「んー? ねえ。お家、こっちじゃないよ?」
病院から少し離れたところ。
あまり話しかけないとは言ったが、家と逆方向に向かうのは流石に見過ごせない。
スマホの地図アプリはもう使える。
最初は指を滑らせるだけで画面が暴れて訳わからなかったけど、原因がスマホではなく僕の指の太さだと認めてからは一瞬だった。
「こっちでいいの。もう着くから大人しくしてて」
「? そうなんだ」
真白はこちらを振り向きもしないで応える。
どこに向かっているんだろう。そろそろ僕の体力は限界なんだけど。
車椅子……余計だったかな。いつ意識を落とされてもおかしくないから必要だと思ったけど。
汗を拭いながら周囲を見渡すと、道の向こうに広い公園があった。
ベンチがいくつかと、何かの遊具で子供たちが遊んでいて、端の方には網で囲まれた広場がある。地面は土ではなく、緑色。人工芝。
誰も居ないが、網の両端にコンクリの壁が付いていて、白くサッカーゴールの線が書いてある。
「……うわ」
どう見ても、一般開放されている。
予約ゲートも、認証もない。誰でも歓迎と言わんばかりに網の入口が開いている。
この時代、そこら中でサッカーできるの?
早速地図アプリ画面を目でしっかり焼き付けて、端末にメモとして残す。
最高のサプライズ、真白は僕にこれを見せたかったのかもしれない。
お礼を言おうと彼女へ目を向けると、いない。
「着いたよ」
「……どこに?」
真白はいつの間にか僕の横にいて、視線は公園の向かい側。
細い道を一本挟んだ古いアパートに向いている。
二階建て。外階段。土色の壁はところどころ黒ずんでいて、手すりの塗装は剥げている。
廊下側には室外機が並び、誰かの傘が錆びた柵に引っ掛けられていた。
築年数は分からないけど、古い映画でしか見たことのないアパートだ。
声が出ない。ただ見上げた。
「父さんの仕事仲間がやってるアパートらしいよ」
真白は普段と同じく淡々と、なんでもないことのように続けた。
「部屋は一階のあそこ。公園も近いから子供が騒がしいかもだけど、その分家賃は安いんだって」
「……引っ越し、したんだ」
アプリに残っていた住所と違う。
つまりこれは、僕が眠っている数日の間に決まった話だ。
嘘だろ……まさか僕の入院費のせいで、みんなが家賃の安い家に──
「……? ああ、違うから。ここは兄さんだけの家だから」
「どういうこと?」
「入院費一カ月払うより、このアパートの家賃半年分の方がずっと安いんだって」
「…………え?」
意味を理解するのに時間が掛かった。
退院前にこの時代の制度くらいは調べた。
未成年。高校一年生。利き手の使えない生活。自殺未遂明け。
どんなに嫌われていたとしても、家に帰されると甘く考えていた。
「うそ、でしょ」
先生も退院後の生活は気にしていた。どう病院を納得させたか。理由は考えたくない。
ただ、僕はどれだけ親に迷惑掛けてでも、気軽に退院していい立場じゃ、なかった。
そんな暗い感情は、直後の真白の声でかき消えた。
「当面の生活費の20万は振り込んであるって。学費は一年分払った後だったから……まあ、十カ月ちょっとは学校に行ける」
「……!?」
「光熱費なんかも、半年分だけは払うって」
「!!?」
「それで……さ」
言葉を選ぶように、だけど諦めたのか僕から目を逸らしながら。
「それで、親子の縁を切るって」
言い切った。
指が震えて言葉も少し震えている。
「もう家には帰ってこないでって。連絡もしないでって。必要なものはここに置いてあるからって」
……つまり僕は、実質的に追い出されたらしい。
古いアパートの壁をもう一度見た。
ここが、今日から僕の住む場所、か。
真白はこっちを見ていない。
身体もよく見ると少し震えて……震えて?
