1 右足
目が覚めて、最初に感じたのは鼻を刺す薬品臭だった。
横に見える心電モニターから電子音が聞こえる。音質が悪く、妙に安っぽい。
天井には古い蛍光灯。
見た目は病室。なのに壁には汚れが浮いて、ナノ衛生コーティングもされていない。
「……ここ、どこだ」
声は出たがひどく掠れていた。
「なんで俺、まだ生きて……」
呼吸をしている。身体に力が入る。節々が痛い。
何故か……右腕が白い固定具と、包帯で固められていた。
右腕は怪我した覚えなんかない。記憶が、不自然に飛んでいる。
——まさか。
今までのことは全部、夢だったんじゃないか!?
「……なんて」
目が覚めるたびにこんな逃避して、心底自分が嫌になる。
現実を疑えば、余計に息が苦しくなるだけなのに。
「…………苦しい?」
悲哀感情は真っ先に切ったはず。なのに、なんでだよ。
理由なんてどうでもいい。
改めて悲しみだけでも消そうとしたところ──病室の扉が開いた。
「──あっ」
入ってきたのは若い女性の看護師だった。俺と目が合った瞬間、分かりやすく固まっている。
「せ、先生! 403号室の一ノ瀬さん、意識戻りました!」
廊下へ向かって叫ぶ声を聞く。
「……いつの病院だよ」
医療従事者が、『驚き』を切っていない。
ベッドサイドには物理ボタン式のナースコール、医療ドローンも見当たらない。
死んだと勘違いするほど『無』だったうちに、どこか古い病院に移された、とか……
「はっ、それだわ」
誰からの言葉にも適当に返していたから、普通にあり得てしまう。
不可解な状況に仮の答えを置くと、消したはずの感情が壊れた蛇口みたいに戻ってくる。
困惑。不安。恐怖。悲しみ。
頭を押さえようと左手を上げて──そこで止まった。
「誰の手だ……?」
指が太い。掌が柔らかい。それは腕全体の太さもそうで。
「な、なんだよ……」
手首の入院患者識別用リストバンドがはち切れんばかりだ。胸には余分な肉が乗り、腹は布団越しでも分かるほど膨らんでいる。
震える手で自分の顔に触れると、頬が丸い。顎のラインがない。首元にも肉がある。
誰だ。これは誰なんだ。
いや現実を見ろ。俺は、自分の身体がここまで変わるほど長く眠って──
「一ノ瀬さん! 大丈夫です、ここは病院です‼」
看護師と医者がいつの間にか目の前にいて、頭を掻きむしる左腕を抑えられる。誰だよ一ノ瀬って……
そのままいくつか他愛のない質問をされた。名前を言うと医者の顔が少し険しくなる。
同年代と比べたら確かに地味だけど、それは患者に向けていい顔じゃないだろう。
医者は頭部外傷による混乱かもしれない。検査の準備をすると言って部屋を出ていった。
何を言っているのかまるで理解できない。
「あの、検査なら端末でできるので──」
言いかけて、気付いた。
「どうされました?」
「いえ……なんでもないです」
もう俺は、自己診断なんてしたくないんだよ……
現実を見る勇気があるなら、目が覚めた直後にやってるだろうが。
「? そうですか。では私も準備してきますね」
俺の左手に付いている点滴の確認をして、看護師も出ていく。
少しして病室の扉がもう一度開いた。
入ってきたのは制服姿の少女。
まるで見覚えがない。
中学生くらいだろうか。黒髪は肩口で切り揃えられていて、乱れがない。制服のリボンもきっちり結ばれている。
片手に鞄を持ち、顔立ちは整っているが表情は薄かった。
少女はベッドの上の俺を見て、足を止めた。
「……ふーん、本当に生き返ったんだ」
平坦な声からは分かりにくいが、目は少し見開いている。
「一度、本当に死んだんだよ。呼吸も心音も止まって」
「……やっぱり、そうなんだ」
そこから、なんとか息を吹き返した、ね。
