ノアは机の上の術式を止めた。
指定した位置へ戻るどころか、途中から補正がずれていた。
少し離れた机では、アルベルトが別の資料を広げていた。傍らには小さな実験個体と、組みかけの術式が置かれていた。
「安全制御と何が違う?」
アルベルトは資料を見たまま答えた。
「原理的には同じだけどね。自己保存の問題もあるし、前にできた安全制御みたいに単純にはいかないと思うよ」
「自己保存?」
「自己調整が、自分の循環まで維持対象にしたのが魔物でしょ。それのこと」
「……名前あったのか」
「ううん、今決めた。指向性って、自己保存とぶつかることもあるからね」
「黙れ」
ノアは条件を変え、術式を組み直した。
途中まで進んだ補正が、また別の方向へずれた。
「その補正だと――」
「うるさい」
ノアは術式を見たまま、一部を書き換えた。
「……こっちならどうだ?」
「いやあ、これは無理があるんじゃないかな。君は理論はまだまだだねえ」
「……」
ノアはアルベルトを睨み、自分の机へ向き直った。
この研究が終わったら殺す相手だ。今はまだいい。
新しい条件を書き込み、また術式を動かした。
しばらくして、アルベルトの机で実験が始まった。
ノアは自分の術式を調整しながら、そちらへ目を向けた。
「おい、混ざってる」
「どこ?」
「Dの三」
アルベルトが資料へ目を落とした。
「ああ、ここか」
ノアは自分の実験へ戻った。
また条件を変え、動かしては止め、書き直した。
アルベルトも試作を調整していた。
「多層式はどうなった」
「ああ、多分もうすぐ完成するよ」
「見せろ」
ノアは席を立ち、アルベルトの机へ行った。
机の上には実験個体と、その横に組まれた試作があった。
「へえ」
「あとはここ」
アルベルトが一箇所を指した。
ノアは試作を見た。
複数の流れが、それぞれ別の層を通っていた。交わらないまま進んでいたものが、途中の一箇所だけわずかに寄っていた。
「ここ、ずれてる」
「さっきのところ?」
「違う。その一個下」
アルベルトが書き込みを直し、もう一度動かした。
ノアは内部を追った。
「……今度はいい」
「じゃあ、こっちはこれで」
アルベルトが資料へ書き込む。
その隅には、AとBを重ねた記章が入っていた。
ノアはそれを見てから、自分の机へ戻った。
指向性の術式を開き、さっき失敗した箇所を書き換えた。
少し離れたところで、アルベルトも多層式の続きを始めていた。
◇
捕縛作戦まで、あと数時間。
ノアは研究室で、連れていく魔物を一体ずつ確認していた。
足元の個体を見終えると横へやり、次を呼んだ。少し離れたところにも、大小の魔物が何体も待機していた。
何体か見たところで、机の端末を取った。
自分が提出した捕縛計画を開いた。
反転魔法。自己調整。封鎖。
画面を順に追っていった。
ノアの指が止まった。
「……あれ」
画面を少し戻した。
「そのままやられたらほんとに捕まっちゃうな」
ノアはしばらく画面を見ていた。
「ま、いいか」
ノアはまた近くの魔物を呼んだ。
「あ、魔物持ってくことは言っとかないと」
端末でニムラとのやり取りを開いた。
『上からの確認だ、今日は本当に来るのか?』
『うん、魔物いっぱい持ってくよ、暴れるから出さないでね』
送信した。
ノアはそのまま端末を置き、さっき呼んだ魔物へ向き直った。
その個体を確認していると、机の上で端末の画面が点いた。
『どういうことだ』
ノアは見なかった。
◇
各所から、配置完了の報告が順に入っていた。
『第二封鎖、配置完了』
『反転系統、待機』
『技術開発部、配置完了』
『救護、待機完了』
サカキは通信を聞きながら、手元の端末で各区画の状況を確認していた。
『第三区画、異常なし』
「了解、そのままで」
『搬入経路、閉鎖完了』
「そっちは技術側に回して」
『魔物討伐部、追加配置完了』
サカキは端末から目を上げた。
「もう少し早めに言ってくれよ、魔王様……」
別区画では、イチノセが担当区域を確認していた。
ニムラは、ノアが現れる予定地点の近くで待機していた。
予定時刻を少し過ぎた頃、空間が歪んだ。
黒い影が現れた。
その後ろから、大小さまざまな魔物が次々と姿を現した。地面を這うもの、浮かんでいるもの、その場に止まったまま周囲を見回すもの。
ノアが前へ出た。
「クハハハハハ! 我は魔王なり!」
ニムラは黙ってノアを見た。
通信が入った。
『対象確認』
続けて、別の声が入る。
『封鎖開始』
『反転系統、起動』
ノアの周囲を囲むように、用意されていた捕縛措置が順に立ち上がっていった。
ノアは周囲を見回し、連れてきた魔物たちへ向き直った。
《ここから出ろ》
魔物たちの内部で魔力が動いた。
次の瞬間、一斉に動き出した。
