ローゼンヴァルトの館〜白薔薇に閉ざされた館を彷徨う、凍りついた涙の物語   作:TatshMusicCircle

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2話 沈黙するガジェット

 館へ近づくにつれて、森の音が遠ざかっていった。

 

 湿った土を踏みしめる音。

 

 風に揺れる木々のざわめき。

 

 苔と落ち葉の匂い。

 

 そうした森の気配が、一歩進むごとに少しずつ薄れていく。

 

 代わりに、どこからか酒精の匂いが近づいてきた。

 

 古いワイン樽のような甘さ。

 

 喉の奥をかすかに刺すような、強い酒の気配。

 

 それは霧に混じり、館へ向かう三人の周囲へ、静かにまとわりついてきた。

 

 イクスは周囲に視線を配りながら、ゆっくりと歩を進める。

 

 レイラは端末を片手に、時折画面へ目を落としていた。様々な計測アプリが忙しなく働き、画面を青白く光らせている。

 

 エレノアナは二人の少し後ろを歩きながら、館の窓を見上げている。

 

 巨大な洋館だった。

 

 石造りの外壁は黒ずみ、蔦が絡みついている。

 

 だが、完全に廃墟というわけではない。

 

 割れた窓はない。

 

 崩れた壁もない。

 

 むしろ、不自然なほど形を保っている。

 

 長い年月に晒されているはずなのに、館そのものだけが時間から切り離されているようだった。

 

「……変ね」

 

 レイラが小さく呟く。

 

「館も庭も、ちゃんと形は残ってる。なのに、人の気配だけがすっぽり抜け落ちてるのよ。まるで、中身だけ空っぽになったみたい」

 

「マテリアルの影響ですか?」

 

 イクスが周囲を警戒しながらレイラに問いかける。

 

「可能性は高いわね。建物全体に粒子が染み込んでる。少なくとも、この反応を見る限り、館そのものがマテリアルに侵されていると考えた方がよさそうね」

 

 その言葉に、エレノアナがわずかに表情を曇らせた。

 

「……館全体が、ですか」

 

「ええ、覚悟はしておいた方がいいわ」

 

 館の正面玄関へ辿り着く。

 

 重厚な扉だった。

 

 黒い木材に、古びた金属の装飾が施されている。

 

 中央には白薔薇を象った紋章。

 

 その花弁だけが、やけに新しい。

 

 まるで今も咲いている本物の花のように、薄く冷たい光を帯びていた。

 

 イクスは扉の前で立ち止まる。

 

 手を伸ばす前に、耳を澄ませた。

 

 中から物音はしない。

 

 人の気配もない。

 

 だが、灯りは見えた。

 

 玄関扉の左右に設けられた細い窓。

 

 その奥で、淡い黄色の明かりが揺れている。

 

 蝋燭の火のようだった。

 

「明かりがあるな」

 

 イクスが言う。

 

「でも、やっぱり人の気配は感じませんね……」

 

 エレノアナが不安げに呟く。

 

 レイラは端末を軽く叩いた。

 

「熱源反応も不安定。あるようにも見えるし、ないようにも見える。館の中がノイズだらけで、まともに読み取れないわ」

 

「入るしかない、か。二人とも、少し下がっていてください。俺が先に入ります」

 

 イクスはそう言って、扉に手をかけた。

 

 押す。

 

 すると、重そうな見た目に反して、扉はほとんど抵抗なく開いた。

 

 ギィ――……。

 

 低く、長い音が鳴る。

 

 その音だけが、異様なほどはっきり響いた。

 

 まるで館が、来訪者を迎え入れるために声を出したかのようだった。

 

 イクスは銃に手を添えたまま、ひとりで扉の内側へ足を踏み入れた。

 

「イクスさん……」

 

「まだ入らないでください」

 

 背後から聞こえたエレノアナの声に、イクスは振り返らず答えた。

 

 入口の外で、レイラとエレノアナが息を潜める。

 

 イクスは周囲を見渡した。

 

 扉の奥には、広いエントランスホールが広がっていた。

 

 見上げるほど高い天井の下、左右には二階へ続く階段が大きく伸びている。

 

 その中央には赤い絨毯が敷かれ、奥へ進む者を導くように、まっすぐ館の奥へと続いていた。

 

 天井からは巨大なシャンデリアが吊るされている。

 

 蝋燭のような灯りが無数に揺れ、館内部を淡く照らしていた。

 

 人の気配はない。

 

 だが、完全な無人とも言い切れなかった。

 

 静かすぎる空間のどこかに、こちらを見ている何かが潜んでいるような違和感だけがある。

 

「……すぐに襲ってくるものはなさそうです。ひとまずは大丈夫そうです。入ってください」

 

