0 感情オフライン
死ぬ気なんかなかった。
ただ一時、平穏が欲しかっただけなんだ。
子どもの頃から、身体を動かすのが得意だった。
努力して、できることを増やしていくのも楽しかった。
でもこんな才能は、世間では何の役にも立たないらしい。
「──お前、何が楽しくて生きてんの?」
楽しく身体を鍛えてるというのに、いつもこんなことを言われる。分からなくもないけどさ。
今はもう、とっくに『競技』は廃れているんだから。
脳と一体化した『神経端末』が、あまりに強すぎた。
インターネット、ゲーム、連絡、動画。あらゆる端末機能が意識と共存する時代。
端末は、人間から選択のミスを奪った。
真っ先に廃れたのは、将棋や囲碁なんかの頭脳競技。
端末と共に生きてる俺たちなら、誰でも簡単に最善手が打ててしまうから。
次はスポーツ競技が終わりはじめた。
端末が判断を最適化し、感情の乱れを整える。
一つ一つの行動に成功率が表示され、最適解は自分で見つけるものじゃなくなった。
ノイズとなる『感情』を切れば、成功率はどんどん上がる。行き着いた先は、表情をピクリともさせない鉄仮面同士の戦いだ。
娯楽に満ちた世界で、そんな試合にお金を出す人は少なかった。
俺の選んだサッカーも例外じゃない。
プロの試合でも、今じゃ市民公園や広場での興行が中心だ。もはや努力に見合う舞台は残っていない。
それでも俺はサッカーが好きだった。
まだ終わってないと、本気で思っていたんだ。
数年前からほんの少しずつ、端末の予測を超える選手が現れ始めたから。
選択肢に表示すらされていないドリブルを通すやつ。
存在しないはずのパスコースを見つけるやつ。
端末が「後退」と判定した瞬間に、前へ出るやつ。
逆に感情を煽って、無理矢理ゾーンに入るやつ。
とっくの昔に死んだ概念。ファンタジスタという言葉が聞こえはじめた。
俺も……その一人になるはずだった。
18歳でプロ契約を結んで開幕スタメン。
天性の運動神経、そして感情を制御しない選手として少しは有名だった。
小さな公園でのプロデビュー戦。
クラブの古い無人送迎車に乗り、さあこれから自分の人生の始まりだと走り出した直後──暗転。
物凄い音がしたことだけは覚えている。
事故については後から聞いた。貨物車の違法改造による自動運転の不具合。賠償やらでお金が貰えるとかなんとか。
そんなことはどうでもよかった。
この事故で、俺の右足は太ももから先を失ったんだから。
《推奨:高度
意識に張り付いた端末が、無機質な声で診断結果を告げる。
そうじゃない。
《再生医療の適用も可。ただしこちらは高額で、強化再生ともなると──》
そうじゃないんだ。
「俺はいつ、チームに戻れるんだよ……」
いま知りたいのは、これだけなんだよ!
《義肢・再生医療を含む身体拡張を許可したサッカーリーグは存在しません》
その無情な言葉に身体中から力が抜ける。
俺のプロ人生は始まりもしなかった。
それから数日はぼんやりしていた。何人も病室を訪れたが、もう覚えていない。
適当に受け答えしていたら、いつの間にかプロ契約は打ち切られていた。
家族は既にいない。
チームメイトだって競争相手。
「世間の逆風にも負けず、人生の全てを競技に捧げた少年に訪れた悲劇……絶対反響あります。うちで特集させてもらえませんか?」
来るのはもう、こんな冷やかしばかり。面会は断ることにした。
実感が来たのは夜、何気なくいつもの癖でストレッチをしようと足に手を伸ばした時だった。
耐えられなかった。なぜだか、呼吸が上手くできないんだ。
目を閉じて、軽く集中するように神経端末にアクセスする。
『感情制御』──競技者には必須とされている機能。
集中力の補助、恐怖反応の抑制、睡眠導入。用途は数え切れない。
俺は『悲哀』感情を、初めて0まで落とす。
プロ契約と同時に、アスリート用にアップデートされた神経端末。
感情を完全に切ることすら可能な、とんでもない代物だった。
胸を潰していたものがすっと消えた。呼吸が戻り、心拍が落ちる。感情を失くすと、生きるのがこんなに楽だったのか。
代わりに、楽しかった記憶だけが思い浮かぶ。
感情を極限まで抑えている相手が、驚愕の目で俺を見た時。
試合中、感情を抑えない俺を『舐めプ』と罵る客を、プレーで黙らせた時。
地元の小さなクラブの試合で、それでも何人もが狂ったように興奮してくれたこと。
胸がいっぱいで、涙が止まらなくなった。
俺は『喜び』もオフにする。
今度こそ涙は止まったが、しばらくすると怒りが止まらない。なぜ俺なのか! なぜデビュー戦の日だったのか!
気づけば、何より大事な自分の身体を痛めつけていて、慌てて『怒り』も切った。
病室は静かになり、空調の音だけがしていた。自分の呼吸が妙に遠く聞こえる。
もう自分が何をどこまで切ったのか覚えていない。『恐怖』、『焦り』、『後悔』、全部消していった。
もう何でもよかった。これは楽でいい。
そういえば、ここまで消してようやく分かったことがある。
当たり前過ぎて、感情とすら思っていなかったもの。
サッカーがしたい。
それだけが燃えるような『欲望』として残っていた。
どの感情にもしつこくこびりついていて、なにを切ってもこいつが残ってしまう。もういいけどさ。
最後に見たのは、病室の天井。誰かが俺の名前を呼んでいた気もする。聞こえてはいたが、返事をする理由が見つからなかった。
そこで、俺は本当の意味で終わったらしい。
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