ローゼンヴァルトの館〜白薔薇に閉ざされた館を彷徨う、凍りついた涙の物語   作:TatshMusicCircle

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6話 食堂への招待

 コン……。

 

 三人は同時に顔を上げる。

 

 今まで、何も聞こえなかった。

 

 足音も、衣擦れも、呼吸さえ吸い込まれていた。

 

 それなのに、その音だけははっきりと聞こえた。

 

 コン……。

 

 硬いものが、木を叩くような音。

 

 軽く。

 

 規則的に。

 

 遠くから響いてくる。

 

「今の音……」

 

 エレノアナが小さく言う。

 

「前から聞こえたか?」

 

 イクスが尋ねる。

 

 レイラは耳を澄ませた。

 

 コン……。

 

 今度は背後から聞こえた。

 

 レイラの表情が険しくなる。

 

「後ろよ」

 

「いえ……今のは前からも……」

 

 エレノアナが困惑した声を漏らす。

 

 コン……コン……。

 

 音が二度続いた。

 

 前方から。

 

 背後から。

 

 あるいは、壁の内側から。

 

 床の下から。

 

 天井の上から。

 

 方向が定まらない。

 

 音だけが、静寂の中に浮かんでいる。

 

 コン……。

 

 コン……。

 

 イクスは銃を抜いた。

 

「二人とも、下がって」

 

 エレノアナが一歩後ろへ下がる。

 

 レイラもナイフを構えながら背中を壁に向けた。

 

「これ、ノックの音に聞こえない?」

 

「ノック?」

 

「ええ。誰かが、扉を叩いてるみたい」

 

 コン……。

 

 確かに、その音は扉を叩く音に似ていた。

 

 来訪者が中にいる者へ合図を送るような音。

 

 だが、この館でその音が響くことが、何より不気味だった。

 

 誰もいないはずだった。

 

 生活感だけを残し、人の姿だけが消えた館。

 

 足音すら飲み込む異常空間。

 

 そこで、その音だけが許されている。

 

 コン……コン……。

 

 今度は近い。

 

 すぐ隣の扉から聞こえたように思えた。

 

 イクスは銃口を向ける。

 

 だが、次の瞬間には背後の扉から聞こえた。

 

 コン……。

 

 レイラが舌打ちする。

 

「からかわれてるわね」

 

「でも……誰かが助けを求めている可能性もあります」

 

 エレノアナの声は震えていた。

 

 それでも、彼女はそう言った。

 

「この音が、何かの合図なら……」

 

「分かっています」

 

 イクスは短く答える。

 

 その時、廊下の奥で、ひとつの扉が動いた。

 

 ギィ――……。

 

 静寂の中で、その軋みだけが異様に大きく響く。

 

 三人が視線を向ける。

 

 先ほどまで閉じていたはずの両開きの扉。

 

 他の部屋よりも大きい。

 

 古い木材に、白薔薇の彫刻が施されている。

 

 その扉が、独りでにゆっくりと開いていく。

 

 隙間から、暖かな光が漏れた。

 

 これまでの廊下の灯りとは違う。

 

 橙色の、柔らかい光。

 

 そして、香りが流れてくる。

 

 花の香りではない。

 

 焦げた肉。

 

 焼きたてのパン。

 

 甘い果実酒。

 

 香辛料。

 

 誰かをもてなすために整えられた食事の匂いだった。

 

 エレノアナが戸惑うように呟く。

 

「食堂……でしょうか」

 

 レイラは目を細めた。

 

「ずいぶん親切ね。迷路の次はディナーのお誘い?」

 

「罠の可能性が高いです」

 

 イクスは銃を下ろさずに言う。

 

「でも、進むしかありません」

 

 扉の向こうに見えるのは、大きな食堂だった。

 

 部屋の中央には長い食卓が置かれ、白いテーブルクロスが端まで美しく掛けられていた。

 

 その上には銀の燭台が並び、皿もグラスも、来客を待つように整えられている。

 

 そこには確かに、今まさに誰かを迎える準備が整っていた。

 

 だが、席には誰もいない。

 

 料理は湯気を立てている。

 

 灯りは揺れている。

 

 グラスの中の液体は、薄く透明度の高い白を帯びている。

 

 それでも、人だけがいなかった。

 

 イクスは扉の前で一度立ち止まる。

 