 イクスの声を受け、レイラとエレノアナが館の中へ足を踏み入れた。

 

 三人の靴音が、赤い絨毯に吸い込まれる。

 

 その時、エレノアナが壁の方を見て、小さく息を呑んだ。

 

 壁には、いくつもの肖像画が飾られていた。

 

 豪奢な服をまとった老人。

 

 品のある婦人。

 

 客人と思われる男女。

 

 使用人らしき者たち。

 

 だが、そのどれもが奇妙だった。

 

 顔だけが、黒く塗り潰されている。

 

 目も、鼻も、口もない。

 

 まるで誰かの記憶から、その人物の顔だけを無理やり削り取ったように。

 

「……顔がありません」

 

 エレノアナが小さく呟いた。

 

 レイラも眉をひそめる。

 

「趣味の悪い演出……ってわけじゃなさそうね」

 

 イクスは肖像画を見上げた。

 

 黒く塗り潰された顔は、こちらを見ていない。

 

 それなのに、見られているような気配だけがあった。

 

 館の中に、人の気配はない。

 

 けれど、ここにいたはずの誰かの痕跡だけが、壁に残されている。

 

 生活の痕跡があるのに、そこに暮らす者の温度がない。

 

 その違和感が、静かに肌へまとわりついてくる。

 

「……静かですね」

 

 エレノアナが言った。

 

 その声には、感嘆よりも戸惑いが混じっていた。

 

「こんなに広いのに、誰の声もしません」

 

 イクスは一歩、館の中へ入った。

 

 続いてレイラとエレノアナも入る。

 

 三人の靴音が、赤い絨毯に吸い込まれた。

 

 その瞬間だった。

 

 背後で、扉が動いた。

 

 ギィィィ――……。

 

 三人が同時に振り返る。

 

 誰も触れていない。

 

 風もない。

 

 それなのに、開いていた玄関扉が、ゆっくりと閉じていく。

 

「まずい!」

 

 イクスが走った。

 

 扉へ手を伸ばす。

 

 だが、間に合わなかった。

 

 重い音を立てて、扉が閉ざされる。

 

 ドン――。

 

 館全体が小さく震えた。

 

 その音が消えた後、エントランスホールには再び静寂が戻る。

 

 ただの静寂ではなかった。

 

 閉じ込められた者だけが感じる、出口を奪われた静けさ。

 

 イクスはすぐに扉の取っ手を掴み、力を込めた。

 

 動かない。

 

 押しても引いても、びくともしない。

 

 重い鉄の塊になったように、扉は完全に閉ざされていた。

 

「レイラさん……!」

 

「わかってる」

 

 レイラは端末を構えた。

 

 しかし、次の瞬間、画面に走っていた光がふっと消える。

 

「……嘘でしょ」

 

 レイラが眉をひそめた。

 

 端末を何度か操作する。

 

 反応はない。

 

 画面は真っ暗なままだった。

 

「電源が落ちた?」

 

「違うわ。バッテリーは残ってた。予備電源も積んでる。でも、起動信号そのものが通らない」

 

 その言葉に、エレノアナも慌てて自分の端末を取り出した。

 

 画面に指を触れる。

 

 だが、何も映らない。

 

「私の端末も……動きません」

 

 エレノアナは不安げに画面を見つめ、それからイクスへ視線を向けた。

 

「イクスさんのものは?」

 

 イクスは無言で自分の端末を取り出し、電源を入れようとした。

 

 しかし、こちらも反応はなかった。

 

 黒い画面が、冷たく沈黙している。

 

「……オレのも同じ」

 

 イクスは端末をしまい、周囲へ視線を戻した。

 

 レイラはポーチから別の小型機器を取り出す。

 

 通信機。

 

 粒子測定器。

 

 携帯型解析装置。

 

 だが、どれも同じだった。

 

 電源が入らない。

 

 反応しない。

 

 まるでこの館の中だけ、機械という概念が拒絶されているようだった。

 

「全部、沈黙してる」

 

 レイラの声に、わずかな苛立ちが混じる。

 

「こんなの、普通じゃないわ。外部からの干渉じゃない。もっと根本的に、動作そのものを止められてる」

 

「通信もですか?」

 

 エレノアナが尋ねる。

 

 レイラは小さく頷いた。

 

「完全にダメ。外部へ信号を飛ばせないどころか、内部回路すらまともに動かない」

 

 イクスは扉から手を離し、周囲を見渡した。

 

 エントランスホールには、左右に廊下が伸びている。

 

 正面には二階へ続く大階段。

 

 そして、壁際には大きな窓があった。

 

 外の森が見える。

 

 霧に包まれた木々。

 

 閉じ込められたとはいえ、窓があるなら脱出の可能性はまだ残っている。

 

 今すぐ外へ出るつもりはない。

 

