兄の身体に、変なやつが入っている。
『一ノ瀬葉月』がいた場所に、『別の人生を送った誰か』がいる。
馬鹿らしいけど、どうしてもそう思ってしまう。
「ただいまー」
玄関の扉を閉めると、家の奥からテレビの音が聞こえた。
広くはないけど、あの古いアパートよりずっとまともな家だ。
玄関には三人分の靴だけが並び、廊下の壁には、以前兄が蹴ってできたへこみを隠すように小さな絵が掛けられている。
リビングを覗くと、母さんがソファに座っていた。
「おかえり。遅くまでお疲れ様」
「うん。ただいま」
母さんの表情は、少しだけ明るくなっていた。
以前はいつも眉間に入っていた力が抜けている。
突然大きな音がしないか。
部屋から怒鳴り声が聞こえないか。
物が壊れる音がしないか。
兄がこの家からいなくなって、そんなことを気にしなくてよくなったからだと思う。
「ご飯は?」
「食べてきた」
「そう。いつもごめんね」
「何が? いつも感謝してるのに」
兄の極度の偏食と暴言を浴びれば、誰だってご飯を作る気力なんか失くしてしまう。
休部したことは、まだ母さんに伝えていない。
だからこの時間に帰ってきても、練習帰りとしか思われない。
兄の面倒見ようとしたなんて母さんには言いたくない。話もそこそこに自分の部屋へと向かう。
「先にお風呂入っちゃいなさいね」
「はーい」
汗かいて帰ってきて、お風呂が沸いてるだけでも本当にありがたいのにね。
部屋に入って扉を閉める。
お風呂の準備に部屋着を用意していると、廊下から足音が近づいてきた。
扉が控えめに二回叩かれる。
「真白。少しいいか」
父さんの声だった。
「なに?」
「昨日は、悪かったな」
扉越しに、低い声が続く。
「葉月の案内をお前に任せてしまって。俺が行くべきだったのに」
「私が行くって言ったの。それより母さんいるんだからやめて」
「……すまん」
父さんは
アパートを用意したのも、生活費を渡したのも、父さんなりに兄を助けようとした結果。
父さんの同僚って人も、できる限り兄を気にしてくれるって。
だけど、母さんの前で大っぴらに兄を助けるなんてできないらしい。
「……でもな、何かあったら言ってくれよ」
「うん」
父さんの足音が離れていく。
私はベッドに腰を下ろして考える。
父さんが悪いとは思ってない。
でも、だからって母さんが悪いだなんて、私が誰にも絶対言わせない。
時間が必要なことだってあるじゃん。
その間は、私が兄を見ればいいんだし。
兄は嫌なことがあると物に当たった。
机も扉も、目についたものをとにかく壊した。
それだけなら我慢できた。
でも、いつからか母さんを見る目がおかしくなった。
洗濯物から母さんの下着を持ち出した。
風呂場を覗こうとした。
母さんが着替えている部屋の前に、何度も立っていた。
問い詰めても、勝手に決めつけるなと怒鳴られた。
次疑ったら、お前みたいな女でも本気で殴るって。
兄と血が繋がっていないのは母さんだけじゃない、私だってそうだ。いつ同じ目で見られるか分からなかった。
成長なんてしたくなかった。身体つきなんて変わらなくていい。
女だと分かる部分なんて、全部いらないと思っていた。
食べる量は当然減っていった。なのにあいつは平気な顔で栄養不足って……
成長期がどうとか、身体がどうとか。ムカつきよりも、怖くて仕方なかった。
「でも……あああもう、なんなんだよっ!!」
今はもう、あれが兄とは思えない!
記憶喪失とか、頭を打って性格が変わったとか、そんな次元じゃないだろ!
…………いや、もういい。もう断定する。
あれは別人だ。
兄が心停止し、もう助からないと病院から連絡が来た。家族で駆けつける途中、死亡が確認されたとまで聞いた。なのに病院へ着く前に心拍が戻ったらしい。
それも、なぜか容体は完全に安定している、だって。
その時からおかしいとは思っていたんだ。
疑いようがなくなったのは、今日。学校へ行くと言った時。
兄が自分から行こうとするはずがないだろ!