でも……それがどうした。教えてもらっても、反応に困るだけだ。
少女の眉がぴくりと跳ねた。薄かった表情にはっきり怒りが混じる。
さっきから、どいつもこいつもなんなんだよ……
「それより俺は、面会は断ってるはずなんだけど」
「は? 聞いてない意味分かんない」
その表情に嘘をついてる様子はない。
引き継ぎ忘れか? くそ。知らない人と話すのは、もう疲れたのに。
「……なんで自殺なんかしたのよ」
「別に、しようと思ってしたわけじゃない」
それは何もかもを失くした挙句、これまでの努力が無意味になるほど太ってしまった今も。
なのに少女は歯を食いしばって、なにが気に入らないんだよ。
「っ、はあ!? ふざけんな! 周りにどれだけ迷惑掛けたと思ってんだ!」
「……なにそれ。悪いけど、心当たりがないよ」
親しい人間なんていない。
俺が死んだところで誰にも迷惑なんて…………あ。
「ごめんなさい、そこまで気を回してませんでした」
『自己終了手続き』は指定の病院で、なんてあまりに当たり前の話で。俺の軽率な行動で、色んな人に多大な迷惑を掛けてしまっただろう。
「母さん凄いキレちゃって、入院費なんて絶対払わないって! 父さんも、ずっと頭抱えて……!」
「な、なるほど。君の、ご両親が……」
全然想像も付かない状況だけど、彼女のこの責めるような目。俺が悪いのは本当だろう。
何やってんだよ俺は。そのご両親にも正式に謝罪したいがその前に、これだけは聞かなくちゃいけない。
「それで、あの、結局貴方はどなたなんでしょうか」
「…………い、
何気ない質問だったが、予想外に重い答えが返ってくる。彼女も顔を真っ赤にしている。
「……ごめん、嫌なこと聞いちゃったね」
「何が!?」
たった三音の名前。その三音に思いは込めたかもしれないが、親には子供がどういう気持ちを抱くかも考えて欲しい。
というか……『一ノ瀬』?
「まさかさ。記憶喪失の振りなんかで誤魔化すつもりじゃ──」
「鏡ある?」
看護師さんも言っていた苗字。
今更ながら、俺は人違いで怒られていたかもしれない。
太り過ぎてその人とそっくりになったとか……分からない、とりあえず自分の姿が見たい。
「……っ」
「ありがと」
彼女は歯軋りをしながらも、肩にかけていた学生カバンから鏡を渡してくれる。
はあ。正直太った自分なんか見たくないんだけど────なにこれ。
子どもらしい、プクッと膨らんだほっぺと手入れのされていない長髪。高校生くらいの男の子。
「…………なるほど」
心臓が止まるかと思った。
誰!? え…………誰!?
思わず渡された鏡の解析を、端末にお願いしてしまう。
《細工の形跡無し》
そんな訳がないだろ! だってこれは、太ったとかそういう次元じゃない!
…………あーもう、っ、くそ!
『診断』
歯を食いしばり、端末を起動して自己スキャンする。
現実を見せるだけの診断なんていらない。こんな機能取り外せと、事故以来ずっと思っていた。
《NAME ■■■■──整合性破綻》
《AGE 1■/ ERROR──整合性破綻》
・
・
・
名前も年齢もバグってる。端末も、これが俺だと自信を持てないらしい。
「……は、ははは」
「突然なんだよ」
その通り。脳に映し出された人体図は間違いなく俺じゃない。
「あっはっは。あはははは‼」
「…………」
だって一目瞭然なんだ。顔なんかより、ずっと分かりやすい違いがあるんだから‼
俺は布団を勢いよくはがす。
「ひっ! な、なんなの!?」
そこには、布団の下から確かに続く、見間違いようのない右足があった。
「…………ははっ」
右足が……ある。
太ももから下が、ある。なんだよ、何が起きたら、あってくれるんだよ……
足の指を動かす。
一本、二本。全部動く。くっそ痛い!
