ローゼンヴァルトの館〜白薔薇に閉ざされた館を彷徨う、凍りついた涙の物語   作:TatshMusicCircle

13 / 13
13話 貪り~白い忘却の底

 イクスは、もう迷わなかった。

 

 飲んではいけない。

 

 止まらなければならない。

 

 二人を助けなければならない。

 

 そんな言葉は、もうどこにも浮かんでこなかった。

 

 白い液体が喉を通った瞬間、イクスの中に残っていた抵抗は、音もなく砕けていた。

 

 苦しみが遠のく。

 

 罪が薄れる。

 

 思い出すだけで胸を裂いていた記憶が、白い霧の向こうへ沈んでいく。

 

 それは救いではなかった。

 

 逃避でもなかった。

 

 もっと単純で、もっと浅ましい渇きだった。

 

 欲しい。

 

 ただ、それだけだった。

 

「……もっと、もっと。これだけじゃ足りない」

 

 イクスは呟いた。

 

 声は低く、掠れていた。

 

 けれど、そこに迷いはなかった。

 

 目の前にいるエレノアナが、白薔薇に支えられたままグラスを抱えている。

 

 半分ほど残っていた。

 

 それを見た瞬間、イクスの喉が鳴った。

 

 彼はエレノアナの手からグラスを取った。

 

 エレノアナが持っているから。

 

 彼女のものだから。

 

 そんな区別は、もうイクスの中には残っていなかった。

 

 白い液体がある。

 

 だから飲む。

 

 それだけだった。

 

「それ……私の……です」

 

 エレノアナの声は、かすかに揺れただけだった。

 

 イクスは構わず、グラスを傾けた。

 

 白い液体が口へ流れ込む。

 

 一口。

 

 二口。

 

 そこで止まるはずがなかった。

 

 イクスは喉を鳴らしながら、残っていたものを一気に飲み干した。

 

 喉の奥を白い甘さが滑っていく。

 

 冷たい。

 

 けれど熱い。

 

 体の奥で、何かがほどけていく。

 

 名前のある痛みが、名前を失っていく。

 

 思い出すべき顔が、ぼやけていく。

 

 守らなければならなかった約束が、ただの白い靄に変わっていく。

 

「……っ、は……ぁ、はぁ、ぷはぁ……」

 

 イクスは大きく息を吐いた。

 

 空になったグラスを見つめる。

 

 もう何も残っていない。

 

 それなのに、喉はまだ渇いていた。

 

 足りない。

 

 足りない。

 

 まだ、足りない。

 

 イクスの視線が、エレノアナの唇へ移った。

 

 そこに、白い雫が残っていた。

 

 飲み干したはずなのに。

 

 グラスは空になったはずなのに。

 

 まだ、そこにある。

 

 イクスはそれを見逃さなかった。

 

「……残ってる」

 

 彼はそう言った。

 

 エレノアナが小さく瞬きをする。

 

「え……?」

 

 イクスは、彼女の頬に手を添えた。

 

 その動きにも、ためらいはなかった。

 

 労わるためではない。

 

 慰めるためでもない。

 

 ただ、白い雫を逃がさないためだった。

 

「そこに、まだ残ってる」

 

 イクスは身を寄せた。

 

 エレノアナの吐息が近づく。

 

 白い飲み物の甘い香りが、さらに濃くなる。

 

 その香りを吸い込んだ瞬間、イクスの瞳から最後の焦点が消えた。

 

 彼は、エレノアナの口元に残った白を求めた。

 

 ほんのわずかな雫でさえ惜しかった。

 

 彼女が飲んだもの。

 

 彼女の唇に残ったもの。

 

 それすら、今のイクスには白い液体の続きでしかなかった。

 

「……ん……、ん……イクスさん……」

 

 エレノアナの喉から、弱い声が漏れた。

 

 イクスの動きは、もう人を気遣うものではなかった。

 

 飢えた者が水を求めるように。

 

 凍えた者が火に縋るように。

 

 白い液体を、ただ貪っていた。

 

