――人生というものは、時々ひどく奇妙な巡り合わせを見せる。
例えば。
人を信じることを諦めた少年と、人を愛することを知らない少女が出会うこと。
それだけなら、まだいい。
けれど。
その二人が互いの欠けた部分を少しずつ埋め合い、やがて家族になってしまうなんてことは。
たぶん、誰にも予想できない。
少なくとも。
俺自身は、そんな未来を想像したことなんて一度もなかったーー
ー
朝。
薄いカーテンの隙間から、柔らかな朝の光が差し込んでいた。
まだ少し冷たい空気が、静かな部屋の中に漂っている。
「…………」
目が覚めた。
ぼんやりと天井を見上げる。
聞こえてくるのは、エアコンの小さな駆動音と、遠くから聞こえる車の走行音。
いつもと変わらない朝。
何も起こらない、ごく普通の朝だった。
……少なくとも、見た目だけなら。
枕元に置いてあったスマホを手に取り、画面を確認する。
午前七時。
いつも通りの時間だ。
「……」
スマホを置く。
そして、ゆっくりと息を吐いた。
昨日の出来事を思い出す。
ルビーが、自分の前世について話した。
かつて生きていた人生。
そこで経験したこと。
そして、今の自分がその続きを生きていること。
アクアもまた、自分が知っている未来について話した。
それは前世の記憶なんかじゃない。
この人生で。
この世界で。
実際に自分自身が経験した、最悪の未来。
父親が死に。
母親が壊れ。
妹まで失い。
復讐だけを支えに生きることになった未来。
そんなもの秘密を、アクアは抱えていた。
俺は以前から知っていたことも含めて、二人の秘密を改めて聞いた。
そして――アイは。
『ルビーに。アクアに。どんな過去とか、不安とか。悩みがあっても……ママは絶対に、二人を置いていかないから』
そう言った。
泣きそうな顔で。
それでも笑おうとして。
最後には、二人を強く抱きしめて。
そして。
『だってママは──泣いちゃうくらい、あなたたちを愛してるから……!』
……あいつは、本当に。
昔からそういうところがある。
人の心を散々かき乱しておいて、自分は何でもないような顔をする。
そして昨日も。
子供たちの前で。
『愛してる!!』
なんて、とんでもなく真っ直ぐな言葉を口にしたと思ったら。
そのまま俺にキスをしてきた。
「…………」
思い出した瞬間、顔が熱くなる。
いや、何を今さら恥ずかしがっているんだ、俺は。
もう結婚して何年経つと思っている。
子供だって二人いる。
今さら夫婦でキスした程度で動揺するなんて、我ながらどうかしている。
……とはいえ。
子供たちの前であれはどうなんだ。
教育上、よろしくない気がする。
いや、待て。
そもそも俺たち夫婦のキスシーンなんて、子供たちは幼い頃から散々見ている気がする。
アイが俺に抱きつき、俺がそれを受け止める。
アイが頬にキスをし、俺が呆れる。
そんな光景は、もはや我が家の日常だ。
「……」
考えるのはやめよう。
朝から夫婦のスキンシップについて一人で反省会を開くほど、俺も暇ではない。
……たぶん。
「八幡?」
「……ん?」
不意に、隣から小さな声が聞こえた。
俺はそちらへ顔を向ける。
そこには、アイがいた。
紫がかった長く綺麗な黒髪を枕の上に広げて、静かに眠っている。
昨夜はあれほど泣いたというのに、その寝顔は驚くほど穏やかだった。
普段の、テレビで見せる華やかな笑顔とは違う。
誰にも見せる必要のない、無防備で幼ささえ残る寝顔。
そして何より。
俺の腕を抱き枕にしている。
「…………」
……重い。
いや、正確には重くない。
アイの体重なんてたかが知れている。
ただ、腕が完全に固定されている。
これでは寝返りも打てない。
そもそも起き上がることすら難しい。
なのに。
不思議と嫌じゃなかった。
むしろ――
この温もりを、もう少しだけ感じていたいと思った。
俺は動かしていた手を止め、そっとアイの髪に触れる。
さらりとした髪が、指の間を滑っていく。
昔から変わらない。
けれど。
昔とは違う。
あの頃の俺たちには、今のような朝はなかった。
家族と呼べるものも。
帰る場所も。
守りたいと思える人たちも。
なかった。
だから、こうして隣で眠るアイを見ていると、妙に胸の奥が静かになる。
「……よく頑張ったな」
誰に聞かせるでもなく、呟いた。
「んぅ……」
アイが小さく身じろぎする。
そして。
ほんの少しだけ口元が緩んだ。
「……はちまん……」
「……何だよ」
「……すき……」
「寝ててもそれかよ」
思わず苦笑する。
まったく。
起きていても寝ていても、こいつは変わらない。
だけど。
悪くない。
むしろ――
こういう朝を、俺はずっと望んでいたのかもしれない。