そこまで考えて、ようやく気付いた。
「ちょ、まって。言葉整理するから落ち着いて!?」
様子がおかしいと思ったら、そうだよ。
僕は『葉月』なんだ。
怒鳴られるか、癇癪でも起こされると思っているのかもしれない。
「そ、そう、ご両親には、このご恩は必ず返すとお伝えください……!」
「お、恩返しって、ちょっと変なこと考えないでよ!」
違うから。最初は確かに焦ったけど、物騒な意味じゃないから。
路頭に迷いそうな僕に、住む家と家賃半年分、学費は、必要かどうかは分かんないけど一年分。生活費。目の前に誰でも入れる公園。
最後に……全てお金でお返しできそうな、温度を感じない恩の数々。
正直に言うと、僕は怖かった。
無一文のまま、散々迷惑をかけた顔も知らない両親に向かって「これからお世話になります」と言わなきゃいけない状況に、かなりビビっていた。
致命的なことに、僕は葉月の記憶も持っていない。
だからまず距離が欲しかった。
お金はしっかり多めに返して、それから感謝の言葉を伝えに行く。
これは誠実じゃないかもだけど、正直に言ったら僕が売られる未来まで見えるから。
「言葉通りの意味だよ。本当に、感謝してる」
「……意味分かんない」
はぁぁぁ……びびった。足が震えてるよ。
ルールを無視すればお金稼ぐ手段がいくらでも思いつく未来人に、この手の葛藤させないでほしい。
真白の持っていた鍵で扉を開けて、中に入る。
部屋は、生活する場所としては充分な広さ。
玄関に入るとすぐに小さな流し台があり、その横に、コンロ。短い廊下の先には六畳ほどの部屋が一つだけ。
いわゆるワンルーム。大きな木の物入れが一つと簡素な机が二つ。
トイレと、シャワー室。
あとは、事前に調べていた機械が三つ。確か電子レンジと冷蔵庫。あと一つは、なんだっけ。衣類を洗える白く大きな箱。
「私物は奥に置いてあるから。あとこれ」
渡されたのはこの部屋の鍵、2本。
「急いで運んだだけだからバラバラ。整理する時は危ないし、私がいる時だけ──」
「こ、こ、こ、これこれ──見たことある!」
「聞け!」
目の前の、三つの大きな段ボール
その横にノート型の、『PC』と呼ばれるスマホを20倍も大きくした神器が入っていた。
「うおおおおっ!!」
「あ、アパートだから! 静かにして!」
と。その通りだね。ご挨拶の時にでも謝ろう。
でもスマホの充電が切れて、生まれて初めてネットに繋げなかったあの恐怖も分かって欲しい。
「……ネット回線は仕事見つけるまででいいだろって、ひと月分だけみたい。そこから先は自分で契約しろ、だって」
「なるほどなるほど」
回線。全然分からない、まさか通信にお金を取るのか? 酸素からお金取るようなもんじゃん……
真白が指さした木の棚の引き出しを開けると、保護者欄だけ埋められた契約書類と、連絡先を書いた紙が入っていた。
保護者のサインが必要な時だけ連絡しろ、ということらしい。
通報されても言い逃れできる範囲で、すごく考えてくれてる……!
「てか分かってんの? お金は仕送りじゃないんだよ? 全部無くなる前に仕事を探さなきゃ──」
「もう見つけた」
「その身体でできる仕事があるか知らないけど──え?」
「AIデータの確認! 凄いいっぱいあって受かる自信しかないんだ」
AIが出したデータを人間が最終チェックするお仕事。君に任せたらAIがAIをチェックする事になるけど、できる?
《……誰に言ってる? 流星はいつも通り鼻ほじってていいから》
うーん、最高の相棒。でも操作するのは僕なんだから戦力外扱いしないで。
「そっか、在宅ワーク……確かにそれなら兄さんでも……」
本当だ。PCがあるんだ。
トレーニングのインターバルで、仕事ができてしまう……!