 やがて、エレノアナの口元から白い雫が消えた。

 

 イクスはゆっくりと顔を上げる。

 

 それでも、満たされていない。

 

 瞳は虚ろなまま、次を探していた。

 

「……もっと」

 

 また、同じ言葉がこぼれた。

 

 白薔薇の奥で、少女がくすりと笑った。

 

「ふふっ。飲まないって言ってたのに……お兄ちゃんが一番欲しがりさんだったんだ。ねえ、もうこれなしじゃいられないくらい、溺れちゃった?」

 

 イクスは答えなかった。

 

 答える代わりに、顔を横へ向けた。

 

 白薔薇の蔓が、レイラの身体へ妙に密着するように絡みついていた。

 

 白い花弁を揺らしながら、馴れ馴れしいほど、全身にぴたりと這っている。

 

 まるで逃がすまいとするように。

 

 まるで、その体の輪郭を確かめるように。

 

 とりわけ胸元には、白薔薇の蔓が濃く集まっていた。

 

 豊かに張った大きなバストの丸みへ沿うように、細い蔓が幾筋も食い込み、遠慮なく押し当てられている。

 

 押さえつけているわけではない。

 

 けれど、その密着の仕方がかえっていやに艶めいて見えた。

 

 ふくらみの輪郭が、白い花と蔓に縁取られるたび、レイラの存在感のある胸元がいっそう際立つ。

 

 白と赤の対比が、やけに鮮やかだった。

 

 赤い髪。

 

 白い花弁。

 

 そして、その中央で上下する、レイラの大きな胸。

 

 吐息に合わせてわずかに揺れるたび、絡みついた蔓までが嬉しそうに身じろぎする。

 

 唇もまた、白く濡れていた。

 

 焦点の合わない瞳で、レイラはぼんやりとイクスを映している。

 

「イクスくん……?」

 

 その声さえ、白薔薇の花弁に包まれて、甘くほどけて聞こえた。

 

 手にはグラス。

 

 その中には、まだ白い液体が残っていた。

 

 イクスの呼吸が、はっきりと変わった。

 

 獲物を見つけた獣のように。

 

 救うべき仲間を見る目ではなかった。

 

 欲しいものを見つけた者の目だった。

 

「はぁはぁ、レイラさん……」

 

 名前を呼んだ。

 

 だが、その声に、いつもの敬意も、親しさも、心配もなかった。

 

 ただ、白い液体へ近づくための音だった。

 

 レイラはゆっくりと目を開けた。

 

 焦点の合わない瞳が、イクスを映す。

 

 彼女はグラスを胸元へ寄せた。

 

 けれど、その仕草には力がなかった。

 

「これは……あたしのよ……」

 

 イクスは、その言葉を聞いていなかった。

 

 聞こえていても、意味を持たなかった。

 

 彼はレイラの手からグラスを取った。

 

 今度は、少し強引だった。

 

 レイラの指がわずかに抵抗する。

 

 だが、すぐにほどける。

 

 イクスはレイラのグラスを奪うように口元へ運んだ。

 

 焦りがあった。

 

 飢えがあった。

 

 目の前にある白を、一秒でも早く喉へ流し込みたい。

 

 その衝動だけが、イクスの身体を動かしていた。

 

 グラスが傾く。

 

 白い液体が唇へ流れ込む。

 

 一口目で止まるはずがなかった。

 

 イクスは喉を鳴らしながら、残っていた白を一気に飲み干そうとした。

 

 だが、あまりに急ぎすぎた。

 

 グラスの縁から溢れた白い液体が、イクスの口元を伝い、ぽたりと落ちた。

 

 白い滴は、レイラの胸元へこぼれた。

 

「あ……」

 

 レイラの唇から、力の抜けた声が漏れる。

 

 白い液体は、彼女の大きなバストを縁取るように絡みついた白薔薇の花弁へ落ち、そこからゆっくりと衣装の上を滑った。

 

 豊かに張った胸元が、かすかな吐息に合わせて上下する。

 

