ザンスカール帝国のディストピア〜カテジナ・ルースの女王の系譜〜 作:ロドニー
ザンスカール帝国による、冷酷で執拗なインフラ破壊。
海上および軌道上の完全なる封鎖。
あの地獄のような日々が始まってから、すでに三年の歳月が流れていました。
かつて世界を救うために戦った私たちの力は、見る影もなくすり潰されていきました。オーブ軍のモビルスーツ隊は事実上の壊滅状態。
辛うじて稼働できる機体は、アスランのインフィニットジャスティス、シンのデスティニー、レイのレジェンド、そしてザクスラッシュファントムを失い、黄金の防殻たるアカツキへの乗り換えを余儀なくされたイザークの、わずか四機のみでした。
電力は途絶え、防空設備を動かすためのエネルギーすら底を突いたオーブを維持するため、アークエンジェルとクサナギ、そして私のエターナルは、兵器としての機能を止め、ただ街に電気を送り続けるためだけの巨大な発電所へと成り下がっていました。戦艦ミネルバだけを、最後の保険として地下ドックに隠し据えて。
けれど、そんな抵抗も長くは続きませんでした。オーブは日に日に干上がり、人々の肌は乾燥し、目は光を失っていきました。
そして今から三ヶ月前、私たちが極限の飢餓に喘ぎ、ただ呼吸をすることすら苦痛であったその時、ついにザンスカール帝国開発局の旗艦アドラステアが動きを見せたのです。
「ラクス、軌道上のレーダーに感あり。……真っ赤だ。大気圏突入を待つ量産型ドコラタンの群れが、上空を完全に埋め尽くしている」
通信から聞こえるアスランの声は、飢えと疲労で掠れ、今にも途切れそうでした。
狭まる海上封鎖。
逃げ場などどこにもない絶望。
その中を、二機の巨大な影が大気圏へと突入し、オーブの上空を優雅に、まるで獲物を品定めするように回遊し始めました。
超巨大モビルアーマー。
そのうちの一機は、かつてルナマリアのゲルググメナースを容赦なく撃墜した、あの忌まわしき蒼穹色の機体。
そしてもう一機は、不気味な威圧感を放つ色違いの漆黒色。
エターナルの艦橋に座る私の耳に、オーブ軍総司令本部との通信回線を通じて、狂おしいほどの現実が飛び込んできました。
「カガリ……すまない、もう、本当に、何も……」
「アスラン、謝るな。お前はよくやってくれた。だが……もう、限界だ」
カガリの声の向こうから、弱々しい、けれど張り裂けんばかりの泣き声が響いてきました。
カガリとアスランの間に生まれた、今年で四歳になるはずの愛娘、ヒナの。
「う、あ……あう……。おなか、いたい……。おかあさま……なにか、食べるもの……なぁに、もないの……?」
その声は、四歳児のものとは思えないほど細く、頼りないものでした。
極度の栄養失調のせいで、二歳児にしか見えないほどに痩せ細った小さな体。
その子が飢えに泣く声を、母親であるカガリがどれほどの思いで聞いているのか。
「ああ、ヒナ、ごめんね……ごめんね……。もうすぐ、もうすぐ温かいものが来るからね……」
カガリのすすり泣きと、決意の混じった痛切な声が通信を満たしました。
「エターナル、ラクス……聞こえるか。オーブは、ザンスカール帝国に対し、無条件降伏を受け入れる。これ以上の犠牲は……この子たちの命は、もう守れない」
その言葉を聞いた瞬間、私の心の中で張り詰めていた何かが、音を立てて千切れました。
ああ、やっと、終わる。
この極限の飢餓から、乾ききった地獄から、やっと解放される。
「ラクス!? ラクス、しっかりしろ!! おい、医療班を、早く!」
艦長であるアンドリュー・バルトフェルドの焦燥に満ちた叫び声が、遠く遠くへ遠ざかっていく。
私は自分の体が崩れ落ち、冷たい床へと倒れ込んでいく感覚を他人事のように覚えながら、深い闇の中へと意識を失いました。
次に目が覚めた時、私の視界に飛び込んできたのは、見覚えのない清潔な天井でした。
そこは、サイド2の1バンチコロニーにある、ザンスカール帝国開発局本局の軍病院でした。
