家族全員が、それぞれの秘密を共有してから。
一週間が経った。
あれから七日。
長いような、短いような。
少なくとも俺にとっては、妙に穏やかな一週間だった。
結論から言えば。
――何も変わらなかった。
「アクアー! そこの醤油取ってー!」
「はい」
「ありがと!」
朝の食卓。
アクアが少し離れた場所に置かれていた醤油差しを手に取り、ルビーへ渡す。
「ルビー、テレビ近い」
「はーい」
俺が注意すると、ルビーは渋々といった様子でテレビから少しだけ離れる。
「
次いで、アイにも指摘をする。
「えっ?」
アイが手元を見る。
右手に持った箸を、くるりと回す。
「…………」
「…………」
「……わたし、疲れてるのかな?」
「今に始まったことじゃないだろ」
「ひどい!」
アイが頬を膨らませ、俺は小さく息を吐いた。
……いつも通りだ。
何も変わっていない。
朝から騒がしい妻。
それを呆れた顔で眺める息子。
母親に甘える娘。
そして、それを適当にあしらいながらも結局は甘やかしてしまう俺。
一週間前、世界の常識では説明できないような話を家族で共有したこと。
そんなことが、まるで嘘だったかのように。
俺たちはいつも通り、四人で飯を食っていた。
味噌汁の湯気がゆっくりと立ち上り。
焼き魚の香ばしい匂いが、まだ少し冷たい朝の空気に混ざっている。
窓の外からは、通学する学生たちの声が微かに聞こえてくる。
どこにでもある、普通の朝。
それが妙に心地よかった。
一週間前、アクアは自分の前世の記憶を話した。
正確には、アクアが語ったのは「前世」ではなく。
この人生で自分自身が経験した、未来の記憶だ。
父親を失い。
母親を失い。
姉まで失って。
復讐だけを胸に抱えて生きた、もう一つの未来。
そして。
ルビーもまた、自分がかつて生きていた人生について話した。
病弱な少女として生きた前世。
そして、今の人生へと続く記憶。
俺たちは。
普通なら知ることすらできないような秘密を、家族の中で共有することになった。
もしこれが普通の家庭だったなら。
もっと何かが変わっていたのかもしれない。
親子の接し方が変わる。
互いに気を遣うようになる。
何を言えばいいのか分からなくなる。
秘密を知ってしまったことで、妙な距離が生まれてしまう。
そんな可能性だってあった。
しかし。
「パパ、卵焼きちょうだい」
ルビーが、空になりかけた自分の皿を覗き込みながら言う。
「自分で取れ」
「パパのがいい」
「……ほら」
俺は箸で卵焼きを一切れつまみ、ルビーの皿へ乗せる。
「ありがと!」
ルビーは満面の笑みを浮かべた。
「甘やかしすぎじゃない?」
隣からアイが口を挟む。
「お前が言うな」
「なんで!?」
「ルビーがちょっと泣きそうな顔してるだけで、お前は何でも買ってやるだろ」
「だって可愛いんだもん!」
「親バカ……」
アクアが小さく呟いた。
「お前も人のこと言えないけどな」
「僕?」
「昨日、ルビーが寝落ちした時に布団かけてやってただろ」
「……姉だから」
俺に言われたことに対して、アクアは苦し紛れの言い訳をする。
「へぇ」
「何だよ」
「別に」
アクアが少しだけ顔を逸らす。
ルビーはそんな弟の様子を見て、楽しそうに笑った。
「アクア、お姉ちゃん大好きだもんねー」
「うるさい」
「照れてる?」
「照れてない」
「顔赤いよ?」
「朝だからだよ」
「どういう理屈だよ」
思わず俺が突っ込むと、ルビーが声を上げて笑った。
アクアも呆れながら、ほんの少しだけ笑っている。
アイはそんな二人を眺めながら、嬉しそうに目を細めていた。
そんな光景を見て、俺は思う。
――変わらない。
それでいい。
秘密を知ったからといって。
家族であることまで変わる必要はない。
むしろ。
今まで言えなかったことを言えるようになった分だけ。
俺たちは、ほんの少しだけ近くなったのかもしれない。
⸻
ただし、一つだけ。
明確に変わったことがある。
それは、アクアが俺に相談する頻度が増えたことだった。
以前から、アクアはその経験から年齢の割に大人びていた。
何かを考えていても、それを簡単には口にしない。
自分で考え。
自分で答えを出し。
そして、自分一人で抱え込む。
そんな癖があった。
……まあ。
