ローゼンヴァルトの館〜白薔薇に閉ざされた館を彷徨う、凍りついた涙の物語 作:TatshMusicCircle
館へ近づくにつれて、森の音が遠ざかっていった。
湿った土を踏みしめる音。
風に揺れる木々のざわめき。
苔と落ち葉の匂い。
そうした森の気配が、一歩進むごとに少しずつ薄れていく。
代わりに、どこからか酒精の匂いが近づいてきた。
古いワイン樽のような甘さ。
喉の奥をかすかに刺すような、強い酒の気配。
それは霧に混じり、館へ向かう三人の周囲へ、静かにまとわりついてきた。
イクスは周囲に視線を配りながら、ゆっくりと歩を進める。
レイラは端末を片手に、時折画面へ目を落としていた。様々な計測アプリが忙しなく働き、画面を青白く光らせている。
エレノアナは二人の少し後ろを歩きながら、館の窓を見上げている。
巨大な洋館だった。
石造りの外壁は黒ずみ、蔦が絡みついている。
だが、完全に廃墟というわけではない。
割れた窓はない。
崩れた壁もない。
むしろ、不自然なほど形を保っている。
長い年月に晒されているはずなのに、館そのものだけが時間から切り離されているようだった。
「……変ね」
レイラが小さく呟く。
「館も庭も、ちゃんと形は残ってる。なのに、人の気配だけがすっぽり抜け落ちてるのよ。まるで、中身だけ空っぽになったみたい」
「マテリアルの影響ですか?」
イクスが周囲を警戒しながらレイラに問いかける。
「可能性は高いわね。建物全体に粒子が染み込んでる。少なくとも、この反応を見る限り、館そのものがマテリアルに侵されていると考えた方がよさそうね」
その言葉に、エレノアナがわずかに表情を曇らせた。
「……館全体が、ですか」
「ええ、覚悟はしておいた方がいいわ」
館の正面玄関へ辿り着く。
重厚な扉だった。
黒い木材に、古びた金属の装飾が施されている。
中央には白薔薇を象った紋章。
その花弁だけが、やけに新しい。
まるで今も咲いている本物の花のように、薄く冷たい光を帯びていた。
イクスは扉の前で立ち止まる。
手を伸ばす前に、耳を澄ませた。
中から物音はしない。
人の気配もない。
だが、灯りは見えた。
玄関扉の左右に設けられた細い窓。
その奥で、淡い黄色の明かりが揺れている。
蝋燭の火のようだった。
「明かりがあるな」
イクスが言う。
「でも、やっぱり人の気配は感じませんね……」
エレノアナが不安げに呟く。
レイラは端末を軽く叩いた。
「熱源反応も不安定。あるようにも見えるし、ないようにも見える。館の中がノイズだらけで、まともに読み取れないわ」
「入るしかない、か。二人とも、少し下がっていてください。俺が先に入ります」
イクスはそう言って、扉に手をかけた。
押す。
すると、重そうな見た目に反して、扉はほとんど抵抗なく開いた。
ギィ――……。
低く、長い音が鳴る。
その音だけが、異様なほどはっきり響いた。
まるで館が、来訪者を迎え入れるために声を出したかのようだった。
イクスは銃に手を添えたまま、ひとりで扉の内側へ足を踏み入れた。
「イクスさん……」
「まだ入らないでください」
背後から聞こえたエレノアナの声に、イクスは振り返らず答えた。
入口の外で、レイラとエレノアナが息を潜める。
イクスは周囲を見渡した。
扉の奥には、広いエントランスホールが広がっていた。
見上げるほど高い天井の下、左右には二階へ続く階段が大きく伸びている。
その中央には赤い絨毯が敷かれ、奥へ進む者を導くように、まっすぐ館の奥へと続いていた。
天井からは巨大なシャンデリアが吊るされている。
蝋燭のような灯りが無数に揺れ、館内部を淡く照らしていた。
人の気配はない。
だが、完全な無人とも言い切れなかった。
静かすぎる空間のどこかに、こちらを見ている何かが潜んでいるような違和感だけがある。
「……すぐに襲ってくるものはなさそうです。ひとまずは大丈夫そうです。入ってください」
イクスの声を受け、レイラとエレノアナが館の中へ足を踏み入れた。