「気が付きましたか、クライン女史。無理に動かないでください。あなたは深刻な飢餓状態にありました。まずはこれを」
医師が差し出してきたのは、湯気を立てる温かいスープでした。
一口すすると、体にじんわりと染み渡る確かな栄養の味。
手厚い、あまりにも手厚い正気を疑うほどの治療。
肉体が満たされていくのと反比例するように、私の心はどこまでも冷えていきました。
この温かさを享受している間にも、オーブの人々は、あの地獄の中でどうなっているのか。それを思うと、涙が溢れて止まりませんでした。
体力が最低限回復すると、すぐに待ち受けていたのは激しい取り調べでした。
医師の付き添いのもと、一日に数時間程度に制限されてはいましたが、尋問官たちの質問は執拗で、容赦のないものでした。
「ギルバート・デュランダル議長の派閥と、お前たちの繋がりを話せ」
「プラント残留派の残党と、どのような通信を行っていた?」
何度も、何度も同じことを聞かれました。ですが、私にとっては全く身に覚えのない、知らない内容ばかりだったのです。
デュランダル議長が遺した闇が、今になってなぜ私を縛るのか。
困惑する私に、尋問官は冷酷な笑みを浮かべて、決定的な証拠を突きつけてきました。
「知らぬ存ぜぬで通すつもりか。ならば、これを見ても同じことが言えるかな?」
モニターに映し出されたのは、あまりにも無残に解体され、解析されたモビルスーツの設計データでした。
「これは……ストライクフリーダム……」
「そうだ。十三年前のメサイア戦において、我が帝国のカテジナ・ルース様によって撃墜され、パイロット共々鹵獲された機体だ。このストライクフリーダムと、インフィニットジャスティス。お前たちが造り上げ、キラ・ヤマトとアスラン・ザラに与えた二機のガンダム。その動力源たる新型エンジンの技術、そして核機動のデータは、ギルバート派の極秘研究所から流出したものだったのだよ」
頭を殴られたような衝撃でした。
私たちが平和のために、未来のためにと信じて託した力が、かつての敵であるデュランダル議長の派閥から流れ出たものだった。
その繋がりこそが、私をザンスカール帝国に対する反逆、および違法兵器製造の罪へと引きずり下ろす決定打となったのです。
裁判は淡々と進みました。
結果として、私自身がギルバート派と直接的な繋がりを持っていなかったことは証明されました。
しかし、クライン派のトップとして、その技術を用いた兵器を運用し、帝国への抵抗を続けた責任は重い。
「被告人、ラクス・クライン。情状酌量の余地を認め、役刑とする。懲役五年を言い渡す」
判決の瞬間、私はただ静かに目を閉じました。
五年。
世界がこれほどまでに変わり果ててしまった中で、その年月がどれほどの意味を持つのか、今の私には想像もつきませんでした。
裁判所から刑務所へと移送されるため、私は厳重な警備の中、護送車へと向かう廊下を歩いていました。
冷たい手錠の感触を肌に感じながら、ふと、開けたロビーの方へと目を向けました。
そこに、その人々はいました。
まばゆいばかりの光の中に、一人の女性が立っていました。
気高く、美しく、冷徹な威厳をまとった女性――カテジナ・ルース。
そしてその彼女の隣に寄り添うようにして立つ、一人の男の姿に、私は息を呑みました。
「……キラ……?」
声にはなりませんでした。
けれど、私の目は確かに彼を捉えていました。
十三年前、公開虐殺のジャック放送で観た、ギロチン台の上のキラ。
カテジナ・ルースによって心も体も蹂躙され、尊厳を奪われ、瞳から完全に光を失っていた、あの私の愛したキラ。
あの時の絶望的な姿が最後だと、私の記憶の中で凍りついていたはずの彼が、そこにいたのです。
今のキラの周りには、たくさんの子供たちが群がっていました。
キラの腕に大切そうに抱っこされているのは、キラにそっくりな、愛らしい二歳ほどの女の子。
その周囲を囲むのは、上は十三歳と十二歳くらいでしょうか、母親であるカテジナにそっくりな、すらりとしたスタイルの良い女の子たち。