って、この痛み──っ、症状は!?
頭に浮かんだ人体図を叩くようにタップする。
《右
《右
《右手第四・第五
《頭部:外傷──……》
《全身:複数箇所に──……》
《打撲箇所:以下詳細──》
・
・
・
ズラッと並ぶ症状に言葉を失う。
右腕が大変ってことだけ理解して、流し読みさせてもらった。
《以前の診断結果は誤りでした。原因不明》
端末が迷うなんて有り得ない事も、今はいい。
だって最後の一文が強過ぎて、なんも頭に入ってこないんだ……!
《再評価:トップレベル復帰には適切なリハビリ、および徹底的な肉体改造が必要》
「…………ふふ」
肉体改造……徹底的に、ね。
端末がここまで強い言葉を使うなら、相当つらいんだろうな。
「はは、うははははは!」
それがなんだよ! 復帰可能なら、いくらでもできるわそんなもん‼
「あーはっはっはっは!」
「……キモ。なんで泣いてんのよ」
「え、泣いてる? ほんとだ! でも泣くよそりゃあ‼」
涙を拭って、改めて手首のリストバンドを見る。
そうだよね、肌触りが違うと思ってはいたんだよ。よく見るとそこには、『
一ノ瀬、一ノ瀬、ねー。
「妹よ!」
「…………」
目の前の少女は眉間のシワを深めて応えない。
思わず自分の勘違いを疑ってしまう。
いや、全然理解できないけど別人になったんだ。今までの流れなら、これが一番しっくりくる関係だろ!
「……妹よ!!」
「〜〜っ、なんだよ! 過去一気持ち悪い‼」
おっと、やはり正解。俺に妹とか、まるで現実味はないけど。ないからなんだよ。
今はこれからどうするか、それだけだろ!
「退院したい」
「そんなイカれてんのに、できるかバカ!」
「正常だって」
「四階から飛び降りて、二日も寝込んでたんだよ!?」
飛び降りー? なんでわざわざそんな痛くて怖い方法で。自殺なんて専門の病院に行けば──待って。
「手に持ってるの、可愛いね。確か……携帯電話」
「……恥ずかしいからスマホって言って」
「スマホ……スマートホン」
「フォ・ン!」
思わず端末を確認する。
『2131.1■.■■/ ERROR』
年が進んでる。前の身体の俺はどれだけ寝ていて――ってそうじゃない。
日付がバグってて、目の前にはスマホなんて化石を大事に持ってる推定中学生。まあ、一応、ね。
「それって時計も付いてるよね。見てもいい?」
「……17時23分」
「見せて」
「死ね」
「今年西暦何年?」
「…………」
真白という少女は、片目をひくつかせて猛烈に怪しんでいる。
だけど本当のことは言わない。悪いけど、さっき決めた。
兄の身体を返せ! なんて言われても返せないし、この記憶も、意識に張り付いた端末も俺の物であって。
本当のことを言うにしても、せめて返す方法が見つかってから…………って、やめやめ。
なんか正当化しようとしちゃった。見苦しい。
──俺は返さない。
例え取り立てられても、自ら手放したのに今更なんだと徹底抗戦してやる。
それで地獄にでも堕ちたら……そこでは感情切って過ごそうかな。
「なんか頭フラフラしてさ、ね? 何年だっけ?」
「──!」
しつこく迫ると彼女は怒ったように脇の机に手を伸ばし、置いてあった別のスマホを俺に投げてきた。
咄嗟に左手でキャッチして、画面に指が当たる。
「こらこら。危ないでしょう……が…………え?」
「……なに、なんだよその顔は」
「ふふ。うはは。そっちがなんだよ」
ウケる。
いやウケない。もう自分の感情がどういうことになってるか分からない。
スマホ画面に映る——『2030』の文字が、俺の小さな脳みそにはどうしても入ってこなかった。