スキル(笑)ってとんでもないね……~うちを笑った相手が死ぬんですが、これはうちのせい?~ 作:tuna&mayo
最初に必要だったのは、服だった。
凪沙は壁際に倒れていた使用人へ近づいた。
男で、自分より少し背が高い。呼吸はあるが意識はなく、見える範囲では外傷も少ない。
「……借ります」
返事はない。
上着だけ抜き取る。
血のついた制服の上から羽織ってみた。
裾は長い。
袖も余る。
制服は完全には隠れないが、一目で学生服と分かる状態よりはましだった。
次に隠すなら髪だ。
凪沙は肩より少し長い自分の髪へ触れた。
このままでも珍しくはないかもしれない。
ただ、顔は見られている。
召喚された十二人の一人。
王城にいた人間なら覚えている可能性がある。
「隠すか」
床に落ちていた布を拾う。
使用人が頭に巻いていたものらしい。
髪をまとめて布の中へ押し込み、額が隠れるように巻いた。
鏡はない。
金属製の盆が落ちていたので拾った。
歪んだ顔が映る。
「……怪しい」
血まみれよりはましだった。
左側の扉から聞こえる足音が近い。
凪沙は広間を見た。
アリシアはまだ、亡くなった王太子の傍にいる。
王城を出れば、追手からは離れられる。
床に残る死者という結果まで消えるわけではない。
凪沙は今すぐ扱えない事実として、それを覚えたまま出口を選んだ。
生き残ったクラスメイトたちは固まったまま。
例の男子だけが、こちらを見ていた。
「佐倉」
「ん?」
「本当に行くのかよ」
「行く」
「どこに?」
「知らない」
「知らないって……」
男子が頭を抱えた。
それから、凪沙の後ろを見る。
増援の声が聞こえた。
「……まあ、ここにはいられないか」
「たぶん」
「たぶんって」
凪沙は扉へ向かう。
「佐倉」
もう一度呼ばれた。
振り返る。
男子は何か言おうとしていた。
口が開く。
閉じる。
「……いや」
「そ」
凪沙は歩き出した。
今度は、自分の足だった。
王城の中は、広かった。
広いというより、同じような廊下が多い。
石壁。
赤い絨毯。
扉。
曲がる。
また扉。
「……どこ」
案内表示はない。
あったとしても読めない。
正面から複数の声がした。
「大広間だ! 急げ!」
凪沙は近くの扉を開ける。中は物置だった。
滑り込んで扉を閉めると、鎧の擦れる音を伴った足音が六人分、前を通過した。
遠ざかるまで待ってから扉を少し開ける。誰もいない。
「……もう何も出ないんだ」
視界に返事は出なかった。
《笑》は静かだった。
凪沙は廊下へ戻る。
曲がり角の向こうから、二人分の足音。
速い。
凪沙は一つ手前の扉へ入った。
数秒後、兵士二人が前を通り過ぎる。
その後も、足音と声を拾いながら人を避けた。
途中で見つけた窓から外を見る。城壁の向こうに街が広がっているが、ここからは高い。
「飛べるかな」
さっきは天井近くまで跳べた。
今は無理そうだった。
身体が重い。強化のない、自分本来の身体だ。
「そっか。終わったら戻るんだ」
窓から離れる。
階段を下りる。
厨房らしい場所へ出た。
人が多い。
凪沙は足を止める。
使用人たちが慌ただしく動いていた。
「大広間で襲撃だって!」
「王太子殿下が!」
「門を閉めるらしいぞ!」
まだ凪沙のことまでは伝わっていない。
少なくとも、ここでは。
凪沙は俯いて歩いた。
誰も止めない。
外へ出る扉。
荷車。
木箱。
食材。
凪沙はその間を抜ける途中、水の入った小さな革袋を見つけた。
少し考えて、持つ。
「……これも借りる」
喉はもう乾いていた。
近くには長い前掛けも掛かっていた。
それも腰へ巻く。
これで制服の下半分もだいぶ隠れた。
門は正面ではなく、荷物の搬入口らしい小さなものを使った。
兵士が二人。
凪沙は少し手前で止まった。
「城内封鎖だ。戻れ」
