第三特務処理班
班長になって最初の仕事は、止まらなくなった温泉だった。
「サカキさん、正面入口でお願いします」
「おう、了解」
運転席のサカキは、ニムラに答えてから続けた。
「そうだ、仕事中は敬語、外した方がいいかもな。その方が指示も通りやすいし」
「そうですか。……わかった」
「いいね。ま、慣れてくれ。班長さん」
「……了解」
ニムラには、先輩への指示がまだ口に馴染まなかった。
サカキがミラーへ目をやる。
後部座席のイチノセは、端末に送られてきた温浴施設の資料を読んでいた。
「イチノセも、緊張すんなよー」
イチノセが顔を上げ、首を傾げた。
「……してませんけど」
「ははっ、頼もしいね」
ニムラは端末で通報内容を確かめた。給湯と循環の制御術式が停止を受け付けないとある。
「現場に着いたら、まず職員に話を聞く。イチノセは地図の確認。サカキさん……いや、サカキは経路の確認を」
言い終えて、ニムラは運転席を見た。
サカキは、うんうんと頷いている。
「わかりました」
イチノセは端末へ目を戻した。
◇
温浴施設の入口には《臨時休館》の表示が出ていた。閉じた自動扉の向こうから、低い駆動音が続いている。
三人が車を降りると、施設の腕章をつけた職員が駆け寄ってきた。
「第三特務処理班のニムラです。状況を教えてください」
「停止をかけても、給湯と循環の術式が止まらないんです。温度も圧力も上がり続けていて」
建物の奥で金属が鳴った。職員が振り返る。
「配管が持たないかもしれません」
「避難は完了してますか?」
「はい。裏口の保守通路も開けてあります」
「わかりました。あなたも避難を」
ニムラは二人へ向き直った。
「まず設備室を見る。サカキは先導。イチノセは給湯側の計測を切らすな」
「あいよ」
「はい」
廊下には警報音と、奥から聞こえる水音が響いていた。
イチノセが計測器を見る。
「配管圧、まだ上がってます。警戒値には入ってません」
「裏の保守通路か大浴場を抜けるかの二択かな」とサカキが言う。
イチノセが案内図を見た。
「保守通路だと四分。大浴場なら一分なんで、大浴場側ですかね」
「いや、まず確認だ。サカキ、浴場側を」
イチノセが少しムッとする。
「近いからだけじゃなくて、圧力も上がってて危険なので――」
「近道が使えるかはまだわからない。イチノセは設備反応。保守通路側も見ろ」
イチノセは口を閉じ、計測器の表示を切り替えた。
浴場の前で、サカキが扉を開けた。
掌を浴場へ向けると湯気が左右へ流れ、白く霞んでいた浴場の奥が開ける。
数秒その状態を保ち、床と設備室までの経路を確認した。
「通れる。床は濡れてるけど、倒れてるもんもない」
「温度はどうだ」
「ちょい高い。でも通るだけなら、まだ平気そう」
ニムラがイチノセを見る。
「浴場側、循環系が上がってます。保守通路側は低いです」
ニムラは数値を確かめ、開いた扉の先へ目をやった。
「この上がり方なら、保守通路を回る余裕はない。浴場を抜ける」
「……僕も、圧力を見て言ったんですけど」
「ああ。サカキ、先導」
「あいよ」
サカキが浴場へ入った。ニムラもその後へ続く。
「イチノセ、計測を切らすな」
「わかってます」
浴場へ入ると、水音が一段大きくなった。
奥で、金属が擦れるような音がした。
サカキが片手を上げ、三人が止まる。
もう一度、短く音が鳴る。
イチノセは音のした方を見てから、計測器へ目を戻した。
「給湯側の反応は変わってません」
ニムラは一拍待った。
「周辺の設備も一緒に報告してくれ」
「あ、はい」
イチノセが表示を切り替えた。
「循環系の一つだけ、反応が上がってますね」
壁沿いの配管から、また小さく金属音がした。
イチノセは配管と表示を見比べ、二人をうかがった。
「……固定具のところじゃないでしょうか。圧力の上がり方に対して、流量が変わってません」
ニムラも数値を覗き込む。
イチノセが続けた。
「金属音が固定具から聞こえたので、配管が動いてるのかな、と思ったんですが……」
「恐らくそうだ」
サカキが配管から距離を取り、振り返った。
「いいね、冴えてるじゃん」
イチノセの顔が少し明るくなる。
「はい!」
声が浴場に響いた。
ニムラがちらりと見る。
「いい響きだな」
「なんですかそれ」
サカキが笑った。
「班長、褒めるの慣れてねえんだよ」
イチノセも少し笑った。
「……」
ニムラはそのまま前を向いた。
「進むぞ。イチノセ、引き続き変化があったら先に言え」
「はい」
今度は少しだけ声を落とした。
三人は再び、設備室へ向かって歩き出した。
設備室の扉を開け、サカキが中を見た。
「うお、あっついな」
「入れるか」
「うん、まだいける」