さらに、七歳くらいと思われる双子の女の子と、六歳くらいと思われる双子の女の子。
総勢、七人の子供たち。
彼らは皆、幸せそうに笑い、キラの服の裾を引っ張ったり、カテジナの手を握ったりしていました。
「……おい、私語は慎め」
私の視線に気づいた刑務官が、低く冷たい声で囁きました。
「あれがどなたか分かっているのか。ザンスカール帝国開発局局長、カテジナ・ルース大公の御一家だ。
そして、その隣におられるのが、大公閣下の側付き技士を務められる、キラ・ルース大佐だ」
「大佐……キラが、帝国の、軍人に……?」
信じられない言葉が耳を通り抜けていきます。
私が驚愕したのは、彼が敵国の高官になっていたからではありません。その瞳です。
十三年前、光を失い、ただの人形のように成り果てていたはずのキラの瞳が、今はどうでしょう。
子供たちを見つめるその目は、カテジナの手を優しく握り返すその眼差しは、信じられないほど穏やかで、慈愛に満ち、幸せそうに輝いていたのです。
彼は、救われたのでしょうか。
私ではなく、自分を蹂躙したはずのカテジナ・ルースの手によって。
私たちがオーブで飢えと戦い、干からびていく中で、キラはあの凄惨な過去を乗り越え、この帝国の中心で、
新しい家族と共に、本物の幸福を手に入れていた。
私の存在など、もう彼の世界のどこにも残っていない。
その冷酷な現実が、私の胸を深く、深く突き刺しました。
彼を戦いに巻き込み、ガンダムに乗せ、苦しめ続けたのは、他ならぬ私だったのかもしれない。
カテジナは彼を壊したけれど、同時に、彼を戦いから切り離し、一人の男として、父親としての幸せを与えた。
私の信じていた正義は、一体何だったのでしょう。
護送車へと押し込まれる間際、私は刑務官たちの世間話を耳にしました。
それは、オーブの、そして私の大切な仲間たちの「その後」に関する、決定的な絶望の報せでした。
「オーブの連中も、ようやく落ち着いたらしいな」
「ああ。無条件降伏の後、オーブの土地は全てルース大公家の唯一の私有領地として割譲されたからな。あの代表だったカガリ・ユラ・アスハも、今や大公家の寄子だ。子爵の爵位を与えられて、領地を管理する当主として平伏しているさ」
「元代表が寄子の子爵か。笑えるな。それだけじゃない、あのアスハの男や、周りにいた元オーブ軍の幹部ども……アスラン・ザラだったか? そいつらも今じゃ、ルース大公家の侍女や執事、あるいは私兵部隊として、大公家に忠誠を誓って働いているらしいぞ」
頭の中が真っ白になりました。
アスランが。
カガリが。
あの誇り高きオーブの象徴だった彼らが、生き残るために、あの飢えから子供たちを、人々を守るために、ザンスカール帝国の、それもカテジナ・ルースの忠実な僕となる道を選んだ。
カガリは子爵として領地を管理し、アスランは私兵として彼女たちの足元を警護する。
ヒナを、次の世代を生きながらえさせるための、それが彼らの選択。
「ああ……、ああ……」
護送車の重い扉が閉まり、外の光が完全に遮断されました。
ガタガタと揺れ始める車内で、私は膝を抱え、ただ暗闇を見つめることしかできませんでした。
キラは、私を忘れてカテジナと幸せな家庭を築き、輝く瞳を取り戻した。
アスランとカガリは、生きるために誇りを捨て、ルース大公家の軍門に降った。
そして私は、過去の亡霊のように、一人取り残されて刑務所へと運ばれていく。
私たちが守ろうとした世界は、もうどこにもありません。
満たされた肉体とは裏腹に、私の魂は、あの乾いたオーブの土の下よりも深く、底のない絶望へと沈んでいくのでした。
オーブの無条件降伏。
その響きは、かつて私たちが信じた世界の終わりを意味していた。
かつての栄華も、掲げた理念も、圧倒的な暴力の前に霧散した。
私はただ、飢餓状態に陥った身体を横たえ、白い天井を見上げるだけの存在になっていた。
点滴の針が皮膚を刺す感覚すら、生きている証拠としてはあまりに希薄だった。
