――かつて。
研究所最奥。
山積みにされた紙束。
空の瓶の中では火花だけが輪を描いている。
壁際の古い観測端末には、途中で止まった数値が残っていた。
実験器具の下では、円形の魔物が身体を縮め、淡い光を明滅させていた。
その部屋で、老魔術師アルベルトは机に向かっていた。中指でこめかみをトントンと叩きながら、羽ペンを走らせている。
「んー、違うな。指向性の問題かな……いや、そもそも術式の伝導率が……」
その背後、部屋の窓ガラスが、わずかに陽炎のように歪んだ。気配を殺し、姿を消す魔法を維持したまま、若いノアが音もなく侵入する。
物陰に身を潜め、アルベルトの手元と部屋の様子を窺う。いつでも魔法を放てるよう、片手をわずかに上げていた。
しかし、アルベルトは手元のノートから目を離さないまま、唐突にペンを止めた。
「そこ、危ないよ。床が抜けちゃう。気をつけてね」
ゆっくりとアルベルトの視線は、正確にノアの潜んでいる空間へ向けられていく。
ノアは息を呑み、魔法を解除する。陽炎が消え、姿が露わになった。
「ご、ごめんなさい! 驚かせるつもりじゃなくて……あの、その、俺、ここで助手になりたくて!」
アルベルトは目を細めた。
「助手志望は、みんな姿を消して窓から入ってくるものなのかな」
ノアの背中に冷たい汗が伝った。
しかし、アルベルトはすぐに気のない声を出す。
「ま、いいか。人手は欲しかったもんな。助手になれるかは知らないけど、そこらへんを片付けてくれたら助かるよ」
それだけ言うと、アルベルトは手元のノートへ視線を戻した。
ノアはその場に立ったまま、しばらく動けなかった。
追い出されない。
拘束もされない。
何者なのかを問われもしない。
まず《第19号》の資料を見つける。
アルベルトを殺すのは、それからでいい。
ここに居座れるなら、それだけで成功だった。
「そこらへんって、どこですか」
「そこらへん」
アルベルトは顔を上げなかった。代わりに、ノアの目の前に広がる床の埃がふわりと揺れた。
紙束は机の脇だけでなく、棚の前にも、実験器具の隙間にも積まれている。何枚かは床に散らばり、その上を円形の魔物が這った跡らしい淡い光が残っていた。
壁際には、同じ印を焼き付けた木箱が積まれていた。
食料。医薬品。術式部品。報告用紙。
どれにも国家の印がある。いちばん端に置かれた小さな箱だけは空で、蓋の留め具に《成果回収用》と刻まれていた。
箱の一つには新しい泥がついている。届けられてから、そう日は経っていないらしい。
面倒ではある。だが、まあいい。
足元の紙を、魔法で手元へ引き寄せる。
「これは、どこに置けば」
「完成、再検証、棄却、保留。とりあえず四つに分けて」
「どうやって分けるんですか」
「読んで分けて、分からなかったら聞いてくれたらいい」
ノアは紙面へ目を落とした。
数行読んで、すぐに顔を上げる。
「分かんないです」
「どこが?」
「全部です」
アルベルトの手が止まった。
ようやくこちらを見るかと思ったが、また羽ペンを動かし始める。
「じゃあ、何となくでいいよ」
「何となくで分けていいんですか」
「助手だったら、いずれ分かるようになってね」
紙を拾い、表題と冒頭だけに目を通していく。
書かれている内容は、ほとんど理解できない。
術式の接続順序。
干渉値の変化。
観測不能領域についての仮説。
見たことのない記号と、途中で途切れた計算。
一枚ごとにアルベルトへ聞くわけにもいかず、ノアは既にある四つの山の紙束を手に取った。
数枚目を置いたところで、ふと気づく。
完成らしい資料の隅には、崩したAとBを重ねたような印があった。
別の紙には、同じ印の上から乱雑に斜線が引かれている。
ノアは手元の紙と、四つの山を見比べた。
「これ、印があるじゃないですか」
「印?」
「端に書いてあるやつです」
「ああ」
それだけだった。
ノアは紙を拾い直す。
印のあるものは完成。
印に斜線が引かれているものは棄却。
何も書かれていないものは再検証。
Aだけが書かれているものは――
「これは?」
ノアが紙を掲げる。
「保留」
「何でAだけなんですか」
「完成するかもしれないから」
「再検証と同じじゃないんですか」
「検証もできてない」
「でも棄却でもない」
「うん、だから保留」
アルベルトは当然のように言った。
ノアは紙へ目を戻した。書かれている数式はやはり分からない。
分類の仕方を覚えてしまえば、作業は早かった。
内容は理解できなくても、印だけなら見分けられる。
床に散らばった資料を拾い、四つの山へ分けていく。
やがて、保留の山だけが目に見えて高くなった。
完成よりも多い。
再検証よりも、棄却よりも多い。
紙束の下から、黄ばんだ一枚が滑り落ちる。
他の資料とは違う。
古新聞だった。
大きな見出しが、紙面の上部に残っている。
《魔王アルベルト、重力干渉の実用化へ》
若い頃のアルベルトらしい男の写真が添えられていた。
本文には、電磁気現象の一種として扱われていた魔力による重力干渉が、実用化へ近づいたとある。
魔力研究を独立した一分野へ押し上げるとの期待。
輸送、建築、医療をはじめ、多くの分野を変える可能性。
どれも賞賛に満ちた言葉で書かれていた。
ノアは新聞と、机に向かう老人を見比べる。
アルベルトは変わらず、何かを書き続けていた。
完成でもない。
再検証でもない。
棄却でも、保留でもない。
ノアは少し迷ってから、四つの山の隣へ新聞を置いた。
新しい山を作る。古い記事、メモ用紙、丸まった紙、迷った時は全てそこに置いた。
「それ、何の山?」
いつの間にか、アルベルトがこちらを見ていた。
「その他です」
「その他」
「はい」
アルベルトは古新聞へ目をやり、ほんの少しだけ目を細めた。
「なるほど、その他」
それ以上は何も言わず、またノートへ戻った。
保留の山を一瞥したあと、ノアは再び資料を拾い始めた。
背後では、アルベルトが相変わらず机に向かっている。
「違うな……そこじゃない」
紙へ何かを書き込み、手をかざして、首を振る。
「流れるのに、繋がらない……」
アルベルトは中指でこめかみを二度叩いた。
「んー……」
ノアは手を止めた。
「……詰まってる」
「うん?」
アルベルトが振り向く。
「あ、いえ」
「分かるの?」
「その……」
アルベルトは立ち上がると、机の脇に置かれた試作品へ歩み寄った。
魔力を流す。
ノアの視線は、無意識にその流れを追っていた。
途中で、細い糸のように揺れて見える箇所がある。
「あ」
アルベルトは手を止め、振り返った。
「ふーん」
もう一度だけ魔力を流す。
「ちなみに、何が詰まってたの」
ノアは少し迷ってから口を開く。
「そこです」
指差したのは、術式の中央より少し手前だった。
「そこから先に流れようとしてるのに、広がれなくて……押し合ってる、みたいな」
アルベルトは何も言わず、机へ戻る。
紙へ数式を書き直し、途中を一本消した。
もう一度流す。
今度は最後まで淀みなく光が走った。
「なるほど」
小さく呟く。
それからノアを見る。
「二階なら部屋が空いてるよ」
「えっと……」
「使ってくれてもいい」
「あ、はい」
アルベルトは羽ペンを取り直し、何でもないことのように言った。
「君もその他だ」