壁沿いに配管と術式の制御盤が並び、赤い警告灯が点滅している。床の下から、低い唸りが続いていた。
「サカキは入口。イチノセは引き続き計測を」
ニムラは制御盤の前へ立った。
給湯と循環、どちらにも停止表示が出ている。
それでも稼働値は下がっていなかった。
ニムラは給湯側の操作を開き、系統を個別停止へ切り替えた。
稼働表示が一度消え、すぐにまた点いた。
数回操作をしても同じだった。
「駄目だな……」
「配管圧、数値上がり続けています」
「わかった」
「根本からいけないかな」とサカキが入口から言う。
「……ああ、なるほど」
ニムラは制御盤から手を離し、端末で設備図を開く。
給湯と循環の系統を、順にたどった。
「給湯と循環、両方この中継機を通ってる」
図面上の位置は、設備室の床下だった。
ニムラは床の金属板の前に膝をつき、腰の工具を取り出した。
留め具へ先端を当てると、工具の先から淡い光が走った。細い笛のような音が鳴り、固定が一つ外れる。
板を持ち上げると、下から白い光が漏れた。
中には、拳二つ分ほどの制御中継機が固定されている。
表面の擦れた記章は、AとBを重ねたような形をしていた。
ニムラは端末で型番を照合する。
「型番一致」
接続先をもう一度確認する。
「いけそう?」とサカキが聞いた。
「わからない。だが、つながってるのは給湯と循環だけだ。どっちも今止めたい系統だ」
ニムラがイチノセを見る。
「数値はどうなってる?」
「配管圧、警戒値まであと少しです」
「時間もない。切り離して、あとの反応を見る」
「あいよ」
ニムラは中継機の固定具へ手をかけ、一つ外した。
二つ目を外した時、浴場の水音が一段大きくなった。
直後、ガン、と硬い音が響く。
何かが床を滑った。
続けて、ガラガラと物が崩れる音がした。
サカキがすぐに浴場側を覗いた。
ニムラは一瞬だけ手を止めた。
サカキは何も言わない。
配管圧は、その間にも上がっている。
ニムラはそのまま固定具へ手を戻した。
計測器が短く鳴る。
「配管圧、警戒値に入ります」
「このまま回収する。イチノセ、容器を」
「はい」
最後の固定具が外れた。
ニムラは中継機を持ち上げ、イチノセが開いた遮断容器へ収める。
蓋が閉じると同時に、白い光が消えた。
ニムラはすぐに入口へ視線を向けた。
その横で、イチノセは計測器の表示を追っている。
サカキがニムラへ顔を戻し、小さく頷いた。
床下の低い唸りが止まり、浴場の水音も弱くなっていく。
ニムラはそこで初めて、息を吐いた。
「給湯、下がりました。循環も落ちてます。配管圧、正常域に戻ります」
イチノセが報告すると、サカキが浴場側を指す。
「さっきの音、清掃用のラックだな。流されて棚にぶつかってる。棚も倒れてるから、あっちからは戻れなさそうだね」
「保守通路へ回る。イチノセ、反応は」
「低いままです。裏口も開放済みです」
サカキが設備室の反対側の扉を開ける。
「こっちは通れるよ」
ニムラは遮断容器の固定を確かめた。
イチノセを見て、少し笑った。
「近道が通れなくて悪いな」
「いや、別に気にしてませんよ」
ニムラは容器を持ち上げた。
「回収完了。戻ろう」
サカキに続いて、二人も保守通路へ出た。
◇
詰所へ戻ると、三人はマミヤの机の前に並んだ。
「給湯と循環設備は正常域へ戻っています。原因はまだ不明です」
「へー、中継機を外したんだ」
「はい。給湯と循環、どちらもそこを経由していたので」
「魔物化してなくてよかったねえ」
「そうですね。そこまでいってたら、切り離すだけじゃ済まなかったかもしれません」
「うん、古い型だし、調査に回しとくね」
マミヤが設備写真のAとBの記章を見ながら頷く。
「よし、じゃあお疲れさま。怪我はなかった?」
「ありません」
「じゃあよかった。ニムラくんは班長にはもう慣れた?」
ニムラは隣の二人へ目をやった。
「二人が動いてくれたんで、何とかなりました」
「でも、新人を褒めるのはまだ慣れてないみたいですね」
サカキが横から言った。
「あら、そうなんだ」
「イチノセに『いい響きだな』って褒めてました」
「あれ冗談ですよ」
「えっ!?」
「訂正するの面倒だったんで」
イチノセはニムラを訝しげに見ていた。
マミヤが笑いながら端末を引き寄せた。
「あはは、サカキくんも班長のニムラくんには慣れてないみたいだね」
「……そうみたいですね」
「じゃ、ニムラくんは報告書、イチノセちゃんは計測記録を送ってね」
「あ、計測記録はもう送りました」
「あら、優秀だ」
「ありがとうございます」
イチノセの口元が緩んだ。
それを見て、ニムラもわずかに笑った。
「じゃ、三人ともご苦労さま~」
ニムラは自分の机へ戻り、報告書を開いた。