三人の靴音が、赤い絨毯に吸い込まれる。
その時、エレノアナが壁の方を見て、小さく息を呑んだ。
壁には、いくつもの肖像画が飾られていた。
豪奢な服をまとった老人。
品のある婦人。
客人と思われる男女。
使用人らしき者たち。
だが、そのどれもが奇妙だった。
顔だけが、黒く塗り潰されている。
目も、鼻も、口もない。
まるで誰かの記憶から、その人物の顔だけを無理やり削り取ったように。
「……顔がありません」
エレノアナが小さく呟いた。
レイラも眉をひそめる。
「趣味の悪い演出……ってわけじゃなさそうね」
イクスは肖像画を見上げた。
黒く塗り潰された顔は、こちらを見ていない。
それなのに、見られているような気配だけがあった。
館の中に、人の気配はない。
けれど、ここにいたはずの誰かの痕跡だけが、壁に残されている。
生活の痕跡があるのに、そこに暮らす者の温度がない。
その違和感が、静かに肌へまとわりついてくる。
「……静かですね」
エレノアナが言った。
その声には、感嘆よりも戸惑いが混じっていた。
「こんなに広いのに、誰の声もしません」
イクスは一歩、館の中へ入った。
続いてレイラとエレノアナも入る。
三人の靴音が、赤い絨毯に吸い込まれた。
その瞬間だった。
背後で、扉が動いた。
ギィィィ――……。
三人が同時に振り返る。
誰も触れていない。
風もない。
それなのに、開いていた玄関扉が、ゆっくりと閉じていく。
「まずい!」
イクスが走った。
扉へ手を伸ばす。
だが、間に合わなかった。
重い音を立てて、扉が閉ざされる。
ドン――。
館全体が小さく震えた。
その音が消えた後、エントランスホールには再び静寂が戻る。
ただの静寂ではなかった。
閉じ込められた者だけが感じる、出口を奪われた静けさ。
イクスはすぐに扉の取っ手を掴み、力を込めた。
動かない。
押しても引いても、びくともしない。
重い鉄の塊になったように、扉は完全に閉ざされていた。
「レイラさん……!」
「わかってる」
レイラは端末を構えた。
しかし、次の瞬間、画面に走っていた光がふっと消える。
「……嘘でしょ」
レイラが眉をひそめた。
端末を何度か操作する。
反応はない。
画面は真っ暗なままだった。
「電源が落ちた?」
「違うわ。バッテリーは残ってた。予備電源も積んでる。でも、起動信号そのものが通らない」
その言葉に、エレノアナも慌てて自分の端末を取り出した。
画面に指を触れる。
だが、何も映らない。
「私の端末も……動きません」
エレノアナは不安げに画面を見つめ、それからイクスへ視線を向けた。
「イクスさんのものは?」
イクスは無言で自分の端末を取り出し、電源を入れようとした。
しかし、こちらも反応はなかった。
黒い画面が、冷たく沈黙している。
「……オレのも同じ」
イクスは端末をしまい、周囲へ視線を戻した。
レイラはポーチから別の小型機器を取り出す。
通信機。
粒子測定器。
携帯型解析装置。
だが、どれも同じだった。
電源が入らない。
反応しない。
まるでこの館の中だけ、機械という概念が拒絶されているようだった。
「全部、沈黙してる」
レイラの声に、わずかな苛立ちが混じる。
「こんなの、普通じゃないわ。外部からの干渉じゃない。もっと根本的に、動作そのものを止められてる」
「通信もですか?」
エレノアナが尋ねる。
レイラは小さく頷いた。
「完全にダメ。外部へ信号を飛ばせないどころか、内部回路すらまともに動かない」
イクスは扉から手を離し、周囲を見渡した。
エントランスホールには、左右に廊下が伸びている。
正面には二階へ続く大階段。
そして、壁際には大きな窓があった。
外の森が見える。
霧に包まれた木々。
閉じ込められたとはいえ、窓があるなら脱出の可能性はまだ残っている。
今すぐ外へ出るつもりはない。
だが、万が一に備え、出口を確保しておく必要はあった。
イクスはそう判断し、腰の銃を抜いた。