最低限の治療を受け、どうにか動けるようになった私を待ち受けていたのは、冷徹な取り調べと、形式ばかりの裁判だった。
言い渡された刑期は五年。
罪状など、勝者が敗者に押し付けるレッテルに過ぎない。
私が移送されたのは、ザンスカール帝国の刑務所だった。
それは、まるで巨大な鳥の籠のような場所だった。
高い天井、幾重にも張り巡らされた格子。
外の光は届くのに、決して羽ばたくことは許されない。
唯一の救いは、囚人同士の会話が比較的自由に許されていたことだった。
監視の目は厳しかったが、言葉を交わすことまでは禁止されていなかった。
痩せ過ぎて、衣服の中で泳ぐような身体を引きずりながら、私は収監された初日の食堂へと向かった。
そこで、私は信じられない人物と再会することになる。
「……あら、そのピンクの髪。見間違えるはずもないわね」
低く、しかし凛とした声が響いた。
振り返った私の目に飛び込んできたのは、かつてプラント評議会の議員として辣腕を振るった、エザリア・ジュールの姿だった。
イザーク・ジュールの母親。
彼女の刑期は八年。
六年前のプラント陥落の際、ザンスカールに逮捕されたのだという。
それは、私が後に知ることになる激動の歴史の一片に過ぎなかった。
「シュール夫人……あなた、ここに」
「お互い、無様な姿ね。ラクス・クライン。いえ、今はただの囚人かしら」
夫人は自嘲気味に微笑んだが、その瞳の奥の光は消えていなかった。
私たちは配給の薄いスープを前に、静かに言葉を交わした。
彼女から聞かされる話は、どれも私の知らない外の世界の、そして私の大切な人たちの、あまりに変貌してしまった現実だった。
「イザークはどうしているのですか? 彼は……」
「息子の心配? ふん、あの子なら、今はルース大公邸の執事をやっているわよ」
「執事、ですか? イザークが?」
私の驚きに、夫人は深く溜息をついた。
「オーブが降伏した後、カガリたちも含めて、あの子も深刻な飢餓状態だったらしいわ。治療を受けさせてくれたのがルース大公家だった。そこまではいいのよ。問題はその後。メイリン・ホークを覚えているでしょう? ルナマリアとクロノクル皇太子が婚約した後に、オーブから姿を消して亡命したあの娘よ」
「ええ、もちろん覚えています」
「あのメイリンが、ルース七姉妹の長女の専属秘書官兼侍女になっていたの。だけど、あの姉妹達の暴虐振りに、周囲は振り回されっぱなし。メイリンはあの子にこう言ったんですって。『この屋敷には、あの姉妹達にまともなツッコミを入れられる人間が足りません。どうか力を貸してください』とね。そうやって説得されて、あの子は今や大公邸の執事よ。私が護送される時に、風の噂で聞いた話だけどね」
信じられない話だった。
あの気性の激しいイザークが、執事として誰かに仕えているなど。
しかし、生き延びるため、そして守るべきもののために、誰もがプライドを捨てて泥をすすっているのだ。
「カガリは……カガリはどうなったのですか?」
「カガリ・ユラ・アスハは、ルース大公家の唯一の領地となったオーブを管理するために、寄子の子爵当主となったわ。名前だけの貴族、実質は大公家の監視付きの管理人よ。それでも、オーブの民を守るために、彼女はその椅子を受け入れたのよ」
私たちは鳥籠の中で、変貌した世界を嘆くことしかできなかった。
しかし、そんな日々は唐突に終わりを告げる。収監されてから、まだ半年も経たない頃だった。
「囚人番号四〇五番、および二一二番。即時釈放とする。恩赦だ」
看守の声に、私とシュール夫人は顔を見合わせた。あまりにも早すぎる釈放。
理由は、ルース大公家で八女である「フユミ」という女児が出産されたことによる、国を挙げた大規模な恩赦だった。
私たちは刑務所の裏口から外へと出された。手渡されたのは、ザンスカール帝国の一級市民が着用する私服。
そして、私の特徴的なピンクの髪は、目立たないように茶髪へと染め上げられていた。
「恩赦ね。素直に喜ぶ気にはなれないわ」
