ローゼンヴァルトの館〜白薔薇に閉ざされた館を彷徨う、凍りついた涙の物語   作:TatshMusicCircle

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4話 ループする迷宮

 扉は、音もなく開いた。

 

 イクスが最初に中を覗き込む。

 

 そこにあったのは、部屋ではなかった。

 

 細長い廊下だった。

 

 エントランスホールから見えていた廊下とは違い、壁も床も、少しだけ色が暗い。

 

 深い赤の絨毯が奥へ伸び、左右の壁には等間隔で燭台が並んでいる。

 

 灯りはある。

 

 淡い炎が、静かに揺れている。

 

 だが、不思議なほど温度を感じなかった。

 

 火があるなら、わずかでも熱があるはずだった。

 

 それなのに、廊下へ足を踏み入れた瞬間、肌に触れたのは冷えた空気だけだった。

 

 イクスは一歩、廊下へ入る。

 

 靴裏が絨毯を踏む。

 

 だが、音はほとんどしなかった。

 

 踏み込んだ感触はある。

 

 けれど、足音だけが抜け落ちている。

 

 まるで音そのものが、床の奥へ吸い込まれているようだった。

 

「……また、変な場所ね」

 

 背後でレイラが呟く。

 

 その声も、近くにいるはずなのに少し遠い。

 

 廊下が広いわけではない。

 

 三人が横に並べるほどの幅はある。

 

 天井も高い。

 

 壁も窮屈ではない。

 

 それなのに、妙に息苦しかった。

 

 広々としているはずなのに、蓋をされた箱の中に押し込められているような感覚がある。

 

 イクスは立ち止まり、壁の燭台を見た。

 

 燭台の下には、白薔薇を象った小さな壁飾りがあった。

 

「ここにも白薔薇ですね……」

 

 エレノアナが小さく言った。

 

 彼女の視線の先にも、同じような壁飾りがある。

 

 燭台の下。

 

 扉の横。

 

 廊下の柱。

 

 どこを見ても、白薔薇の意匠が刻まれていた。

 

「この館の象徴、ということかしらね」

 

 レイラが低い声で言う。

 

「でも、ただの装飾にしては多すぎるわ。まるで、館そのものに白薔薇が根を張ってるみたい」

 

「白薔薇が、館の中にも……」

 

 エレノアナは胸元に手を添えた。

 

 イクスは黙って廊下の奥を見据えた。

 

 燭台の灯りが等間隔に続いている。

 

 奥に扉が見える。

 

 そこまで一本道だった。

 

「進みます」

 

 イクスは短く告げ、再び歩き出した。

 

 廊下の左右には、いくつもの小部屋があった。

 

 扉は閉まっているものもあれば、少しだけ開いているものもある。

 

 イクスはひとつずつ確認していった。

 

 最初の部屋は、客間だった。

 

 丸いテーブルのそばには、整えられたソファが静かに置かれていた。

 

 窓辺には花瓶があり、そこに活けられた白薔薇だけが、部屋の中で妙に鮮やかに見えた。

 

 枯れてはいない。

 

 むしろ、今摘まれたばかりのように白く美しい。

 

 だが、人はいなかった。

 

 テーブルの上には、途中まで飲まれた紅茶のカップがある。

 

 ソファには、誰かが座っていたようなくぼみが残っている。

 

 暖炉には灰がある。

 

 生活感はある。

 

 つい先ほどまで、誰かがそこで過ごしていたような痕跡がある。

 

 それなのに、人だけがいない。

 

 イクスはカップに触れず、部屋を見回した。

 

「誰かがいた跡はある。でも、気配がない」

 

「変ですね……」

 

 エレノアナが部屋の入口で足を止める。

 

「置き去りにされた、という感じではありません。人だけが、すっと消えてしまったみたいです」

 

「その表現、あまり冗談に聞こえないわね」

 

 レイラは花瓶の白薔薇を見つめながら言った。

 

「この館なら、本当にあり得そうだから」

 

 三人は客間を出た。

 

 次の部屋は書斎だった。

 

 壁一面に本棚が並び、古びた背表紙の本が隙間なく収められていた。

 

 机の上には本が開いたまま置かれ、そのそばにインク壺と羽ペンが残されている。

 

 インク壺。

 

 羽ペン。

 

 椅子はわずかに引かれている。

 

 まるで書き物の途中で、席を立ったばかりのようだった。

 

 だが、やはり誰もいない。

 

 レイラが机の上の本を覗き込む。

 

「文字が読めない」

 

「読めない……ですか?」

 

「ええ。文字の形は見えてる。でも、意味を認識できないの」

 

 レイラは目を細めた。

 

「読もうとすると、頭の中から滑り落ちる感じ。……嫌な干渉ね」

 

 イクスも本へ視線を落とした。

 

 確かに、文字は並んでいる。

 

 だが、読めない。

 

 視線を合わせた瞬間は形があるのに、理解しようとした途端、インクが滲むように意味だけが消えていく。

 

 長く見ていると、頭痛がした。

 

 これ以上追うべきではない。

 

 イクスは本から目を離した。

 

「長く見ないほうがいい」

 

「同感」

 

 レイラは本を閉じようとして、手を止めた。

 

 触れることさえ危険に思えたのだろう。

 

 三人は書斎も後にした。

 

