「…………」
下駄箱に貼られた名前を、もう一度確認する。
間違いなく一ノ瀬だ。
「まじか……」
高校一年の春に買ったばかりだろう上履きは、昨日まで真っ白だった。今は赤い文字がいくつも書かれている。
『帰れ』
『学校来るな』
『迷惑』
『消えろ』
今日は昨日より早く家を出て、今は一時間目の途中だろうか。
先生からは絶対に無理をするなと言われている。お言葉に甘えて、自分のペースでの登校だ。
つくづく優しい世界だなって思ってたんだけど。
こんな時間のせいか周りには誰もいない。
昨日の教室の空気で好かれていないことは分かってはいた。だけど高校生が、こんな考えなしだなんて思えなかったんだよ。
「はぁ……」
《いい機会じゃん。買い替えよ》
「……君はどうしてそんなに人の心がないの?」
《そんなペラペラの靴、アスリートの履く靴じゃない》
「……む」
まあ、それは確かに。全く想像もしてなかった指摘をされて、こんな状況なのに感心してしまう。
プロまで課題が山積みで、そこまで意識できてなかった。
「でもさ、この時代の靴でそこまで影響ある? 運動するわけでもないのに」
僕の時代の靴があるなら絶対に買い替えたい。
でもこの時代なら……見るからに安そうな上履きだけど、金欠の僕にはありがたいことではあるんだよ。
《2030年靴のデータ持ってない》
「あー、そのうえで君の考えは?」
《靴は進化し続けてるのに、上履きは何十年も前から大して変わってない。影響は出るんじゃね?》
AIのくせにふんわり。確かにそんな気はするけどさ。
だけど学校にそこまで通うつもりのない僕に必要なのか? 高い買い物する時は真白に報告しなきゃいけないのに。
と、そうだ、真白はダメだ。
細い足首。会話から推定して中学二、三年生、まだ成長途中の骨。使えていない筋肉。半日近く履く靴にこれは選びたくない。
はあ。気付かせてくれたということで、今回はファインプレーってことにしてあげる。
落書きされた上履きの中を覗いて、他にイタズラがされていないか確認する。
《指紋残ってる。あんま触んないで》
残ってるんかい。なんだか拍子抜けしたような、悲しいような。軽い気持ちだったんだろうな……
僕はなるべく表面には触らないようにして、足を通した。
♢
トイレで汗を拭き、制汗スプレーを使い、昨日よりは人間らしい状態に戻ってから教室へ向かった。
授業の終わりのタイミングで教室に入ると、昨日ほどではないが、やっぱり声が少し小さくなった。
クラスメイトの驚きは少ないけど、警戒は残っている。
僕はなるべく何も見ないように席へ向かい、百均で買ってきたクッションをカバンから取り出す。
それを椅子にセットすると、とてもいい。
僕の体重を支えるには少し心許ないけど、木の椅子のままより百倍マシだ。
満足していると、昨日と同じく隣に座る女の子が声を掛けてくれた。
「こんだけ遅刻して、ふてぶてしいなーおい」
ただ今日は、優しさと思いやりを感じない声だった。
「……おはよう篠宮さん。先生がまだ無理しないようにって言ってくれてさ」
名前と顔は知ってる。昨日支倉さんとご飯を食べていた女の子の一人、『
派手な金髪に、小さな身体に反して態度は誰より大きい。女子のボス的存在らしいが──
いや、はじめて話すんだから先入観を持つのはやめておこう。
「ふーん」
顎に手をつきながら、足を組み、興味なさげに僕をチラと見て、もう話はないとばかりに自分のスマホに目を落としている。
話、終わりなんだ。まさか支倉さんの席に座っている説明がないとは思わなかった。
支倉さんは教室の前の方、元の席の反対側に移っている。別にいいけどさ……
二時間目は現代文らしい。
今日は授業が終わったら、声を掛けるよう端末に言ってある。早速スマホ鑑賞セットを作ろうと、机の中へ手を伸ばした。
「…………」
指先に、妙な感触がある。ぐしゃぐしゃの紙。湿ったような手触り。
これはなんなのか。競技者同士で散々足の引っ張り合いをしていた僕には、すぐに分かってしまった。
引っ張り出すと同時、手に持ったものを確認するより先にクラス中へと目を向ける。
「……っ」
「……ちっ」
怪しいやつは二人。
僕を横目で見ていて、目が合うと焦ったように顔を逸らしたツーブロックの男。
距離は四、五席程度。この距離から注意深く見れば、違和感なんかすぐ気づく。
もう一人は篠宮さん。目が合うと嫌そうな顔で舌打ちをしていた。
(これって、二人とも犯人?)
