ローゼンヴァルトの館〜白薔薇に閉ざされた館を彷徨う、凍りついた涙の物語   作:TatshMusicCircle

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9話 酔い咲く白薔薇

 白薔薇の蔓は、イクスではなく、レイラとエレノアナへ向かって伸びていく。

 

 レイラが身構えるより早く、その一本が足首へ絡みついた。

 

 さらに無数の触肢が腰のあたりをかすめ、腕へ巻きつき、胸元へまで這い上がってくる。

 

 その瞬間、蔓の動きが妙に変わった。

 

 まるで待ち望んでいたものへ触れたかのように、節が小刻みに震える。声などないはずなのに、どこかで下品な笑いが漏れた気がした。

 

 ぬめる先端が衣装越しに押し当てられ、レイラの大きなバストをぐにぐに、と歪ませる。

 

 さらに別の触肢が横から這い寄った。押し、寄せ、確かめるように絡みつきながら、その豊かさに浮かれるように身を震わせる。

 

「……んっ……ぁ、ちょ、ちょっと、なにこれ……っ」

 

 レイラは蔓を掴んだまま、低く息を吐いた。

 

「くっ……これ、普通の薔薇じゃないわね」

 

 絡みついた数本の蔓は、レイラの体温を覚えるようにぴたりと寄り添い、次第に硬さを帯びていく。初めはしなやかだったそれが、白い筋を浮かべて太く硬くなっていった。やがて節のあたりから、濁った蜜のようなものがじわりと滲む。蔓はそれを隠すどころか、誇示するように身を震わせ、ぬめる光をまとったまま、さらに彼女へ絡みついていった。

 

 レイラは蔓を引き剥がそうとする。

 

 しかし、硬くなった蔓は簡単には離れない。

 

 エレノアナの周囲にも、太い蔓が集まり始めていた。エレノアナもレイラ同様に拘束される。

 

「待ってください……この薔薇たちは、どうして……」

 

 その問いに答える代わりに、少女が転がっていた酒瓶を手にした。

 

 古いウィスキーのボトルだった。

 

 少女はそれを両手で持ち上げ、白薔薇たちへ向けて傾ける。

 

 とぷ、とぷ、と琥珀色の液体が花弁へ零れ落ちた。

 

 酒精の匂いが、青白い広間に広がる。

 

 白い触肢たちが震えた。

 

 蔓がざわめく。

 

 濡れた花弁は、まるで息を吹き返したように揺れ、レイラに絡みついていた蔓はさらに勢いを増した。

 

「へえ……お酒を浴びると元気になるわけ?」

 

 レイラは苛立ちを隠さず、絡みつく蔓を掴んだ。

 

 少女は、静かに微笑んだ。

 

「そう。みんな、楽しいのが好きなの。お酒を飲むと、もっと楽しくなって、きれいなお客様が来ると、すぐ浮かれちゃうの。……ふふ。とくに、そっちのお胸の大きなお姉ちゃんは人気みたい。そんなにおっきいのを見つけて、みんな、びっくりするくらい喜んでるね」

 

 イクスは銃を抜いた。

 

 だが、銃口を向けたのは少女ではない。

 

 レイラとエレノアナに絡みつく、足元の白い蔓だった。

 

「……それ以上、二人に触れるな」

 

 低く、鋭い声だった。

 

「次に動けば、撃つ」

 

 その言葉に反応するように、白い薔薇たちが一斉に花弁を震わせた。

 

 蔓が床を擦り、白い花がイクスへ向き直る。

 

 敵意。

 

 それは植物から向けられているとは思えないほど、はっきりとした感情だった。

 

 けれど少女は、ただ悲しそうに首を傾げる。

 

「どうして……?」

 

 イクスは答えない。

 

 銃口を動かさず、蔓の動きを見据える。

 

 少女は本当に分からないという顔をしていた。

 

「痛いの、いやでしょう?」

 

 白薔薇が揺れる。

 

「怖いの、いやでしょう?」

 

 蔓が床を滑る。

 

「忘れたら、楽になるのに」

 

 棘が伸びる。

 

「どうして、飲まないの?大人は、辛いときにこういうものを飲むんでしょ」

 

 次の瞬間。

 

 白薔薇の棘が一斉に襲いかかった。

 

 床から跳ね上がるように、無数の白い蔓が伸びる。

 

 イクスは即座に引き金を引いた。

 

 迷えば二人が危ない。

 自分は二人を守ると決めているのだ。

 当然の行動だった。

 

 銃声が響く。

 それまで何もかも音を吸い込んでいた館の中で、その音だけは鋭く破裂した。

 

 弾丸が蔓を撃ち抜く。

 

 イクスは焦燥感にも似た感情を抱きながらも、冷静に「結果」を睨む。

 白い花弁が散った。

 

 砕けた花弁は空中で白い霧となり、すぐに別の蔓へ吸い込まれていく。

 

「くっ……!」

 

 イクスは続けて発砲した。

 それだけが己の武器で、祈りのように引き金を引いていく。

 

