イチノセが箸を取った時、隣の席のトレーが動いた。
丼とコップを載せたまま机の端へ滑り、そのまま浮き上がる。
持ち主の男は、箸を持ったままトレーを見送っていた。
「判定ミスを確認……っと。返ってくるかな」
イチノセも少し見上げた。
トレーの下には、返却口へ続く光の矢印が伸びている。食器を自動で運ぶ、施設の搬送術式だ。
ところがトレーは返却口へ行かず、客席の上で止まった。
矢印だけが先へ進み、返却口の手前で折り返してくる。
「……あれ?」
離れた席からも皿が浮いた。続いてコップ、その隣では食べかけの料理ごとトレーが持ち上がった。
「待って、まだ食べてるよ~」
女が両手で押さえると、矢印は別の空いた皿へ伸びた。
天井近くには、もう十枚以上の食器が並んでいる。
《別の道を探しています》
《少しお待ちください》
表示が消えたかと思うと、別の場所に同じ文字が現れた。
イチノセは箸を置いた。
術式異常だ……多分。
まだ怪我人はいない。だが、頭上を見上げていた客が何人か立ち始めている。
えっと、まずは連絡だ。
装備鞄から端末を取り出した。
『はーい。どうしたの、イチノセちゃん』
「中央商業棟のフードコートです。食器が上空に滞留しています。今のところ負傷者はいません」
『術式異常かな?』
「まだわかりません。食器は増え続けています」
『わかった。施設とニムラくんたちには、こっちから連絡するね。イチノセちゃんは避難誘導をお願い。責任はこっちで持つから、安全優先でお願いね』
「はい!」
イチノセは喉元に指を当て、声を通す魔法をかけた。
「皆さん、食器には触らないでください! 手に持っているものは席へ置いて、そのまま出口へお願いします!」
「まだ一口も食べてないんだけど!」
「すみません。危険ですので、こちらへお願いします!」
客の流れを出口へ向けながら、頭上を確かめる。
食器は止まっているが、その間を走る矢印は増えていた。
返却口には、トレーを抱えた客が集まり始めている。
「返却しなくて大丈夫です! 食器はそこへ置いてください!」
イチノセは返却口の前へ回り、折り畳み式の簡易規制具を広げた。
最後の客を出口へ送り、振り返る。
椅子の間にも、人の姿はなくなっていた。
「よし、後は……」
その声に重なるように、入口から呼ばれた。
「イチノセ」
ニムラとサカキが入ってきた。
二人の顔を見て、肩の力が少し抜けた。
「避難は終わってます。返却口も規制しました」
ニムラは出口と規制具を順に見た。
「よくやった」
「はい!」
「こりゃすげえな。皿が踊ってる」
サカキが頭上を見ながら身を乗り出す。
「ああ、まだ近づくなよ」
「僕、近づいてませんよ」とイチノセが先に反応した。
ニムラが一拍置いて返事をする。
「ああ、ならいい」
施設職員が端末を持って駆け寄ってきた。
「制御部につながっています。全系統を止めるところです」
「お願いします」
頭上の矢印が一斉に薄れた。
食器が少し下がり、何枚かが触れ合って鳴る。
「お、戻るかな」
サカキが言った時、消えかけた線が返却口の上へ集まった。
短い線同士がつながり、小さな輪を作る。
そこから伸びた一本が、皿の下へ届いた。
《別の道を探しています》
光は枝分かれし、周囲の食器へ広がっていった。
「起動し直しましたか?」とニムラが聞いた。
『いえ。表示上は停止しています』
「あー、魔物化してんな」
ニムラが返却口を見る。
「あの奥は?」
「洗い場です。搬送経路が直接つながっています」
「返却口使えるか見てくるわ」とサカキが言った。
「頼む。イチノセは、机の上に残ってる食器を下げろ。これ以上持っていかせるな。俺は制御部を見る」
「わかりました」
サカキが洗い場へ入り、ニムラは職員に案内されてフードコートを出た。
イチノセは空の回収箱を引き寄せ、机の上の食器を集め始めた。
◇
『奥でトレーが詰まってるね。重なって動かなくなってる』
『外せそうか』
『こっちからやってみる。ちょっとかかるかな』
通信を聞きながら、イチノセは最後のコップを箱へ下ろした。
「客席の食器は下げ終わりました。浮いている分だけ残ってます」
『了解。誘導具で一か所へ寄せろ。返却口へはまだ流さなくていい』
「はい」
簡易誘導具の先から光を伸ばす。