 だが、万が一に備え、出口を確保しておく必要はあった。

 

 イクスはそう判断し、腰の銃を抜いた。

 

「仕方ない、窓を壊す」

 

「イクスさん、気をつけてください」

 

 エレノアナが一歩下がる。

 

 イクスは窓へ銃口を向けた。

 

 照準を合わせる。

 

 引き金を引いた。

 

 乾いた銃声が響く。

 

 だが、ガラスは割れなかった。

 

 弾丸は窓に当たる直前で、白い光の膜に触れたように弾かれた。

 

 金属音にも似た甲高い音が鳴り、弾丸が床へ落ちる。

 

 カラン、と小さく転がった。

 

 イクスは目を細める。

 

「……なんだ、これは。ガラスに当たる前に弾かれた」

 

 レイラが窓へ近づく。

 

 指先でそっと触れようとして、すぐに手を止めた。

 

 窓の表面に、薄い波紋が広がったのだ。

 

 ガラスではない。

 

 水面のようでもあり、空間そのものの膜のようでもあった。

 

「窓の内側に、外と隔てる層がある。物理的なガラスじゃないわ」

 

「つまり、壊せない?」

 

「少なくとも、銃弾じゃ無理ね。爆破しても同じかもしれない」

 

 イクスは窓の向こうを見た。

 

 森が見える。

 

 先ほどまで歩いてきた道も、かすかに見える。

 

 キャンピングカーの影もある。

 

 だが、何かがおかしかった。

 

 木々の輪郭が、ゆっくりと歪んでいる。

 

 霧が濃くなっていく。

 

 地面の位置が揺れ、道がねじれ、遠くにあるはずのキャンピングカーが水面に映った影のように滲んでいく。

 

「イクスさん、レイラさん、見てください……!外の景色が……」

 

 エレノアナが息を呑んだ。

 

 窓の向こうで、森がさらに歪む。

 

 まっすぐ立っていたはずの木が斜めに傾き、地面は波のようにうねった。

 

 空は昼間のはずなのに、夕暮れのような色に沈み、次の瞬間には白くぼやける。

 

 そして、キャンピングカーの姿が消えた。

 

 そこにあるのは、見覚えのない白薔薇の庭だった。

 

 森も道も、もう見えない。

 

 どこまで行っても白薔薇だけが続いているように見え、視界の果ては白くぼやけている。

 

 しかし、それが本当に外にある景色なのかすら分からなかった。

 

 窓はもう、外界へ繋がっていない。

 

 この館が見せている幻なのか。

 

 あるいは、空間そのものが別の場所へ変わってしまったのか。

 

 イクスは銃を下ろさず、低く言った。

 

「外へ戻る道を絶たれたな」

 

「ええ。完全に閉じ込められたわ」

 

 レイラは端末を握ったまま、悔しげに息を吐いた。

 

「よりによって、あたしの自慢のガジェットが全部使えないなんてね。最悪」

 

「レイラさんの装置が使えないとなると、マテリアルの位置も分からないんですよね?」

 

「そうなるわ。粒子の濃い場所を追えない。罠の反応も見えない。何が起きても、ほぼ目視と感覚で判断するしかない」

 

 エレノアナは不安そうに両手を胸の前で握った。

 

 だが、その瞳はまだ折れていない。

 

「それじゃあ……進むしかありませんね!」

 

 その時だった。

 

 エントランスホールの奥から、かすかな音が聞こえた。

 

『――あははっ』

 

 少女の笑い声。

 

 森の外で聞こえたものと同じ声だった。

 

 澄んでいて、幼くて。

 

 けれど、どこか空っぽだった。

 

『ようこそ。来てくれて、うれしい』

 

 声が響く。

 

 ホールのどこから聞こえているのか分からない。

 

 天井からのようでもあり、階段の奥からのようでもあり、壁そのものから漏れているようでもあった。

 

『わたし、おじいちゃんと一緒で、もてなすのが大好きなの。美味しい食事も、甘い飲みものも、ちゃんと用意してあるよ』

 

 エレノアナが顔を上げた。

 

「あなたは……誰ですか?」

 

 返事はすぐにはなかった。

 

 蝋燭の灯りが、一斉に揺れる。

 

 シャンデリアの影が壁に伸び、赤い絨毯の上をゆっくりと這った。

 

 その影が、ほんの一瞬だけ、人の手のように見えた。

 

 イクスは目を細める。

 

 だが、次の瞬間にはただの影に戻っていた。

 

 館の中に、人の気配はない。

 

 それなのに、どこかで誰かがこちらを見ている。

 

 そんな感覚だけが、冷たい湿気のように肌へまとわりついていた。

 

『ねえ』

 

 少女の声がまた響いた。

 

『あなたたちは、なにを忘れたいの?』

 