 白薔薇の蔓が嬉しそうに身じろぎした。

 

 胸元へ密着した花弁が、こぼれた液体を受け止める。

 

 細い蔓がレイラの輪郭をなぞるように震え、その白い滴を逃がさないように囲い込んでいた。

 

 イクスは、それを見た。

 

 空になりかけたグラス。

 

 レイラの濡れた唇。

 

 そして、彼女の胸元にこぼれた白い液体。

 

 そのすべてが、今のイクスには同じものに見えた。

 

 飲みたい。

 

 ただ、それだけだった。

 

「……こぼれた」

 

 イクスは低く呟いた。

 

 レイラは、ぼんやりと彼を見上げた。

 

「イクスくん……?」

 

 その声は、責めていなかった。

 

 むしろ、白い酔いに溶かされて、どこか甘くほどけていた。

 

 レイラの頬が、月光に照らされる。

 

 焦点の合わない瞳が、イクスを映す。

 

 逃がすな。

 

 残すな。

 

 全部、飲め。

 

 そんな声が、イクスの内側から聞こえた気がした。

 

 彼はゆっくりと身を屈めた。

 

 レイラの呼吸が近くなる。

 

 白薔薇の香り。

 

 白い飲み物の甘い匂い。

 

 レイラの吐息に混じった、ぼんやりとした熱。

 

 そのすべてが混ざり合い、イクスの理性をさらに白く塗り潰していく。

 

「そこにも……残ってる」

 

 イクスの声は、もうほとんど飢えそのものだった。

 

 レイラは抵抗しなかった。

 抵抗しないのではない。できなかった。

 

 白い酔いに力をほどかれ、全身へと絡む白薔薇が、彼女の身体を支えている。

 

 花弁に受け止められた白い滴が、まだ淡く光っていた。

 

 白い液体は、赤と黒のホルターネック衣装の縁を伝い、深く開いた胸元の起伏に沿って細い筋を残していた。銀の留め具に絡んだ雫が、レイラの浅い呼吸に合わせて、かすかに揺れている。

 

 イクスは、その白から目を離せなかった。

 

 そこにあるのがレイラの身体だということ。

 守るべき仲間へ、踏み込んではいけない距離まで近づいていること。

 

 思えば、ずっとそうだったのかもしれない。

 

 館の廊下を歩いているときも。

 食堂で向かい合ったときも。

 レイラが胸元に手を添え、何気なく息をついたときも。

 

 イクスは見ないふりをしていた。

 

 冷静な顔を作り、いつものように淡々と振る舞い、仲間を守る者の目で彼女を見ているつもりでいた。

 

 けれど本当は違った。

 

 視線を逸らすたび、理性の届かない奥底で、浅ましい熱が燻っていた。

 気づかないふりをしていただけだ。

 認めれば、自分が自分でなくなるような気がしたから。

 

 白い飲み物は、その蓋を外しただけだった。

 

 理性はもう残っていなかった。

 

 あるのは、もっと欲しいという渇きだけだった。

 

 イクスは、レイラの胸元へ唇を寄せた。

 

 胸元の上で震える白を求める。

 

 ひとつ残らず、逃したくない。

 

 その衝動だけが、イクスを動かしていた。

 

 同時に、イクスの手がレイラの胸元へ伸びた。

 

 赤と黒の衣装の上から、その豊かな胸元を鷲掴みにする。

 男性としても大きなイクスの手でさえ、その豊かな膨らみを捉えきれず、指先から余るほどだった。

 掌の外へ余るほどの存在感が、レイラの浅い呼吸に合わせて、かすかに揺れた。

 

「あ……」

 

 レイラの唇から、力の抜けた声が漏れる。

 

 イクスは止まらなかった。

 

 その声の意味を考えることすら、もうできなかった。

 レイラが何を感じているのか。

 自分が何をしているのか。

 そんなことより、そこに残った白を失うことの方が、今のイクスには恐ろしかった。

 

 白薔薇がざわりと身じろぎする。

 