客席の上に散らばっていた食器を、返却口から少し離れた場所へ寄せた。光の中で皿がゆっくり回り、コップの隣で止まる。
『経路は一本ずつ切れる。返却が完了すれば、対象と関連経路の登録も解除できるそうだ』
ニムラの声が聞こえた。
『サカキが詰まりを外したら、使う経路を一本にする。イチノセはそれまで保持してくれ』
「了解です」
『あいよ。……イチノセ、手前にも何か引っ掛かってない?』
イチノセは光を食器へ当てたまま、返却口へ目を向けた。
返却台の少し上に、トレーが二枚、斜めに重なっている。その後ろでは、皿とコップが列になって止まっていた。
「手前にトレーが二枚あります。そこで止まってますね」
『そっちもか。こっちからじゃ見えねえな』
「先にどかしましょうか?」
『お、いける?』
「やってみます」
『イチノセ、魔物の方はどうなってる』
ニムラに聞かれ、まとめた食器を見上げた。
皿もコップも、光の中の同じ場所に留まっている。
「今は安定してます。大丈夫です」
『分かった。無理はするな』
「はい」
イチノセは誘導具の先を、上側のトレーへ向けた。
トレーの縁が持ち上がる。
その横で、まとめていた皿が一枚、元の経路へ戻り始めた。
「あっ」
すぐに光を戻す。
皿が止まり、傾いていたトレーも元の位置へ戻った。
『大丈夫かー? 落とした?』
「落としてませんよ」
『お。そりゃ失礼』
光を食器へ当てたまま、返却台へ近づいた。
空いた手をトレーへ伸ばす。
縁を押すと、二枚の重なりがずれた。
もう少し押す。トレーの片側が経路の外へ出たところで掴み、手前へ引き抜いた。
空いた隙間を、後ろのコップが一つ通り抜けていく。
「一枚、動きました!」
『おお、こっちも流れた。助かった』
洗い場から食器の触れ合う音がした。
イチノセは手元のトレーを返却台の脇へ下ろし、誘導具の先を確かめた。
まとめた食器は、まだ同じ場所にある。
空いた手を一度開き、また握った。
「はい」
返却口の奥で、何かをずらす音がした。
引っ掛かっていたコップがもう一つ、残るトレーの脇を抜けた。
『うん、こっちは手が入るようになった。イチノセ、もう一枚も頼める?』
「待ってくださいね」
『急がなくていい』
ニムラが口を挟んだ。
『ああ、うん。無理すんなよ』とサカキも続ける。
イチノセは残ったトレーを見た。
一枚目のように、縁を押せば外へずらせそうだった。
誘導具を向けている食器にも、動きはない。
「いけます!」
制御部のニムラは、設備図を確かめた。
返却口の手前で、食器の位置を示す点がいくつか動いている。サカキの報告した通りだった。
一枚は、本人が言い出して動かしている。考えなしに言っているわけでもない。
……ここは本人の判断に任せるべきか。
「分かった」
イチノセはトレーの縁に手をかけた。
二枚目は、押してもすぐには動かなかった。少し持ち上げると、奥へ傾く。
食器へ向けた光はそのままに、縁を引き寄せた。
引っ掛かりが外れ、手が急に軽くなる。
トレーの下を通っていた矢印が、奥までつながった。
『おお、いっぱい来たな』
止まっていた皿とコップが、返却口へ流れていく。
イチノセは顔を上げた。
「はい、こっちも――」
カン、と皿が鳴った。
まとめていた食器が、返却口の方へ動いている。
光は当たっていた。
「え」
先頭の皿へ、誘導具の先を向け直す。
皿の動きが鈍った。その脇からコップが抜け、後ろの皿も続く。
イチノセは光を振り戻した。
今度は最初の皿が動き出していた。
「ちょっと、待っ――」
『イチノセ、離れろ!』
呼ばれて、足が動いた。
一歩下がると、頭上を皿が続けて通った。光が揺れ、食器同士が触れ合う音が重なった。
制御部のニムラが、表示を指した。
「この経路を切ってください!」
職員が操作する。
返却口へ続く矢印が一本消え、食器が大きく揺れて止まった。
『イチノセ、今は上の食器だけに集中しろ』
イチノセは止まった皿を見上げていた。
反射的に言い訳しそうになったが、やめた。
「……はい」
『サカキ、奥は一人で外せるか』
『ああ。悪い、こっちばっか見てた』
イチノセは手元を見た。
まだトレーを持っていた。
それを足元へ置き、誘導具を握り直した。
散った食器へ、もう一度光を当てる。
皿を寄せ、離れたコップを戻す。すべてが光の中へ収まってから、イチノセは息を吐いた。
