ザンスカール帝国のディストピア〜カテジナ・ルースの女王の系譜〜 作:ロドニー
捕虜という泥沼の底から一転して、ザンスカール帝国の皇族教育を受けることになったルナマリア・ホーク。
だが、その教育は最初から完全に躓いていた。
「……お話になりませんわ。歩き方、カップの持ち方、お茶の啜り方、そのすべてが品性を欠いています」
冷徹に言い放ったのは、長女である十歳のツクヨミだ。母親であるカテジナと瓜二つの容姿、そして他者を冷厳に見下ろす苛烈な性格。
元プラントの平民出身で、実戦を潜り抜けてきた軍人であるルナマリアに、いきなり高国な作法を求めるのは酷というものだが、ツクヨミにそんな妥協は一切通用しなかった。
食事でのカトラリーの進め方、会話中の扇子の持ち方、顔を隠す角度、閉じた扇子を引く位置、そして広げる幅によって言葉に頼らず意思を伝える『扇の秘事』――。
それらはすべて、ザンスカール帝国の貴族令嬢が六歳までに身につける基本中の基本。
しかし、ルナマリアにとっては未知の言語も同然で、すべてが「駄目、やり直し」の烙印を押された。
「ルナマリア、大丈夫よ。私だって最初は散々お母様に叱られて、叩かれて、毎日ワンワン泣いたんだから」
そう言って、涙を流すルナマリアの肩を抱き寄せたのは、次女で九歳のアマテラスだった。
彼女はカテジナ譲りの残酷な本性を秘めながらも、普段は天真爛漫。
自分が通ってきた血の滲むような教育の痛みがわかるからこそ、ルナマリアには根気強く寄り添った。
ルナマリアが泣けば、一緒になって涙を流す。
そんなアマテラスに、ルナマリアは「あなたの中に宿るその優しさは、きっとキラ(ツクヨミとアマテラスの父親)に似たのね」と微笑み、アマテラスもその言葉に胸を擽られるような嬉しさを覚えていた。
そうして、ツクヨミが
「なんとか形にはなってきたかしらね」
ようやく初歩の初歩を認めるまでに、実に半年の歳月が流れていた。
「いつまでそんな生温いおままごとを続けているのです、あなたたちは」
静まり返るレッスン室の扉を開けて現れたのは、カテジナだった。
彼女は七女を出産し、退院してからわずか一週間しか経っていないはずだった。
使用人からの報告を受け、居ても立ってもいられずにやってきたのだ。
息を呑む姉妹の視線が、一斉にカテジナの右手に集中する。そこには、黒光りする乗馬用の鞭が握られていた。
(お母様、マジだ……!)
アマテラスの脳裏に、かつて自分が味わった恐怖がフラッシュバックする。
あの鞭は痛い。
狂おしいほどに痛い。
しかし、肌に跡がまったく残らないという、絶妙極まりない力加減で振るわれるのだ。
かつて父親であるキラをも深いトラウマに陥れた、ザンスカールの苛烈な教育。
それが今、ルナマリアに牙を剥こうとしていた。
「プラントの泥に塗れた平民の癖が、半年経っても抜けないとはね。ツクヨミ、アマテラス。あなたたちが甘いからです。この難易度は、宇宙世紀の遺物……一年戦争の『ジム』で、第二次ネオ・ジオン抗争の『サザビー』を撃破しろと言っているようなもの。文字通り、命を削らねば届きません」
カテジナの冷徹な声が響くと同時に、鞭が風を切った。
「ひっ……あああああッ!!」
ルナマリアの絶叫が響き渡る。
泣こうが喚こうが、容赦のない連続の鞭が雨のように降り注ぐ。
アマテラスとツクヨミは、その凄惨な光景に自らの過去の恐怖が呼び起こされ、恐怖のあまりに失禁しそうになりながら、ただ目を覆うことしかできなかった。
だが、地獄はそれだけで終わらなかった。
進まない皇族教育に、さらなる大物が動いたのだ。
変装こそしているものの、その気品と威圧感を隠し通せるはずがない。
現れたのは、ザンスカール帝国最高権力者――女王マリア陛下その人であった。
「カテジナ、少し手ぬるいようです。私が直々に、帝王学を授けましょう。ツクヨミ、アマテラス、あなたたちもおさらいです」
マリア叔母様による、直々の帝王学講座。
それは姉妹にとっても容赦のないものだった。
かつて父親の精神を粉砕した女王の教育は、まさに「飴と鞭」の極致。
あまりに見事な差配に、あの狂気の母カテジナすらも「流石はお姉様……」と感嘆の息を漏らすほどだった。
母親と叔母、二人の怪物による容赦のない超短期詰め込み教育。
その成果は凄まじかった。
カテジナが介入してから、わずか二ヶ月。
ルナマリアは淑女教育の「上級編」へと瞬く間に上り詰め、帝王学と帝国史の教本を半分以上もその頭脳に叩き込まれていた。
今やルナマリアは、声を出さずとも、手にした扇の絶妙な角度と動きだけで複雑な会話を成立させるほどに成長していた。
しかし、その信じられないほどの急成長の裏で、次女のアマテラスには一つ、深刻な心配事があった。