「仕方ない、窓を壊す」
「イクスさん、気をつけてください」
エレノアナが一歩下がる。
イクスは窓へ銃口を向けた。
照準を合わせる。
引き金を引いた。
乾いた銃声が響く。
だが、ガラスは割れなかった。
弾丸は窓に当たる直前で、白い光の膜に触れたように弾かれた。
金属音にも似た甲高い音が鳴り、弾丸が床へ落ちる。
カラン、と小さく転がった。
イクスは目を細める。
「……なんだ、これは。ガラスに当たる前に弾かれた」
レイラが窓へ近づく。
指先でそっと触れようとして、すぐに手を止めた。
窓の表面に、薄い波紋が広がったのだ。
ガラスではない。
水面のようでもあり、空間そのものの膜のようでもあった。
「窓の内側に、外と隔てる層がある。物理的なガラスじゃないわ」
「つまり、壊せない?」
「少なくとも、銃弾じゃ無理ね。爆破しても同じかもしれない」
イクスは窓の向こうを見た。
森が見える。
先ほどまで歩いてきた道も、かすかに見える。
キャンピングカーの影もある。
だが、何かがおかしかった。
木々の輪郭が、ゆっくりと歪んでいる。
霧が濃くなっていく。
地面の位置が揺れ、道がねじれ、遠くにあるはずのキャンピングカーが水面に映った影のように滲んでいく。
「イクスさん、レイラさん、見てください……!外の景色が……」
エレノアナが息を呑んだ。
窓の向こうで、森がさらに歪む。
まっすぐ立っていたはずの木が斜めに傾き、地面は波のようにうねった。
空は昼間のはずなのに、夕暮れのような色に沈み、次の瞬間には白くぼやける。
そして、キャンピングカーの姿が消えた。
そこにあるのは、見覚えのない白薔薇の庭だった。
森も道も、もう見えない。
どこまで行っても白薔薇だけが続いているように見え、視界の果ては白くぼやけている。
しかし、それが本当に外にある景色なのかすら分からなかった。
窓はもう、外界へ繋がっていない。
この館が見せている幻なのか。
あるいは、空間そのものが別の場所へ変わってしまったのか。
イクスは銃を下ろさず、低く言った。
「外へ戻る道を絶たれたな」
「ええ。完全に閉じ込められたわ」
レイラは端末を握ったまま、悔しげに息を吐いた。
「よりによって、あたしの自慢のガジェットが全部使えないなんてね。最悪」
「レイラさんの装置が使えないとなると、マテリアルの位置も分からないんですよね?」
「そうなるわ。粒子の濃い場所を追えない。罠の反応も見えない。何が起きても、ほぼ目視と感覚で判断するしかない」
エレノアナは不安そうに両手を胸の前で握った。
だが、その瞳はまだ折れていない。
「それじゃあ……進むしかありませんね!」
その時だった。
エントランスホールの奥から、かすかな音が聞こえた。
『――あははっ』
少女の笑い声。
森の外で聞こえたものと同じ声だった。
澄んでいて、幼くて。
けれど、どこか空っぽだった。
『ようこそ。来てくれて、うれしい』
声が響く。
ホールのどこから聞こえているのか分からない。
天井からのようでもあり、階段の奥からのようでもあり、壁そのものから漏れているようでもあった。
『わたし、おじいちゃんと一緒で、もてなすのが大好きなの。美味しい食事も、甘い飲みものも、ちゃんと用意してあるよ』
エレノアナが顔を上げた。
「あなたは……誰ですか?」
返事はすぐにはなかった。
蝋燭の灯りが、一斉に揺れる。
シャンデリアの影が壁に伸び、赤い絨毯の上をゆっくりと這った。
その影が、ほんの一瞬だけ、人の手のように見えた。
イクスは目を細める。
だが、次の瞬間にはただの影に戻っていた。
館の中に、人の気配はない。
それなのに、どこかで誰かがこちらを見ている。
そんな感覚だけが、冷たい湿気のように肌へまとわりついていた。
『ねえ』
少女の声がまた響いた。
『あなたたちは、なにを忘れたいの?』
その問いかけに、ホールの空気が冷たくなる。
エレノアナがわずかに目を見開いた。
レイラの表情から、余裕が消えた。