 その問いかけに、ホールの空気が冷たくなる。

 

 エレノアナがわずかに目を見開いた。

 

 レイラの表情から、余裕が消えた。

 

 イクスは黙ったまま、声の方向を探る。

 

『かなしいこと?』

 

 少女の声は楽しそうだった。

 

『いたいこと?』

 

 蝋燭の火が、ひとつ消える。

 

『たいせつなひとのこと?』

 

 またひとつ、火が消えた。

 

『それとも――』

 

 声が、すぐ耳元で囁いたように聞こえた。

 

『じぶんが、なにをしたのか?』

 

 イクスの指が、銃のグリップを強く握る。

 

 一瞬、胸の奥に古い痛みが走る。

 

 生命工学系の大企業にいた頃のイクスは、命令に従うことしかできない人間だった。

 

 おかしいと思うことがあっても逆らえず、違和感を覚えても深く考えようとせず、ただ言われるままに動いていた。

 

 その裏側で、人をマテリアルへ変える実験が行われていたことを、当時のイクスは知らなかった。

 

 だが、知らなかったからといって、何も感じずにいられるわけではない。

 

 自分が従っていた組織の中で、多くの人々が奪われ、マテリアルへ変えられていた。

 

 その事実を知ったあとも、イクスはすべてを救えたわけではなかった。

 

 旅を続けるほど、助けられる者がいる一方で、助けられない者もいるのだと思い知らされる。

 

 どれだけ手を伸ばしても、この世にある悲劇のすべてを救うことはできない。

 

 それなら、最初から見なかったことにしたほうが楽なのではないか。

 

 マテリアルの悲劇も、この世界に満ちている痛みも、気づかないふりをして生きたほうが、ずっと楽なのではないか。

 

 そんな弱い考えが、まるで館の中から手を伸ばしてくるように、イクスの内側を掴んだ。

 

「イクスくん……!」

 

 レイラの声で、意識が戻る。

 

 彼女もまた、表情を硬くしていた。

 

 父ホープのことを思い出したのかもしれない。

 

 それでもレイラは気丈に笑ってみせた。

 

「嫌な声ね。初対面で人の心を覗くなんて、礼儀がなってないわ」

 

『ふふっ』

 

 少女が笑う。

 

『だって、ここではみんな、忘れるんだもの。そのまま、進んできてね』

 

 その言葉を最後に、声は途切れた。

 

 消えた蝋燭が、再び灯る。

 

 エントランスホールは最初と同じ明るさへ戻った。

 

 だが、三人の間に流れる空気は変わっていた。

 

 ここはただの館ではない。

 

 閉じ込められた。

 

 機械を封じられた。

 

 窓も扉も通じない。

 

 そして、この館にいる何者かは、三人の記憶や心に触れてくる。

 

 危険度は、想定よりも遥かに高い。

 

「一度、整理するわよ」

 

 レイラが息を整えながら言った。

 

「扉は開かない。窓も無理。通信も解析も全滅。外の景色は歪んでる。つまり、物理的な脱出は今のところ不可能」

 

「つまりは、マテリアルの本体を探して、キュアを使い、元の人間に戻して、力を止めるしかないっとことですよね」

 

 イクスが続ける。

 

「そういうことね」

 

 レイラは頷いた。

 

「本体がこの館のどこかにあるなら、キュアを使う余地はある。問題は、その位置をどう探すかだけど」

 

《キュア》とは、マテリアル化した人間を、もう一度人の姿へ戻すための特殊装置だった。

 

 見た目は、金属製の小さな鍵に似ている。

 

 だが、それは扉を開けるためのものではない。

 

 マテリアルの奥に残された人間だった頃の情報へ干渉し、結晶化によって固定された肉体と意識を解きほぐすための装置。

 

 人を、宝石として終わらせないための最後の手段だった。

 

 もちろん、万能ではない。

 

 マテリアルが完全に力を使い果たしていた場合。

 

 あるいは、結晶化してから長い時間が経ちすぎていた場合。

 

 戻せないことも過去にあった。

 

 それでも、キュアが反応する限り、そこにはまだ人間に戻せる可能性が残っている。

 

 イクスたちは、これまで何度もその光を見てきた。

 

 硬く冷たい結晶の中から、人の体温が戻ってくる瞬間を。

 

 名前も声も奪われた者が、もう一度、自分の足で立ち上がる瞬間を。

 

 だからこそ、今回も諦めるわけにはいかなかった。

 

 その決意に応えるように、イクスの腰に下げられたキュアが、じんわりと温かな光を宿した。

 

 この館のどこかにあるはずのマテリアルを見つけ出し、キュアを使って、結晶にされた誰かを人間の姿へ戻す。

 

 それが、イクスたちに残された唯一の道だった。

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