 廊下へ戻る。

 

 一本道だった。

 

 奥へ進むしかない。

 

 イクスは銃に手を添えたまま歩き続ける。

 

 背後にはエレノアナ。

 

 最後尾にレイラ。

 

 燭台の炎が、同じ間隔で揺れている。

 

 壁には、白薔薇の意匠。

 

 床には、赤い絨毯。

 

 窓の外には、白薔薇の庭。

 

 何も聞こえない。

 

 三人の呼吸すら、薄い布越しに聞いているようだった。

 

 やがて、廊下の先に曲がり角が見えた。

 

 イクスは足を止め、角の向こうを確認する。

 

 異常はない。

 

「進みます」

 

 角を曲がる。

 

 その先にも、廊下が続いていた。

 

 同じ赤い絨毯。

 

 同じ燭台。

 

 同じ白薔薇の壁飾り。

 

 同じ花瓶。

 

 そして、奥にまた曲がり角。

 

 レイラが後ろで息を吐いた。

 

「……嫌な予感がするわ」

 

「レイラさん?」

 

「こういう場所で、同じ景色が続くのはだいたい良くないのよ」

 

 レイラはそう言いながら、腰のポーチから小さなナイフを取り出した。

 

 折り畳み式の工具ナイフだった。

 

 刃が、燭台の灯りを受けて細く光る。

 

 エレノアナが驚いたように目を丸くした。

 

「レイラさん、何をするんですか?」

 

「目印をつけるの」

 

 レイラは近くの柱へ歩み寄る。

 

 白い大理石の柱。

 

 その表面へ、ナイフの刃を当てた。

 

「ま、待ってください。館のものを傷つけるのは……」

 

「ごめんね、エレノアナちゃん。でも、今はお行儀より生存確認が優先」

 

 レイラは迷わず、柱に横一線の傷を刻んだ。

 

 キィ、と小さな音が鳴るはずだった。

 

 だが、その音すらほとんど響かない。

 

 刃が石を削る感触だけが、妙にはっきりと見えた。

 

 白い柱に、細い傷が残る。

 

 レイラはその下に、さらに斜めの傷を一本入れた。

 

「これでよし」

 

「……本当に、少しだけですよ」

 

 エレノアナが困ったように言う。

 

「あとで謝ります」

 

「館に?」

 

「館に」

 

 レイラは真顔で答えた。

 

 冗談のようで、少しも笑っていなかった。

 

 イクスは柱の傷を確認する。

 

「目印としては十分です」

 

「この先を進んで、もし同じ場所に戻ったら確定ね」

 

 三人は再び歩き出した。

 

 曲がり角を曲がる。

 

 さらに進む。

 

 また曲がり角。

 

 廊下は続く。

 

 広い。

 

 長い。

 

 だが、どこまで歩いても、景色に変化がない。

 

 燭台。

 

 赤い絨毯。

 

 白薔薇の壁飾り。

 

 白薔薇の花瓶。

 

 客間。

 

 書斎。

 

 閉じた扉。

 

 少し開いた扉。

 

 そして、また白薔薇の壁飾り。

 

 イクスは途中で足を止めた。

 

 右側の壁に刻まれた白薔薇の壁飾りを見つめる。

 

 花弁のひとつだけが、わずかに欠けている。

 

「これは……」

 

 イクスが呟く。

 

 エレノアナもその壁飾りを見た。

 

「さっきのものと同じ、ですよね?」

 

「ええ」

 

 レイラが近づいてくる。

 

「欠け方まで一致してる。偶然とは考えにくいわね」

 

 さらに進む。

 

 今度は窓辺の花瓶が見えた。

 

 白薔薇が三本。

 

 そのうち一本だけ、花弁の先がわずかに欠けている。

 

 レイラが目を細める。

 

「この花瓶も見たわ」

 

「客間にあったものですか?」

 

「違う。廊下の窓際。たぶん、さっきの曲がり角の前にあった」

 

 イクスは周囲を見渡した。

 

 廊下の構造は単純だった。

 

 少なくとも、分岐はなかった。

 

 一本道を進んできた。

 

 それなのに、同じものが繰り返し現れている。

 

「館が同じ景色を作っているのか」

 

「もしくは、あたしたちが同じ場所を歩かされてる」

 

 レイラの声が低くなる。

 

「どちらにせよ、普通の空間じゃないわ」

 

 さらに奥へ進む。

 

 曲がり角が見える。

 

 イクスは慎重に進み、角を曲がった。

 

 その瞬間、三人は足を止めた。

 

 白い大理石の柱。

 

 そこに、細い傷が刻まれていた。

 

 横一線。

 

 その下に、斜めの傷。

 

 レイラが自分でつけた目印だった。

 

 エレノアナが息を呑む。

 

「戻って……きたんですか?」

 

「一本道だったはずだ」

 

 イクスは背後を振り返った。

 

 そこには、今歩いてきた廊下が続いている。

 

 だが、その先もまた同じ景色だった。

 

「扉も階段も通ってない。分岐もなかったわよね」

 

 レイラは柱の傷に指を近づけた。

 

 触れる直前で止める。

 

「間違いなく、あたしがつけた傷ね。深さも角度も同じ」

 

「つまり、この廊下は……」

 

 イクスは眉をひそめて廊下を見渡した。

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