(ルナマリア、最近どんどん痩せていってる……)
レッスンを終え、着替えを手伝うたびに、アマテラスは戦慄していた。
ルナマリアのドレスのサイズが、明らかに緩くなっているのだ。今や、本来なら体型を補正するためのコルセットをあえて外さなければ、ドレスそのものが緩すぎて、肩から滑り落ちてしまう。
限界まで絞られた肉体は、過酷な教育の凄まじさを物語っていた。
ダンスホールの磨き上げられた床に、私のステップの音がいつもより重く響いていた。
淑女教育の一環である、ダンスの練習。
けれど、私の心はステップの軽やかさとは程遠い場所にあった。
「……料理長。ルナマリアの食事、本当にそれしか摂っていないの?」
「はい、アマテラス様。ここ数週間、お運びしたお食事の半分も……いえ、ここ数日はスープを二口、三口召し上がるのがやっとのようでございます」
休憩の合間、こっそり呼び出した料理長の言葉に、私は胸を締め付けられるような痛みを覚えていた。
皇族教育の遅れを取り戻すため、最初は私とツクヨミお姉様が担当していた彼女の教育。
それが、母親のカテジナとマリア女王叔母様に代わってから、わずか二ヶ月。
ルナマリアの凄まじい負けず嫌いと努力の才能は、平民の軍人上がりとは思えないほどだった。あっという間に淑女教育の上級編へ足を踏み入れ、難解な帝王学と帝国史の教本を半分も終わらせてみせたのだ。
けれど、その裏で彼女がどれほど無理をしていたか。
夜中まで一人、明かりを灯して予習と復習を繰り返していたのを、私は知っている。
ドレスの着替えを手伝うたび、ルナマリアの身体は目に見えて細くなっていった。
頬はこけ、今やドレスの形を整えるためのコルセットすら必要としないほどに、彼女は痩せ細ってしまっていたのだ。
私の中に眠る、母親譲りの残虐な血が「もっと追い詰めればどうなるかしら」と天真爛漫な無邪気さで囁く瞬間がなかったと言えば嘘になる。
でも、それ以上に私の胸を満たしていたのは、彼女への純粋な心配だった。
その時だった。
「──ッ、ルナマリア……!!」
耳を突き刺したのは、鋭い悲鳴だった。
初めて聞く、一歳年上の姉、ツクヨミの取り乱した声。
母親と瓜二つの容姿と冷徹な性格を持つあの姉が、あんな声を上げるなんて。
私は料理長との話を放り出し、淑女教育の一環でダンスの練習が行われているホールへと走った。
「ルナマリア!」
重厚な扉を押し開けた瞬間、視界に飛び込んできたのは、冷たい床にうつぶせに倒れ伏すルナマリアの姿だった。
肌の血の気は完全に失われ、まるで精巧に作られた蝋人形のようにピクリとも動かない。
「宮廷医師を! 早く呼びなさい!」
ホールの特等席で練習を観ていた母親のカテジナが、鋭い声を張り上げる。
その隣で、叔母であるマリア女王もまた、動揺を隠せない面持ちで立ち上がっていた。
すぐに駆けつけた医師によって、ルナマリアは医務室へと運び込まれた。
下された診断は、極度の栄養失調と、過度な疲労による心不全寸前の虚脱。
普段なら、他人の能力や限界を絶対に見誤ることのない完璧な母親と叔母様。
その二人が、ルナマリアの「負けず嫌い」という精神力に騙され、肉体の限界を完全に見誤った結果だった。
「……どうして」
医務室のベッドで横たわるルナマリアの、あまりにも細くなった手首を見て、私の中で何かが激しく弾けた。
「どうして、ここまで放っておいたのよ!!」
私の怒声が医務室に響き渡った。
驚愕に目を見開く母親と叔母様、そして呆然と立ち尽くす姉のツクヨミ。九歳の子供が、帝国の頂点に立つ二人の絶対者に牙を剥くなど、本来なら一発で不敬罪、あるいはそれ以上の罰を与えられてもおかしくない暴挙だった。
だが、今の私にそんな生ぬるい恐怖など知ったことではなかった
「いい加減にしてよッ!」
私は、生まれて初めて母親であるカテジナと、叔母様であるマリア女王に向かって激しく噛みついた。
「ルナマリアを死なせる気!? 叔母様への不敬罪? そんなの知ったことじゃないわ! 彼女をこんな目に遭わせるなんて、絶対に許さないんだから!」
いつもニコニコと残酷な遊びを楽しんでいるはずの私が、形相を変えて怒鳴り散らしたのだ。
母親のカテジナも、叔母のマリア女王も、そして私の傍らにいた姉のツクヨミまでもが、信じられないものを見るかのように目を見開いて硬直していた。
特にツクヨミは、母様と瓜二つの容姿と冷徹な性格をしている。
その姉が、完全に言葉を失って私を凝視していた。しかし、啖呵を切ったのも束の間。怒りが引いた瞬間に、どっと押し寄せてきたのは、底のない深い後悔だった。
(……ああ、私のせいだ。全部、私が馬鹿だったからだ……!)
