ローゼンヴァルトの館〜白薔薇に閉ざされた館を彷徨う、凍りついた涙の物語   作:TatshMusicCircle

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7話 白の間へ

 銀の皿の横。

 

 飲み物の入ったグラスの近く。

 

 エレノアナは不安そうにケースを見つめる。

 

 イクスも、ほんのわずかに眉を動かした。

 

 錯覚。

 

 そう片づけるには、この館ではすでに多くの異常が起きすぎていた。

 

 だが、今はそれを確かめる手段がない。

 

 レイラはもう一度、食堂を見回した。

 

「とにかく、長居は危険よ。記憶が削られてるなら、ここで休むのは最悪の選択」

 

「でも、廊下へ戻ればまたループです」

 

 エレノアナが言う。

 

「ええ。だから、この食堂が次の分岐点になっている可能性が高い」

 

 レイラは暖炉の炎を見た。

 

「館はあたしたちをここへ誘導した。なら、ここには何かある。出口か、罠か、次の部屋へ続く条件か」

 

 イクスは食堂の奥へ視線を向けた。

 

 暖炉の隣には重いカーテンが垂れており、その陰に、もうひとつの扉が隠れるように見えていた。

 

 廊下側からは死角になっていたのだろう。

 

 扉は小さく、表面には白薔薇の紋章が刻まれている。

 

「奥に扉があります」

 

 イクスが言う。

 

 レイラとエレノアナがそちらを見る。

 

 暖炉の炎が、その扉の輪郭を赤く照らしていた。

 

 暖かな光のはずなのに、イクスにはそれが不吉な揺らぎに見えた。

 

 扉は小さい。

 

 人ひとりが通れる程度の幅しかない。

 

 けれど、そこに刻まれた白薔薇の紋章だけは、異様なほど精密だった。

 

 花弁の一枚一枚が薄く浮き上がり、まるで本物の花をそのまま木へ閉じ込めたように見える。

 

 イクスが手を伸ばす。

 

 指先が取っ手に触れる直前、背後でエレノアナが小さく息を呑んだ。

 

「イクスさん……」

 

「大丈夫。俺が確認してみるよ」

 

 取っ手は冷たかった。

 

 暖炉の熱が届いているはずなのに、その金属だけが氷のように冷えている。

 

 イクスは慎重に力を込めた。

 

 鍵はかかっていなかった。

 

 扉は、ほとんど抵抗なく開いた。

 

 その向こうには、白い廊下が続いていた。

 

 それまでの赤い絨毯も、黒ずんだ壁も、肖像画もない。

 

 床も、壁も、天井も、すべてが白い。

 

 ただの白ではない。

 

 光を吸い込んだ雪のような白。

 

 月明かりを薄く溶かしたような白。

 

 そして、そこから、かすかに甘い匂いが流れてきた。

 

 食堂に漂っていたものよりも、ずっと濃い。

 

 焼き菓子や果実酒ではない。

 

 花の蜜。

 

 冷たい砂糖。

 

 それから、どこかで嗅いだことのある消毒液のような匂い。

 

 それらが混ざり合い、鼻の奥へ静かに沈んでくる。

 

「……嫌な匂いね」

 

 レイラが低く呟いた。

 

 口ではそう言いながら、その声には力がなかった。

 

 イクスは振り返る。

 

 レイラの瞳が、少しだけぼんやりとしていた。

 

 エレノアナも同じだった。

 

 意識はある。

 

 立っている。

 

 けれど、二人ともどこか遠くを見ているようだった。

 

「レイラさん。エレノアナ」

 

 イクスが呼ぶ。

 

 エレノアナはゆっくりと瞬きをした。

 

「はい……大丈夫、です」

 

「本当に?」

 

「……はい。少し、眠いだけで」

 

 眠い。

 

 その言葉が、イクスの胸に引っかかった。

 

 この館の中で眠気を感じること自体が危険だった。

 