 二発。

 三発。

 

 レイラへ伸びる蔓を撃ち落とす。

 エレノアナの足元へ絡みつこうとした棘を弾く。

 

 白い薔薇は砕ける。

 だが、消えない。

 

 イクスが愕然としていると、床の奥から次々に新しい蔓が生えてくる。

 まるで部屋そのものが白薔薇の根でできているかのようだった。

 

 イクスの背中を冷たい汗が流れていく。

 

 あきらかに、自分は今、守るべき存在がいるのにも関わらず無力だった。

 

「レイラさん、動けますか!」

 

「……っ、動けるわ!」

 

 レイラは自分の太腿にナイフの柄を押し当てるようにして、意識を引き戻した。

 

 痛みで眠気を振り払おうとしているのだ。

 

 彼女は腰から小型の金属片を取り出し、迫る蔓へ投げつける。

 

 刃ではない。

 

 工具の一部のようなものだった。

 

 それでも蔓に当たり、わずかに軌道を逸らす。

 

「ガジェットが使えないの、本当に腹立つわね……!」

 

 エレノアナは胸の前で両手を握り、目を閉じた。

 

「エレノアナ、下がって。今の彼女は、こちらの言葉を聞く気がない」

 

 イクスは二人を背にし、銃を構え直す。

 

 少女は動かなかった。

 

 ただ、悲しそうに三人を見つめている。

 

 白いグラスを抱いたまま。

 

 まるで、駄々をこねる子どもを見守るように。

 

「どうして、そんなにがんばるの?」

 

 少女が言った。

 

「がんばると、つらいよ。がんばっても意味なんかない、いいこともない」

 

 少女はそう言うと、足元に置かれていたシャンパンのボトルを両手で持ち上げた。

 

 小さな手には不釣り合いなほど大きな瓶だった。

 

 少女が栓に触れる。

 

 ぽん、と乾いた音が白の間に響いた。

 

 次の瞬間、淡い金色の泡が勢いよく噴き出す。

 

 少女はそれを止めようともせず、むしろ楽しそうに、白薔薇たちへ向けて振り撒いた。

 

 しゅわしゅわと弾ける泡が、花弁を濡らす。

 

 細かな飛沫が白い蔓に降りかかり、甘い酒精の匂いが一気に広がった。

 

 まるで、それが合図だったかのように。

 

 床の白薔薇が一斉に波打つ。

 

 天井から、細い花弁が降ってくる。

 

 まるで部屋そのものが呼吸を始めたようだった。

 

 ドクン。

 

 音ではない。

 

 だが、確かに感じた。

 

 館が脈打っている。

 

 ドクン。

 

 白の間だけではない。

 

 廊下も、食堂も、エントランスも。

 

 館全体が巨大なひとつの生き物となって、三人の抵抗に反応している。

 

「イクスくん、上! 撃って!」

 

 レイラが叫ぶ。

 

 白薔薇の蔓が天井からも伸びてきた。

 

 イクスは振り向きざまに撃つ。

 

 弾丸が蔓を裂く。

 

 花弁が舞う。

 

 その白さが視界を埋める。

 

 わずかな隙に、床から伸びた蔓がイクスの足首へ絡みついた。

 

「っ!」

 

 強い力で引かれる。

 

 イクスは膝をつきそうになりながら、足元へ銃口を向けた。

 

 だが、その瞬間、少女の声が近くで響く。

 

「お兄ちゃんも、苦しいんでしょう?知ってる」

 

 イクスの動きが一瞬止まる。

 

 頭の奥に、過去の景色がよぎった。

 

 救えなかった者たち。

 

 自分が見ないふりをした過去。

 

 それだけではない。

 

 終わりの見えない旅路。

 どこまで進んでも、また次の問題が待っている。

 誰かを救ったつもりでも、すぐ別の誰かが傷ついている。

 

 自分は本当に前へ進んでいるのか。

 それとも、同じ場所をぐるぐる回っているだけなのか。

 

 そんな考えが、ふいに胸の奥へ沈んでくる日がある。

 

 銃を握る手が重い日。

 朝を迎えても、身体の芯に火が灯らない日。

 誰の声にも応えず、一日中、何もせずに眠っていられたらと思う日。

 

 この旅を続けて、何になるのだろう。

 

 その問いを、イクスは何度も飲み込んできた。

 

「忘れたいこと、あるでしょう?」

 

 少女の声は優しい。

 

 あまりにも優しい。

 

 その優しさが、深く刺さる。

 

「忘れたら、楽になるよ」

 

 イクスの指が震えた。

 

 銃の引き金が、遠くなる。

 

 自分は何をしていたのか。

 

 何を守ろうとしていたのか。

 

 どうして、こんなに必死になっているのか。

 

 何のために、こんな旅を続けているのか。

 

 誰かを救いたいと願って、手を伸ばして、それでも届かないことばかりで。

 

 それでも進み続けた先に、本当に意味はあるのか。

 

 自分はいったい何を残せるのか。

 

 白い霧が、頭の中に広がる。

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