 背後を見る。

 

 廊下は変わらず、同じ景色を繰り返していた。

 

 戻っても、おそらくまたこの場所へ辿り着く。

 

 ならば、選択肢はひとつしかない。

 

「俺が先に入ります」

 

 イクスは低く言った。

 

「二人は、俺の合図があるまで入口に」

 

「分かったわ」

 

 レイラが頷く。

 

「気をつけて、イクスくん」

 

「イクスさん……」

 

 エレノアナの声に、イクスはわずかに振り返る。

 

「大丈夫です」

 

 そう言って、イクスは食堂へ足を踏み入れた。

 

 その瞬間、背後の廊下から響いていた謎の音が止まった。

 

 コン、という最後の余韻だけが残り。

 

 館はまた、息を殺したような静寂に包まれた。

 

 食堂の中は、廊下とは別世界だった。

 

 暖かい。

 

 それが最初に感じた異常だった。

 

 廊下の空気は冷たく、湿っていて、まるで地下室のようだった。

 

 だが食堂には、確かに熱がある。

 

 奥の壁に据えられた大きな暖炉で、炎が赤々と燃えていた。

 

 薪が崩れる音は聞こえない。

 

 火が爆ぜる音もない。

 

 それでも炎は揺れ、橙色の光を食堂全体へ投げかけている。

 

 長い食卓には、豪華な料理が並べられていた。

 

 どれも温かそうだった。

 

 どれも、今ここへ運ばれてきたばかりのようだった。

 

 だが、給仕はいない。

 

 客もいない。

 

 椅子だけが、三脚ほど引かれている。

 

 まるで、三人のために用意されていたかのように。

 

「……入ってください」

 

 イクスは周囲を警戒しながら言った。

 

 レイラとエレノアナが食堂へ足を踏み入れる。

 

 扉は閉まらなかった。

 

 開いたまま、背後に廊下を残している。

 

 それが逆に不気味だった。

 

 逃げ道を塞ぐ必要などない。

 

 そう言われているようだった。

 

「暖かいですね……」

 

 エレノアナが小さく呟いた。

 

「廊下とは、まるで違います」

 

「暖炉があるから、というだけじゃないわね」

 

 レイラは食卓に近づき、料理を見下ろす。

 

「この部屋だけ、空気の密度が違う。嫌な感じに落ち着くわ」

 

「落ち着く?」

 

「ええ。長くいたら、警戒心が鈍りそう」

 

 そう言いながらも、レイラの声は少しだけぼんやりしていた。

 

 その瞬間、レイラの脳裏に、幼い頃の食卓がふと浮かんだ。

 

 パパとママがまだ生きていたころ。

 

 暖かな灯りの下で、三人で食事をしていた記憶。

 

 イクスは彼女を見る。

 

「レイラさん?」

 

 その声に、レイラははっと瞬きをした。

 

 遠い食卓の記憶が、霧のようにほどけていく。

 

「……ああ、ごめん」

 

 レイラは額に手を当てた。

 

「変ね。パパとママが生きていたころの食卓を、少し思い出してしまったわ」

 

 食堂には、甘い匂いが漂っていた。

 

 焼き菓子のようでもあり、熟れた果実を潰したようでもあった。

 

 その奥には、古い酒蔵に染みついたような香りが混じっている。

 

 樽に染み込んだワインの、熟れた果実を思わせる甘い香りが、長く封をされていた蒸留酒の鋭さと混ざり合っていた。

 

 喉の奥をかすかに刺す酒精の気配があるのに、不思議と嫌な匂いではなかった。

 

 むしろ、心地よかった。

 

 ひと息吸い込むだけで腹の奥が温まり、肩の力が抜けそうになる。

 

 警戒心まで甘くほどかれていくようで、イクスはすぐに呼吸を浅くした。

 

「匂いを吸いすぎないでください。危険な気がする」

 

「毒、でしょうか?」

 

「わかりません。ただ、この館で安心できるものはない」

 

 エレノアナが頷く。

 

 レイラも警戒するように口元を袖で覆った。

 

 だが、その目は食卓の奥へ向けられていた。

 

「しっかし……すごい数ね」

 

 壁一面に、古い酒瓶が並んでいた。

 

