ローゼンヴァルトの館〜白薔薇に閉ざされた館を彷徨う、凍りついた涙の物語   作:TatshMusicCircle

10 / 10
10話 レイラの涙

 イクスは奥歯を噛みしめた。

 

 視界の端で、白薔薇の蔓がさらに伸びる。

 

 レイラの足元へ。

 

 エレノアナの腕へ。

 

 そして、自分の喉元へ。

 

 イクスは銃を構え直し、迫る棘へ向けて引き金を引いた。

 

 銃声が鳴る。

 

 だが、今度は違った。

 

 弾丸は白薔薇へ届く直前で、ふっと形を失った。

 

 金属の弾頭が、白い霧へ変わる。

 

 まるで最初からそこに存在しなかったかのように、空中でほどけて消えた。

 

「なっ……!」

 

 レイラが息を呑む。

 

 イクスは続けて撃った。

 

 二発。

 

 三発。

 

 だが同じだった。

 

 弾丸はすべて白い霧となり、薔薇へ触れることなく消滅する。

 

 銃声だけが残る。

 

 抵抗したという事実だけを、館に嘲笑われているようだった。

 

 次の瞬間、床が揺れた。

 

 白の間全体が、静かに脈打つ。

 

 床一面に広がっていた白薔薇が、一斉に花開いた。

 

 閉じていた蕾がほどける。

 

 花弁が重なり合い、白い波となって床を覆う。

 

 それは、客人を迎えるために敷かれた絨毯のようでもあり、少女の足元を汚さぬよう跪く使用人たちの群れのようでもあった。

 

 誰かの命令を待つように。

 あるいは、今もなお少女に仕えているつもりでいるように。

 

 だからこそ、その白は美しいのに、逃げ場のない墓標のように見えた。

 

 白い蔓が伸びる。

 

 細く、滑らかで、絹糸のように柔らかそうに見える。

 

 だが、それが足首に触れた瞬間、イクスはその異常な力を思い知った。

 

「くっ……!」

 

 蔓が絡みつく。

 

 足首を締め、膝へ這い上がり、腕へ伸びてくる。

 

 霜ではない。

 

 氷でもない。

 

 小さな白薔薇の結晶が、金属の上に咲いていく。

 

「武器を凍結させている……!」

 

 イクスは無理に引き金を引こうとした。

 

 だが、動かない。

 

 金属の内部まで白い結晶に侵されている。

 

 銃はもう、武器ではなくなっていた。

 

 ただの冷たい塊だった。

 

 甘い香りが濃くなる。

 

 青白い広間を満たしていく。

 

 花の蜜。

 

 砂糖。

 

 果実酒。

 

 それから、忘れたはずの懐かしい匂い。

 

 帰る場所の匂い。

 

 安心して眠れた夜の匂い。

 

 誰かに許されたような匂い。

 

 それらが混ざり合い、三人の意識へ入り込んでくる。

 

 まぶたが重くなる。

 

 腕から力が抜ける。

 

 抵抗しなければいけない。

 

 分かっている。

 

 分かっているのに、その理由が少しずつ遠くなる。

 

「忘れれば、もう苦しくないのに」

 

 少女は敵意を見せなかった。

 

 怒ってもいない。

 

 勝ち誇ってもいない。

 

 ただ、本当に悲しそうだった。

 

「痛いのも、怖いのも、後悔も、ぜんぶ消えるよ」

 

 白薔薇の触肢が、レイラの全身へと絡みつく。

 

 酒精を含んだ白い触肢は、熱に浮かされたように震えながら、変わらずに太さと硬さを増している。

 ただ締めつけるのではない。衣服越しに身体へ押しつけられ、馴れ馴れしく輪郭を確かめるように這い回ってくる。

 

 胸元に集まった触肢が、柔らかな膨らみを左右から挟み込んだ。

 ぐい、と押し上げ、ぐに、と形を歪ませる。

 

「……っ、ちょっと……!」

 

 レイラが身をよじる。

 だが触肢は、反応を面白がるようにぴたりと離れない。

 衣装の上から、遠慮を知らない手つきで、バストの重みを面白がるように揉み込んでくる。

 

「……あぁ、もう……こいつら、理屈抜きでイラつくわ……」

 

 吐き捨てる声には怒りが滲んでいた。

 けれど、あまりにしつこく、あまりに馴れ馴れしい感触に、レイラの瞳がわずかに揺れる。

 

 嫌悪。

 苛立ち。

 そして、自分の身体を勝手に品定めされているような、ぞわりとした羞恥。

 

「……ほんっと、最低」

 

 そう言いながらも、レイラの瞳は揺れていた。

 

 白い飲み物が注がれたグラス。

 

 少女の手の中で、透明度の高い美しい白が揺れている。

 

 白い液体から、懐かしい香りがした。

 

 暖炉の前で眠っていた夜。

 

 誰かに頭を撫でられた記憶。

 

 帰る場所がまだ存在していた頃の匂い。

 

 レイラはそれを見つめていた。

 

 見てはいけないと分かっているのに、目を離せない。

 

「レイラさん!」

 

 イクスが叫ぶ。

 

