ローゼンヴァルトの館〜白薔薇に閉ざされた館を彷徨う、凍りついた涙の物語 作:TatshMusicCircle
「レイラさん!」
イクスが叫ぶ。
レイラの体が、ゆっくりと傾いた。
膝から力が抜け、崩れ落ちる。
だが、白薔薇の蔓が彼女の背を支えた。
腕を包み、肩を支え、足元から絡みつきながら、レイラの体を白い花弁の上へ横たえていく。
赤い髪が、白薔薇の上に広がった。
つい先ほどまで大粒の涙を流していた頬には、もう苦しみの色がない。
眉間に寄っていた皺も消え、唇はわずかに緩んでいる。
白薔薇に支えられたグラスが傾き、透明度の高い白い飲み物が、少しずつレイラの唇へ流れ込んでいく。
彼女はもう拒まなかった。
ただ静かに喉を動かし、痛みも、怒りも、悲しみも届かない場所へ沈んでいく。
「……そんな、レイラさん」
エレノアナが震える声で呟いた。
赤い睫毛の奥で、瞳の焦点がゆっくりとほどけていく。いつもなら皮肉を返し、誰より早く状況を見抜くその目から、怒りも警戒も薄れていた。
白薔薇に横たえられたまま、レイラはもう抵抗しない。
胸元が小さく上下するたび、白い花弁がかすかに揺れる。唇の端には、苦しみではなく、眠りに落ちる直前のような淡い緩みが残っていた。
父を奪われた悲しみも。
母のいない世界を生きてきた孤独も。
ずっと背負ってきた痛みも。
そのすべてを抱えきれなくなって、白い飲み物を受け入れてしまった。
そして今、レイラは苦しんでいない。
泣いていない。
怒ってもいない。
ただ、穏やかに受け入れている。
「こんなの……救いじゃ、ありません……」
エレノアナはそう言った。
だが、その声は弱かった。
否定しようとしているのに。
目の前のレイラの表情が、あまりにも安らかだったから。
エレノアナの胸の奥に、別の記憶が浮かび上がる。
救えなかった人々の顔。
差し伸べた手。
届かなかった指先。
自分の名前を呼んでいた声。
助けを求める瞳。
そして、その後に訪れた静寂。
「私は……忘れてはいけないんです」
エレノアナは両手を胸元で握りしめた。
「忘れてしまったら……あの人たちが、本当に消えてしまうから……」
少女が静かに言った。
「でも、覚えていると、苦しいでしょう?」
エレノアナの肩が震えた。
白い蔓が、彼女の足元へ伸びる。
乱暴ではない。
責めるようでもない。
ただ、疲れた者を休ませるように、そっと寄り添ってくる。
「助けたかったのに、助けられなかった」
エレノアナの胸に、冷たい痛みが落ちた。
目の前で、レイラを止められなかった。
あの手がグラスへ伸びる前に、自分がもっと強く叫んでいれば。
もっと早く動けていれば。
そんな考えが、白い霧よりも重く、エレノアナの心へ沈んでいく。
「守りたかったのに、守れなかった」
「やめてください……」
「忘れたら、もう泣かなくていいよ」
エレノアナの瞳から涙がこぼれた。
静かな涙だった。
レイラのように堰を切ったものではない。
けれど、その一滴には、押し殺してきた痛みが詰まっていた。
「私……」
エレノアナは唇を震わせる。
「私だって、ずっと、怖かったんです」
「エレノアナ!」
イクスが叫ぶ。
だが、白い蔓が彼の体を縛りつけている。
動けない。
届かない。
エレノアナは涙を流したまま、眠るレイラを見つめた。
「次にまた、誰かを救えなかったらって……」
声が細くなる。
「夜になると、思い出すんです。もっと早く行けてたらって。もっと強ければって」
少女が、新しいグラスを差し出す。
透明度の高い、美しい白い飲み物。
光を薄く溶かしたような液体が、静かに揺れていた。
「忘れれば、もう苦しくないよ」
「……忘れたら」
エレノアナの手が、ゆっくりと伸びる。
「私は……楽に、なれるのでしょうか」
「なれるよ」
少女は穏やかに微笑んだ。
「もう、自分を責めなくていいの」
「だめだ、エレノアナ!」
イクスは必死に声を張り上げた。
「それは救いじゃない! 戻れなくなる!」
エレノアナはイクスを見た。
涙に濡れた瞳。
まだ、そこには彼女自身の意志が残っていた。
優しく、強く、誰かを助けたいと願い続けてきた彼女の光が。
けれど、その光は白い霧の中で揺れていた。
「ごめんなさい……イクスさん」
エレノアナは小さく言った。
「少しだけ……少しだけ、休ませてください……」
そして、グラスを受け取った。
両手で包み込む。
祈るように。
懺悔するように。
透明度の高い白い飲み物が、エレノアナの涙を映した。
「私だって、救えなかった人たちの顔を……思い出すのが、つらいんです……」
グラスが唇へ近づく。
イクスは体を動かそうとした。
白い蔓が軋む。
白い結晶が銃を覆い、腕を縛り、足を床へ縫い止める。
届かない。
エレノアナの喉が、小さく動いた。
飲んだ。
美しく白く輝く液体が、彼女の中へ落ちていく。
その瞬間、エレノアナの瞳から最後の涙がこぼれた。
それは頬を伝い、白薔薇の花弁へ落ちる前に、淡い霧となって消えた。
「……」
エレノアナの体から、ゆっくりと力が抜ける。
胸元でグラスを抱えていた指がほどける。
膝が折れる。
白い蔓が、彼女の体を受け止めた。
長い緑髪が、白い花弁の上へ柔らかく広がっていく。
髪飾りとして愛用していたティアラが、彼女の髪からそっと外れた。
淡い光を受けながら、それは白薔薇の上に落ち、主を失ったように静かに輝いていた。
エレノアナの喉が、小さく動いた。
白薔薇が傾けたグラスから、エレノアナが白い飲み物を飲み下すたび、瞳から迷いが薄れていく。
やがて、その表情は穏やかになっていた。
苦しみのない顔だった。
だからこそ、イクスにはそれが恐ろしかった。
「エレノアナ……」
返事はない。
少女は二人を見つめ、ほっとしたように微笑んだ。
「よかった、おじいちゃんやお客さんたち、みんなと同じ」
月明かりが照らされた広間に、優しい声が落ちる。
「もう、苦しくないね」
そして少女は、ゆっくりとイクスへ向き直った。
その手には、まだグラスがある。
透明度の高い、美しい白い飲み物が、静かに揺れていた。