 透明なもの、琥珀色のもの、黒に近い赤を沈めたもの。

 どの瓶も丁寧に磨かれているのに、ラベルだけは妙に読み取りづらかった。

 

 見慣れない文字が並んでいる。

 

 読もうとすると、頭の奥がぼやける。

 文字の形は見える。

 けれど、意味だけが指の間から水のようにすり抜けていく。

 

 イクスはすぐに視線を外した。

 

「長く見ない方がいい」

 

「ええ。読ませる気がないみたいね」

 

 レイラは棚に並ぶ瓶を見渡しながら、小さく息を吐いた。

 

「資料で見た時点で普通じゃないとは思ってたけど……ここまで来ると、趣味というより執着ね」

 

 彼女は、ずらりと並ぶ酒瓶へ視線を滑らせた。

 

「ローゼンヴァルト伯爵は、世界中の酒を集める愛好家だったらしいわ。この館も、ただの住まいとして使われていたわけじゃない。各国の酒好きや収集家を招いて、珍しい酒を振る舞うサロンのような場所だったみたい」

 

「サロン、ですか……?」

 

 エレノアナが不安そうに聞き返す。

 

「ええ。表向きは、かなり華やかな社交場だったんでしょうね。珍しい酒を味わって、語り合って、もてなしを楽しむ場所だったはずよ」

 

 レイラは、ずらりと並ぶ酒瓶を見つめた。

 

「でも、今のこの館を見ていると、人が酒を楽しんでいた場所というより、酒だけが取り残された場所に見えるわ」

 

 その言葉に、イクスは食堂を見渡した。

 

 食卓には料理が用意され、皿は整えられ、グラスには飲み物が注がれている。

 

 誰かを迎えるための形だけが残っているのに、そこにいるはずの人間だけがいない。

 

 それが、この部屋をいっそう不気味に見せていた。

 

「ここまでくると、楽しんでいるというより……縋っているみたいに見えるわ」

 

 エレノアナが、不思議そうに首を傾げる。

 

「お酒って、そんなに危ないものなのですか? もちろん、飲みすぎはよくないと思いますけど……」

 

「お酒そのものを悪者にしたいわけじゃないのよ」

 

 レイラは静かに答えた。

 

「楽しく飲める人もいるし、料理に合うものもある。祝いの席で少し飲むくらいなら、それはその人の楽しみ方だと思うわ。問題は、そこから先」

 

「そこから先?」

 

「飲まないと一日を終えられない。飲まないと眠れない。嫌なことがあるたびに、飲んで忘れようとする。食事には必ず酒がいる。晩酌がない夜に落ち着かない。……そうなったら、もう楽しんでるんじゃなくて、縋ってるのよ」

 

 エレノアナは黙った。

 

 廊下の奥から、濃い酒精の匂いが流れてくる。

 甘いはずなのに、胸の奥へ重く沈む匂いだった。

 

「でも」

 

 イクスが静かに口を開いた。

 

「酒がない生活に、大きな不都合はないですよね」

 

「ないわね」

 

 レイラは即答した。

 

「体調も崩れにくい。眠りも浅くなりにくい。お金も減らない。余計な失敗もしない。人を傷つける可能性も減る。本当は、飲まないことで失うものなんて、そんなに多くないの」

 

「なら、どうしてやめられないんでしょう」

 

 イクスの問いに、レイラは少しだけ目を細めた。

 

「飲む理由を、いくらでも作れるからよ」

 

 その声は、責めるものではなかった。

 どこか、知っている痛みを思い出すような声だった。

 

「疲れたから。眠れないから。嫌なことがあったから。付き合いだから。祝いだから。明日から頑張るから。……そうやって、必要なときだけのはずが、いつの間にか毎日になる」

 

「絶対に必要なとき以外、飲まないようにすればいいのではありませんか?」

 

 エレノアナが真剣な表情で言った。

 

 レイラは、小さく息を吐く。

 

「エレノアナちゃん。それができるうちは、まだ戻れるのよ」

 

「……できなくなるのですか?」

 

「ええ。本人の中で、必要の範囲が広がっていくの。つらいから必要。寂しいから必要。怒りを抑えるために必要。眠るために必要。普通に振る舞うために必要。そうして最後には、飲まない自分に耐えられなくなる」

 

 エレノアナは胸元に手を当てた。

 

「それは……とても悲しいですね」

 

