ローゼンヴァルトの館〜白薔薇に閉ざされた館を彷徨う、凍りついた涙の物語 作:TatshMusicCircle
イクスは、静かな館の一室で目を覚ました。
傍らには、白い少女がいた。
少女は椅子に座っているのではなく、部屋の中を静かに歩いていた。
小さな両手で、白いじょうろを抱えている。
陶器のように白いじょうろだった。
その中から、かすかに酒精の匂いが漂っていた。
甘く、強く、鼻の奥に残る匂い。
少女はそれを少しも気にしていない様子で、窓辺に置かれた鉢植えの白薔薇へ近づいた。
「はい。今日は、これ」
そう言って、じょうろを傾ける。
とぷり、と白い薔薇の根元へ透明な液体が注がれた。
水ではなかった。
花の世話をするには、あまりにも濃い匂いだった。
だが、白薔薇は枯れなかった。
むしろ、花弁がふるりと震えた。
ゆっくりと開く。
眠っていたものが、目を覚ますように。
細い蔓が、鉢の縁を撫でるように動いた。
棘が暖炉の橙色を受けて、かすかに光る。
少女は嬉しそうに微笑んだ。
「おいしい?」
白薔薇は答えない。
それでも、答えているように見えた。
花弁が小さく揺れる。
葉が重なり合い、さわ、さわ、と音を立てる。
風はない。
窓も閉まっている。
それなのに、部屋の中の白薔薇たちだけが、少女の手元へ顔を向けるように揺れていた。
花瓶に活けられた薔薇。
暖炉の上に飾られた小さな薔薇。
壁際の鉢植え。
丸いテーブルの中央に置かれた白薔薇。
そのすべてが、じょうろの中身を欲しがるように、静かに身じろぎしている。
少女は一輪ずつ、丁寧に酒を注いでいった。
「順番。ちゃんと順番ね」
とぷ。
とぷり。
透明な液体が土へ染み込むたび、白薔薇は嬉しそうに花弁を震わせた。
まるで喉を潤すように。
まるで褒められた子どもが笑うように。
いや、それよりも、どこか違う。
長いあいだ渇いていたものが、ようやく欲しかったものを与えられたような動きだった。
イクスは、それを見ていた。
ただ、見ていた。
起き上がろうとも、止めようとも思わなかった。
白薔薇が酒を飲んでいる。
少女が、それを当然のように世話している。
その光景はおかしかった。
異常なはずだった。
だが、イクスの胸には強い驚きも、恐怖も湧いてこなかった。
頭の奥には、白い霧がかかっている。
深く考えようとすると、その霧がそっと思考を包み込む。
思い出さなくていい。
疑わなくていい。
ここでは、これが普通なのだと。
少女は最後に、イクスの枕元に置かれていた小さな白薔薇へ酒を注いだ。
その白薔薇は、ほかの花よりも近くで、イクスの寝顔を見守るように咲いていた。
液体を受けた瞬間、花弁がゆっくりと開く。
白い香りが、ふわりとイクスの方へ流れてきた。
少女が振り返る。
目が合った。
「起きたの?」
少女は、安心したように微笑んだ。
「よかった。まだ、ここにいてくれた」
イクスは返事をしなかった。
ただ、少女の手にある白いじょうろと、嬉しそうに揺れる白薔薇を見つめていた。
「……俺は」
声を出す。
自分の声なのに、少し遠く聞こえた。
「ずっと、ここにいたのか」
少女は微笑む。
「うん」
その答えを聞いても、イクスは疑問を抱かなかった。
そうなのかもしれない。
ずっと、ここにいたのかもしれない。
どこかへ行こうとしていた気もする。
誰かと一緒に歩いていた気もする。
赤い髪。
緑色の瞳。
柔らかな声。
強い言葉。
一瞬だけ、そんなものが胸の奥に浮かんだ。
けれど、すぐに白く霞んでいく。
名前は出てこない。
顔も、はっきりしない。
思い出そうとすると、胸の奥がほんの少しだけ痛んだ。
イクスは、その痛みから逃れるように視線を下げた。
テーブルの上には、グラスが置かれていた。
透明度の高い、美しい白い飲み物。
光を薄く溶かしたような液体が、暖炉の光を受けて静かに揺れている。
イクスは、それを見つめた。
飲まなければ。
そう思った。
理由を考えるより先に、体がそう知っていた。
朝に水を飲むように。
眠る前に目を閉じるように。
傷が痛めば薬に手を伸ばすように。
喉が渇いているわけではない。
それでも、胸の奥に残った小さな痛みが、その白い液体を求めていた。
飲めば静かになる。
飲めば薄れていく。
思い出しかけた赤い髪も。
緑色の瞳も。
胸を刺すような、名前のない痛みも。
すべてが、また穏やかに沈んでいく。
少女はグラスを手に取り、イクスへ差し出した。
「ほら、飲みなよ」
イクスはグラスを受け取った。
冷たい感触が指に伝わる。
その冷たさは不快ではなかった。
むしろ、胸の奥に残った熱を静めてくれるようで、心地よかった。
白い飲み物の表面に、暖炉の光が揺れている。
イクスはそれを見つめる。
