工場の設備担当者は提出資料の最終確認をしていた。
隣にいた若い整備員が、手元の作業日誌を持ち上げる。
「いいんすかね」
「うん?」
「最後のやつ」
「いらんいらん。最近そういうの厳しいんだから」
まもなく、第三班の到着を知らせる通知が鳴った。
◇
製造区画では、小型部品の加工機が何列も動いていた。
壁際には、国営時代の大型冷却供給器が予備系統として残っている。
イチノセが冷却供給器の銘板を確認する。
「管理番号、合ってます。次の子設備です」
サカキは製造列の横に並ぶ小型冷却器を見た。
「前と同じなら、この辺も昔の構成に戻るのかね」
「その可能性は高い」
ニムラが設備担当者に聞く。
「今の冷却系統が停止した場合はどうなりますか」
「加工機ごとに安全停止しますので、作業員に危険はありませんよ。ただ、加工中の部品は廃棄になっちゃいますね」
「退避経路は?」
「こっちです」
サカキが停止装置と通路を確認して戻ってきた。
「問題なし」
「通常状態を維持してください。異常が出ても、こちらの確認が終わるまでは設備に触れないように」
「止めなくていいんですか?」
「現時点では、停止させる根拠がありません。危険値が出た場合はこちらで止めます」
「分かりました」
イチノセが旧式配線の近くへ計測器を置く。
「中央安全系統から信号が来れば、反応するはずです」
三人は待った。
加工機の音だけが、同じ間隔で続いている。
五分、十分と過ぎても、何も起きなかった。
サカキが時計を見る。
「外したか?」
ニムラは巡回一覧を見直した。
「……もう少し待機だ」
その直後、計測器が短く鳴った。
イチノセが振り返る。
「来ました」
旧式配線の数値が上がり、冷却供給器の内部から金属の擦れる音がした。
表示灯が点いて、数秒後に消えた。
それだけだった。
加工機は止まらない。
搬送台が、何事もなかったように次の部品を運んでいく。
設備担当者が冷却供給器を見る。
「あの、終わりました?」
「確認します」
イチノセが計測器を見る。
「信号は消えてます。安全接続も反応なし」
「一社目と、何が違う」
改修記録を並べる。
「これは?」
サカキが一社目を指した。
《工程都合により一部短縮。通常稼働へ移行》
「確認運転?」
ニムラの言葉を聞き、イチノセが別の記録を出した。
「この工場は……」
《確認運転完了》
サカキが二つを見比べた。
「安全だからいいってことかな」
「あり得る。が、一件だけじゃ判断できない」
その時、先ほどの若い整備員が作業日誌を抱えて近づいてきた。
「あの、提出資料の件なんですけど……」
三人の端末が同時に鳴った。
新しい設備異常の報告だった。
報告元は、旧巡回一覧でこの工場の次にある企業だった。
新型制御部が応答せず、旧型設備が確認されている。
若い整備員は口を閉じた。
「……いえ。後でいいです」
作業日誌を抱えたまま離れていく。
サカキが巡回一覧を開いた。
「順番は合ってる」
「ああ、親機はここを飛ばしてない」
ニムラは、反応の消えた冷却供給器を見る。
「何も変えずに、通過したんだ」
ニムラは一度巡回一覧へ目を落とした。
「今まで通過した設備も見る。確認運転の記録を集めろ」
「全部?」
「全部」
「はいよ」
記録が揃うまで、それほど時間はかからなかった。
これまでに親機が通過した設備は五件だった。
サカキが記録を並べる。
「こっちは完了。これは途中」
イチノセが巡回一覧へ印を付けていく。
「戻った四件、全部未完了です」
「変わらなかったここだけ完了か」
サカキが巡回一覧を見る。
「今のところ、全部一致してるな」
イチノセはそのまま旧規定を検索した。
「あ、ありました!」
《子設備の構成変更後、規定確認運転の完了をもって最終安全状態を更新する》
その下に、もう一行。
《確認運転未完了の場合、前回確定状態を保持する》
イチノセが読み終わって、天を仰いだ。
「うわあ、なんで見つけられなかったんだろ」
「動いてるから大丈夫だろうって、そのまま使ってたら戻された」
「結果的には、だけど」
「確認運転未完了は、あと一個」
《反応工程中央安定器》
現在の所有者を照会する。
工業団地南端の化学工場だった。
「化学工場?」
イチノセが現在の設備図を出した。
国営時代の図面では、中央安定器から反応工程へ何本か線が伸びている。
現在図を重ねると、その周囲には新しい制御器や安全装置がいくつも追加されていた。
サカキが画面を眺める。
「うわ、増えてんな」
ニムラはマミヤへ連絡を入れた。
『最後の一件?』
「はい。化学工場です。まだ異常は出てません」
『止める?』
ニムラは現在図を見た。