イクスは黙ったまま、声の方向を探る。
『かなしいこと?』
少女の声は楽しそうだった。
『いたいこと?』
蝋燭の火が、ひとつ消える。
『たいせつなひとのこと?』
またひとつ、火が消えた。
『それとも――』
声が、すぐ耳元で囁いたように聞こえた。
『じぶんが、なにをしたのか?』
イクスの指が、銃のグリップを強く握る。
一瞬、胸の奥に古い痛みが走る。
生命工学系の大企業にいた頃のイクスは、命令に従うことしかできない人間だった。
おかしいと思うことがあっても逆らえず、違和感を覚えても深く考えようとせず、ただ言われるままに動いていた。
その裏側で、人をマテリアルへ変える実験が行われていたことを、当時のイクスは知らなかった。
だが、知らなかったからといって、何も感じずにいられるわけではない。
自分が従っていた組織の中で、多くの人々が奪われ、マテリアルへ変えられていた。
その事実を知ったあとも、イクスはすべてを救えたわけではなかった。
旅を続けるほど、助けられる者がいる一方で、助けられない者もいるのだと思い知らされる。
どれだけ手を伸ばしても、この世にある悲劇のすべてを救うことはできない。
それなら、最初から見なかったことにしたほうが楽なのではないか。
マテリアルの悲劇も、この世界に満ちている痛みも、気づかないふりをして生きたほうが、ずっと楽なのではないか。
そんな弱い考えが、まるで館の中から手を伸ばしてくるように、イクスの内側を掴んだ。
「イクスくん……!」
レイラの声で、意識が戻る。
彼女もまた、表情を硬くしていた。
父ホープのことを思い出したのかもしれない。
それでもレイラは気丈に笑ってみせた。
「嫌な声ね。初対面で人の心を覗くなんて、礼儀がなってないわ」
『ふふっ』
少女が笑う。
『だって、ここではみんな、忘れるんだもの。そのまま、進んできてね』
その言葉を最後に、声は途切れた。
消えた蝋燭が、再び灯る。
エントランスホールは最初と同じ明るさへ戻った。
だが、三人の間に流れる空気は変わっていた。
ここはただの館ではない。
閉じ込められた。
機械を封じられた。
窓も扉も通じない。
そして、この館にいる何者かは、三人の記憶や心に触れてくる。
危険度は、想定よりも遥かに高い。
「一度、整理するわよ」
レイラが息を整えながら言った。
「扉は開かない。窓も無理。通信も解析も全滅。外の景色は歪んでる。つまり、物理的な脱出は今のところ不可能」
「つまりは、マテリアルの本体を探して、キュアを使い、元の人間に戻して、力を止めるしかないっとことですよね」
イクスが続ける。
「そういうことね」
レイラは頷いた。
「本体がこの館のどこかにあるなら、キュアを使う余地はある。問題は、その位置をどう探すかだけど」
《キュア》とは、マテリアル化した人間を、もう一度人の姿へ戻すための特殊装置だった。
見た目は、金属製の小さな鍵に似ている。
だが、それは扉を開けるためのものではない。
マテリアルの奥に残された人間だった頃の情報へ干渉し、結晶化によって固定された肉体と意識を解きほぐすための装置。
人を、宝石として終わらせないための最後の手段だった。
もちろん、万能ではない。
マテリアルが完全に力を使い果たしていた場合。
あるいは、結晶化してから長い時間が経ちすぎていた場合。
戻せないことも過去にあった。
それでも、キュアが反応する限り、そこにはまだ人間に戻せる可能性が残っている。
イクスたちは、これまで何度もその光を見てきた。
硬く冷たい結晶の中から、人の体温が戻ってくる瞬間を。
名前も声も奪われた者が、もう一度、自分の足で立ち上がる瞬間を。
だからこそ、今回も諦めるわけにはいかなかった。
その決意に応えるように、イクスの腰に下げられたキュアが、じんわりと温かな光を宿した。
この館のどこかにあるはずのマテリアルを見つけ出し、キュアを使って、結晶にされた誰かを人間の姿へ戻す。
それが、イクスたちに残された唯一の道だった。