振替休日だった。
ニムラは昼を過ぎても、しばらくベッドの上にいた。
眠っているわけではない。
端末を眺めたり、冷蔵庫を開けたり、また端末を眺めたりしていた。
もう一度開けた。
やはり何もなかった。
「……何食べよう」
家を出たのは、それからさらに一時間ほど経ってからだった。
駅前の商店には、先日の騒ぎを受けて新しい商品が並んでいた。
『勇者弁当』
金色の文字の下に、剣を掲げたニムラらしき人物が描かれている。
本人とはあまり似ていなかった。
ニムラは隣に置かれていた普通の弁当を取った。
帰り道、ニムラが持つ袋には勇者弁当が入っていた。
勇者弁当には飲み物が付いていた。
弁当を食べたら寝よう。
いや、弁当の前に風呂は入るか。
それくらいのことをぼんやり考えていた。
ふと足を止める。
数歩先の何もない空間が、僅かに揺れていた。
熱気とは違う。薄い膜のように、景色だけが歪んでいる。
ニムラは袋を持ったまま、少しだけ重心を落とした。
「……なんだ?」
歪みの中心に、黒い靄が生まれた。
煙のように広がりながら、しかし風には流されない。
その奥から声が響く。
「クハハハハハ!」
ニムラは黙って見ていた。
「勇者ニムラよ!」
黒い靄が渦を巻く。
「貴様、我を倒そうというのか?」
ニムラは周囲を確認した。
通行人はいない。
逃げ道はある。
袋の中の弁当が傾かないよう、持ち手を少し直す。
「……誰だ」
靄が一気に晴れた。
中から男が現れる。
黒い外套に、異様に尖った肩飾り。額からは見覚えのない大きな角が二本伸びている。
背後では黒い炎が幻影のように揺らめいていた。
「我は魔王ノア!」
ノアは両腕を広げる。
「世界を滅ぼす研究者なり!」
ニムラはその姿を見つめた。
顔には見覚えがある。事件現場にいた正体不明の男だ。
「魔王ノア」という名称は、後から本部より共有されていた。
ただし、こんな格好をしているとは聞いていない。
ニムラは袋を左手へ持ち替え、右手で端末を取り出した。
「以前は、正体を隠していたということですか?」
ノアが、ほんの少し固まる。
ニムラは本部への緊急連絡画面を開いた。
現在位置。
魔王ノアと接触。
必要事項だけを入力していく。
「答えられないなら、別にいいですが」
送信ボタンへ指を置く。
押した。
その瞬間、ノアが動いた。
「すぱーーーーーんっ!!」
ノアが空中で指を横へ振る。
何かを切り裂いたような音がした。
ニムラは端末を見る。
『送信できませんでした』
もう一度押す。
「すぱーーーーーんっ!!」
『送信できませんでした』
ニムラは顔を上げた。
ノアは片手を前に突き出したまま、得意げに立っている。
「貴様の通信経路は遮断されている……」
「通信妨害を確認しました。目的は」
ノアは目を瞑った。
「……勇者と魔王だ」
目を開けた。
「一度、相対せねばと思ってな」
ニムラは数秒、ノアを見つめた。
「周囲に危害を加える予定は」
「ない」
「施設への攻撃など」
「そんなことはしない」
「……そうか」
また沈黙が落ちる。
二人とも動かない。
風だけが通り過ぎる。
「……挨拶、か?」
「そうだ」
ノアは頷いた。
「よろしく」
「……ニムラです」
「…………」
「…………」
「……ちょっと違うな」
「はい?」
「雰囲気がない」
ノアが中指をこめかみに当てようとして、角に当たる。
「魔王と勇者の初対面としては、もう少し何かあると思っていた」
何度か試して、角を取る。
「用意してくる」
ノアは一つ頷く。
「では、また」
黒い靄がゆっくり広がる。
外套も、黒い炎も、その中へ溶けていく。
最後に声だけが残った。
「次はもっとちゃんとする」
「……」
靄は静かに消えた。
住宅街には、夕方の風だけが吹いていた。
ニムラはしばらくその場を見つめていた。
やがて端末へ目を戻し、送信ボタンを押す。
今度は、すぐに送信完了の表示が出た。
---
**件名:緊急報告**
> 振替休日中、魔王ノアと接触。
>
> 通信妨害を受け、一時的に本部との連絡不能。
>
> 相手は自らを「魔王ノア」と名乗った。
>
> 周囲への危害および施設への攻撃意思は否定。
>
> 挨拶を目的として接触したと推定。
>
> 接触終了後、通信は復旧。
マミヤから返信が届く。
> **「挨拶?」**
◇
「挨拶」
「はい」
魔力管理局本部。
マイタニは報告書を読み、口元を緩めた。
「でかしたぞ、ニムラ」
カテキが視線を上げる。
「本人は、特に何もしていませんが」
「知ってます」
マイタニは報告書を眺めながら言う。
「国家からの接触には応じない」
「はい。現在まで、こちらから用意した通信経路に反応はありません」
「追跡もできない。観測設備にも掛からない。しかし個人には会いに来る」
マイタニは椅子へ背を預けた。
「僥倖だ」
報告書の下部には、対象が一方的に会話を終え、そのまま消失したと記されている。
「再接触の可能性は不明ですが」
「その通りです」
マイタニは報告書を閉じた。
「しかし、依然としてこちらで研究内容を把握できる状態にする必要はあります」
「捕縛計画を進めますか?」
「まだ計画には組み込みません。一度来たというだけです」
「では監視を強化しますか?」
「ええ、目立たない範囲で、ニムラにつけましょうか」
「気づかれるのでは」
「恐らく。一定時間ずつ監視を外す。常時監視だと思わせない。ニムラにも次に接触があった場合は会話を継続するよう伝えてください」
「拘束は」
「させません。逃走経路も能力の上限も分からない相手に、現場の三人だけで手を出させてどうするんですか」
「では、観測のみ」
「はい。ただし、質問事項はこちらで用意します」
カテキが端末へ入力する。
「目的。行動範囲。魔物との関係。中央安全系統の設備へ現れた理由」
「勇者については」
マイタニは少し考えた。
「入れておいてください」
「重要ですか」
「国家には来なかった男が、ニムラには会いに来た」
マイタニは指先で机を一度叩いた。
「理由が勇者なら、使える」