《男の子は口角反応、瞳孔変化。過剰な緊張……? 視線が真っ先に教科書は不自然だし、関与は黒寄り》
緊張? なにか予想外のことでも起きたかな。
(篠宮さんは?)
《異常なし。流星と目が合って気持ち悪かっただけじゃね》
(……ありがと。でも根拠は聞いてないよ?)
端末の心ない推理は置いておいて、男の方を見る。さり気なくこちらを伺おうとしてるのが丸わかりだ。
僕の傷付く反応でも見たかったのかな。
駄目だよ。この端末は感情を不要だと思ってるだけで、理解できないわけじゃないんだから。
一人、少なくとも関係してそうな人が分かればもういいや。改めて手に取ったものに目を落とす。
水に濡らしたようにしわしわで、中を開くとところどころに赤いペンでの落書き。雑な文字が書かれていた。
『来んな』
『きもい』
『迷惑』
「…………お見事」
同じ字で、間違いなく同一犯。
上履きが第一波、息をつかせる間もなく教科書。奇襲はやっぱり畳みかけてこそで、効果は抜群だ。
僕が勉強に一切興味がないこと。そして上履きも教科書も、僕の物って実感がないからまだ平気。
だけどこんなの普通なら、悪ふざけのラインは大きく超えている。
《なんで嫌われてんの分かってんのに置き勉しちゃうの》
(…………これを見て、相棒として他に言うことないの?)
《感情切れば?》
ぐっ、こいつすぐロジハラしてくる!
切るの嫌いって言ってるでしょ!?
「……っ!?」
端末と話していると僕の身体が大きく揺れる。椅子を蹴られた。隣の小さな女の子、篠宮真莉だ。
「なんそれ」
机で指をトントン叩いて、なぜか凄く不機嫌そう。
「……上履きもじゃん。は、まじ、なんなわけ?」
「あはは、なんか今日来たらやられちゃってさ」
「……一ノ瀬さー」
篠宮さんは、さらに顔をしかめてなにかを考えている。
声はひそめていることから、大ごとにはするつもりはないみたい。
その時教室のドアが開いて、先生が入ってきた。
「ち、もういいわ。これ使っていいから」
「ちょ、わっ」
机に投げられたのは、きれいな現代文の教科書。
「ええ、篠宮さんは?」
「寝る」
「ええー……せめて机くっつけて見るのは?」
「一ノ瀬臭そうだからやだ」
「っ、臭くないよ!?」
「前は臭かった」
「……そ、そう。言いにくいこと、言わせてごめんね」
高校生活、真白が止めていた理由がようやく分かった。
もう臭くないから嗅いでくれ。この学校は、これが言える空気じゃないから。
篠宮さんはもう寝る態勢に移ってる。ごゆっくりお休みください……
♢
授業は終わり、深刻な自己嫌悪が止まらない。
せっかく教科書を借りたというのに、授業の難しさに何度も意識が飛んでしまった。これのどこが現代なんだよ!
現代の物語っていうのはもっとこう── 『朝光#白/視線同期0.7秒/感情波形:未分類/胸郭ノイズ+3』
みたいな感じで、端末に情景指示して脳に映すもので──
どうでもいいか……
「あ、これありがとう。助かりました」
「んー」
授業の途中で起きて、今はスマホをいじってる篠宮さんに教科書を返すとこの気のない返事。
「そんで一ノ瀬、その上履きと教科書さー」
「うん」
ふわーっと、まだ眠そうに伸びをして、目をこすっている。
だからこんな質問されるなんて思ってもみなかった。
「もうさ。ぶっちゃけ聞くけど、また支倉の気を引くために自分でやったんじゃねーの? 教科書見せてもらうためとか」
「……うん!? っないないないない!」
気を引くどころか地獄の空気になるわ! とは思うけど、まさかの前科があるような口ぶり……ちょっと嘘でしょ葉月くんさあ!
