、巨大な木製のピザピールを振るっていた。
「シーブック! 次の生地の一次発酵はどうなったの!?」
「な、なっているけど、セシリー、ちょっとペースが早すぎるよ! もう十五石分の小麦粉を練り終えたんだ、僕の腕がモビルスーツの駆動系みたいに悲鳴を上げてる!」
シーブックは、普段の温厚な表情をどこかに置き忘れたような顔で、巨大なミキシングボウルと格闘していた。
「甘いこと言わないで! カテジナが……あの小さくて、頼るあてもなくて、ポイント・サカテリアの路地裏で飢えていたカテジナを、テテニス様が『私が見守る』って決めて、私だってあの頃、まだ幼かったあの子にロールパンをあげた記憶がはっきりとあるのよ!」
セシリーはオーブンから、焼き上がったばかりの、それこそ鉄塊のような存在感を放つパンをバサリと木箱にぶちまけた。
「それなのに! あのカガチやタシロの爺共ときたら! 政治の道具にするために、妊娠八ヶ月の妊婦に毒を盛るなんて、人間のやることじゃないわ! 私は絶対に許さない! あの男たちの姑息な肝を、このパンの硬さで叩き潰してやりたいくらいよ!」
「怒る理由は痛いほど分かるし、僕もカガチたちのやり方には憤りを感じるけど……だからって、どうしてパンをアメリア中の市民に行き渡るほど大量に焼くことになるんだい!?」
「決まっているでしょう! カテジナの大公邸が、毒殺の陰謀なんかに屈していないってことを、このコロニーの住人全員に知らしめるのよ! 大公は健在で、新しい命は力強く産まれた! それを祝うパンが、この鋼鉄のパンよ!」
セシリーの背後に、メラメラと目に見えんばかりのオーラが立ち上っている。
かつてクロスボーン・バンガードの象徴として担ぎ上げられ、その後はパン屋として一時代を築いた彼女の行動力と爆発力は、一度火がつくと誰にも止められなかった。
そこへ、厨房の重厚な扉が悲鳴を上げるようにして開いた。
入ってきたのは、大公邸を取り仕切る執事、イザークであった。
普段はどんな無理難題にも眉一つ動かさず、カテジナの娘たちである「ルース七姉妹」が、その圧倒的な知識と実力で迫ってきても、理路整然と論破しては彼女たちを泣かせてきた、鉄壁の冷徹さを誇る男である。
だが、今のイザークの顔は、完全に恐怖に染まっていた。
「セ、セシリー様……! シーブック様! 今すぐ、今すぐその手を止めてください!」
「イザーク? 邪魔をしないで。今、クロワッサンの層をさらに強固にするためのバターの折り込み作業中なのよ。木星の重力に負けないくらいの密度にしなきゃいけないんだから!」
「そんな物理法則を無視したパンの話をしている場合ではありません! 先ほど、地下の第一から第四備蓄庫の管理AIから、緊急アラートが上がりました。……大公邸が過去三年をかけて備蓄してきた小麦粉が、全て『消滅』したと!」
イザークは、手に持ったデータ端末を震わせながら叫んだ。
「全て消えた……? そんな馬鹿な。イザーク、あれだけの量を、いくらセシリーが狂ったように焼いたからって……」
シーブックが怪訝な顔をしたが、セシリーはふん、と鼻を鳴らした。
「あら、失礼ね。消滅じゃなくて、全部このオーブンの中を通って、市民の胃袋に向かっただけよ。まだ足りないわ。第二波の焼き込みに入りましょう」
「無理です! 不可能です! お嬢様、失礼、セシリー様!」
イザークは、かつてルース七姉妹の長女、ツクヨミを論破した時以上の大声を出した。
