「もう帰ろうよ」
男は、色の抜けた建物を見上げた。
窓はどれも暗く、いくつかは板で塞がれている。正面玄関の上には、かろうじて読める文字が残っていた。
――第七病棟。
「何よ、怖がってんの?」
女は楽しそうに振り返った。
「怖がってるんだよ。最初から言ってんでしょ!」
「まあまあ落ち着いて」
女は取り合わず、立入禁止の看板を横へ避けた。
その先には、腰ほどの高さの簡易柵が置かれている。
「ほら」
女は片足を掛け、軽々と向こう側へ越えた。
「ねえ、視線感じない?」
「ないない。置いてくよー」
「ちょっと待ってよ!」
男も慌てて柵を越えた。
二人が建物へ向かって歩き出す。
その後ろで、植え込みが小さく揺れた。
がさっ、と乾いた葉の擦れる音がした。
二人は気づかなかった。
◇
入口の扉は、少しだけ開いていた。
中へ入った女がスマートフォンの明かりを点ける。
細い光の先に、剥がれた壁紙と、埃を被った床が浮かび上がった。
廊下の両側には扉が並んでいる。
「うええ、クモの巣だ」
遅れて入った男が顔の前を手で払った。
女はスマートフォンを左右へ向けた。
「雰囲気はあるね」
「いらないって、雰囲気なんか」
自分たちの足音だけが、廊下の奥へ響いていく。
入口はまだ見えている。
「えっとね」
女はスマートフォンの画面を切り替えた。
「まずは処置室だ」
「何があるの」
「昔、ここで手術ミスがあってね。死んだ患者の霊が――」
「わあああ! やめて!」
男の声が廊下に響いた。
女が肩を揺らす。
「うふふふふふ」
「何笑ってんの!」
二人は廊下を進んだ。
壁に古い案内板が埋め込まれていた。
周囲の照明はすべて消えているのに、その画面だけが白く光っている。
「あれ?」
女が足を止めた。
「これは点いてるんだ」
男も隣から覗き込む。
画面には、黒い文字が表示されていた。
《こちらは廃病棟となっています》
《使用できません》
「写真撮っとく?」
女は横目で男を見た。
「お、乗り気になってきた?」
「違うって。こういうのは残しといた方がいいでしょ」
「はいはい」
男はスマートフォンを構えた。
撮影ボタンを押すと、小さな音が鳴った。
その瞬間、案内板の文字が消えた。
「え?」
しばらくして、別の文字がゆっくりと浮かび上がった。
《赤い扉には触れないでください。》
「……赤い扉?」
「そんなの言ってたっけ?」
「いや、聞いたことないけど……」
「これも撮っとくね」
表示がふっと消えた。
白かった画面は暗くなり、そこには二人の姿だけが薄く映っていた。
「撮れた?」
「うん」
「じゃあいいか」
女はそう言ったが、案内板からすぐには目を離さなかった。
「……いやー、うん。雰囲気出たね!」
女が、少しだけ声を張った。
男は案内板から目を離さずに聞く。
「大丈夫? 帰る?」
「あんたが帰りたいだけでしょー」
そう言って笑ったが、先ほどまでの楽しそうな調子ではなかった。
「そうだけどさ」
二人はまた歩き出す。
廊下の途中には、細い横道があった。
女が何となくスマートフォンを向けると、突き当たりに赤い扉があった。
暗い廊下の中で、そこだけがはっきりと赤い。
「うっそ」
女の足が止まった。
「え、本当に?」
見間違いではなかった。
赤く塗られた扉が、廊下の奥に立っている。
取っ手はない。
扉の周囲は、光を吸い込んだように黒い。
「……よし、行くよ」
「え、行くの?」
「大丈夫。近くで見るだけ」
「近づかなくても見えてるじゃん」
女は男の言葉を聞き流し、横道へ入った。
スマートフォンの明かりが、遠ざかっていく。
男はその場に残った。
女は振り返らない。
赤い扉へ、一歩ずつ近づいていく。
男も仕方なく一歩だけ横道へ入った。
女の後ろで何かが動いた。
「……え?」
スマートフォンの光の外。
赤い扉の手前に、誰かが立っている。
