「……あれ?」
知らない場所に立っていた。
一瞬、成功したのかと思った。
「……いや、待って」
イチノセはすぐに術式を開いた。
「僕、まだ何も登録してないよな」
もう一度組む。
身体が少し浮いて、その場に落ちた。
「違う」
もう一度。
今度は何も起きない。
続けてもう一度試す。
少し横へずれた。
「……まずい」
イチノセは端末を開いた。
《通信接続不可》
位置情報も取れない。
「待って待って」
もう一度、術式を組む。
浮く。
落ちる。
「嘘でしょ」
そこでようやく顔を上げた。
高い岩壁に周囲を囲まれていた。
地面は何段にも分かれ、岩の間に道のようなものが続いている。ところどころに古い建物や設備も残っていた。
「……前のとこじゃない」
右足が痛む。見ると、擦り傷ができていた。
「どこだよ、ここ」
周囲には古い建物が並んでいた。
倉庫らしいもの、止まった搬送設備、壊れた通路。
物音がした。
振り向くと、何かがいた。
背中に籠のような部分がある。脚が何本も伸びていて、少し蟹に似ている。
「……魔物」
蟹が近づいてくる。
イチノセは端末を持ったまま少し下がった。
次の瞬間、手が軽くなった。
蟹はもう数歩先で、端末を抱えていた。
「あ、待て!」
蟹が走る。
「おい!」
イチノセも追った。
蟹は建物の間を抜け、開けた場所へ出た。
そこに、大きなものがいた。
低く、横に広い。
その周囲を薄い膜のようなものが覆っている。
蟹はその膜へ突っ込んだ。
弾かれる。
すぐに脚を伸ばして二度叩いた。
大きなものが、ゆっくり動いた。
膜の一部が消え、小さな魔物が通れる程度の穴が開いた。
蟹が中へ滑り込むとすぐに閉じた。
「……結界?」
イチノセは足を止めた。
大きなものが、また動く。
「いや、魔物だ!」
身構える。
結界の中では、蟹が走り回っていた。
蟹の周囲に新しい膜が生まれ、そのまま身体を囲んだ。
蟹は脚を伸ばし、身体を捻るが出られない。
さらに細い膜が伸びた。
蟹の身体をなぞる。
端末のところで止まった。
イチノセが一歩下がる。
大きな魔物がこちらを向いた。
足元から膜が立ち上がった。
「ちょ、待っ――」
身体が包まれる。
前も後ろも薄い膜だった。
押しても動かない。
別の膜が腕へ触れる。
肩。
胸。
足。
逃げようとしても、結界はびくともしなかった。
膜が消えると、イチノセはすぐに距離を取った。大きな魔物が動き、今度は外側の結界が人一人通れるほど開いた。
中では蟹がまだ拘束されている。
「……失礼しまあす!」
大きな魔物は動かない。
イチノセは結界の切れ目を見る。
少し迷ってから、足を踏み入れた。
振り返る。結界はもう閉じていた。
直後、蟹を囲んでいた膜が消えた。
蟹はすぐに走り出し、結界へ突っ込んだ。弾かれると、また脚を伸ばして叩く。
「それ、返して」
蟹が止まった。
イチノセを見て、端末を投げた。
慌てて受け取る。
画面を確認する。壊れてはいない。
右足に鋭い痛みが走った。
振り向くと、小さな丸い魔物が傷へ触れていた。
「なにすんだ」
足を引くと、丸い魔物もそのままついてきた。その後ろから、細長い四脚の魔物が近づき、丸い魔物の身体を引っ張る。
「何やってんだ……?」
二体を見ていると、ふと横に気配があった。
「うわ!」
横へ避ける。
隣に、別の魔物がいた。
そいつも同じように横へずれた。
イチノセが一歩戻る。
魔物も戻る。
「何」
白い霧のようなものが、魔物の前に集まった。
輪郭ができる。
目。
口。
イチノセの顔だった。
さっき驚いたままの顔で浮かんでいる。
「僕?」
白いイチノセが笑った。
イチノセの眉が寄る。
「真似すんなよ」
白いイチノセが笑いながら魔物と去っていった。
また足に痛みが走った。
「痛い!」
振り向く。
丸い魔物が傷へ触ろうとしている。
今度は四脚の魔物が、イチノセとの間へ身体を入れていた。
丸い魔物が隙間から帯を伸ばす。
傷へ液体が落ちた。
しみる。
イチノセは足を引きかけた。
止まる。
「……消毒か?」
丸い魔物はまた傷へ触れる。
四脚の魔物はその前にいる。
横を見ると、さっき顔を真似た魔物が戻っていた。
白い霧で、今度は訝しげなイチノセの顔を作っている。
その顔を浮かべたまま、二体の周りをぐるぐる回っていた。
イチノセはしばらく三体を見た。
「なんだよ、こいつら……」
◇
数日後。
イチノセは寝床にしている部屋を出た。
「ミセ行くか」
端末をポケットへ入れ、道へ出る。
少し歩いたところで、横から脚の多い魔物が寄ってきた。
イチノセは足元の金属片を拾うと、適当に遠くへ放った。
魔物はすぐにそちらへ走っていった。
こいつは何でも拾う。
見た目も蟹っぽいので、蟹と呼んでいる。
古い建物の前に、一体の魔物がいた。
イチノセは持っていた小さな部品を置く。
しばらくすると、保存食が出てきた。
イチノセはそれを取った。
何かを渡すと、食べ物や布、使えそうな物を返してくる。
なので、ミセ。
保存食を抱えて、その場を離れる。
ぽつ、と頬に水が落ちた。
「雨か」
すぐに雨脚が強くなった。
イチノセは方向を変えた。
開けた場所に、あの大きな魔物がいる。
周囲には薄い結界が張られていた。
イチノセは結界の前まで行き、拳で数回叩いた。
少しして、大きな身体がのっそり動く。
結界が人一人分だけ開いた。
「失礼しまあす!」
なんとなく毎回大きな声で言ってから中へ入っている。
背後で結界が閉じた。
結界を張る。
なので、ケッカイ。
ケッカイの中には何体か魔物がいた。
丸い魔物が近づいてきて、イチノセの右足へ一度だけ触れた。
もう傷は塞がっている。
こいつは治療をしてくれている、多分。
だから、チユ。
チユは足元を離れた。
近くには、細長い四脚の魔物もいる。
チユが触っている時、イチノセが動くと、だいたい前へ出てくる。
なので、マエ。
チユが少し離れた。
身体の内側から、小さな赤い板を取り出す。
表面を何度か触る。
マエが近づき、脚を伸ばした。
赤い板へ触れようとする。
チユがすっと離れた。
マエもついていく。
その時、結界の外で何かがぶつかった。
蟹だった。
ケッカイが少し動くと、小さな穴が開き、蟹が中へ入ってきた。
チユがすぐに赤い板を身体の内側へしまった。
マエが前へ出る。
蟹が止まり、少しだけ二体の方を見る。
やがて方向を変え、端に落ちていた小さな部品を拾った。
そのまま結界の出口へ向かっていく。
イチノセは壁際へ座り、保存食を開けた。外では雨が降り続いている。
中では、魔物たちがそれぞれ勝手に動いていた。
イチノセは一口食べる。
「あ、今日はおいしい」