「……はい」
声を少し低くして引き返す。
ここは駄目だ。別の出口を探して建物の裏へ回り、城壁沿いを進むと、水路を塞ぐ鉄格子があった。
「これは?」
屈めば通れそうな大きさ。
格子には錠。
凪沙は格子を掴んで引く。
動かない。
「……無理か」
さっきまでなら壊せた気がする。
今の自分には無理だ。
凪沙は格子を押し、次に引いた。
錠そのものは動かない。
ただ、右下の留め具だけがわずかに浮く。
もう一度押す。
同じ場所が軋んだ。
周囲を見る。
壁際に細い鉄棒。
留め具と石壁の隙間へ差し込む。
一度目は滑った。
角度を変える。
押す。
金属が歪む感触。
もう一度。
留め具が外れ、格子の右側が少し開いた。
「……こっちか」
錠は閉じたままだった。
凪沙は身体を横にして隙間へ入る。
水路へ降りる。
臭い。
「うわ」
今日初めて、少しだけ顔をしかめた。
城下へ出た頃には、空が赤くなっていた。
夕方。
知らない街。
知らない文字。
知らない服。
それでも、人が暮らしていることだけは分かった。
店がある。
屋台がある。
荷車が通る。
子どもが走る。
誰かが値段を叫んでいる。
王城で何が起きたか、まだ街全体には届いていないらしい。
凪沙は人の流れに混じった。
歩く速度を合わせる。
目立たないようにする。
さっきまで人を殺していた手は、外套の袖の中に隠した。
血は洗えていない。
臭いも残っている。
何人かが振り返った。
「……やっぱ臭うか」
宿。
たぶん宿。
看板は読めない。
金はない。
食べ物。
金がない。
「困った」
口にしてみる。
それほど困った感じはしなかった。
とりあえず王城から離れる。
それだけ決める。
大通りは人が多い。
見つかった時、人が多い方が動きにくい。
凪沙は細い道へ入る。
さらに曲がる。
建物が古くなる。
石畳が欠けている。
臭いも変わった。
人はいる。
でも、大通りとは服が違う。
汚れている。
痩せている。
壁際に座っている者が多い。
「……スラム?」
言葉が合っているかは分からない。
でも、たぶん近い。
凪沙は歩く。
視線を感じる。
外套。
靴。
顔。
何を見られているのかは分からない。
角を曲がったところで、小さなものが動いた。
子どもだった。
壁際にうずくまっている。
年齢は、七つか八つくらい。
もっと下かもしれない。
汚れた服。
裸足。
膝を抱えている。
凪沙は通り過ぎかけた。
止まる。
戻る。
子どもの前にしゃがんだ。
「大丈夫?」
顔が上がる。
痩せている。
頬に汚れ。
目だけが大きい。
凪沙を見ている。
「怪我してる?」
返事はない。
右足を見る。
足首に擦り傷。
血は乾いている。
大きな怪我ではなさそうだった。
「お腹すいてる?」
子どもの目が少し動いた。
食べ物。
凪沙も持っていない。
「……うちもないや」
何をするかは決めていない。
それでも、ここで立って去る理由もなかった。
凪沙は右手を出した。
「立てる?」
子どもは手を見る。
凪沙を見る。
また手を見る。
指が少し動いた。
その時だった。
「見ろよ」
後ろから声。
凪沙は振り返らない。
「お嬢ちゃん、そんなの触る気か?」
男の声。
別の声が続く。
「汚ねえぞ」
「病気でも持ってたらどうすんだ」
女の声。
「いやだねえ。物好きもいたもんだ」
笑い。
小さい。
王城みたいな大勢ではない。
それでも、聞こえた。
凪沙は目を閉じた。
「……あ」
《嘲笑を確認》
やっぱり出た。
視界に文字が増える。
《対象登録開始》
凪沙はゆっくり立ち上がった。
子どもから手を離す。
周囲を見る。
三人。
壁際の男。
荷物を持った女。
少し離れたところにいる若い男。
笑っている。
まだ何も知らない。
「それ」
三人を見る。
「やめた方がいいよ」