 レイラは返事をしなかった。

 

 彼女の表情から、怒りが消えていく。

 

 代わりに浮かんだのは、遠い記憶に触れてしまった者の顔だった。

 

「……昔ね」

 

 レイラが、ぽつりと呟いた。

 

「見たことがあるの」

 

「レイラさん?」

 

「全部、忘れた人を」

 

 彼女の声は、白い霧の向こうから聞こえているようだった。

 

「実験の後遺症で、何も思い出せなくなった人がいた。名前も、家族も、自分が何をされたのかも。全部、なくなってた」

 

 レイラの指先が震える。

 

「最初は、ひどいことだと思った。こんなの、人間から全部奪ってるだけだって。そう思ったのに」

 

 白い蔓が、レイラの手首へ絡みつく。

 

 拒絶を許さないほど静かに。

 

「その人……笑ってたのよ」

 

 レイラの瞳に、涙ではない光が滲む。

 

 レイラはずっと気丈に振る舞っていただけだった。

 

 誰より冷静に見えて、その実、誰よりも強く痛みを抱え込んでいた。

 

 だからこそ、全部忘れて穏やかに笑っている人間を見た時、その救いへ心が揺れてしまった。

 

「何も覚えてないから。傷ついたことも、奪われたことも、裏切られたことも。全部忘れて……穏やかに笑ってた」

 

「レイラさん、だめです!」

 

 エレノアナが叫ぼうとする。

 

 だが、その声にも力がない。

 

 レイラはグラスへ手を伸ばした。

 

「あたし、あの時……思っちゃったの」

 

 白い蔓が、彼女の指をそっと支える。

 

「こんな救いも、あるのかもしれないって」

 

 その声は、震えていた。

 

 いつものレイラなら、そこで笑っていたかもしれない。

 

 冗談めかして、肩を竦めて、そんなわけないでしょと吐き捨てていたかもしれない。

 

 だが、今の彼女は違った。

 

 イクスも、エレノアナも、そんなレイラの顔を見たことがなかった。

 

 彼女の瞳から、大粒の涙がこぼれていた。

 

 一筋ではない。

 

 堰を切ったように、透明な雫が頬を伝い、顎へ落ちていく。

 

 それは白い部屋の光を受けて、硝子の粒のように輝いた。

 

 強くて、明るくて、いつも余裕を失わないはずのレイラが。

 

 誰よりも現実を見据え、誰よりも痛みに怒ってきたはずのレイラが。

 

 子どものように、声を押し殺して泣いていた。

 

「あたし……父さんが殺された過去も……」

 

 レイラの唇が震える。

 

「母さんがいないこの世界も……忘れたい」

 

「レイラさん……」

 

 エレノアナの声が掠れた。

 

 止めなければいけない。

 

 そう分かっているのに、彼女の足は動かなかった。

 

 目の前のレイラの涙が、あまりにも痛々しかったからだ。

 

 それは館に操られているだけの表情ではなかった。

 

 レイラの奥底にずっと沈んでいた、本当の悲しみだった。

 

「ずっと、平気なふりしてた」

 

 レイラは泣きながら笑った。

 

 その笑みは、壊れそうなほど弱かった。

 

 グラスの中で、透明度の高い白い飲み物が揺れる。

 

 美しい液体だった。

 

 救いのように見えるほどに。

 

「ねぇ、イクスくん……あたし、ずっと怖かったのよ」

 

 レイラの声は震えていた。

 

「父さんの研究を継いで、強いふりして、全部分かってるみたいな顔して……でも、本当は何も分かってなかった」

 

 涙が落ちる。

 

「助けたい人は増えるのに、救えない人も増えていく。マテリアルで誰かが死ぬたび、止められなかったあたしのせいだって思うの。父さんが作ったものなら、娘のあたしが止めなきゃいけないのに」

 

 レイラは泣きながら笑った。

 

「そんなの、重いに決まってるじゃない……」

 

「だめです、レイラさん……!」

 

 イクスは叫んだ。

 

 だが、声が届く前に、白い蔓がレイラの手を優しく導いた。

 

 レイラは抵抗しなかった。

 

 むしろ、自分からそれを受け入れるように、グラスを両手で包み込んだ。

 

 涙が、またひとつ落ちる。

 

 白い床へ落ちる前に、雫は淡い霧となって消えた。

 

「少しだけでいいの」

 

 レイラは呟いた。

 

「少しだけ……忘れさせて」

 

 そして、グラスを唇へ運んだ。

 

 イクスは足へ力を込めた。

 

 だが、動かない。

 

 まるで白い花弁が床そのものになり、靴裏を飲み込んでいるようだった。

 

 声を出そうとしても、喉が震えるだけだった。

 

 イクスもエレノアナも、息を呑んだまま動けなかった。

 

 白い液体が、レイラの口元へ流れ込む。

 

 彼女の喉が、小さく動く。

 

 飲んだ。

 

 その瞬間、レイラの瞳から最後の大粒の涙がこぼれ落ちた。

 

 それは悲しみそのもののように頬を伝い、やがて白い光の中へ溶けていく。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
一言
0文字 一言(必須:10文字~500文字)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。