 眠るとは、意識を手放すことだ。

 

 この場所でそれをすれば、何を奪われるか分からない。

 

「二人とも、俺から離れないでください」

 

 イクスは低く言った。

 

「この先は、今まで以上に危険です」

 

「わ、わかってるわ……」

 

 レイラはそう答えたが、どこか返事が遅れた。

 

 それでも、彼女は自分の頬を軽く叩く。

 

 乾いた音はしなかった。

 

 この館は相変わらず、必要のない音を奪っている。

 

 白い廊下へ足を踏み入れた。

 

 靴底が床に触れる。

 

 音はない。

 

 だが、感触はあった。

 

 石でも木でもない。

 

 滑らかで、冷たい。

 

 まるで固められた花弁の上を歩いているようだった。

 

 廊下の左右には窓も扉もない。

 

 ただ白い壁が続いている。

 

 その白さが、かえって奥行きを奪っていた。

 

 どこまで進んでいるのか。

 

 どれくらい歩いたのか。

 

 前へ進んでいるのか。

 

 それとも、白い空間の中で足踏みしているだけなのか。

 

 分からなくなる。

 

 食堂で削られかけた記憶の輪郭が、さらに薄くなる感覚があった。

 

 イクスは腰のキュアへ手を添えた。

 

 冷たい金属の感触。

 

 それだけが、自分たちの目的を繋ぎ止める鎖のようだった。

 

 レイラとエレノアナを守りながら、この館の本体を探し、マテリアルを人へ戻す。

 

 自分にそう言い聞かせながら、イクスは前へ進んだ。

 

 やがて、廊下が途切れた。

 

 その先にあったのは、広い部屋だった。

 

 月光に満ちた、白薔薇の広間。

 

 床も柱も淡く白く、壁際には無数の白薔薇が静かに咲いている。

 

 青い光を帯びたその空間は、まるで館の奥に隠された別世界のようだった。

 

 そこには家具らしいものがほとんどなかった。

 

 ただ中央に、丸い小さなテーブルが置かれている。

 

 その上には、銀のトレイ。

 

 そして、三つのグラス。

 

 透明度の高い、美しい白い飲み物が注がれていた。

 

 光そのものを薄く溶かしたような液体。

 

 それは確かに美しかった。

 

 だからこそ、イクスにはひどく不気味に見えた。

 

 広間の奥に、少女がいた。

 

 最初、イクスはそれを人影だと認識できなかった。

 

 あまりにも、白く淡かったからだ。

 

 月光に照らされた床も、並び立つ柱も、壁際に咲く白薔薇も、すべてが同じ淡い光を帯びている。

 

 その白の中に、さらに薄い白を重ねたように、少女は静かに立っていた。

 

 無数の白薔薇が、彼女を囲んでいる。

 

 床から伸びた蔓は、少女の足元を守るように絡み合い、花弁は音もなく揺れていた。

 

 まるで、その小さな姿を外の世界から隠しているようだった。

 

 十歳ほどに見える少女だった。

 

 飾り気のない白い服。

 

 肩へ流れる長い白髪。

 

 雪の光を吸ったように淡い肌。

 

 その中で、薄い水色の瞳だけが、静かに三人を見つめていた。

 

 敵意はない。

 

 恐怖もない。

 

 ただ、来るはずだった客人を迎えるように、少女はゆっくりと微笑んだ。

 

「きてくれた、いらっしゃい」

 

 少女が言った。

 

 その声は、館の中で何度も聞こえた声と同じだった。

 

 幼く、澄んでいて。

 

 けれど、どこか底がない。まるで感情がない。凍りついた声。

 

 エレノアナが小さく息を呑む。

 

「あなたが……」

 

 少女はテーブルの上のグラスをひとつ取った。

 

 両手で大切そうに持ち、ゆっくりと差し出す。

 

「飲んで」

 

 透明度の高い白い飲み物が、グラスの中で静かに揺れた。

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