私は思い知る。
何時までも結婚しない叔父様のクロノクルを、面白半分に弄り倒して勝ち取った、あの約束。
『――わかった、わかったからやめろ! アマテラス、お前が気に入った娘を連れてきたなら、俺はそいつと結婚してやるよ!』
そんな叔父様の言質を真に受けて、私はなんて愚かなことをしてしまったのだろう。
オーブ本国への強行偵察任務の際、私が撃墜したルナマリアを、勝手に「叔父様のお嫁さん候補」として、捕虜にして連れ帰ってしまったのだ。
私のそのあまりにも軽率な行動のせいで、彼女はザンスカール流の凄惨な皇族教育の標的にされ、ここまでボロボロに追い詰められてしまった。
「う、うわあああああんっ! ごめんなさい! ごめんなさいルナマリアぁーッ!」
人目なんてどうでもよかった。
私はベッドの脇に崩れ落ち、声を上げて大泣きした。
自分の我儘と軽率さが、お気に入りのルナマリアを殺しかけたのだ。
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、私はただひたすらに泣き叫んだ。
その様子を、カテジナとマリア女王は冷ややかな、しかしどこか満足げな目で見下ろしていた。
二人は視線を交わし、小さく息を吐く。
「……ふふ、どうやらお仕置きはこれで完了のようね」
「ええ。少しは自分の立場と、事の重大さが身に染みたかしら、アマテラスは」
大人たちは、私が自分の仕でかした事の重さに絶望し、泣き喚く姿を見て、一先ずの「教育」が終わったと安堵していたのだ。
それからの私は、まるで憑き物が落ちたようにルナマリアのベッドに張り付いた。
食事の時も、眠る時も、彼女の手を握り締め、必死に看病を続けた。
冷たいタオルを額に当て、彼女が生きていることを確かめるように、その胸の鼓動に耳を澄ませた。
看病を始めてから、三日が経った。
窓から差し込む柔らかな光の中で、ルナマリアの長い睫毛がピクリと動いた。
「……ん……っ……」
微かな声を漏らし、彼女の瞳がゆっくりと開かれる。
「ルナマリア……?」
私が息を呑んで顔を覗き込むと、彼女はまだぼんやりとした視線で、私を、そして見慣れぬ天井を見つめた。
生きている。
彼女の瞳に、確かに光が戻っていた。
「う、うわああああああああんっ!! よかったぁぁぁ! ルナマリアぁぁぁーーーッ!!」
目覚めた彼女の胸に飛び込み、私は再び、最初と同じように、大声を上げて激しく泣きじゃくったのだった。
カーテンの隙間から差し込む柔らかな光が、白を基調とした部屋を照らしていた。
鼻を突く消毒液の臭い。
かすかに聞こえる医療機器の電子音。
厳しい皇族教育の毎日に、心も体も限界を迎えていた。
次第に疲れから食欲をなくし、喉を通るのは水ばかり。
あとの記憶は曖昧だった。
気付けば、私は医務室のベッドの上で目を覚ました。
「……ん……っ」
重い瞼を押し上げると、すぐ目の前に誰かの顔があった。
目尻に大粒の涙を溜め、私をじっと見つめていたのは、アマテラスだった。
まだ九歳の少女。
あのカテジナ様の娘であり、母親譲りの苛烈な残虐性を秘めながらも、普段は天真爛漫に振る舞う、掴みどころのない幼子。
そのアマテラスと、ふと瞳が合った。
「……あ……っ、ルナマリア……!」
私が気付いた瞬間、アマテラスは私の胸に飛び込んで抱き着くと決壊したように大泣きし始めた。
小さな体を震わせ、なりふり構わず涙を流すその姿に、私は混乱の極みに陥る。
あの、いつも他人を玩具のようにしか思っていない彼女が、なぜこれほどまでに泣いているのか。
「ごめんなさい……っ、ごめんなさい、ルナマリア……!」
アマテラスは泣きじゃくりながら、何度も、何度も言葉を吐き出した。
「わたしが、おじ様を弄り倒して、バカなこと言わせて言質を取ったりしたから……っ。わたしが、軽率な考えでルナマリアを捕虜にして、ここに連れ帰ったりしたから……! だからルナマリアが、こんな、こんなことになっちゃったの……っ!」