俺の息子である以上、多少は仕方ないのかもしれない。
俺自身にも、似たようなところがある。
だからこそ、あいつが俺に相談してくるようになったことは少しだけ嬉しかった。
その日の夕方。
仕事から帰ってきた俺が玄関で靴を脱いでいると。
「父さん」
背後から声をかけられた。
「ん?」
振り返る。
そこにはアクアが立っていた。
制服から部屋着に着替えた姿。
いつもの落ち着いた表情。
ただ。
その青い瞳には、僅かな不安が浮かんでいた。
「ちょっといい?」
「どうした?」
「……いや」
アクアは一瞬だけ言葉を探すように黙った。
「大したことじゃないんだけど」
「大したことじゃない話をするために、わざわざ玄関まで来たのか?」
「……」
「ここじゃなんだから、俺の部屋に行くか」
「......うん」
俺たちは部屋へ移動した。
窓の外では、夕暮れの空がゆっくりと色を変えていた。
昼間の明るさはすでに薄れ、街灯が一つ、また一つと点き始めている。
俺とアクアは椅子に並んで座った。
「それで?」
「……姉さんのこと」
「……何かあったか?」
「いや」
アクアは首を横に振る。
「何かあったわけじゃない」
そして、少しだけ視線を落とした。
「姉さんさ」
「おう」
「……最近、すごく楽しそうなんだ」
「そうだな」
俺も思い浮かべる。
学校での出来事。
アイドルを目指すと決めたこと。
レッスンを楽しそうにこなしている姿。
母親であるアイに憧れながら、それでも自分自身の夢としてアイドルを目指そうとしている。
ルビーは今、確かに楽しそうだった。
「高校に入ってから、本気でアイドルを目指すって決めて」
「ああ」
「でも……」
アクアは、ほんの少しだけ顔を俺に向ける。
その顔は、どこか不安げだった。
「前の人生では、姉さんはアイドルになって死んだ」
「…………」
部屋の空気が、重くなる。
「この世界でのヒカルおじさんは、あんなことしないって十分にわかってる......」
「けど、それでも僕は姉さんが死んだことを事実として知っている」
「......そうだな」
「だから、楽しそうにしてる姉さんを見ると……嬉しいんだけど」
アクアが言葉を止める。
ほんの数秒。
けれど。
その沈黙は、やけに長く感じられた。
「それ以上に...怖い」
小さく震えた声だったが、俺にははっきりと聞こえた。
アクアが、拳を強く握っている。
「また同じことになるんじゃないかって」
俺は何も言わなかった。
すぐに答えを出す必要なんてない。
こいつは、今。
自分が抱えていたものを、俺にも預けようとしている。
だったら。
まずは聞けばいい。
「……そうか」
それだけを返した。
アクアは黙ったまま、窓の外を見る。
夕暮れの空は、もうほとんど夜に変わりかけていた。
「......父さんは?」
「......」
「父さんは、どう思う?」
震える声でそう尋ねるアクアに対して、俺ははっきりと答える。
「俺も怖いぞ」
「……え?」
アクアが意外そうに顔を上げる。
そんなアクアの様子を見て、俺はわずかに戸惑いながらも言う。
「怖くないわけないだろ」
おずおずと言った様子で、俺にアクアは再度尋ねる。
「父さんでも?」
「俺を何だと思ってんだ」
若干呆れながらも俺が言うと、アクアは少し言いにくそうに答える。
「……もっと何でも平気な人かと」
「買い被りすぎだ」
思わず苦笑する。
俺だって人間だ。
家族を失う未来を聞かされて。
それを平然と受け止められるほど、強くなんてない。
「家族が死ぬ未来を聞かされて、平気な親がいるなら会ってみたい」
「……」
アクアが黙る。
その横顔は、まだどこか幼い。
どれだけ大人びて見えても。
こいつは俺の息子で。
ルビーの弟で。
アイの子供だ。
そして。
本来なら背負わなくてもいいようなものまで、一人で背負ってしまう。
俺は手を伸ばし、アクアの頭にそっと手を置いた。
そして、ゆっくりと言葉を選びながら話しかける。
「でもな」
「怖いからって、ルビーの人生まで奪うのは違う」
「お前が前の人生で後悔したことと」
「今のルビーが、これから選ぶことは別だ」
「前のルビーが死んだことは、今のルビーがアイドルになったら死ぬって意味じゃない」
「…………」