暗くて顔は見えない。
さっきまで、そこに人影は見えなかった。
人影が、一歩だけ女へ近づいた。
「うわああああ!」
「え、なに!?」
男は女の方へ駆け寄った。
すぐ横にあった手を掴む。
「だめ! だめ! 逃げよう! 本当のやつだ!」
「うお、ちょっと――」
返事を聞かずに走り出した。
握った手を強く引き、来た道を戻る。
靴音が廊下に響く。
すぐ後ろから、同じ速さでついてくる。
男は振り返らなかった。
曲がり角を二度抜けてから、ようやく足を止めた。
胸が痛い。息を吸っても、うまく入ってこない。
「どこだっけ、道……」
男は握った手を離さないまま、隣を見ようとした。
「ちょっとーーー! 待ってよーーーー!」
遠くから女の声がした。
「え?」
男は動きを止めた。
声は、自分たちが走ってきた廊下の奥から聞こえた。
「置いてかないでよー!」
女の声だった。
間違えるはずがない。
では、自分が握っている手は誰のものなのか。
男は隣を見られなかった。
どくん。
握った手は、女のものより大きかった。
どくん。
指も太い。
袖の感触も違う。
男は息を止めたまま、ゆっくりと顔を向けた。
暗くて、よく見えない。
隣には確かに誰かが立っている。
その人影が、空いている方の手を動かした。
かちっ、と小さな音がした。
下からライトが点いた。
「こら。入っちゃ駄目ですよ」
「うわああああああ!」
男は手を振りほどき、その場へ尻もちをついた。
遅れて追いついた女も、ライトに照らされた顔を見る。
作業着姿の男は、顔をしかめてから、手にしたライトを下へ向ける。
「そんなに驚かなくても、管理人です」
二人の悲鳴が収まるまで、管理人は楽しそうに眺めていた。
「駄目ですよー。ここ、立入禁止なんですから」
管理人は、ライトを持ち直した。
「は、はい……すみません……」
男が答えると、管理人は二人を順番に見た。
「えっと、もう一人は?」
「え?」
女が聞き返した。
「あれ。三人じゃ……」
「いえ。二人ですけど」
管理人が首を傾げる。
「ちょっと管理人さん! 怖がらせるのはもうやめてください!」
女が声を上げた。
管理人は一瞬黙った。
「……ははは。まあ、暗かったですからねえ」
男は、女の後ろを見た。
何もいない。
「じゃ、ついてきてください。外まで案内します」
管理人が先に歩き出す。
二人は顔を見合わせた。
「帰ろ」
「うん」
今度は女も反対しなかった。
一人大人が加わった。
それだけで同じ廊下が少し狭く、普通の場所に見えた。
管理人は迷う様子もなく、角を曲がる。
二人もその後に続いた。
古い病室や、外された手すりの跡の横を通り過ぎる。
女が、一枚の病室札へスマートフォンを向けた。
錆びた金具の下に、薄く数字が残っている。
――一〇八。
「一〇八?」
管理人が札をライトで照らし、しばらく見つめた。
「どうしたんですか?」
「いや……この番号は、改修した時に使わなくなったはず」
「……なんなんです」
「外し忘れかな」
女は病室札と管理人を、動画に収めた。
管理人が歩き出す。
もう一度、角を曲がった。
男が足を止める。
「あの」
管理人も止まった。
「はい?」
「ここ、さっきも来ませんでしたか?」
女が周囲を見る。
壁際に、ひびの入った小さな椅子が置かれていた。
「……これ、見たかも」
「ほら」
「うーん。いや」
管理人は椅子を見て、前方へライトを向けた。
「久々に入ったから、道を忘れかけて――」
角を曲がった。
管理人が止まった。
二人も、その背中へぶつかりそうになって足を止める。
目の前に、廊下を塞ぐように赤い扉が立っている。
女が管理人の横から覗き込む。
「あの、あれ、知ってます?」
管理人は答えなかった。
ライトを上から下へ動かし、赤い扉を照らす。
「管理人さん?」
「……ちょっとだけ、変ですね」
