ローゼンヴァルトの館〜白薔薇に閉ざされた館を彷徨う、凍りついた涙の物語 作:TatshMusicCircle
透明度の高い、美しい白い飲み物が、静かに揺れていた。
イクスは、そのグラスから目を離せなかった。
飲んではいけない。
そう分かっている。
レイラも、エレノアナも、あれを飲んだ。
苦しみから解放されたような顔で。
痛みを忘れてしまったような顔で。
けれど、それは救いではない。
違う。
絶対に違う。
イクスはそう思おうとした。
だが、頭の奥に広がる白い霧が、その確信さえ少しずつ鈍らせていく。
足元では白薔薇が揺れている。
レイラは白い花弁の上に横たえられたまま、白薔薇に支えられたグラスから、少しずつ白い飲み物を飲み下していた。
赤い髪が雪のような花の上に広がり、頬には涙の跡だけが残っている。
もう抵抗する力はない。
喉が小さく動くたび、瞳の奥から怒りも悲しみも薄れていく。
エレノアナも、その少し離れた場所で全身を白薔薇に抱かれていた。
長い緑髪が柔らかく広がり、髪から外れたティアラが、主を失ったように白薔薇の上で光っている。
彼女もまた、傾けられたグラスから白い飲み物を飲み続けていた。
「ほら、緑のお姉ちゃんも、もっと飲んで」
少女は、楽しそうに首を傾げた。
「まだ足りないでしょう?お胸の大きなお姉ちゃんは、上手に飲めてるよ。きれいなお客様は、みんなに喜ばれるの」
その無邪気な言葉に、イクスの背筋が冷えた。
褒めているつもりなのだろう。
もてなしているつもりなのだろう。
けれど、白薔薇に支えられた二人が、少しずつ白い飲み物を飲まされ続けている光景は、あまりにも歪んでいた。
それなのに。
二人はもう苦しんでいない。
レイラの頬には涙の跡だけが残り、エレノアナの瞳からも迷いの色が薄れていく。
痛みも、恐怖も、後悔も届かない場所へ、二人だけが先に沈んでいく。
その事実が、イクスの胸を締めつけた。
「最後は、あなた」
少女が言った。
静かな声だった。
その瞬間、白薔薇がざわりと揺れる。
床に倒れていたレイラの指が、ぴくりと動いた。
「……レイラさん?」
イクスの声は、かすれていた。
答えたのは、レイラだった。
けれど、その声には、いつもの熱がなかった。
余裕を含んだ明るさも、からかうような甘さもない。
白い糸で喉の奥を引かれているような、空っぽの声だった。
「救っても、救っても、終わらない。誰かを助けても、また誰かが苦しむ。マテリアルはなくならない。傷ついた人も、消えた人も、戻らない。この旅はいつ終わるの? もう六年よ」
イクスの胸が、冷たく沈んだ。
その言葉は、レイラの声で言われていた。
レイラの唇が動いていた。
だが、レイラの言葉ではない。
そう分かっているのに、否定しきれなかった。
六年。
その響きだけが、白い部屋の中で重く落ちる。
助けても、助けても、終わらない。
救えなかった人間の顔が、記憶の奥でいくつも浮かんだ。
「……やめろ、レイラさんの言葉じゃない」
白薔薇の蔓が、腕を締めつける。
銃に伸ばそうとした指は、もう動かない。
すると、今度はエレノアナがゆっくりと顔を上げた。
緑の瞳は開いている。
だが、その焦点はイクスを見ていなかった。
エレノアナの唇が動く。
「イクスさん……もう、頑張らなくていいんです」
「エレノアナ……」
「ずっと、苦しそうでした。戦って、傷ついて、それでも前に進んで……でも、そんな顔をしてまで、続けなくてもいいんです」
優しい声だった。
優しすぎる声だった。
イクスを責めていない。
逃げてもいいと、休んでもいいと、ただ包み込むように告げてくる。
だからこそ、残酷だった。
「だって、苦しい顔をしているイクスさんを、放っておけませんから」
その言葉に、イクスの呼吸が止まりかけた。
エレノアナなら、言う。
本物のエレノアナでも、きっと言う。
目の前で苦しむ人間を見捨てられない。
たとえその救いが間違っていても、手を伸ばそうとしてしまう。
だから、イクスは歯を食いしばった。
違う。
これは違う。
彼女たちの優しさを、白い何かがなぞっているだけだ。
分かっている。
分かっているのに。
「んもぅ、仕方ないわね。わたしがお兄ちゃんに飲ませてあげる」
少女が、近づいてきた。
白薔薇が道を開ける。
イクスは目を見開いた。
少女がその白い液体を飲むのだと思った。
だが、違った。
グラスの縁からこぼれた白い液体を、少女は静かに口へ含んだ。
そして、ためらいもなくイクスへ顔を近づける。
「……っ」
逃れようとしても、白薔薇の蔓が体を押さえつけていた。
次の瞬間、少女の唇がイクスの口を塞ぐ。
冷たい感触。
甘い香り。
白い液体が、少女の口からイクスの口へと流し込まれていく。
イクスは喉を閉ざそうとした。
だが、抗おうとするほど、白い液体は唇の隙間からじわりと入り込み、舌の奥へ、喉の奥へと落ちていく。
「……ん、っ……!」
声にならない息が漏れた。
飲みたくない。
そう思ったはずなのに。
冷たく甘いその液体は、拒絶する意思ごと、ゆっくりとイクスの内側へ染み込んでいった。