ローゼンヴァルトの館〜白薔薇に閉ざされた館を彷徨う、凍りついた涙の物語 作:TatshMusicCircle
イクスは奥歯を噛みしめた。
視界の端で、白薔薇の蔓がさらに伸びる。
レイラの足元へ。
エレノアナの腕へ。
そして、自分の喉元へ。
イクスは銃を構え直し、迫る棘へ向けて引き金を引いた。
銃声が鳴る。
だが、今度は違った。
弾丸は白薔薇へ届く直前で、ふっと形を失った。
金属の弾頭が、白い霧へ変わる。
まるで最初からそこに存在しなかったかのように、空中でほどけて消えた。
「なっ……!」
レイラが息を呑む。
イクスは続けて撃った。
二発。
三発。
だが同じだった。
弾丸はすべて白い霧となり、薔薇へ触れることなく消滅する。
銃声だけが残る。
抵抗したという事実だけを、館に嘲笑われているようだった。
次の瞬間、床が揺れた。
白の間全体が、静かに脈打つ。
床一面に広がっていた白薔薇が、一斉に花開いた。
閉じていた蕾がほどける。
花弁が重なり合い、白い波となって床を覆う。
それは、客人を迎えるために敷かれた絨毯のようでもあり、少女の足元を汚さぬよう跪く使用人たちの群れのようでもあった。
誰かの命令を待つように。
あるいは、今もなお少女に仕えているつもりでいるように。
だからこそ、その白は美しいのに、逃げ場のない墓標のように見えた。
白い蔓が伸びる。
細く、滑らかで、絹糸のように柔らかそうに見える。
だが、それが足首に触れた瞬間、イクスはその異常な力を思い知った。
「くっ……!」
蔓が絡みつく。
足首を締め、膝へ這い上がり、腕へ伸びてくる。
霜ではない。
氷でもない。
小さな白薔薇の結晶が、金属の上に咲いていく。
「武器を凍結させている……!」
イクスは無理に引き金を引こうとした。
だが、動かない。
金属の内部まで白い結晶に侵されている。
銃はもう、武器ではなくなっていた。
ただの冷たい塊だった。
甘い香りが濃くなる。
青白い広間を満たしていく。
花の蜜。
砂糖。
果実酒。
それから、忘れたはずの懐かしい匂い。
帰る場所の匂い。
安心して眠れた夜の匂い。
誰かに許されたような匂い。
それらが混ざり合い、三人の意識へ入り込んでくる。
まぶたが重くなる。
腕から力が抜ける。
抵抗しなければいけない。
分かっている。
分かっているのに、その理由が少しずつ遠くなる。
「忘れれば、もう苦しくないのに」
少女は敵意を見せなかった。
怒ってもいない。
勝ち誇ってもいない。
ただ、本当に悲しそうだった。
「痛いのも、怖いのも、後悔も、ぜんぶ消えるよ」
白薔薇の触肢が、レイラの全身へと絡みつく。
酒精を含んだ白い触肢は、熱に浮かされたように震えながら、変わらずに太さと硬さを増している。
ただ締めつけるのではない。衣服越しに身体へ押しつけられ、馴れ馴れしく輪郭を確かめるように這い回ってくる。
胸元に集まった触肢が、柔らかな膨らみを左右から挟み込んだ。
ぐい、と押し上げ、ぐに、と形を歪ませる。
「……っ、ちょっと……!」
レイラが身をよじる。
だが触肢は、反応を面白がるようにぴたりと離れない。
衣装の上から、遠慮を知らない手つきで、バストの重みを面白がるように揉み込んでくる。
「……あぁ、もう……こいつら、理屈抜きでイラつくわ……」
吐き捨てる声には怒りが滲んでいた。
けれど、あまりにしつこく、あまりに馴れ馴れしい感触に、レイラの瞳がわずかに揺れる。
嫌悪。
苛立ち。
そして、自分の身体を勝手に品定めされているような、ぞわりとした羞恥。
「……ほんっと、最低」
そう言いながらも、レイラの瞳は揺れていた。
白い飲み物が注がれたグラス。
少女の手の中で、透明度の高い美しい白が揺れている。
白い液体から、懐かしい香りがした。
暖炉の前で眠っていた夜。
誰かに頭を撫でられた記憶。
帰る場所がまだ存在していた頃の匂い。
レイラはそれを見つめていた。
見てはいけないと分かっているのに、目を離せない。
「レイラさん!」
イクスが叫ぶ。
レイラは返事をしなかった。
彼女の表情から、怒りが消えていく。
代わりに浮かんだのは、遠い記憶に触れてしまった者の顔だった。