「ないじゃねーから。まさか前のもバレてねえとか思ってんの?」
「……ぅ、くぅ」
じ、自作自演は絶対バレないよう厳重な注意を払ってください、お願いだから!
「てか普通それ履いてこねーから。そんだけシレっとしてんのもあり得ねーから」
と思ったら僕も相当迂闊だったらしい。
病院みたいにスリッパでもあったのかな。こういうケースは流石に予習してないよ……
「……いや僕、犯人の一人は多分分かってるし。対処の仕方も考えてるから」
まだ容疑段階、だけどこの誤解はキツイと少しだけ明かすと──
「っ!?」
視界の端で不自然にピクつく人がいた。
目の前で机に突っ伏している男の子。
葉月くんには敵が多過ぎて、疑わしい人ばっかりだ……
「対処ー? お前が?」
「ほら、ここに書かれてるのを見れば分かるけど、難しい嫌がらせじゃないんだって」
上履きと、教科書の文字を読みやすいよう、彼女に向けて見せる。
『帰れ』だの『来んな』だの、要するに僕に学校来て欲しくないだけ。少なくとも建前の嫌がらせ目的はこれだ。
昨日はあんなに空気を重くしたんだ。僕が嫌って気持ちだけは分からなくもない。そう伝える。
「ふーん、理解できんわ。それが?」
「だから! その一人に手紙を渡して落としどころの提案しようと思ってたの。それで平常心なの!」
「ん」
僕に向かって手の平を出して、一言。
渡せって? 態度デッカ。僕より二つか三つも年下のくせに。
「……結構情けないこと書いてあるから、できればあんま言いふらさないでよ」
渡すけどさ。なんかこの子迫力あるし……
第三者に見せるつもりで書いてないから不安になる。
えーと、文面は確か──
・あなたがしたことは分かっている。
・僕は自殺未遂をしたばかり。学校中が知っている。
・そんな僕を追い込む証拠二つに、指紋をしっかり残している。僕に再度何かあれば…………分かるよね?
・その場の勢いだったことは想像できるし、これ以上がない限り問題にしない。
・僕も弱者であることを盾に、こんな手紙を送って非難は避けられない。
・お互い不干渉でいこうよ。それとも既に評価が地の底の僕と、同じ場所まで堕ちてくれるの?
こんな内容だったか。
彼女はこの箇条書きの文を一目見て、最初はつまらなそうに鼻を鳴らしていた。
「……ぶふっ!」
今は、手紙を持った手を震わせて吹き出している。
「くっ、ふふ、ひひひ、なにこれ、陰キャきしょ過ぎる」
「はいもういいでしょ。ほら返して」
「うははははっ! 待って、あたしも追記するわ」
「なんで!? これで完璧じゃん!」
「はー? 集団の解像度低過ぎ。これじゃまだ逃げ道残ってんの」
そんなことを言いながら、彼女はなにやら勝手に書き足している。もう好きにしてください……
その間、少し教室を見回して気付いた。
女子と話してるというのにあまり注目されていない。僕らを気にしているのは檜山くんと、ツーブロック。そして支倉さんくらい。もしかして注目の原因は……支倉さん?
「ほら、これでようやく完璧だから」
考えごとをしていると、渡した手紙を突きつけられている。そこには一文が足されていた。
『お前らに正義はないから。してることは一ノ瀬と変わらない。これ以上すんならあたしも敵に回るから──篠宮真莉』
「…………どうもありがとう」
少し破滅を匂わせていただけの手紙を、完全な脅迫文にしてくれた。
そのうえで堂々と名乗りをかます強心臓はなんなんだ……
いや、それよりこんな嫌がらせと同レベルって、一体葉月はなにをしたんだろうか。
「でもこれは僕のことだしさ、名前は消しとくね」
「そういうズレた気遣いがきもいんだよなー」
今の僕をきもい臭いと言えて、セコい嫌がらせも一刀両断。
なんかピンときた。ツーブロックの彼の予想外は、こんな彼女が勝手に席替えしていたこと。
この人に、つまらない嫌がらせの存在がバレるかもって、ことかもな……