ローゼンヴァルトの館〜白薔薇に閉ざされた館を彷徨う、凍りついた涙の物語 作:TatshMusicCircle
白薔薇の蔓は、イクスではなく、レイラとエレノアナへ向かって伸びていく。
レイラが身構えるより早く、その一本が足首へ絡みついた。
さらに無数の触肢が腰のあたりをかすめ、腕へ巻きつき、胸元へまで這い上がってくる。
その瞬間、蔓の動きが妙に変わった。
まるで待ち望んでいたものへ触れたかのように、節が小刻みに震える。声などないはずなのに、どこかで下品な笑いが漏れた気がした。
ぬめる先端が衣装越しに押し当てられ、レイラの大きなバストをぐにぐに、と歪ませる。
さらに別の触肢が横から這い寄った。押し、寄せ、確かめるように絡みつきながら、その豊かさに浮かれるように身を震わせる。
「……んっ……ぁ、ちょ、ちょっと、なにこれ……っ」
レイラは蔓を掴んだまま、低く息を吐いた。
「くっ……これ、普通の薔薇じゃないわね」
絡みついた数本の蔓は、レイラの体温を覚えるようにぴたりと寄り添い、次第に硬さを帯びていく。初めはしなやかだったそれが、白い筋を浮かべて太く硬くなっていった。やがて節のあたりから、濁った蜜のようなものがじわりと滲む。蔓はそれを隠すどころか、誇示するように身を震わせ、ぬめる光をまとったまま、さらに彼女へ絡みついていった。
レイラは蔓を引き剥がそうとする。
しかし、硬くなった蔓は簡単には離れない。
エレノアナの周囲にも、太い蔓が集まり始めていた。エレノアナもレイラ同様に拘束される。
「待ってください……この薔薇たちは、どうして……」
その問いに答える代わりに、少女が転がっていた酒瓶を手にした。
古いウィスキーのボトルだった。
少女はそれを両手で持ち上げ、白薔薇たちへ向けて傾ける。
とぷ、とぷ、と琥珀色の液体が花弁へ零れ落ちた。
酒精の匂いが、青白い広間に広がる。
白い触肢たちが震えた。
蔓がざわめく。
濡れた花弁は、まるで息を吹き返したように揺れ、レイラに絡みついていた蔓はさらに勢いを増した。
「へえ……お酒を浴びると元気になるわけ?」
レイラは苛立ちを隠さず、絡みつく蔓を掴んだ。
少女は、静かに微笑んだ。
「そう。みんな、楽しいのが好きなの。お酒を飲むと、もっと楽しくなって、きれいなお客様が来ると、すぐ浮かれちゃうの。……ふふ。とくに、そっちのお胸の大きなお姉ちゃんは人気みたい。そんなにおっきいのを見つけて、みんな、びっくりするくらい喜んでるね」
イクスは銃を抜いた。
だが、銃口を向けたのは少女ではない。
レイラとエレノアナに絡みつく、足元の白い蔓だった。
「……それ以上、二人に触れるな」
低く、鋭い声だった。
「次に動けば、撃つ」
その言葉に反応するように、白い薔薇たちが一斉に花弁を震わせた。
蔓が床を擦り、白い花がイクスへ向き直る。
敵意。
それは植物から向けられているとは思えないほど、はっきりとした感情だった。
けれど少女は、ただ悲しそうに首を傾げる。
「どうして……?」
イクスは答えない。
銃口を動かさず、蔓の動きを見据える。
少女は本当に分からないという顔をしていた。
「痛いの、いやでしょう?」
白薔薇が揺れる。
「怖いの、いやでしょう?」
蔓が床を滑る。
「忘れたら、楽になるのに」
棘が伸びる。
「どうして、飲まないの?大人は、辛いときにこういうものを飲むんでしょ」
次の瞬間。
白薔薇の棘が一斉に襲いかかった。
床から跳ね上がるように、無数の白い蔓が伸びる。
イクスは即座に引き金を引いた。
迷えば二人が危ない。
自分は二人を守ると決めているのだ。
当然の行動だった。
銃声が響く。
それまで何もかも音を吸い込んでいた館の中で、その音だけは鋭く破裂した。
弾丸が蔓を撃ち抜く。
イクスは焦燥感にも似た感情を抱きながらも、冷静に「結果」を睨む。
白い花弁が散った。
砕けた花弁は空中で白い霧となり、すぐに別の蔓へ吸い込まれていく。
「くっ……!」
イクスは続けて発砲した。
それだけが己の武器で、祈りのように引き金を引いていく。