「……昔ね」
レイラが、ぽつりと呟いた。
「見たことがあるの」
「レイラさん?」
「全部、忘れた人を」
彼女の声は、白い霧の向こうから聞こえているようだった。
「実験の後遺症で、何も思い出せなくなった人がいた。名前も、家族も、自分が何をされたのかも。全部、なくなってた」
レイラの指先が震える。
「最初は、ひどいことだと思った。こんなの、人間から全部奪ってるだけだって。そう思ったのに」
白い蔓が、レイラの手首へ絡みつく。
拒絶を許さないほど静かに。
「その人……笑ってたのよ」
レイラの瞳に、涙ではない光が滲む。
レイラはずっと気丈に振る舞っていただけだった。
誰より冷静に見えて、その実、誰よりも強く痛みを抱え込んでいた。
だからこそ、全部忘れて穏やかに笑っている人間を見た時、その救いへ心が揺れてしまった。
「何も覚えてないから。傷ついたことも、奪われたことも、裏切られたことも。全部忘れて……穏やかに笑ってた」
「レイラさん、だめです!」
エレノアナが叫ぼうとする。
だが、その声にも力がない。
レイラはグラスへ手を伸ばした。
「あたし、あの時……思っちゃったの」
白い蔓が、彼女の指をそっと支える。
「こんな救いも、あるのかもしれないって」
その声は、震えていた。
いつものレイラなら、そこで笑っていたかもしれない。
冗談めかして、肩を竦めて、そんなわけないでしょと吐き捨てていたかもしれない。
だが、今の彼女は違った。
イクスも、エレノアナも、そんなレイラの顔を見たことがなかった。
彼女の瞳から、大粒の涙がこぼれていた。
一筋ではない。
堰を切ったように、透明な雫が頬を伝い、顎へ落ちていく。
それは白い部屋の光を受けて、硝子の粒のように輝いた。
強くて、明るくて、いつも余裕を失わないはずのレイラが。
誰よりも現実を見据え、誰よりも痛みに怒ってきたはずのレイラが。
子どものように、声を押し殺して泣いていた。
「あたし……父さんが殺された過去も……」
レイラの唇が震える。
「母さんがいないこの世界も……忘れたい」
「レイラさん……」
エレノアナの声が掠れた。
止めなければいけない。
そう分かっているのに、彼女の足は動かなかった。
目の前のレイラの涙が、あまりにも痛々しかったからだ。
それは館に操られているだけの表情ではなかった。
レイラの奥底にずっと沈んでいた、本当の悲しみだった。
「ずっと、平気なふりしてた」
レイラは泣きながら笑った。
その笑みは、壊れそうなほど弱かった。
グラスの中で、透明度の高い白い飲み物が揺れる。
美しい液体だった。
救いのように見えるほどに。
「ねぇ、イクスくん……あたし、ずっと怖かったのよ」
レイラの声は震えていた。
「父さんの研究を継いで、強いふりして、全部分かってるみたいな顔して……でも、本当は何も分かってなかった」
涙が落ちる。
「助けたい人は増えるのに、救えない人も増えていく。マテリアルで誰かが死ぬたび、止められなかったあたしのせいだって思うの。父さんが作ったものなら、娘のあたしが止めなきゃいけないのに」
レイラは泣きながら笑った。
「そんなの、重いに決まってるじゃない……」
「だめです、レイラさん……!」
イクスは叫んだ。
だが、声が届く前に、白い蔓がレイラの手を優しく導いた。
レイラは抵抗しなかった。
むしろ、自分からそれを受け入れるように、グラスを両手で包み込んだ。
涙が、またひとつ落ちる。
白い床へ落ちる前に、雫は淡い霧となって消えた。
「少しだけでいいの」
レイラは呟いた。
「少しだけ……忘れさせて」
そして、グラスを唇へ運んだ。
イクスは足へ力を込めた。
だが、動かない。
まるで白い花弁が床そのものになり、靴裏を飲み込んでいるようだった。
声を出そうとしても、喉が震えるだけだった。
イクスもエレノアナも、息を呑んだまま動けなかった。
白い液体が、レイラの口元へ流れ込む。
彼女の喉が、小さく動く。
飲んだ。
その瞬間、レイラの瞳から最後の大粒の涙がこぼれ落ちた。
それは悲しみそのもののように頬を伝い、やがて白い光の中へ溶けていく。