「私は、ルース七姉妹の皆様が、その高慢な鼻をへし折られて涙を流す姿を幾度となく見てきました。彼女たちの如何なる我儘も、私の予測の範疇に収まっていた! しかし……しかし、元お嬢様であり、伝説のパン屋の主であったあなたの行動力は、私の、いや、この大公邸の演算システムの予測を遥かに超越している! なぜ、たった数時間で、数万人分の備蓄小麦が灰、ではなくパンになるのですか!?」
「愛よ、イザーク。カテジナと、新しく産まれたフユミちゃんへの、そしてカガチたちへの純粋な怒りという名の燃料よ」
「そんな精神論で小麦粉は増えません! 市民は大喜びですが、明日からの大公邸の食生活はどうなるのですか!? 大公閣下は病床、いや、産後の肥立ちで休まれているというのに、お目覚めになった際『食べるパンがない』などということになれば、私は執事失格です!」
イザークは額の汗を拭い、狂ったように端末を叩き始めた。
「こうしてはいられない……! 1バンチ中、いや、サイド2全域の穀物ギルドから、至急小麦粉を買い漁らねば! おい、そこの下級使用人! 今すぐ大公邸の臨時予算口座を開け! 市場にある小麦粉を、一粒残らず買い占めるのだ!」
「は、はいっ!」
使用人たちが慌てて飛び出していく。
イザークは、ゼェゼェと息を切らしながら、セシリーを睨みつけた。
「セシリー様、小麦粉が届くまで、絶対にそのオーブンの火を落としてください。良いですね? これ以上のスタンドプレーは、私の心臓が持ちません」
「分かったわよ。じゃあ、その間にシーブック、イースト菌の活性化の準備をしておいて」
「セシリー、僕の話聞いてた……?」
シーブックは天を仰いだ。
その頃、大公邸の最深部、厳重なセキュリティで保護された開発局の地下シェルター。
ここには、今回の毒殺未遂事件と完全戦時体制への移行に伴い、「ルース七姉妹」と呼ばれるカテジナの娘たちが強制避難させられていた。
「……全く、退屈極まりないわね」
シェルターの豪奢なソファに深く腰掛け、不満げに髪を弄っているのは、長女のツクヨミであった。
彼女はまだ十三歳という若さでありながら、その容姿、性格、そして発育途上とはいえ将来を確約されたスタイルに至るまで、母親であるカテジナ・ルースと瓜二つであった。
その美貌には、十三歳とは思えないほどの冷徹さと、どこか人を惹きつける危うい魅力が同居している。
「ツクヨミお姉様、でも、お母様は無事だったのでしょう? それに、新しい妹のフユミちゃんも」
妹の一人がおずおずと尋ねると、ツクヨミはふんと鼻で笑った。
「当たり前よ。私達の母親が、あんなカガチやタシロの小細工でくたばるわけがないわ。フユミも、未熟児の分際で私達の妹になるのだから、それくらいの生命力はあって当然よ。それより……」
ツクヨミは、シェルターの換気口から微かに漂ってくる、香ばしい匂いに眉をひそめた。
「この、安っぽい、それでいてやたらと自己主張の激しい匂いは何かしら? まるで、泥臭い民衆が群がる市場のパン屋のようね」
「あ、あのね、お姉様。さっき、避難前に使用人の人が言ってたんだけど……大公邸に滞在してるセシリー様とシーブック様が、お母様の無事とフユミちゃんの誕生を祝って、市民にパンを振る舞ってるんだって。それも、『鋼鉄のパン屋』のパンを」
「鋼鉄のパン屋? ふん、歴史のゴミ箱に捨てられた名店のことね。テテニス叔母様のお仲間だか知らないけれど、あのおば様、お母様が毒を盛られたって聞いた瞬間、厨房で般若みたいな顔をして小麦粉を練り始めたらしいわよ。あの執事のイザークが、顔を真っ青にして買い出しに走る姿を、防犯カメラで見たわ」
ツクヨミは不敵な笑みを浮かべた。
その表情は、かつてザンスカール帝国で「ファラ・グリフォン」らと渡り合った頃のカテジナの残影そのものであった。