あれだけ常識を知らないくせに、知ってるはずのないことは知っていて。
頑張る人をバカにしてたのに、プロ選手計画とか言っていて。
利き手すら満足に使えなかったくせに、左手一本で美味しい料理を作る……実は隠す気ないだろあいつ!
そんな考えなしが、葉月になりすまして何事もなかったように学校へ行こうとしている。
無謀すぎて、腹が立つより先に笑えてくる。
「……なんだよ『真白』って。『おい』とか、『お前』としか呼ばなかったのに」
ふっ、絶対「家族ならこう呼ぶでしょ」みたいな雑な推理してるわ。
正体を問い詰めるつもりはないし、父さんや母さんに言うつもりもない。
だって私は、ずっと思っていたから。
『あんなやつ、いなくなってしまえ』と。
もしかしたら本当に、私が願ったから消えてしまったのかもしれない。
兄は、もういない。
心で認めたら、頬を何かが流れた。
「……なんで」
悲しいわけじゃない。寂しいわけでもない。
心から、あんなやついなくなってよかったと思ってる。
母さんは少し元気になった。
父さんも、怒鳴り声を聞くたびに顔をしかめなくなった。私だって、家の中で物音に怯えなくて済む。
なのに涙が流れていく。
感情って、本当意味分かんない。
袖で乱暴に目元を拭いた。
あの変なやつのせいだなんて思ってない。今考えると、あいつ自身もあり得ないくらい驚いてたから。
というか、あんな兄の身体に入るなんて可哀想とすら思う。
手は不自由で、重度肥満。そのうえ家族から追い出されて友達もいない……妹として、こんな兄の身体でごめんとすら思う。なのに本人はただ生きてるだけで、気色悪いほど嬉しそう。
「何があったら、あんなんになれるんだよ……」
知らなかったとはいえ、強く当たりすぎたかもしれない。それも少し申し訳ないと思う。
「……あの顔相手に態度直すのは、ちょっと無理かもだけど」
急に優しくするなんて絶対できない。
両手で頬を叩く。
「よし」
切り替えよう。私の中学にすら、高校での兄の悪評が広まってるんだ。あんなヘラヘラ笑って登校なんて絶対正気じゃない。
それでも行くというなら、少しでもまともに見せなくちゃいけない。
「……てか。別人なら、私が気にかける必要あるか?」
もう、あんなの放っておいても絶対死なないじゃん……
だけど、買い物を約束してしまった。別に、休部して暇だし。いいけどさ。
サッカーは、悔しいけどもう一度教わりたい。それに私は栄養の知識なんて持ってないし────あ。
くっそ……気に掛けられてるの、私じゃん! 信じられない馬鹿のくせに!
認めたくないけど…………今日は、楽しくなかったわけじゃない。
他人にあれだけされて、まともなお礼も言えてない。
机の上のスマホを手に取って、とりあえず一番気をつけることだけ伝える。
少し歩くだけで汗だくになるあの身体が、相当気持ち悪いこと。それだけで、少なくとも学校の女子の大半には避けられる。
『学校までは私服で行って』
『着いたらトイレで制服に着替える』
『絶対に汗拭いて。乾いてから制汗スプレーを使うこと』
「とりあえずこんなとこかな。あとは──」
『ピロン』
……返信はっや。まだ次に送る内容考えてたのに。
えーと──
『心配性で草』
…………あんなデブに、少しでも罪悪感を抱いた私が馬鹿だった!!
一章を最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます。
二章もほぼ書き終えていますので、また見にきていただけると嬉しいです。
そして、もし「続きも読みたい」と少しでも思っていただけたなら、評価やお気に入りをいただけるとものすごく励みになります。
よければぜひ、よろしくお願いします!