封鎖の外へ向かって、それぞれ別の方向へ散っていく。
サカキの通信に、立て続けに報告が入った。
『第二区画、対象群の移動を確認』
「そのまま追って」
『第一封鎖、接触します』
「了解。抜けた個体がいたらすぐ回して」
別の区画からも声が入る。
『こちら第四区画、三体来ます』
「討伐部、そっち回して。封鎖抜ける前に落として」
ノアは動き出した魔物たちを見た。
「実験開始だ」
ノアの声と同時に、近くにいた一体が動いた。
魔物の前方に炎が広がる。炎はそのまま封鎖へ向かい、触れる直前、別の魔法がぶつかった。広がっていた炎が押し返されるように消えた。
魔物はもう一度炎を放つ。封鎖側が反応し、また打ち消す。
「これが実験か?」
「まだまだ」
三度目の炎が消えた。
魔物の中で、魔力の流れが変わった。
ノアはそちらを見たまま言った。
「自分の力では出ることができない。命令も拒否できない。なら、外部から循環を取り込むしかないよね」
魔物がまた炎を使う。
反転魔法が返った。
「きた。あっち見な」
ニムラも魔物を見る。
外から見える姿はほとんど変わっていない。だがノアは、魔物と返された反転魔法の間を目で追っていた。
「……何をしてる?」
「取り込もうとしてる」
「反転魔法を?」
「うん」
返された反転魔法が魔物へ触れた。
直後、魔物の身体が大きく揺らいだ。
輪郭が崩れ、そのまま消えた。
「消えた……?」
「自分に適応する術式を取り込まないと駄目だからね。さあ、選べるかな」
魔物へ向かっていた反転魔法の一部が、その場に残った。
ニムラが目で追うより先に、ノアへ飛んだ。
ノアが片手を上げる。
その動きに合わせて、空中に巨大な手が形を取った。
飛んできた反転魔法を掴む。
握り潰すように指が閉じると、反転魔法は手の中で崩れ、消えた。
「なんだ、それ」
「かっこいいでしょ」
「……それも実験の一部か?」
「余ったらこっち来るようにしてる」
「なんでそんなこと」
「他の魔物が傷ついちゃうでしょ」
「……」
「近くにいたら危ないよ。全部こっち来るから」
「まあ、仕事だからな」
「そっか」
別の場所で、床に置かれていた資材が横へ滑った。水が走り、さらに向こうでは金属設備が音を立てる。
重力系の魔法を使う個体は内部で流れが変わり、一瞬だけ身体が歪み、そのまま消えた。
余った反転がノアへ飛び、巨大な手が握りつぶす。
ノアは次々と視線を移した。
他の区画でも、同じように個体が消え始めていた。
残った魔法へ職員が駆け寄る。
「残留確認。処理入ります」
その近くで別の魔物が予定位置から外れた。
サカキに通信が入る。
『第三区画、個体位置ずれ』
サカキは手元の表示を切り替えた。
「近いの一人回して。封鎖内から出なきゃ追わなくていい」
『了解』
すぐに別の通信が入った。
『設備側、残留反応』
「技術に回して」
◇
イチノセは担当区画の端末を見た。
表示されている個体位置と、実際の反応位置がわずかにずれていた。
『そっち、反応確認できますか』
「今見てます」
イチノセは端末と区画の奥を見比べた。
画面だけでは位置がはっきりしない。
「見てきます」
イチノセは端末を持ったまま、反応の出ている方へ向かった。
◇
電流が走り、反転魔法がぶつかった。
その間にも別の個体が魔法を放つ。
職員たちは残留魔法の処理や設備確認へ走り、各所から退避の指示が飛んだ。
『第四区画、設備異常――』
サカキの通信へ別の声が重なった。
『こちら個体消失、残留反応があります』
さらに別回線が入る。
『サカキさん、第五を先に――』
「第五から。第四は技術で持たせて」
『了解』
『第四、技術へ回します』
サカキは次の報告へ切り替えた。
通信は途切れなかった。
◇
ノアへ反転魔法が飛ぶ。
巨大な手が握りつぶした直後、続けてもう一つ飛んできた。
それも握りつぶす。
同時に四方向から反転が飛んだ。
巨大な手は間に合いそうにない。
ノアがそれを見た瞬間、前方に結界が出た。
「あっぶな」
結界が揺れ、勢いは弱まった。
ノアの身体が横へ流れ、数歩よろめいた。
「大丈夫か」
「ん? 平気平気」
ノアは服についた汚れを払い、もう次の魔物を見ていた。
◇
イチノセは端末に表示された位置まで来ると、足を止めた。
前方に一体の魔物がいた。
さらに離れたところにも、もう一体いた。
端末の表示と二体の位置を見比べた。
「こちらイチノセです。位置ずれ確認しました」
『どのくらい?』
「少しです。個体二体います。片方が――」
前方の魔物の周囲で空間が歪んだ。
直後、封鎖が反応した。
離れた場所でも空間が揺れた。
「……ん?」
端末から短いノイズが鳴った。
目の前の景色が横へずれた。