しゃくり上げ、子供のように袖で顔を拭う彼女は、いつもの不気味な恐ろしさなど微塵もない、ただの年相応の少女だった。
やっぱり、そうだったんだ。
アマテラスが泣きながら口にする謝罪の内容から、私はすべてを察した。
私がこの国で、皇族と結婚することになるのだという事実を。
けれど、頭が真っ白になった私が、辛うじて口にできたのは、恨みの言葉ではなく別の言葉だった。
「……倒れちゃって、ごめんね、アマテラス」
その言葉を聞いた瞬間、アマテラスは驚いたように目を見開いた。
そして、さらに激しく声を上げて大泣きし始めた。
自分のせいで倒れたかもしれない相手から、逆に謝られたことが、彼女の幼い心を激しく揺さぶったのだろう。
アマテラスをあやしながら、私は静かに思考を巡らせる。
私の結婚相手は、おそらくマリア女王陛下の弟であるクロノクル様。
彼は将来の国王だ。
つまり、私が彼と結婚するということは、将来この国の王妃になるという現実を意味していた。
あまりにも重い運命が、私の肩にのしかかる。
そんな最中だった。
医務室の静かな扉が開き、足音が近付いてくる。
現れたのは、カテジナとマリア女王陛下だった。
女王陛下はベッドの傍らに立つと、慈悲深い、しかしどこか痛ましげな瞳で私を見つめた。
「ルナマリア、すまなかった。あなたにこれほどの無茶をさせてしまったこと……そして、我が馬鹿な弟の失言が、あなたをここまで追い詰めてしまいました」
続いて、カテジナが冷徹な表情の裏に、母親としての複雑な色を滲ませて頭を下げた。
「私の娘が、あなたの運命を翻弄するようなやらかしをしたこと、深く謝罪します」
高貴な二人が、一介の少女である私に頭を下げている。
その光景に息を呑む私に、マリア女王陛下は静かに告げた。
「基礎的な、そして最も過酷な皇族教育はこれで終わりです。あなたは合格です、ルナマリア。……ですが、この先を歩むというのなら、それはただの皇族教育ではありません。本物の『皇太子妃教育』となります」
女王陛下の言葉の重みに、部屋の空気が張り詰める。
王妃となる未来。
それは、華やかな世界の裏にある、どす黒い深淵へ足を踏み入れることと同義だった。
けれど、私の心は不思議と静かだった。
逃げ出す選択肢など、最初からなかったのかもしれない。
「……私は、教育を続けます。皇太子妃としての教育を、受けさせてください」
私の迷いのない言葉に、マリア女王陛下は表情を険しくした。
「お止めなさい、ルナマリア。皇太子妃になるということは、皇族の真の闇を知るということ。もし、その途中で耐えかねて脱落すれば……、あるいは結婚できなければ、待っているのはただの平穏ではありません。あなたは、国の秘密を握った者として、毒杯を煽ることになるのです」
死の宣告に近い脅し。
それでも、私の決意は揺らがなかった。
「それでも、私はやります」
まっすぐに女王陛下を見据えて言い放つと、マリア女王陛下もカテジナ様も、息を呑んで驚きに目を見開いた。
「ルナマリア……っ! うあああああん!」
最悪の場合、私が毒杯を煽って死ぬことになるかもしれない。
その未来を突きつけられたアマテラスは、私の服の裾を握り締め、再び激しく大泣きするのだった。
皇族教育の最中、張り詰めていた糸が切れるように倒れた私は、重度の栄養失調と過度の疲労により、回復までに一ヶ月という時間を要した。
しかし、完全に回復した私を待っていたのは、さらなる過酷な試練——いや、私自身が自分の意志で受けることを選択した、「皇太子妃教育」という名の地獄だった。
教鞭を執るのは、ザンスカール帝国の最高権力者であり、精神的支柱でもあるマリア・ピア・アーモニア女王陛下自ら。
かつて医務室で、私に謝りながら大泣きしたカテジナ様の次女・アマテラスは、あの事件以来、完全に私に懐いていた。