「そうね」

 

 レイラは静かに頷いた。

 

「意思が弱いから、だけじゃないのよ。最初は本当に、救いみたいな顔をして近づいてくるの。苦しみを薄めてくれる。嫌な記憶をぼかしてくれる。眠れない夜を終わらせてくれる。だから怖いの」

 

 食卓の上には、赤く焼けた肉が皿に盛られ、紅茶がまだ湯気を立てていた。

 

 透明度の高い美しい白い飲み物も、まるで最初からそこに置かれることが決まっていたかのように、グラスの中で静かに揺れている。

 

 椅子は誰かが座るのを待つように引かれ、磨き上げられた銀の食器は、灯りを受けて冷たく光っていた。

 

 空のグラスまで含めて、食卓は異様なほど自然に整えられている。

 

 誰かを迎えるための準備は、すでに終わっていた。

 

 客人をもてなすための食卓として、何も欠けていない。

 

 だが、そこにいるはずの主だけがいなかった。

 

「……ねえ」

 

 レイラがぽつりと言った。

 

 イクスはすぐに反応する。

 

「どうしました?」

 

「あたしたちって……どうして、ここへ来たんだっけ」

 

 その言葉に、食堂の空気が止まった気がした。

 

 エレノアナが目を見開く。

 

「レイラさん……?」

 

「違うの。分かってる。分かってるはずなのよ」

 

 レイラはこめかみを押さえた。

 

「この館が危険で、何かを調べに来て……それは分かる。けど、肝心なところが抜けてる。どうしてここへ来たのか。何を見つければいいのか。誰を助けるつもりだったのか……そこだけ、霧がかかったみたいに」

 

 イクスの表情が硬くなる。

 

 彼はすぐに自分の記憶を確認した。

 

 ローゼンヴァルト伯爵の館。

 

 違法マテリアル取引。

 

 巨大な結晶体。

 

 キュア。

 

 マテリアル化した人間を救うため。

 

 そこまでは思い出せる。

 

 だが、その記憶の輪郭も、ほんのわずかに滲んでいるような気がした。

 

 さっきまで明瞭だったはずの目的が、薄い紙の向こう側へ移動したように遠い。

 

「この館は、記憶を削っている」

 

 イクスは低く言った。

 

 エレノアナが息を呑む。

 

「記憶を……?」

 

「最初に女の子が言っていました。ここではみんな忘れる、と」

 

 イクスは食堂を見渡す。

 

「閉じ込めるだけじゃない。ループで疲弊させ、静寂で判断力を奪い、この匂いと暖かさで警戒心を緩める。そして、長く滞在するほど、目的や危機感を薄れさせる」

 

「目的……危機感……」

 

 エレノアナは自分の胸元を押さえた。

 

「それが薄れてしまったら、私たちは……」

 

「ここから出ようとする理由を失う」

 

 レイラが続きを言った。

 

 その声は震えていた。

 

「自分が誰かも、何をしに来たのかも、何を守りたかったのかも、少しずつ分からなくなる。……最悪ね」

 

 イクスは食卓の上のグラスを見た。

 

 透明度の高い白い飲み物が、燭台の光を受けて淡く揺れている。

 

 飲んではいけない。

 

 直感的に、そう思った。

 

 この館で差し出されるものは、すべて何かを忘れさせるためのものだ。

 

「ここには長くいないほうがいい」

 

「でも、廊下へ戻ってもループです」

 

 エレノアナが言う。

 

「この部屋に、何か手がかりがあるかもしれません」

 

「探しましょう」

 

 イクスは頷いた。

 

「ただし、料理には触れない。飲み物にも近づかないでください」

 

「当然」

 

 レイラは即答したが、声にはまだ少し迷いが残っていた。

 

 三人は食堂内を調べ始めた。

 

 壁際の酒棚には、数えきれないほどの瓶が並んでいる。

 

 産地も年代も違うであろう酒瓶。

 

 金属の札がついたもの。

 

 白薔薇の紋章が刻まれたもの。

 

 鍵のかかった小さなガラスケースに収められたもの。

 

 その中には、明らかに普通の酒瓶とは違うものも混じっていた。

 

 瓶の中の液体が、燭台の火とは違う光を返している。

 

 赤でも琥珀でもない。

 