特別なことなんて何もない。
隣に好きな人がいて。
その人が安心したように眠っていて。
やがて子供たちが起きてきて。
四人で朝飯を食べる。
そんな、ごくありふれた日常。
昔の俺なら、そんなものを幸せだなんて認めることすらできなかっただろう。
幸せなんてものは、もっと遠くて。
もっと特別で。
自分とは無縁のものだと思っていた。
……随分と変わったものだ。
俺も。
そして、この家も。
そう思いながら、俺はもう一度だけアイの髪を撫でた。
⸻
リビングへ向かう。
朝の光が大きな窓から差し込み、部屋全体を淡い金色に染めていた。
キッチンには、昨夜のうちに洗っておいた食器が整然と並んでいる。
冷蔵庫の低い駆動音。
時計の秒針が刻む、規則正しい音。
そんな何気ない生活音が、妙に心地よかった。
「おはよう」
「……おはよう、父さん」
「おはよー、パパ!」
ソファの方から声が返ってくる。
見ると、アクアとルビーがいた。
アクアは眠そうな顔をしながらスマホを眺めている。
ルビーはというと、朝から妙に元気だ。
……いつも通り。
いや。
少しだけ違う。
二人とも、俺を見る目が以前より柔らかい。
警戒するような色がない。
何かを隠そうとする雰囲気もない。
昨日まで二人が抱えていた秘密。
それを、もう俺たちの前で隠す必要はない。
その違いなのだろう。
「……何だよ」
俺がそう尋ねると、アクアが少しだけ口元を緩めた。
「いや」
スマホをテーブルに置きながら、アクアは言う。
「昨日までなら、父さんにこんな顔で見られると、何か察されるんじゃないかって警戒してたから」
「ひどい息子だな」
「ごめん」
「素直だな。怖い」
「そこは褒めてよ」
「褒める要素が見当たらない」
そんな会話をしていると。
「パパぁ!」
「うおっ」
突然、ルビーが飛び込んできた。
細い腕が腰に回される。
「おう」
俺は慣れた手つきで、その背中を軽く叩いた。
「昨日のこと……ありがとね」
「……何がだ?」
「全部」
ルビーが顔を上げる。
その表情には、いつもの明るさがある。
けれど、その奥には少しだけ涙の跡が残っていた。
昨日のことは、きっと簡単には消えない。
前世の記憶も。
今まで抱えてきた孤独も。
それでも。
今、ルビーは笑っている。
「前世のことも。今のことも」
ルビーは小さく笑った。
「私のこと、
そんなルビーに対して、俺は迷うことなく答える。
「当たり前だろ」
目を見て、しっかりと告げる。
「お前はお前だ」
「……うん」
ルビーの瞳が、ほんの少し潤む。
そして。
もう一度、俺の胸に顔を埋めながら言う。
「パパ、大好き」
「そうか」
「もっと喜んでよ!」
「嬉しいぞ」
「顔が全然嬉しそうじゃない!」
そのルビーの様子に対して
今朝会ってからずっと気になってたことを聞く。
「朝からテンション高いな、お前」
「だって今日は記念日だもん!」
「......何の?」
俺が尋ねると、ルビーは満面の笑みを浮かべた。
「家族に全部話した記念日!」
「そんな記念日を制定するな」
「いいじゃん!」
アクアが呆れたように笑う。
「姉さんらしいけど」
そんなアクアに対して、さも当然と言った様子でルビーが尋ねる。
「アクアだって嬉しいでしょ?」
「ッ!?」
その問い掛けに、虚をつかれたかのように驚いた後、少し間が空いてアクアが答える。
「……まあ」
「ほら!」
ルビーが得意げに胸を張る。
その様子を見ていると。
胸の奥に、昨日のアイの言葉が蘇った。
――ママは絶対に、二人を置いていかないから。
あの言葉は、ただの慰めではなかった。
アイ自身の決意だったのだろう。
過去にどれだけ間違えたとしても。
どれだけ自分を信じられなかったとしても。
今度は、この二人を置いていかない。
そのためなら、何度だって立ち上がる。
そんな強い意志が、あの言葉には込められていた。
俺は、まだその意味を考えていた。
そんな時。
「おはよーっ!」
明るく弾んだ声が、リビングに響いた。
振り返ると、そこには寝起きとは思えないほど元気そうなアイが立っていた。
髪は少しだけ乱れている。
それでも変わらず綺麗な容姿に、思わず目を瞑りたくなってしまう。
……朝から眩しい。
「おはよう、ママ!」
「おはよう、母さん」
「おはよう、
「うん、おはよう!」
アイは嬉しそうに笑う。
そして、俺たち三人を順番に見た。
ルビー。
アクア。
最後に俺。
「……えへへ」
その頬が、少しだけ緩む。
「なんか、変な感じ」
「何が?」
ルビーが首を傾げる。
アイは少し考えるように視線を泳がせてから、ゆっくり口を開いた。
「今までずっと、一緒に暮らしてたのに」
アイはルビーを見る。