「は?」
「笑うの」
一瞬。
男が凪沙を見た。
次に、隣の女を見る。
「なんだこいつ」
「何それ。脅してんの?」
女が鼻で笑った。
《登録完了》
「……遅かった」
身体の奥で何かが切り替わった。
肩から余計な力が抜ける。
重心がわずかに落ちた。
次に動くための姿勢へ、身体が勝手に変わっていく。
足が軽くなる。
視界が広がる。
さっき王城で感じたもの。
戻ってきた。
背後で小さく息を呑む音がした。
子どもが一歩、下がっている。
壁際の男の顔から笑いが消える。
「なんだ?」
凪沙は自分の右手を見る。
指が勝手に曲がる。
「待って」
《敵性行動を開始》
「だから、待ってって」
男が一歩下がった。
凪沙の身体が前へ出る。
その瞬間。
「ひっ」
背後。
子どもの声。
凪沙は首だけを動かした。
子どもが自分を見ている。
さっきまでとは違う。
目を大きく開いている。
顔が強張っている。
怖がっている。
「……あ」
子どもは立ち上がった。
凪沙が差し出した手には触れなかった。
裸足のまま走る。
「待っ」
呼びかける。
止まらない。
細い路地へ入る。
消えた。
追えない。
身体は別の方向へ向いている。
笑った三人。
「……そっちじゃないんだけど」
《敵性対象:3》
「知ってる」
返事はない。
凪沙の身体が走り出した。
終わるまで、それほど時間はかからなかった。
三人とも死んではいない。
一人は壁際で気を失っている。
一人は荷物の横で呻いている。
もう一人は路地の反対側まで逃げようとして、途中で追いつかれた。
左腕が不自然な方向を向いている。
肋骨も何本かいっているかもしれない。
呼吸はある。
《敵性対象:残存なし》
《処理終了》
力が抜ける。
凪沙はその場に立った。
子どもが消えた路地を見る。
戻ってこない。
「……怖かったか」
たぶん。
確認はできない。
凪沙は最初に子どもが座っていた場所へ戻った。
何もない。
当然だった。
食べ物も持っていなかった。
金もない。
助けると言っても、何をするつもりだったのか決めていなかった。
「……手、出しただけか」
自分の右手を見る。
血はついていない。
でも、さっき三人を殴った手だ。
子どもへ差し出した時だけは、自分で動かした。
それは分かる。
凪沙は手を下ろした。
遠くから声。
騒ぎを聞きつけた誰かが来る。
「また逃げるか」
今度は迷わなかった。
路地の奥へ歩き出す。
知らない街。
行く場所はない。
金もない。
食べ物もない。
助けようとした子どもには逃げられた。
そのうえ、また三人倒した。
「……順調ではないね」
誰に言うでもなく呟いた。
遠くで笛が鳴った。
一つ。
少し離れた場所でもう一つ。
人の流れが変わる。
大通り側から兵士が走ってくる。
「早いなぁ」
凪沙は逆方向へ歩いた。
兵が集まってくる場所から離れる。人が避けている道を選ぶ。
何度か角を曲がるうち、建物が低くなった。
その先に城壁が見える。
正規の門ではない。
古い建物が城壁ぎりぎりまで寄っている区画だった。
「……あそこなら行けそう」
壁際の木箱へ足を掛けて屋根へ上がる。
次の屋根までは少し離れている。凪沙は一度だけ距離を見て、三歩走り、端を蹴った。
身体が浮き、向こう側の屋根へ着地する。瓦が一枚ずれた。
「危な」
そのまま低い外壁へ移る。幅は靴一足分ほどしかないが、凪沙は両腕を軽く広げてその上を進んだ。
下には浅い堀があり、高さもある。
さっきの自分なら簡単に飛べた。今は《笑》も動いていない。
「……まあ、いけるか」
壁を半分ほど降り、最後は飛び降りる。
膝を曲げて衝撃を逃がすと、少し痛んだ。それでも立てる。
凪沙は城壁を振り返った。
追ってくる人影はまだない。
「出れた」
それだけ確認して、街道とは反対側へ歩き出した。