母親譲りの天真爛漫さと、時折のぞかせる苛烈な残虐性を秘めたその幼い少女は、私の姿を見つけては嬉しそうに駆け寄ってくる。
だが、女王陛下との講義が始まる時だけは、彼女を部屋から出さねばならなかった。
なぜなら、その教育の内容は、一般の国民はもちろん、貴族にすら秘匿された、皇族にしか知り得ぬ帝国の深淵だったからだ。
「ルナマリア、よく聞きなさい。これが私たちの歩む道、そして背負う十字架です」
二人きりの静室で、女王陛下の口から語られたのは、「ギロチン主義」に纏わる悍ましい闇だった。
見せしめの恐怖によって民を統制するシステムの真実。語られる凄惨な裏歴史に、私は幾度となく胃の底からせり上がる吐き気に襲われ、口元を押さえた。
そして、教育が進むにつれて私は気づいてしまったのだ。
この国の正体が、社会主義に絶対王政と宗教を融合させた、恐るべき歪な統治国家であるということに。
学べば学ぶほど、皇族という存在になることへの底知れない恐怖が私を支配していく。
それと同時に、この歪んだ巨象の頂点に座るマリア女王陛下が、その細い肩にどれほど真の恐怖を抱え込んでいるのかを知り、背筋が凍る思いだった。
それでも、私は辞めなかった。
持ち前の負けず嫌いと、クロノクル様を支えるという決意、そして血の滲むような努力で、私はその地獄の教育を邁進し続けた。
――そうして、皇族教育と皇太子妃教育に身を捧げ、一年の歳月が流れた。
「ルナマリア。よくぞここまで。本日を以て、あなたの皇太子妃教育を修了とします」
マリア女王陛下から告げられたその言葉を聞いた瞬間、私の張り詰めていた何かが決壊した。
「陛下……っ!」
私はドレスの裾も構わず、女王陛下に抱き着き、子供のように大声で泣き叫んだ。
この一年の孤独と恐怖、プレッシャーが涙となって溢れ出して止まらない。
女王陛下は、まるで実の母親のような慈悲に満ちた目で私を見つめ、優しく抱き返してくれた。
「よく、乗り越えましたね。本当に、よく頑張りました」
その温もりに触れながら、私はこの御方が、これから私の義姉(あね)となる存在なのだと、深く胸に刻み込むのだった。
しかし、教育が終わっても、皇太子妃として認められるための「最終試験」が残されていた。
それは、あまりにも残酷な、刑執行の実務。
クロノクル様との婚約、そして次期皇太子妃就任の公式発表を直前に控えた私に、マリア女王陛下から下された最後の試練。
それは、ある大罪人へのギロチン刑の執行を命じるものだった。
囚人の名は、ギルバート・デュランダル。
かつてプラントの最高評議会議長であり、メサイア要塞で捕縛されて以来、その頭脳から帝国の全容や旧時代の情報を引き出すための取り調べが、十年以上もの長きにわたって続けられていた男だった。
そして、全ての取り調べが終わったのが五日前で、女王陛下がギロチン刑の刑執行を命じたのである
刑場に立つ私は、次期皇太子妃としての華美で豪奢なドレスに身を包んでいた。
美しい衣装と、これから行われる血生臭い処刑のコントラストが、帝国の狂気を体現しているようだった。
私は逃げ出したくなる心を鋼の意志で押さえつけ、冷徹に決意を固めて全霊の声を発した。
「これより、罪人ギルバート・デュランダルへの、ギロチン刑の執行を宣言します」
その声が響いた瞬間、断頭台の前に引き出されていたギルバート議長は、驚愕に目を見開いた。
かつての面影を残すその瞳が私を捉えたが、彼は何も言わなかった。
ただ静かに、運命を受け入れるように断頭台へと歩を進めた。
「見届けるのよ、ルナマリア。目を逸らしてはならない。これが、あなたの背負う業なのだから」
心の中で自分に何度も言い聞かせた。
これは私の義務だ。
この男の命が散る瞬間まで、すべてを記憶に焼き付ける責任がある。
鈍い金属音と共に、ギロチンの刃が落ちる。
