ローゼンヴァルトの館〜白薔薇に閉ざされた館を彷徨う、凍りついた涙の物語   作:TatshMusicCircle

8 / 8
8話 記憶の棘

「忘れれば、もう苦しくないよ」

 

 その言葉は、優しかった。

 

 本当に優しかった。

 

 だから、恐ろしかった。

 

 悪意を持って誰かを傷つけようとしている声ではない。

 

 むしろ、その声には、相手を救おうとしていることへの疑いがまったくなかった。

 

 ただし、そこに熱はない。

 

 あまりにも事務的で、あまりにも淡々としていた。

 

 まるで、イクスたちが自分の誘いを断るはずがないと、最初から決めているかのように。

 

 レイラが一歩、ふらりと前へ出かける。

 

 イクスはすぐに腕を伸ばし、彼女の肩を掴んだ。

 

「レイラさん」

 

「……え?」

 

 レイラは瞬きをする。

 

 自分が動いたことに、今気づいたようだった。

 

「あたし、今……」

 

「グラスに近づこうとしていました」

 

「嘘……」

 

 レイラの顔から血の気が引く。

 

 だが、その目はまだグラスに吸い寄せられていた。

 

 エレノアナも胸元へ手を当て、苦しそうに息をする。

 

「なんだか……思い出すのが、つらいです」

 

「エレノアナ」

 

「私たち、何を……何をしに、ここへ……」

 

 言葉が途中で途切れる。

 

 エレノアナの瞳が揺れていた。

 

 彼女の中にある使命感。

 

 誰かを助けたいという強い意志。

 

 その輪郭さえも、白い霧に包まれ始めている。

 

 イクスは奥歯を噛みしめた。

 

 自分の意識も、無事ではなかった。

 

 頭の奥が鈍い。

 

 記憶の端が白く滲む。

 

 何度も確認していたはずの目的が、遠くなる。

 

 それでも、違和感だけは消えなかった。

 

 この優しさは、おかしい。

 

 この穏やかさは、間違っている。

 

 苦しみを消すために、記憶を消す。

 

 悲しみを消すために、自分自身を削る。

 

 それは救いではない。

 

 イクスは少女を見据えた。

 

「……ここで何をしてる」

 

「助けてるの」

 

 少女は即答した。

 

 考える間も、戸惑う気配もなかった。

 

 それが当然の答えだと信じきっている声だった。

 

「みんな、過去に苦しんでいるから」

 

 広間の空気が、わずかに震えた。

 

「みんな、泣いてたの。怒ってたの。痛がってたの。みんな、ひとりぼっちで、ずっと、ずっと、苦しそうだったの」

 

 少女はグラスを胸元へ抱く。

 

 その表情は、悲しげだった。

 

「だから、忘れさせてあげたの」

 

「忘れさせる……?」

 

 レイラが掠れた声で言う。

 

 少女は微笑む。

 

「うん。忘れたら、泣かなくなるよ。痛くなくなるよ。怖くなくなるよ」

 

「それは……」

 

 エレノアナが言いかけて、言葉を失った。

 

 少女の考えは、あまりにも純粋だった。

 

 間違っている。

 

 けれど、そこに悪意はない。

 

 だからこそ、否定する言葉がすぐに出てこなかった。

 

 イクスは静かに銃へ手を伸ばした。

 

「その結果、館の人や、ここに来た人間はどうなった」

 

 少女はまた首を傾げる。

 

「みんな、ここにいるよ」

 

「どこに」

 

「ここに」

 

 少女が足元を見た。

 

 その瞬間、床に広がる白薔薇が、わずかに震えた。

 

 レイラが息を呑む。

 

「……まさか」

 

 白い花弁が、淡い光の中で揺れている。

 

 赤でもなく、薄紅でもなく、ただ白い。

 

 まるで、その中にあったはずの色だけが、すべて抜け落ちてしまったようだった。

 

「もしかして……館の人間たちは、記憶を忘れて、何もかもなくなって……だから色を失って、白い薔薇になったって言うの?」

 

 少女は、不思議そうにレイラを見た。

 

「なくなってないよ」

 

 その声には、迷いがなかった。

 

「もう、苦しくないだけ」

 

 次の瞬間、床に広がる白薔薇が、意思を持つように一斉に動き出した。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
一言
0文字 一言(必須:10文字~500文字)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。