どこか遠くで、かすかな声が聞こえた気がした。
『私の声をきいて』
イクスは、ふと顔を上げた。
部屋の中には、少女しかいない。
暖炉の火が揺れている。
白薔薇が香っている。
窓の外では、白い花弁が静かに揺れている。
『私の声をきいて』
もう一度、聞こえた気がした。
かすかで、頼りなくて。
消えそうな声。
イクスの視線が、テーブルの端へ向かう。
そこには、黒いプラスチックケースが、ぽつんと置かれていた。
見覚えがある気がした。
だが、その違和感すら、白い霧に静かに溶けていく。
思い出そうとするたびに、胸の奥がわずかに軋んだ。
イクスは、無意識にグラスを握り直した。
少女が、そっとイクスの手に触れる。
「思い出さなくていいよ」
その声は、柔らかかった。
「思い出すと、また苦しくなるから」
イクスは黙って頷いた。
そうだ。
思い出す必要はない。
この部屋は暖かい。
少女はそばにいる。
白薔薇は咲いている。
それで十分だった。
過去も、使命も、旅も、名前も。
思い出せないなら、それはもう必要のないものなのだろう。
イクスはグラスを唇へ運んだ。
白い液体が口の中へ流れ込む。
冷たくて、甘い。
けれど、喉を通ると、胸の奥がじんわりと暖かくなっていく。
一口。
また一口。
イクスは止まらなかった。
止める理由がなかった。
むしろ、残った痛みを消すために、体の奥がその白さを求めていた。
赤い髪が遠ざかり、緑色の瞳が霞む。
自分がここへ来た理由。
誰かを守りたかった気持ち。
誰かと旅をしていた記憶。
使命も、願いも、物語も……。
それらが、白く溶けていく。
最後の一滴まで飲み干した時、胸の奥に残っていた小さな痛みが、ふっと消えた。
イクスは空になったグラスを見つめる。
何かを失ったような気がした。
けれど、何を失ったのかは分からない。
分からないなら、きっと大したことではない。
そう思うと、部屋の暖かさだけが残った。
少女は嬉しそうに微笑み、イクスの肩へそっと寄り添う。
「これで、ずっと一緒だね」
イクスは答えなかった。
そのとき、黒いプラスチックケースが、かすかに震えた。
中から、誰かの声が漏れる。
『私の声を――』
イクスはそれを聞いた。
聞いたはずだった。
けれど次の瞬間、白薔薇の香りが部屋を満たし、その声だけを選ぶように覆い隠してしまった。
イクスはもう、顔を上げなかった。
館は今日も静かに佇んでいる。
森の奥。
白薔薇に囲まれた、忘却の館。
そこには、悲しみも恐怖もない。
痛みを抱えた者が辿り着けば、暖かな部屋と、美しい白い飲み物が迎えてくれる。
忘れてしまえば、もう苦しむことも、泣くことも、前へ進むこともない。
イクスの身体には、いつの間にか白薔薇が咲きはじめていた。
肌の上に花が乗っているのではない。
まるで、身体の内側から根を伸ばし、血の代わりに白い香りを巡らせるように、静かに花弁を開いていた。
胸元に一輪。
手首に一輪。
指先には、細い蔓のような白い筋が浮かんでいる。
痛みはなかった。
むしろ、感覚が遠くなっていく。
ローゼンヴァルトの館は今日も、迷い人を優しく抱きしめ、白い薔薇へと変えていく。
## あとがき
ここまで『ローゼンヴァルトの館』をお読みいただき、ありがとうございました。
第14話「メリーバッドエンド」をもって、三人の旅は、ひとつの結末を迎えてしまいました。
イクスたちが館の中で見落としたもの。
失ってしまった記憶。
そして、最後まで溶かすことのできなかった涙。
もし、ほんの少しだけ違う選択をしていたなら――
彼らの旅は、どこへたどり着いていたのでしょうか。
この物語とイメージリンクする音楽作品『Frozen Tears』には、ローゼンヴァルトの館に残された記憶が、音となって封じ込められています。
もし『Frozen Tears』に触れる機会がありましたら、どうか最後のトラックまで耳を傾けてみてください。
もし音楽に触れる機会がありましたら、どうか最後のトラックまで耳を傾けてみてください。
一度閉ざされたはずの館から、
まだ誰かの声が聞こえてくるかもしれません。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
Novel Production: TatshMusicCircle
TRUE ROOT & ワンモアソング(Track23)
https://syosetu.org/novel/430945/
こちらのパスワードはCD『Frozen Tears』のCDケースに隠されています。
ぜひ、探してみてください。
もしも、どうしても見つからない場合は、こちらにメールくださいませ
[email protected]