次にアクアを見る。
そして俺を見る。
その瞳には、優しい光が宿っていた。
「今日からは、もっとちゃんと家族になれた気がする」
「……そうだな」
俺は小さく頷いた。
昨日までの俺たちが、偽物だったわけじゃない。
俺たちは確かに家族だった。
一緒に暮らして。
一緒に笑って。
一緒に泣いて。
時には喧嘩して。
何でもない毎日を過ごしてきた。
でも。
互いに知らない部分があった。
言えなかったことがあった。
一人で抱えていた過去があった。
それを、昨日。
全部とは言わないまでも、お互いに少しずつ知った。
だからといって、何かが劇的に変わったわけじゃない。
血が繋がっているという事実も。
夫婦であるという関係も。
親子であるという関係も。
昨日までと変わらない。
ただ。
知ったことで、少しだけ相手の痛みが分かるようになった。
それだけだ。
それだけで、家族にとっては十分なのかもしれない。
「じゃあ、朝飯にするか」
「うん!」
アイが嬉しそうに頷く。
「今日は何?」
「適当に作る」
「えー!」
「文句あるなら自分で作れ」
「それは嫌!」
「即答かよ」
「だって
「……そうかよ」
素直に褒められると、どう反応していいのか分からない。
「
「それなら助かる」
「じゃあルビーも!」
ルビーが勢いよく手を挙げる。
「お前は座ってろ」
しかし、その申し出を俺は拒否する。
「なんで!?」
「昨日まで重大な秘密を抱えてた精神的疲労があるだろ」
「パパ優しい!」
「アクアも座ってろ」
「僕も?」
「お前もだ」
「……分かった」
アクアは苦笑しながらソファに座り直す。
「じゃあ、俺とアイで作るか」
「うん!」
アイがキッチンへ向かう。
その後ろを眺めながら、ふと思う。
昔の俺なら、こんな光景を想像することすらできなかっただろう。
好きな人と暮らして。
子供たちがいて。
朝になれば、一緒に飯を作る。
それは、あまりにも普通で。
あまりにも平凡で。
だからこそ、俺には眩しかった。
「パパ?」
「ん?」
ルビーの声で我に返る。
「どうしたの?」
「いや」
俺は小さく首を振った。
「何でもない」
「ふーん?」
ルビーは不思議そうな顔をした。
アクアは何も言わず、そんな俺たちを眺めている。
やがてキッチンから、アイの明るい声が聞こえてきた。
「八幡ー! 卵どこー?」
「冷蔵庫」
「どこ?」
「冷蔵庫の中」
「分かってるよ!」
「じゃあ聞くな」
「もう! 八幡ってば!」
そのいつも通りなやり取りに。
ルビーが笑う。
アクアも笑う。
アイも。
俺も、ほんの少しだけ口元を緩めた。
四人で笑う。
なんでもない朝。
昨日までなら、ただの朝だった。
けれど今は違う。
俺たちは互いの過去を知っている。
互いの後悔を知っている。
互いの恐怖も知っている。
それでも。
同じ場所にいる。
同じ家に帰り。
同じ食卓を囲む。
そして。
今日という一日を一緒に過ごしていく。
それでいい。
人生なんて、結局そういうものなのかもしれない。
完璧じゃない。
間違いだらけで。
後から振り返れば、もっと違う選択があったと思うこともある。
取り返したい過去もある。
忘れられない痛みもある。
どうしても消えない後悔だってある。
それでも。
今、隣にいる人間と一緒に飯を食う。
くだらないことで笑う。
時には喧嘩する。
傷つけてしまったら、謝る。
そして、また仲直りする。
そうやって。
何でもない今日を、何度も積み重ねていく。
それが。
家族なのかもしれない。
「八幡?」
「ん?」
いつの間にか、アイがこちらを見ていた。
朝の光を受けたその瞳が、優しく細められている。
「……幸せだね」
「…………」
俺は、少しだけ考えた。
昔の俺なら、そんな言葉を簡単には口にできなかっただろう。
幸せなんてものは、いつか壊れる。
失うくらいなら、最初から期待しない方がいい。
そんなふうに、どこか冷めた目で世界を見ていた。
でも。
今は違う。
俺の隣にはアイがいる。
少し離れたところには、アクアとルビーがいる。
四人で暮らしている。
笑っている。
それだけで。
十分だった。
「ああ」
俺は少し笑いながら静かに答えた。
「幸せだな」
アイが嬉しそうに笑った。
ルビーも笑う。
アクアも、少し照れくさそうに笑った。
朝の光が、四人のいるリビングをゆっくりと照らしていく。
特別なことなんて、何もない。
世界を変えるような出来事も。
誰かを救うような奇跡もない。
ただ。
家族がいて。
笑顔があって。
今日を一緒に生きている。
それだけ。
だけど。
俺にとっては、それが何より大切だった。
――これからも。
この日常を守りたい。
そう思った。