「なら食費は出せそうだね。落ち着くまでは私もご飯なんかは買ってくるから」
「…………ん?」
そんな浮かれ気分は、真白の不自然なまでの献身で吹っ飛んでしまう。
「真白、部活動とかしてるんじゃないの?」
僕に構う時間なんかないはずだ。
絶対活動の盛んな運動部。僕の目に間違いない。健康のためのジョギング程度でできる足じゃない。
「……もう、休部するって伝えたし」
「え、なに、なんで!?」
「…………っ、仕方ないじゃん!」
真白は部屋の中までは入らず、台所に立ったまま僕を睨みつけている。
「兄さんは心底嫌い」
「まあ、うん」
それは、そう。気持ちは嫌ってほど伝わっている。
「でもその身体で、なんのケアもないまま一人って──」
唇を噛みながら、絞り出すように言う。
「今度こそ死んじゃうじゃん……」
「…………そっかー」
胸が詰まった。
葉月はもう、いない。
今日まで過ごして、この身体には一切の形跡もなかった。
だから今、この年下の女の子を追い詰めているのは
『君の兄さんはもういないから、そんなもの背負わなくていい』
これだけは言うべきかもしれない。
正直な話。正体を明かしたところで、これだけ受け取っていれば俺は生きていけるから。
でもそれは真白にとっての二度目の喪失宣告だ。
俺の気持ちが楽になるだけじゃないのか?
兄の身体を赤の他人が勝手に使うと聞いて、妹はどう思う?
こんなの、なにが正解かなんて分からない。
「全部自分でできるよ。絶対死なない」
分からないから今は明かさない。
「それ学校の鞄でしょ? 教科書借りていい?」
「…………は」
代わりにこの背負わせた物を全部片付けて、そこで改めて考える。
生き死にくらい本人の自由でいい。そんな前世の価値観が抜けてなかったけど、もう決めた。
「僕は一人でも平気ってことを完璧に証明してあげる」
たっぷりの自信と笑顔で言うと、何をしようとするのか気にはなるのだろう。真白は眉間にシワを寄せながらも英語の教科書を渡してくれる。
僕はそれを台所に置き、左手だけでパラパラとめくって目を通す。1秒につき3ページほど、ただ視界に映した。
「瞬間記憶! なんつって。はいこれ」
視界を全て端末に、記録として残してすぐ返す。
真白は下らないとばかりに半目で顎を上げ、見下す表情だ。
「そのノリキッツイんだけど……」
「意図は分かるでしょ? ほら問題出してみて」
「…………38ページの下から2行目、右から14文字目」
おっと、初手無理難題。
こういう困らせ方する人いるんだよ。初めて真白の中学生らしいとこ見れたな──《t》
……悪いけど。せっかちな端末はもう、茶番だと言わんばかりに答えを教えてくれているんだ……
「『t』」
「……は? 適当言ってんじゃ…………」
出題した側も適当言ってたのか、慌てて教科書を開いて確認して──間もなく硬直。
「分かったでしょ。天才なんだ。怪我してようがなんの問題もないんだよ。まあ当面生活できる環境を整えてくれたからこそだけどさ」
この力を以ってすれば……なんか、あるとは思う。そのへんはもう少しこの時代に詳しくなってから。
「部に戻って平気だよ」
真白はまだ混乱しているのか、口を大きく開けている。やがて、自分の腕に爪を立てながら、ポツリと言った。
「……戻れるわけないじゃん」
「なんで?」
「っ、大会近かったの! なのに突然休部なんて、みんなと喧嘩もしちゃうでしょ!!」
「……あー。そう、かもね」
あーあ。僕を案内して、僕に縁切りを告げる。僕を生かすために休部して、友達と喧嘩して──
僕のせいでどこまで犠牲になるつもりだよ。
「それだと少し戻りにくいよね」
「……っ、誰の、せいだと……!」
こんなの、あまりに僕がダサすぎる。
だからせめて僕にできることはする。
「なら格好良く戻ろう。何部?」
真白がこの面倒を引き受けたことを、後悔させない。
「意味分かんない」
「部活だって。何やってたの?」
真白は訝しげに僕を見て、少しだけ顔を逸らした。
「…………サッカー」
「はい勝利確定」
実は身体付きから、そうじゃないかなーとは思っていたけどさ。女子選手も増えてきたとは見たけど、それでもここでサッカーて。
「すぐ戻れるよ。だって超絶パワーアップして戻るなら、それはもうめちゃくちゃかっこいいんだから!」
僕の転生といい、目の前の公園といい、ふーん。なるほど、ね。完全に理解した。
どうやら世界か神か、人々の思いかなんかが、