 まるでイクスの壊れた欲望に応えるように、花弁がレイラの胸元へ深く寄り添い、こぼれた白を抱え込んだ。

 

 イクスは、その甘さを求め続けた。

 

 それは愛情ではなかった。

 欲情ですら、なかった。

 

 もっと浅ましく、もっと空っぽで、もっと壊れたものだった。

 

 白い忘却に支配された者が、目の前にあるものの意味を失い、ただ残された一滴だけを貪ろうとしている。

 

 その姿はあまりにも危うく、あまりにも退廃的だった。

 

 長身の彼に見合う重み。

 そして、腰のあたりへ押し当てられた、武器めいた異物感。

 

 一瞬、銃でも当たっているのかと思った。

 

 けれど違う。

 

 金属の冷たさはなかった。

 そこにあったのは、イクス自身の体温を帯びた、隠しきれない熱だった。

 

 それが衣装越しに伝わってきて、レイラの思考は白く揺れた。

 

「……ん……イクスくん……」

 

 レイラの声が、かすかに震える。

 

 白い液体のせいなのか。

 胸元を這う白薔薇のせいなのか。

 それとも、イクスがそこまでして白を求めていることが、どこか嬉しかったのか。

 

 もう、レイラ自身にも分からなかった。

 

 ただ、彼女は笑っていた。

 

 虚ろで、甘くて、壊れかけた笑みだった。

 

「ほんとうは……イクスくん、わたしのことを……」

 

 その言葉に、少女がくすくすと笑った。

 

「ほら。レイラお姉ちゃんも嬉しそう。イクスお兄ちゃんが、旅のあいだずっと何を隠してたのか……心が消えちゃう前に、全部見えちゃったんだね」

 

 イクスは顔を上げない。

 

 その姿に、もう冷静な青年の面影はなかった。

 

 仲間を救おうとしていたイクスはいない。

 

 キュアを握り、罪を背負い、それでも前へ進もうとしていたイクスはいない。

 

 そこにいるのは、白い忘却に飢えた者だった。

 

 自分の痛みを消すために。

 

 自分の過去を遠ざけるために。

 

 自分が誰だったのかさえ手放すために。

 

 目の前にある白を、ただ貪る者だった。

 

 少女は満足そうに笑った。

 

「そう。上手に飲めたね」

 

 イクスは顔を上げた。

 

 レイラの唇からも、白い雫は消えていた。

 

 エレノアナのグラスも空。

 

 レイラのグラスも空。

 

 それでも、イクスはまだ探していた。

 

 白いものを。

 

 甘いものを。

 

 忘れさせてくれるものを。

 

「……もっと」

 

 彼の声は、もう人間らしい感情をほとんど失っていた。

 

「もっと、飲みたい」

 

 少女は嬉しそうに、新しいグラスを差し出した。

 

 白い液体が、なみなみと注がれている。

 

 イクスはそれを見た瞬間、迷わず手を伸ばした。

 

 奪うように受け取り、すぐに口へ運ぶ。

 

 喉を鳴らして飲む。

 

 こぼれた白い滴が顎を伝っても、構わなかった。

 

 指先で拭うことすらせず、ただ次を飲む。

 

 もっと深く。

 

 もっと速く。

 

 もっと白く。

 

 イクスは、白い液体を貪り続けた。

 

 白薔薇が揺れる。

 

 レイラは力なく目を閉じる。

 

 エレノアナは、眠るように微笑んだまま動かない。

 

 少女だけが、満足げに三人を見下ろしている。

 

「もう、痛いことなんて思い出さなくていいよ」

 

 その声に、イクスは小さく頷いた。

 

 グラスから唇を離さないまま。

 

 自分が何を忘れようとしているのかも分からないまま。

 

 ただ、白い液体を喉の奥へ流し込み続けた。

 

 そして、ローゼンヴァルトの館は静かに微笑むように、またひとり、館に訪れた青年を白い忘却の底へ沈めていった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
一言
0文字 一言(必須:10文字~500文字)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。