「一ノ瀬さん、退院許可が出ましたよ」
朝食を食べ終え、いよいよ昨日見つけた名門高校同士の試合を見ようとスマホを手に取ったところで、病室の扉が開いた。
ここ数日で一番お世話になった看護師さんだ。
彼女は何やら書類を持ちながら、少しだけ晴れやかな顔をしている。
「もう、ですか?」
「……一ノ瀬さんのマイペースは最後まで治りませんでしたね」
呆れたようにため息を吐かれる。
「全く。先生は『こんなに早く退院させていいのだろうか……』って、凄く悩んでいたんですよ?」
……おっと。いけないいけない。早期退院のための健康アピールで毎回慌ててくれる素敵な先生だったのに、これ以上困らせてはいけないか。
「そこは大丈夫ですって。ただ、こうやって気軽に話せるようになったのに残念だなって」
これは本当。もうお別れだなんて寂しいよ。
しみじみ呟くと、看護師さんは一瞬だけ目を丸くしてから苦笑している。
「もう。こっちは大変だったんですからね」
「? 僕はすぐ動けるようになったのに、何が大変でした?」
「…………目を離すとすぐ身体動かすところと! 怒涛の匂わせをするところです!」
「ご、ご迷惑をお掛けしました」
この時代に来て、初めてちゃんと接したのが看護師さんのような大人で良かった。
いくら怪しさを出してもグッと堪えてくれていたみたい。
「入院生活、全然大丈夫でしたね……やっぱり本当は左利きなんじゃないですか?」
「違いますって。まあ、ふふ。そう思っちゃいますよね」
「……だからいちいち匂わせないでください」
看護師さんは深い息を吐いて、疲れを隠しもしない。
ご飯、トイレ、着替えと全部一人でこなしていると、毎回詮索されるんだ。
身体感覚は、僕の意識と結びついている。
目覚めてから7日間。端末補助付きで、みっちりこの身体との付き合い方を学んできた。
以前まで端末持ち相手にサッカーしてたのに、自由に使えない部位を残しておくわけがない。
「着替えたら受付へお願いしますね。退院の手続きはそこでしますから」
「はーい」
退院、か。あんなに退院したかったのに、スマホを使えるようになってからはもう少しいてもいいと思ってしまった。
まさか2030年サッカーが、こんなとんでもない代物だったとは思わなかった。
端末実装前のサッカーは見るなと端末は言っていた。
ルールも違えば、戦術も育成法も違う。競技判断に余計な癖がつくと散々警告されて、当時は納得していた。
端末の言う事なんて、真に受けるんじゃなかった……
僕の時代とは、面白さのランクが全てにおいて桁違いだったから──
足元の技術や精度はまあ、流石に僕が上。
だけどこの時代の人は、選手全員が生身の脳で走り、ぶつかりながら、刻々と変わる状況を処理している。
紛れも多くて、どこまでが戦術かも分からない。
ミスなのか、誘いなのか。
偶然空いたのか、意図的に空けたのか。
そもそも両軍合わせて22人で戦うなんて、競技者の少ない時代じゃあり得ない。とんでもない迫力だった。
一度「分かんない!」と叫んだら、端末が勝手に映像解析を始めた。
《あー、この場面、21番の選手はたぶん──》
慌てて止めた。
ネタバレなんか冗談じゃない。
僕がある程度の答えを出すまでは戦術の助言は禁止だ。
フィジカルコンタクトが激しくて、まるで怪我を恐れていないように見える。
でも恐れてないわけがない。それでも行くんだ。
PKを外した選手がその場で膝をつき、泣いてしまう。
こんなとこ映すな! とは思うが僕も涙が止まらない。気付いたら戦犯扱いのコメントとレスバトルしていた。
『効いてて草』ってのなんだよ! あれ無敵過ぎるだろ!