シュール夫人は支給された衣服に身を包みながら、苦々しく呟いた。
「ええ。何か、裏があると考えざるを得ません」
私たちは、出所に伴って指定された場所――ルース大公邸のガゼボが見える裏路地へと向かった。
なぜそこへ行くように指示されたのかは分からなかったが、今の私たちに拒否権はなかった。
身を潜めるようにして裏路地から大公邸の庭園を覗き込んだ私たちは、奇妙な、そして胸が締め付けられるような光景を目撃することになる。
広大な庭園の芝生の上で、子供たちが遊んでいた。
一人は、カガリの一人娘であるヒナ。
そしてもう一人は……キラをそのまま女の子にしたような、あまりにも優しく、愛らしい面影を持つ子供だった。
二人は無邪気に笑い合い、駆け回っている。
その姿は、この残酷な世界において唯一の救いのように見えた。
しかし、その視線を少しずらした先にあるガゼボでは、おぞましいほどの緊迫感が漂っていた。
「背筋が伸びていませんよ、カガリ・ユラ・アスハ子爵。そんな無様な姿勢で、よくもまあ一国の代表の座に就いていたものです。お里が知れますわね」
冷徹で、氷のように鋭い声。そこにいたのは、カテジナ・ルースだった。
彼女の前に立ち、全身から汗を流しながら、必死に姿勢を保とうとしているのはカガリだった。
かつての獅子の威容はどこへやら、カテジナによる苛烈な「淑女教育」によって、肉体的にも精神的にも限界まで扱き倒されているのが一目で分かった。
「くっ……これくらい、どうってこと……ない……!」
「口を動かす暇があるなら、その不格好な足首をどうにかしなさい。見ていて反吐が出ますわ」
扇子でカガリの顎を容赦なく跳ね上げるカテジナ。その光景に、私とシュール夫人は息を呑んだ。
あのカガリが、ここまで徹底的に調教されているなんて。
「……何をしている、貴様ら」
背後から掛けられた低い声に、私たちは心臓が止まるかと思った。
振り向くと、そこには整った執事服を完璧に着こなしたイザーク・シュールが立っていた。
かつての白服の軍服ではなく、仕立ての良い黒い燕尾服。
しかし、その鋭い眼光だけは、私の知るイザークそのものだった。
「イザーク……!」
「母上……それに、ラクス・クラインか。やはり貴様らだったか」
イザークの顔に驚きはない。
最初から私たちがここへ来ることを知っていたかのような口ぶりだった。
「ちょっと、イザーク! これはどういうことなの! なぜ私たちが釈放されて、なぜあなたがそんな格好をして、あそこでカガリがカテジナに虐められているのよ!」
シュール夫人がたまらず息子に怒鳴り散らした。
しかし、イザークは眉一つ動かさず、むしろ普段以上の冷静さ、いや、どこか切迫した様子で母親を睨み返した。
「静かにしろ、母上! 声を荒らげるな!」
「な、何よその態度は! 母親に向かって!」
「貴様らの安全を先に確保しなければならないから言っているんだ! 御託はいい、ついて来い!」
イザークは私たちの腕を強引に掴むと、裏路地から大公邸の敷地内へと引きずり込んだ。
そして、そのままカテジナたちのいるガゼボへと連行したのだ。
「カテジナ様。お連れいたしました」
イザークが恭しく頭を下げる。
カテジナはゆっくりと視線をカガリから私たちへと移した。
カガリは荒い息を吐きながら、私たちの姿を見て目を見開いた。
「ラクス……それに、ジュール夫人!? なぜここに……」
「お黙りなさい、カガリ。まだ発言を許してはいませんわ」
カテジナの一言で、カガリは悔しそうに唇を噛み締め、再び直立不動の姿勢に戻った。
あのカガリをここまで従順にさせるとは、一体どれほどの恐怖を植え付けたのだろうか。
困惑する私たちを他所に、イザークがカテジナに向かって、しかし私たちにも聞こえるような声で話し始めた。
その内容は、あまりにも驚愕すべきものだった。
「カテジナ様。カガチ派の残党の動きは完全に封じ込めました。先の『八女フユミ様』のご生誕における大規模恩赦……その裏で、カガチ派が動いていた件について、お耳に入れたきことが」