「ちょっとだけ?」
男の声が裏返った。
赤い扉の上で白い光が点いた。
小さな案内板だった。
白い画面に、黒い文字が浮かび上がった。
《管理人を信用するな》
女が乾いた声で笑った。
「ははは。もう、また私たちを怖がらせようとして」
「いえ」
女の笑いが止まる。
「本当に、私じゃありません」
管理人は案内板を見上げたまま首を振った。
「こんな表示は見たことが――」
後ろで、足音がした。
三人とも動きを止める。
こつ。
こつ。
一定の間隔で、こちらへ近づいてくる。
男は女の腕を掴んだ。
女も振りほどかなかった。
管理人が、手にしたライトをゆっくりと持ち上げる。
足音が止まった。
暗い廊下の奥から、声がした。
「こら。入っちゃ駄目ですよ」
管理人と、まったく同じ声だった。
三人は、静かに振り返った。
そして三人そろって絶叫した。
◇
休日の夜、ニムラは寝転がったまま端末を見ていた。
通知音が一度だけ鳴る。
«【第三特務処理班】
緊急出動要請。全班員、詰所へ集合。
詳細は班長端末へ送信する。»
「今から緊急……」
ニムラは身体を起こし、返信欄を開いた。
«了解、5分で出ます。»
すぐにイチノセから返信が来た。
«了解しました!»
その三十秒後。
«30秒後くらいに出れます!»
次に、サカキの既読表示が付く。
間をおいて、ひらがな一文字だけ届いた。
«あ»
ニムラは床に置いていた上着へ手を向け、魔法で手元へ引き寄せる。
上着に腕を通しながら、班長専用の通知を開いた。
指定地点は、郊外にある閉鎖済みの第七病棟。
内部に三名が孤立。通信は維持されているが、出口へ到達できない状態が続いている。
同一人物を複数確認したとの申告あり。
通報者から送信された写真と映像が、資料欄へ添付されていた。
「……廃病棟」
ニムラは端末をポケットへ入れ、靴を履いた。
◇
詰所の車庫に着くと、班の車両にはすでにエンジンがかかっていた。
運転席の窓を開けたサカキが、コーヒー片手にこちらを見る。
「おはよう、ニムラ」
「おやすみでは」
「任務開始だから、おはようだよ」
ニムラはポケットから端末を取り出し、画面を開いて差し出す。
「行き先と、今来てる情報です」
「ふうん。第七病棟ね」
その間に、車庫の入口から足音が近づいてきた。
イチノセが小走りで現れる。
「おはようございます! 遅れました!」
「早い方だ」
「あ、はい」
イチノセはサカキの持つ端末へ目を向けた。
画面を覗こうと身を乗り出しかける。
班長専用の表示に気づき、すぐに姿勢を戻した。
サカキは最後まで目を通してから、端末をニムラへ返す。
「廃病棟、同じ人間が二人。なあ、これってさ」
「幽霊ですね」
「……居ない派だからなあ、俺」
イチノセが口を挟んだ。
「僕も、あまり信じてません」
「じゃあ二対一だな」とサカキが笑う。
ニムラが車に乗り込んだ。
「いえ、この人達を含めたら二対四です」
「ほほう」
イチノセも後部座席へ乗り込む。
ニムラは端末を膝の上へ置いた。
「任務開始。サカキ、出せ」
「了解」
「イチノセは移動中に周辺経路と進入口を確認。建物の資料も送る」
「了解しました」
ニムラは通報者から送られた映像を開いた。
管理人のライトが、一枚の病室札を照らしている。
――一〇八。
「イチノセ。一〇八号室の位置も確認しておけ」
「はい」
イチノセが端末の表示を追う。
「あれ……」
「どうした」
「一〇八号室、載ってません」
「ない?」
「はい。映像だとこの辺りだと思うんですけど、図面では通路と倉庫です」
「……古い図面は」
「確認します。改修履歴もありますね」
「それも頼む」
ニムラは映像を先へ進めた。
画面の中央に、赤い扉が映る。
その上では、白く光る案内板に黒い文字が浮かび上がっていた。
《管理人を信用するな》
車両は暗い道を進み、第七病棟へ向かった。