舞台は超満員のスタジアム。こんなところで試合ができたら僕は……
全身から魂が飛び出しても、「まあ、そうなるわな」と納得してしまうだろう。
時間なんて一瞬で過ぎていった。
幸い端末が動画視聴中の視覚情報を取り込めたので、一度観た試合ならいつでも見返せる。
落ち着くまではこれらの録画で我慢しよう……
看護師さんが出ていったあと、僕はベッド横の荷物を確認する。財布、退院関係の書類、着替え。
迎えはない。両親は来なかった。
真白も、まあ来ないだろう。
でもスマホの地図に自宅は登録されていて、道は分かる。問題はない。
問題は、ただ一つ。
この時代に生きる人の脳が、端末の常駐に適していないこと。
生まれたときからずっと一緒に生きてきた。
競技特化型に更新されて少し考え方は変わったけど、それでも端末は僕という存在を構成する一部だ。
だから、脳を使っていた実感なんてなかった……
加えて一ノ瀬葉月の元々のスタミナ、運動不足。
そして僕の過剰興奮と、転生が受け入れられない端末の葛藤による絶妙なケミストリー。既に3回も意識を落とされている。
今は、タイムスリップも含めて『設定』として受け入れてくれたみたい。僕自身の対策は──
「……どう? 容量は、増えた?」
《増えた。今なら4秒くらいボール蹴っていいよ》
「僕の溢れるモチベーションは、4秒じゃ解放できないよ!?」
端末を使いまくって脳を慣らすこと。
究極のスタミナを付けること。
感情を切ること──は僕が嫌だから保留中。
「あ、でも確か、脳を使えば痩せるって説が──」
《多少消費が増えたくらいだね。残念》
「……そう」
元凶はマイペースを崩さない。頼もしい限りだ。
◇
「それじゃあ、お世話になりました」
2日寝込んで、起きてから7日で退院。
軽く調べた感じ、入院費は自己負担で20数万くらいだろうか。
全く、この時代の制度はもう少し分かりやすく記載するべきだと断固主張したい。
病院の入口近くで頭を下げる。
看護師さんは僕の横に立って、まだ心配そうにしていた。
「本当に一人で帰れます?」
「帰れます!!」
「……ご家族は?」
「近くまで来てくれてます!!」
「テンションテンション……」
スマホと念のためレンタルした車椅子。僕の知らないサッカー。予想より早い退院。こんなの上がらないわけがないんだ。
上がりすぎて、ちょっと嘘ついてごめんね?
「なんか……今の一ノ瀬さんからは想像できないんだけど……それでも心が無理だと思ったら、すぐ病院に連絡してくださいね」
「え、あ、はい!」
そっか。さっきから異様に心配されると思ってたけど、この時代では自殺はよっぽどの事みたい。
なんか優しい世界だな。
「もう、何も心配いりませんから!」
満面の笑顔とサムズアップ、全身で安心させに行く。
「……ふふっ、退院おめでとうございます。一ノ瀬さん」
おかげで最後はお姉さんの笑顔が見れてよかった。
そうしてようやく病院の外へ出た。
左手で引く折り畳み車椅子の前輪が、病院前の舗装の継ぎ目に引っかかる。
地面が少し悪いだけで、こんなに歩くのが疲れてしまう。
「…………うわ」
だけどそんなのどうでもよくなるほどの、見慣れない景色。
剥き出しの横断歩道。
ゴミが平気で落ちている道。
自らの足で歩く人たち。
圧倒的な未整理情報。古いんだけど、何もかも新しい。
しばらく見惚れていた。
そのせいでしばらく気付けなかった。
病院の入口横。
壁にもたれかかるようにして、制服姿の少女が立っていたことに。
黒髪、無表情、手にはスマホ。
目が合うと、妹──真白が露骨に嫌そうな顔で出迎えてくれた。
「……遅い」
「あ、ごめんね」
嬉しいけど、どう対応していいか悩んで無難な返しになってしまう。だってスマホを手にしても、『葉月』の情報はほとんど分からなかったんだから。
一ノ瀬葉月──なんと高校一年生。
つまり僕は2つ、3つほど若返ったことになる。
連絡先は家族だけ。可愛い女の子がたくさん出てくるゲームが好きな微笑ましいところもあれば、『復讐帳』なんてアプリを入れたダークなところも。これくらい。
まあここは過去とはいえ、科学の発達した時代。
『憑依』とか『転生』なんて概念、そう簡単に思いつけるわけないね。
多少の不自然なら高校デビューで通せるでしょう。
「迎えに来てくれてありがとね」
「別に。父さんに言われただけ」
「お礼に占ってあげよう!」
「…………まともに会話して」
まあまあ。本当は出会った時に言いたかったから、ずっとモヤモヤしてたんだ。
せっかくなら正確な情報を伝えたいし、しっかりと診断する。
《定期的な高負荷運動習慣あり》
《下肢筋群:発達傾向》
《回復指標:低下》
《推定:総摂取エネルギー不足》
《推定:タンパク質摂取不足》
あーあ。もう、何かスポーツをやってるみたいなのに、駄目だよこれじゃあ……
「運動量に対してタンパク質が全然足りてないよ。だからそんなに努力してるのに中々筋肉はつかないし、そもそも摂取カロリーも足りてないからスタミナも保たない──」
「っ、キモいキモいキモい!」
「……そう?」
運動してる人なら自分のデータなんか大喜びかと思った。教えたがりおじさんキモ過ぎるってやつかな。
《推測:デリカシー不足じゃね?》
ふーん。
ともかく、こんな結果が出たならやることは一つ。
「よし、真白のお弁当は僕が作ろう」
お金も体力もない僕にできる、家族の役に立てること。
返事はない。ついにシカトされてしまった。
この素っ気なさは……ふふ、料理のし甲斐があるなー。
「ほら、もう気軽に話しかけるの止めるからさー」
「……」
「これから、よろしくね!」
「……よろしくしない」
もう会話したくないとばかりにさっさと歩いて行ってしまう。その背を僕は必死でついていく。
時折振り返って心配してくれるこの子は、間違いなく優しい人なんだろう。
退院初日。
こうして僕は、一ノ瀬葉月の家に向かうことになった。
──そう思っていた。