イザークが語る真実は、背筋が凍るような陰謀だった。
カテジナは、つい先日まで妊娠八ヶ月だったのだという。
しかし、彼女を失脚させようとする女王派の敵対派閥、「カガチ派」の手によって、強力な出産促進剤を食事に盛られた。
まだ生まれるべきではない時期に、無理やり出産を誘発させられたのだ。
その結果、生まれた八女フユミの命はもちろん、カテジナ自身の命も非常に危険な状態に陥ったという。
「……そんな、ではフユミ様は……カテジナ様は……」
私が呟くと、イザークは冷たい目で私を見た。
「メイリンが、倒れた直後のカテジナ様を迅速に発見した。大公邸の医療班が総力を挙げ、奇跡的に母子ともに一命を取り留めたのだ。そして、カテジナ様はこの危機を逆手に取り、出産を祝う『恩赦』として、カガチ派に拘束されていた有能な人材――つまり、貴様たち二人を合法的に釈放させた。カガチ派の力を削ぎ、自らの手駒を増やすためにな」
すべての点と線が繋がった。
私たちが半年足らずで釈放されたのは、大公家の慈悲などではない。
カテジナ・ルースという怪物が、自らの命を狙った暗殺未遂すらも利用し、政治的取引として私たちを買い取ったのだ。
「フフ……説明ご苦労さま、イザーク。相変わらず優秀な執事ね」
カテジナが、淑女らしい、しかしどこか悪魔的な微笑を浮かべて席を立った。
彼女の視線が私とシュール夫人に注がれる。そのプレッシャーだけで、呼吸が詰まりそうだった。
「さて、ラクス・クライン。そしてエザリア・シュール夫人。お前たちがなぜここに呼ばれたか、もう理解できていて?」
「……私たちを、どうするつもりですか、カテジナ様」
私が問いかけると、カテジナは背後に控えていたメイリンに合図を送った。メイリンは無表情のまま、二着の衣服を私たちに差し出した。
それは、仕立ての良い女性用の秘書官の制服だった。
しかし、そのデザインを見た瞬間、私とシュール夫人は息を呑んだ。
制服の左ポケット。
そこに刺繍されていたのは、見紛うはずもない紋章だった。
金色に輝く、獅子の紋章。
「これは……アスハ家の紋章……!?」
シュール夫人が驚愕の声を上げる。
カテジナは満足そうに目を細めた。
「ええ。あなたたち二人ほどの優秀な人材を、ただの一般市民として腐らせておくほど、私は愚かではないわ。カガチ派の者たちは、計画が失敗したと知るや否や、這う這うの体で木星へと逃げ延びたわ。ですが、あの者たちが蒔いた種は、まだこの地球圏に、そしてザンスカールに残っている」
カテジナはカガリの前に歩み寄り、その頬を優しく、しかし有無を言わせぬ力で撫でた。
「カガリ・ユラ・アスハ。彼女はこれから、ルース大公家の犬として、オーブを完璧に統治しなければならない。そのためには、ただの戦士では困るのよ。完璧な淑女であり、完璧な政治家でなければならない。ルナマリア皇太子妃も、私のこの教育を耐え抜いたわ。彼女がクロノクルと共に羽ばたく前にね。次は、カガリの番。そして、彼女を支え、同時に監視する『アスハ家秘書官』として、あなたたち二人に働いてもらいます」
拒否権など、最初から存在しなかった。
カテジナの目は言っていた。
従わなければ、再びあの鳥籠へと戻るか、あるいはそれ以上の地獄を見るかだと。
「私が木星へ向かう前に、カガリの教育を終わらせるつもりよ。ラクス、エザリア。あなたたちは、今日からカガリの同僚であり、部下であり、私の目よ。さあ、その汚らしい囚人の残り香がする服を脱ぎ捨てて、それを着なさい」
悪魔の笑みを浮かべるカテジナ。
その横で、イザークはただ黙って前を見据えていた。
彼の選択もまた、生き残るためのものだったのだろう。
私は差し出された獅子の紋章の制服を見つめ、静かに覚悟を決めた。
オーブは負けた。
私たちはすべてを失った。
しかし、この地獄のような現実の中で、まだ子供たちの笑い声は響いている。
生き延びて、いつかまた。その微かな希望を胸に、私は茶色に染まった髪をかき上げ、制服へと手を伸ばした。