「自分の母親が殺されかけたというのに、私達はここに閉じ込められ、外では大の大人がパンを焼いてお祭り騒ぎ。滑稽極まりないわ。……でも、木星帝国が相手なら、このザンスカールの『女王』たる我が血筋の力、見せつける機会が来るかもしれないわね。十三歳だからって、舐められたものだわ」
「お姉様、怖い顔になってるよ……」
妹たちが縮こまる中、ツクヨミはシェルターの天井を見上げ、冷たい笑みをこぼし続けた。
厨房の熱気は、イザークが文字通り札束で頬を叩くようにして強引に市場から調達してきた、大量の小麦粉の到着によって、第二の局面を迎えていた。
セシリー・フェアチャイルド。
いや、今の彼女はただのセシリーであり、シーブックの妻であり、そして何より、かつて激動の宇宙世紀を生き抜いた一人の女性であった。
彼女は、新しく届いた小麦粉の袋を、鋭い手つきで切り裂いた。白い粉が舞う中、彼女の視線は、オーブンの向こうの虚空を見つめていた。
(カテジナ……貴女がどれだけ歪んで、どれだけ多くの罪を背負って、それでもこの大公の座にしがみついているか、私は知っている。テテニス様が貴女を見守ると決めた時、私は正直、正気を疑ったわ。貴女はそれほど、危険で、壊れた女だったから)
セシリーは、力強く生地を捏ねる。
その手のひらには、かつてポイント・サカテリアで、まだ幼く、孤児だったカテジナに出会った時の記憶が、今も鮮明に残っていた。
(あの時の貴女は、ただお腹を空かせて、世界を憎むような目で私を見ていた。私が差し出した、焼き立ての、何の変哲もないロールパン。貴女はそれを、まるで宝物のように、夢中で食べた。あの時の貴女の小さな、震える手の感覚を、私は今でも忘れていない)
ザンスカール帝国の最高権力者の一人となったカテジナ・ルース。
しかし、セシリーにとって、彼女は今でも、あの路地裏でパンを貪っていた哀れな少女の延長線上にいた。
(カガチやタシロが、貴女のその脆さに付け込んで、毒を盛った。お腹の中の子供ごと、貴女を歴史の闇に葬ろうとした。……冗談じゃないわ。政治の駆け引きで、命を、それも産まれてくる子供の命を弄ぶなんて、私は絶対に許さない。クロスボーン・バンガードの時もそうだった。大人の都合で、誰かの人生を、世界を歪める奴らは、私がこのパンで……この、人間の生を支える最も力強い『鋼鉄のパン』で、すべて撥ね退けてみせる!)
「セシリー、焼き上がったよ。……良い顔をしてるね」
シーブックが、ミトンをはめた手で、黄金色に輝く、しかし持てば文字通り鈍器のような重量を持つフランスパンを掲げた。
「ええ。ありがとう、シーブック。付き合わせちゃってごめんね」
「いいさ。君がこうして、誰かのために本気で怒って、本気でパンを焼く時、僕はいつも、君を好きになって良かったって思うんだ。……たとえ、その後で執事のイザークさんに、始末書を何枚書かされることになってもね」
シーブックの苦笑いに、セシリーは心からの笑顔を返した。
「さあ、まだまだ焼くわよ! 木星帝国が攻めてこようが、ザンスカールの内部が腐っていようが、私達のパンがある限り、1バンチコロニーの市民も、カテジナも、産まれたばかりのフユミちゃんだって、誰も飢えさせはしない! これが、私達の戦いよ!」
完全戦時体制へと移行したザンスカール帝国。
その喧騒の中心で、歴史の波に消えたはずの「鋼鉄のパン屋」のオーブンは、狂ったような熱を放ちながら、赤々と燃え続けていた。
それは、迫り来る木星の影をなぎ払うかのような、あまりにも力強く、そして少しだけおかしな、生への讃歌であった。