二発。
三発。
レイラへ伸びる蔓を撃ち落とす。
エレノアナの足元へ絡みつこうとした棘を弾く。
白い薔薇は砕ける。
だが、消えない。
イクスが愕然としていると、床の奥から次々に新しい蔓が生えてくる。
まるで部屋そのものが白薔薇の根でできているかのようだった。
イクスの背中を冷たい汗が流れていく。
あきらかに、自分は今、守るべき存在がいるのにも関わらず無力だった。
「レイラさん、動けますか!」
「……っ、動けるわ!」
レイラは自分の太腿にナイフの柄を押し当てるようにして、意識を引き戻した。
痛みで眠気を振り払おうとしているのだ。
彼女は腰から小型の金属片を取り出し、迫る蔓へ投げつける。
刃ではない。
工具の一部のようなものだった。
それでも蔓に当たり、わずかに軌道を逸らす。
「ガジェットが使えないの、本当に腹立つわね……!」
エレノアナは胸の前で両手を握り、目を閉じた。
「エレノアナ、下がって。今の彼女は、こちらの言葉を聞く気がない」
イクスは二人を背にし、銃を構え直す。
少女は動かなかった。
ただ、悲しそうに三人を見つめている。
白いグラスを抱いたまま。
まるで、駄々をこねる子どもを見守るように。
「どうして、そんなにがんばるの?」
少女が言った。
「がんばると、つらいよ。がんばっても意味なんかない、いいこともない」
少女はそう言うと、足元に置かれていたシャンパンのボトルを両手で持ち上げた。
小さな手には不釣り合いなほど大きな瓶だった。
少女が栓に触れる。
ぽん、と乾いた音が白の間に響いた。
次の瞬間、淡い金色の泡が勢いよく噴き出す。
少女はそれを止めようともせず、むしろ楽しそうに、白薔薇たちへ向けて振り撒いた。
しゅわしゅわと弾ける泡が、花弁を濡らす。
細かな飛沫が白い蔓に降りかかり、甘い酒精の匂いが一気に広がった。
まるで、それが合図だったかのように。
床の白薔薇が一斉に波打つ。
天井から、細い花弁が降ってくる。
まるで部屋そのものが呼吸を始めたようだった。
ドクン。
音ではない。
だが、確かに感じた。
館が脈打っている。
ドクン。
白の間だけではない。
廊下も、食堂も、エントランスも。
館全体が巨大なひとつの生き物となって、三人の抵抗に反応している。
「イクスくん、上! 撃って!」
レイラが叫ぶ。
白薔薇の蔓が天井からも伸びてきた。
イクスは振り向きざまに撃つ。
弾丸が蔓を裂く。
花弁が舞う。
その白さが視界を埋める。
わずかな隙に、床から伸びた蔓がイクスの足首へ絡みついた。
「っ!」
強い力で引かれる。
イクスは膝をつきそうになりながら、足元へ銃口を向けた。
だが、その瞬間、少女の声が近くで響く。
「お兄ちゃんも、苦しいんでしょう?知ってる」
イクスの動きが一瞬止まる。
頭の奥に、過去の景色がよぎった。
救えなかった者たち。
自分が見ないふりをした過去。
それだけではない。
終わりの見えない旅路。
どこまで進んでも、また次の問題が待っている。
誰かを救ったつもりでも、すぐ別の誰かが傷ついている。
自分は本当に前へ進んでいるのか。
それとも、同じ場所をぐるぐる回っているだけなのか。
そんな考えが、ふいに胸の奥へ沈んでくる日がある。
銃を握る手が重い日。
朝を迎えても、身体の芯に火が灯らない日。
誰の声にも応えず、一日中、何もせずに眠っていられたらと思う日。
この旅を続けて、何になるのだろう。
その問いを、イクスは何度も飲み込んできた。
「忘れたいこと、あるでしょう?」
少女の声は優しい。
あまりにも優しい。
その優しさが、深く刺さる。
「忘れたら、楽になるよ」
イクスの指が震えた。
銃の引き金が、遠くなる。
自分は何をしていたのか。
何を守ろうとしていたのか。
どうして、こんなに必死になっているのか。
何のために、こんな旅を続けているのか。
誰かを救いたいと願って、手を伸ばして、それでも届かないことばかりで。
それでも進み続けた先に、本当に意味はあるのか。
自分はいったい何を残せるのか。
白い霧が、頭の中に広がる。