議長の首が落ち、かつて世界を揺るがした希代の政治家の最後が、呆気なく訪れた。
鮮血がドレスに飛び散ったような錯覚を覚えながらも、私はただじっと、その光景を凝視し続けていた。
恐怖はなかった。
ただ、次期皇太子妃として、ザンスカールの闇と共に生きていく覚悟だけが、私の胸に深く、冷たく刻み込まれていた。
カテジナの娘であるアマテラスの、底の浅い天真爛漫な笑顔を思い出すたび、俺は自分の甘さを呪う。
あれから既に一年が過ぎた。
子供の言うこと、それもあのアマテラスのことだ。もう忘れているだろう」そう高を括り、完全に油断していた矢先のことだった。
ザンスカール帝国女王、マリア・ピア・アーモニア――俺の実の姉である女王陛下から、突如として私室へ出頭するよう命が下った。
胸を突く奇妙な胸騒ぎを覚えながら私室の扉を開けた瞬間、俺は己の破滅を直感した。
そこには、並々ならぬ不機嫌さを全身から漂わせるマリア姉上と、その傍らで呆れ果てたような表情を浮かべながら俺を冷酷に睨みつける義妹、カテジナ・ルースが待ち構えていたのだ。
「クロノクル。あなたがこれほど愚かだとは思わなかったわ」
開口一番、マリア姉上の冷徹な声が室内に響く。
その怒りの原因は、一年前に俺が犯した「失言」にあった。
いくら自分がいつまでも結婚しないからといって、わずか九歳の姪、アマテラスに散々からかわれ、その執拗な追求から逃れたい一心で口走ってしまった言葉。
『――そこまで言うなら、アマテラス、お前が気に入った娘を連れてくれば結婚してやるよ』
それがすべての引き金だった。
「私の娘なのよ? クロノクル。あの性質を受け継いだアマテラスが、そんな格好の言質を見逃すはずがないでしょう」
カテジナが溜息混じりに、しかし容赦のない視線で俺を刺す。
「ばっちりボイスレコーダーに録音されていたわ。言い訳の余地なんてないの」
アマテラスは母親譲りの残虐性と、それを覆い隠す天真爛漫さを併せ持つ怪物だ。
彼女は俺の言葉を有言実行すべく、すぐに行動を起こしていた。
オーブ本国への強行偵察任務のドサクサに紛れ、自分の「お気に入り」となる見所のある少女を本当に拉致、もとい確保してきたのだ。
さらに恐ろしいのはその後だった。
確保された少女をザンスカールの皇族に相応しい人間へと仕立て上げるため、アマテラスとその姉ツクヨミ――こちらはカテジナと瓜二つの容姿と冷徹な性格を持つ長女――の二人がかりで当初は皇族教育を始めたらしい。
だが、子供たちの手際では遅々として進まないその教育に、あろうことかカテジナとマリア姉上自らが参入したという。
歪んだエリート教育の天才たちが寄ってたかって弄り回し、みっちりと地獄の英才教育を施すこと丸一年。
少女は完全に「完成」してしまったのだ。
マリア姉上が、フッと口元に残虐な笑みを浮かべる。
「次のお披露目会で、その娘とあなたの婚約を発表します。それと同時に、クロノクル……あなたには我がザンスカール帝国の皇太子になってもらいます。拒否権はありませんよ?」
頭の中が真っ白になった。
叫び出したかった。
我が家の女皇族どもは、どいつもこいつも、いろんな意味で怖すぎる。
逃げ場などどこにもない。
呆然自失のまま、俺の脳裏にふと、先日執行されたある光景が蘇った。
プラントの元評議会議長であり、十年前のメサイア要塞戦の戦犯としてギロチン刑が確定したギルバート・デュランダルの処刑。
厳かな刑の執行時、鈍く光る刃の傍らに、真っ赤に燃えるような美しい赤髪をなびかせ、戦乙女のように凛烈たる気品を纏った女皇族の姿があった。
もちろん、最高格式の女皇族用ドレスを完璧に着こなして。
あの時、ギロチンの紐を引いたのは、まさか、アマテラスがオーブから連れてきて、マリア姉上たちが一年かけて教育し尽くしたという、俺の「婚約者」だったのだろうか。
背筋に、今まで経験したことのないような冷たい戦慄が走り抜けた。