「現時点では、停止させる根拠がありません。現場を見てから決めます」
『分かった。工場側にはこっちからも連絡しとく』
通信が切れる。
サカキが上着を取った。
「最後が一番面倒そうだな」
「行こう」
◇
工場へ着いた時点では、まだ何も起きていなかった。
設備主任の男に案内され、中央制御室へ入ると、工場長も同席していた。
「全工程、正常に動いています」
設備主任が工程図を表示する。
「今は連続式です。反応させながら次の工程へ送り続けています」
サカキが、横に残っていた旧設備図を見る。
「昔のはずいぶん単純だな」
「一基ずつ動かしてましたから。供給が途中で切れても、反応は自然に弱まるように作られていました」
「今はどうなってますか」
ニムラが聞く。
「急には止められませんよ。順番に落とします」
「親機を止めると、安全接続も切れますが」
設備主任が顔を上げた。
「今、親機を止めるんですか?」
「止めた場合を確認してます。安全接続が切れるとどうなりますか」
設備主任は現在値を見る。
「反応槽は自動閉鎖されます。ただ、中に反応物が残ります。緊急排出の可能性があります」
「人への危険は?」
「作業員は退避させます。ただ、工場外に被害が出ないとは言えません」
工場長が窓の向こうを見る。
ニムラは現在図へ目を戻した。
「親機を止めなければどうなるか、か」
設備主任が口を挟んだ。
「親機は旧手順で安全状態へ戻そうとするはずです」
「わかるんですか」
「反応自体は止まると思います。昔の設備は、そのための構成ですから」
「なるほど」
「問題は設備か」
サカキが言った。
中央安定器の周囲には、旧設備にはなかった機器がいくつも増えていた。
「だめだ、どこまで戻るかわかんないな」
工場長が聞いた。
「それは、今の製造設備が使えなくなるということですか」
「可能性は高いです」
ニムラが答えた。
工場長の顔が硬くなった。
「止めれば、人に危険が出るかもしれない。止めなければ、工場を失うかもしれない」
誰も答えなかった。
「それを、私に決めろということですか」
「いえ」
ニムラは工程表を見た。
「通常の手順で、今から工場を安全停止した場合は?」
設備主任がすぐに答える。
「四十分ほどです。危険はありませんが、製造中の分が失われてしまいます」
サカキが巡回記録を開いた。
「今までの間隔なら、四十分は取れるな」
「まあ、そうだな」
「親機が今までどおりに動けば」
ニムラは少し考えた。
「今から安全停止に入ってください」
工場長はもう一度、製造区画を見た。
「製造中の分が失われます」
「設備と人員は残せます」
短い沈黙のあと、工場長は頷いた。
「安全停止を開始してください」
表示板が切り替わった。
工場の駆動音が、わずかに変わる。
ニムラが設備主任へ聞く。
「親機はここから止められそうですか」
「できません。操作するなら旧中央供給所です」
サカキが区画図を開く。
「ここからならすぐだ」
ニムラは工場長へ向き直った。
「安全停止を継続してください。こちらにも連絡を」
「分かりました」
ニムラは二人に言った。
「停止完了を確認したら、親機を止める」
「了解」
三人は中央制御室を出た。
旧中央供給所は、取り壊された敷地の中央に残っていた。
現地の作業は中断され、作業員もすでに外へ出ている。
三人は制御室へ向かった。
通信越しに作業員が言った。
『こちらの作業は止めています。親機の処理はそのままです』
古い操作盤には、《最終安全確認》の表示が点いている。
ニムラが状態を開いた。
《確認待機中》
サカキがこれまでの巡回記録を見る。
「今までどおりなら、あと一時間くらいか」
イチノセは工場から送られてくる数値を追っていた。
「工場側も予定どおりです。停止まで、あと二十五分」
「間に合うな」
ニムラは停止画面を開く。
《最終安全確認を中断》
承認欄は、まだ使える。
「準備だけしておく」
「了解」
三人は、工場の停止を待った。
五分ほど経ったところで、親機の内部で何かが切り替わる。
サカキが顔を上げた。
操作盤の表示が変わった。
《確認待機中》
その文字が消える。
《最終安全確認を開始します》
「は?」
サカキが巡回記録を見る。
「早いぞ」
ニムラも時刻を見る。
「今までの最短より、四十分以上早い」
ニムラはすぐ工場へ通信をつないだ。
「停止完了は」
『あと二十分は必要です』
親機の表示が切り替わる。
《子設備構成照合中》
ニムラは停止画面を見る。
承認欄はまだ開いている。
《介入受付 残り16分》
すぐに設備主任から連絡があった。
『あと十九分です』
三分足りない。