ローゼンヴァルトの館〜白薔薇に閉ざされた館を彷徨う、凍りついた涙の物語   作:TatshMusicCircle

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11話 ティアラの落ちるとき

「レイラさん!」

 

 イクスが叫ぶ。

 

 レイラの体が、ゆっくりと傾いた。

 

 膝から力が抜け、崩れ落ちる。

 

 だが、白薔薇の蔓が彼女の背を支えた。

 

 腕を包み、肩を支え、足元から絡みつきながら、レイラの体を白い花弁の上へ横たえていく。

 

 赤い髪が、白薔薇の上に広がった。

 

 つい先ほどまで大粒の涙を流していた頬には、もう苦しみの色がない。

 

 眉間に寄っていた皺も消え、唇はわずかに緩んでいる。

 

 白薔薇に支えられたグラスが傾き、透明度の高い白い飲み物が、少しずつレイラの唇へ流れ込んでいく。

 

 彼女はもう拒まなかった。

 

 ただ静かに喉を動かし、痛みも、怒りも、悲しみも届かない場所へ沈んでいく。

 

「……そんな、レイラさん」

 

 エレノアナが震える声で呟いた。

 

 赤い睫毛の奥で、瞳の焦点がゆっくりとほどけていく。いつもなら皮肉を返し、誰より早く状況を見抜くその目から、怒りも警戒も薄れていた。

 

 白薔薇に横たえられたまま、レイラはもう抵抗しない。

 

 胸元が小さく上下するたび、白い花弁がかすかに揺れる。唇の端には、苦しみではなく、眠りに落ちる直前のような淡い緩みが残っていた。

 

 父を奪われた悲しみも。

 

 母のいない世界を生きてきた孤独も。

 

 ずっと背負ってきた痛みも。

 

 そのすべてを抱えきれなくなって、白い飲み物を受け入れてしまった。

 

 そして今、レイラは苦しんでいない。

 

 泣いていない。

 

 怒ってもいない。

 

 ただ、穏やかに受け入れている。

 

「こんなの……救いじゃ、ありません……」

 

 エレノアナはそう言った。

 

 だが、その声は弱かった。

 

 否定しようとしているのに。

 

 目の前のレイラの表情が、あまりにも安らかだったから。

 

 エレノアナの胸の奥に、別の記憶が浮かび上がる。

 

 救えなかった人々の顔。

 

 差し伸べた手。

 

 届かなかった指先。

 

 自分の名前を呼んでいた声。

 

 助けを求める瞳。

 

 そして、その後に訪れた静寂。

 

「私は……忘れてはいけないんです」

 

 エレノアナは両手を胸元で握りしめた。

 

「忘れてしまったら……あの人たちが、本当に消えてしまうから……」

 

 少女が静かに言った。

 

「でも、覚えていると、苦しいでしょう?」

 

 エレノアナの肩が震えた。

 

 白い蔓が、彼女の足元へ伸びる。

 

 乱暴ではない。

 

 責めるようでもない。

 

 ただ、疲れた者を休ませるように、そっと寄り添ってくる。

 

「助けたかったのに、助けられなかった」

 

 エレノアナの胸に、冷たい痛みが落ちた。

 

 目の前で、レイラを止められなかった。

 

 あの手がグラスへ伸びる前に、自分がもっと強く叫んでいれば。

 

 もっと早く動けていれば。

 

 そんな考えが、白い霧よりも重く、エレノアナの心へ沈んでいく。

 

「守りたかったのに、守れなかった」

 

「やめてください……」

 

「忘れたら、もう泣かなくていいよ」

 

 エレノアナの瞳から涙がこぼれた。

 

 静かな涙だった。

 

 レイラのように堰を切ったものではない。

 

 けれど、その一滴には、押し殺してきた痛みが詰まっていた。

 

「私……」

 

 エレノアナは唇を震わせる。

 

「私だって、ずっと、怖かったんです」

 

「エレノアナ!」

 

 イクスが叫ぶ。

 

 だが、白い蔓が彼の体を縛りつけている。

 

 動けない。

 

 届かない。

 

 エレノアナは涙を流したまま、眠るレイラを見つめた。

 

「次にまた、誰かを救えなかったらって……」

 

 声が細くなる。

 

「夜になると、思い出すんです。もっと早く行けてたらって。もっと強ければって」

 

 少女が、新しいグラスを差し出す。

 

 透明度の高い、美しい白い飲み物。

 

 光を薄く溶かしたような液体が、静かに揺れていた。

 

「忘れれば、もう苦しくないよ」

 

「……忘れたら」

 

 エレノアナの手が、ゆっくりと伸びる。

 

「私は……楽に、なれるのでしょうか」

 

「なれるよ」

 

 少女は穏やかに微笑んだ。

 

「もう、自分を責めなくていいの」

 

「だめだ、エレノアナ!」

 

 イクスは必死に声を張り上げた。

 

「それは救いじゃない! 戻れなくなる!」

 

 エレノアナはイクスを見た。

 

 涙に濡れた瞳。

 

 まだ、そこには彼女自身の意志が残っていた。

 

 優しく、強く、誰かを助けたいと願い続けてきた彼女の光が。

 

 けれど、その光は白い霧の中で揺れていた。

 

「ごめんなさい……イクスさん」

 

 エレノアナは小さく言った。

 

「少しだけ……少しだけ、休ませてください……」

 

 そして、グラスを受け取った。

 

 両手で包み込む。

 

 祈るように。

 

 懺悔するように。

 

 透明度の高い白い飲み物が、エレノアナの涙を映した。

 

「私だって、救えなかった人たちの顔を……思い出すのが、つらいんです……」

 

 グラスが唇へ近づく。

 

 イクスは体を動かそうとした。

 

 白い蔓が軋む。

 

 白い結晶が銃を覆い、腕を縛り、足を床へ縫い止める。

 

 届かない。

 

 エレノアナの喉が、小さく動いた。

 

 飲んだ。

 

 美しく白く輝く液体が、彼女の中へ落ちていく。

 

 その瞬間、エレノアナの瞳から最後の涙がこぼれた。

 

 それは頬を伝い、白薔薇の花弁へ落ちる前に、淡い霧となって消えた。

 

「……」

 

 エレノアナの体から、ゆっくりと力が抜ける。

 

 胸元でグラスを抱えていた指がほどける。

 

 膝が折れる。

 

 白い蔓が、彼女の体を受け止めた。

 

 長い緑髪が、白い花弁の上へ柔らかく広がっていく。

 

 髪飾りとして愛用していたティアラが、彼女の髪からそっと外れた。

 

 淡い光を受けながら、それは白薔薇の上に落ち、主を失ったように静かに輝いていた。

 

 エレノアナの喉が、小さく動いた。

 

 白薔薇が傾けたグラスから、エレノアナが白い飲み物を飲み下すたび、瞳から迷いが薄れていく。

 

 やがて、その表情は穏やかになっていた。

 

 苦しみのない顔だった。

 

 だからこそ、イクスにはそれが恐ろしかった。

 

「エレノアナ……」

 

 返事はない。

 

 少女は二人を見つめ、ほっとしたように微笑んだ。

 

「よかった、おじいちゃんやお客さんたち、みんなと同じ」

 

 月明かりが照らされた広間に、優しい声が落ちる。

 

「もう、苦しくないね」

 

 そして少女は、ゆっくりとイクスへ向き直った。

 

 その手には、まだグラスがある。

 

 透明度の高い、美しい白い飲み物が、静かに揺れていた。

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