 白く、薄く、どこか結晶のような光。

 

 レイラはそれを見て、眉をひそめた。

 

「……この棚、ただの酒のコレクションじゃないわね」

 

「マテリアルと関係が?」

 

「まだ分からない。でも、普通の酒瓶に混じって、明らかに反応がおかしいものがある」

 

 レイラは瓶へ手を伸ばしかけて、すぐに止めた。

 

「触らない方がいいわ。今のあたしたちには、何が仕掛けられているか分からない」

 

 その時、エレノアナが暖炉横の小さなキャビネットに目を留めた。

 

 そこには古い木製の棚が置かれており、上段には銀のトレイが載せられていた。

 

 だが、その下の段には、館の雰囲気にそぐわないものが置かれていた。

 

「これは……」

 

 エレノアナが手を伸ばす。

 

 それは黒いケースだった。

 

 プラスチックのケース。

 

 ディスクが一枚、中に収められている。

 

 この館の調度品とは明らかに時代が違う。

 

 誰かが後から置いたもの。

 

 あるいは、ここに残された記録。

 

「レイラさん、イクスさん」

 

 エレノアナが振り返る。

 

「これを見てください」

 

 レイラがすぐに近づく。

 

 ケースを受け取り、目を細めた。

 

「ディスク……? こんな館に?」

 

「何かの記録でしょうか?」

 

 イクスが尋ねる。

 

「たぶんね。映像か、音声か、それとも文章データか……中身を確認できれば分かるんだけど」

 

 レイラの表情に、研究者としての鋭さが戻る。

 

 彼女はポーチから小型の読み取り装置を取り出した。

 

 使えなくなっているガジェットのひとつ。

 

 それでも、彼女は諦めきれないように操作する。

 

「一応、試すわ」

 

 ケースを開け、ディスクを慎重に取り出す。

 

 薄い円盤の表面には、白薔薇の紋章が小さく印字されていた。

 

 レイラはそれを装置のスロットへ差し込む。

 

 沈黙。

 

 画面は点かない。

 

 駆動音もしない。

 

 読み込みランプすら反応しなかった。

 

「……まあ、でしょうね」

 

 レイラは苦々しく言う。

 

「この館に入ってから、電子機器は全部死んでる。奇跡は起きないか」

 

「別の方法は?」

 

「外部ドライブなら、単独で読み込みくらいはできるはずなんだけど」

 

 レイラはさらに小さなドライブを取り出した。

 

 手のひらほどの携帯型ドライブ。

 

 簡易的な手動起動機構がついている。

 

 彼女はディスクをそちらに移し、蓋を閉じた。

 

 指先で起動レバーを押し込む。

 

 かすかな抵抗。

 

 だが、それだけだった。

 

 通常なら回転音が鳴るはずだった。

 

 ディスクが読み込まれ、内部の小さなランプが点滅するはずだった。

 

 しかし、何も起きない。

 

 ドライブは沈黙したまま、ただ冷たい箱のようにレイラの手の中にあった。

 

「だめね」

 

 レイラは深く息を吐いた。

 

「完全に読めない。媒体が壊れてるのか、機械が封じられてるのか。たぶん両方ではないと思うけど、今の状態じゃ確認しようがないわ」

 

 イクスはディスクを見つめた。

 

「手がかりの可能性は高い。持っていきましょう」

 

「そうね」

 

 レイラはディスクをケースへ戻そうとした。

 

 その時だった。

 

 エレノアナが、ふと顔を上げた。

 

「……今」

 

 小さな声だった。

 

 イクスとレイラが彼女を見る。

 

「どうしました?」

 

「このケースから……声が聞こえた気がしました」

 

 レイラの手が止まる。

 

「声?」

 

「はい。とても小さな声でした。何を言っていたのかは分かりません。でも……ケースの中から、誰かが何かを言ったような」

 

「エレノアナちゃん」

 

 レイラは少しだけ困ったように言った。

 

「気持ちは分かるけど、ケースが喋るわけないでしょ」

 

「でも……」

 

「この館のせいで、こっちの感覚もおかしくなってる。聞こえないはずの音が聞こえたり、逆に聞こえるはずの音が消えたりしてる。だから、今のはたぶん錯覚よ、幻聴よ」

 

 レイラはそう言って、ケースを食卓の端へ置いた。

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