「保持、できました」
『了解。そのまま頼む』
返却口の奥で、硬いものが外れる音がした。
『外れた。こっち、もう通せるよ』
『正規の経路だけ残してください。……イチノセ、一枚ずつ流せ』
「はい」
絡んでいた矢印が消え、洗い場へ続く一本が残った。
イチノセは先頭の皿を経路へ入れた。
返却口に吸い込まれたのを見届け、次のコップを送る。
『来てる来てる。そのまま』
食器の数が減っていく。
最後に、外しておいた二枚のトレーも一枚ずつ経路へ戻した。
「全部入りました」
『洗い場も受け取り完了』
『返却完了の処理を。関連経路の登録も解除してください』
矢印が端から薄れた。
残った一本が客席へ伸びかけ、先端を二つに分ける。
イチノセは誘導具を下ろさずに見ていた。
どちらの先端もそれ以上は伸びず、やがて消えた。
『新しい経路は出ていません』
『洗い場も異常なし』
『処理完了。閉鎖はそのまま。客の荷物と食器を分けておいてくれ。俺も戻る』
「了解です」
イチノセは腕を下ろした。
誘導具をしまおうとして、まだ強く握っていることに気づく。
指を一本ずつ緩め、鞄へ戻した。
◇
サカキが洗い場から戻ってきた時、イチノセは机に残った荷物を一か所へ集めていた。
「お疲れ」
「お疲れさまです」
サカキは床の回収箱を覗き、近くにあった別の箱も寄せた。
「これにまとめりゃいいか」
「はい。食器はそっちです」
二人で箱を詰め直しているうちに、ニムラも戻ってきた。
施設職員と入口の封鎖を確かめ、それからいっぱいになった箱を見る。
「イチノセ、それ洗い場まで頼んだ」
「はい」
イチノセは両側の持ち手を掴んだ。
持ち上げると、奥へ重ねた皿の方に箱が傾いた。
指へ重さがかかる。
ニムラがイチノセの方を向く。
「イチノセ、無理は――」
「……サカキさん」
サカキが顔を上げた。
「うん?」
「手伝ってください」
ニムラは口を閉じた。
サカキが一瞬黙り、それから笑った。
「おう。一緒に運ぼうか」
「何笑ってるんですか」
「ほら、こっち持つから。一回下ろして」
箱を床へ戻し、サカキが反対側にしゃがむ。
イチノセが持ち手を掴み直すのを待って、二人で持ち上げた。
今度は傾かなかった。
◇
「魔物の処理は完了しました。途中、手前の経路が開いて、保持していた食器まで流れたため、一度遮断して分担を戻しました」
詰所へ戻ると、ニムラがマミヤへ報告した。
「あらま、怪我は?」
「ありません」
「魔物……てことは、自己保存まで始まってたの?」
「はい。搬送経路を再生成していました」
「ひゃー、大変だ」
「ただ、発生元の設備からは独立していませんでした。返却完了と登録の解除で、再生成も止まっています」
「そっか。安定化前だったのかな。発生原因は?」
「確認できていません。現場は封鎖を続けています」
「じゃあまた出てくるかもね。設備の確認は保全部へ回しとく」
マミヤが記録を送ってから、イチノセを見た。
「イチノセちゃんもお疲れさま。最初の避難、全部やってくれたんだね」
「はい」
「助かったよ。じゃ、ニムラくんは報告書ね」
「はい、失礼します」
「はーい、お疲れさま」
三人で部屋を出ると、ニムラが自動販売機の前で足を止めた。
「イチノセ、何飲む」
「え、いいんですか?」
サカキが先に硬貨を入れた。
「コーヒーでいいか?」
「はい。ありがとうございます」
ボタンが押され、紙コップが落ちる音がした。
イチノセはそれを見ながら口を開いた。
「あの、さっきはすみませんでした。自分でいけるって言ったのに」
ニムラはイチノセを見た。
「いいよいいよ、別に。こっちも、任せる前にもう少し聞けばよかった」
サカキが取り出したコップを差し出す。
「また頼むから、そんときゃよろしく」
「……あ、ありがとうございます!」
イチノセは両手で受け取った。
ニムラが硬貨を出しかけると、サカキはもう一枚入れた。
「茶でいいか」
「俺はいいですよ。別に」
「あ、そう? はい、茶」
サカキは構わずボタンを押し、出てきた紙コップを差し出した。
ニムラはコップを見て、それからイチノセへ目をやった。
「……あ、ありがとうございます!」
両手をそろえて受け取る。
サカキが吹き出した。
「……真似しないでくださいよ」
ニムラは紙コップに指を添え、魔法で冷ました。