アクアは何も言わない。
ただ。
俺の言葉を、一つずつ受け止めるように聞いている。
「未来なんて、とっくに変わってる」
「……父さんが殺されなかった時点で?」
「ああ」
「母さんも生きてる」
「そうだ」
アクアが、小さく息を吐いた。
張り詰めていたものが、ほんの少しだけ緩んだように見える。
しかし。
「じゃあ……」
「僕が怖がる必要なんて、ないのかな」
その声と目には、まだ僅かな不安があった。
そんなアクアの目を見ながら、僅かに残った不安を払拭するために俺は話しかける。
逃げずに。
誤魔化さずに。
「怖がること自体は悪くない」
「……」
「怖いなら、怖いままでいい」
「ただし、怖いからって一人で全部背負うな」
「…………」
「それは俺が一番許さん」
少しだけ強い口調になった。
それでも。
アクアは嫌そうな顔をしなかった。
むしろ。
「……分かった」
と言って、ほんの少しだけ安心したように目を細めた。
短い返事。
でも。
それで十分だった。
⸻
「二人ともー!」
その時だった。
リビングの向こうから、明るい声が飛んできた。
「ご飯できたよー!」
アイの声。
さっきまでの重たい空気が、一瞬でほどける。
「今行く」
アイに対して、返事をしながらアクアにも立つよう促す。
「ほら、行くぞ」
「うん」
俺たちは立ち上がる。
リビングへ戻ると。
「おかえりー!」
ルビーが笑顔で迎えてくれた。
「ただいま」
「パパ! 今日は私の好きなやつ!」
「何だ?」
「オムライス!」
「……お前、昨日も食ってなかったか?」
「好きだからいいの!」
「そうか」
テーブルの上には、四人分のオムライスが並んでいた。
黄色い卵に包まれたご飯。
ケチャップの赤い色。
その横には、簡単なサラダとスープ。
決して豪華な食卓ではない。
けれど。
妙に温かい。
「ちなみに今日はママ特製!」
アイが胸を張る。
その自信満々さに若干の不安が過ぎる。
「……大丈夫なのか?」
「なんで!?」
「この前、塩と砂糖間違えただろ」
「あれは事故!」
「二度あったぞ」
「事故が二回起きただけ!」
「それを事故とは言わん」
「
アイが味方を見つけるために、アクアに話しかける。
「アクアはそんなことないと思ってるよね!?」
その様子を見てたアクアは、若干呆れながらも淡々と言う。
「取り敢えず、先にママから食べてみなよ」
「アクアまで!?」
その一部始終をずっと見てたルビーが、堪えきれずに笑い出した。
アクアもそれに釣られて呆れながらも笑う。
そして、俺も。
何でもない夕食。
ただ、それだけ。
でも。
こういう時間が。
たぶん、俺たちが守りたいものなのだろう。
⸻
その夜。
子供たちが寝たあと。
リビングには俺とアイだけが残っていた。
照明は少し落としてある。
窓の外には、静かな夜の街。
昼間とは違う、少しだけ寂しげな空気が部屋を包んでいた。
「ねぇ、八幡」
「ん?」
アイがソファに座りながら、ぽつりと呟く。
「……わたしね」
いつもの明るい声とは少し違った。
どこか柔らかく。
そして、ほんの少しだけ弱い。
「ちょっとだけ、安心した」
「何が?」
「二人が、わたしたちを頼ってくれたこと」
「……そうだな」
俺もソファに腰を下ろす。
アイとの距離は近い。
肩が触れそうなほど。
「ずっと怖かったんだ」
「何が?」
「もし二人が、わたしにも八幡にも何も言わずに……一人で抱えてたらって」
アイは両膝を抱えるようにして、そこへ顎を乗せた。
その横顔は、いつもの華やかなアイドルとは少し違って見えた。
テレビの中で笑っている彼女。
ステージの上で輝いている彼女。
誰よりも完璧なアイドルを演じる彼女。
そのどれでもない。
ただの母親の顔だった。
「アクアも、ルビーも」
アイは小さく笑う。
「わたしが思ってたよりずっと大人だったから」
「……」
「だからこそ、ちゃんと子供でいてほしかった」
その言葉には。
母親としての、切実な願いがあった。
秘密を抱えたまま大人にならなくていい。
全部自分で解決しなくていい。
辛い時には泣いていい。
怖い時には助けを求めていい。
そんな当たり前のことを。
アイは二人にしてあげたかったのだろう。
「でもね」
「ん?」
「この前、ルビーが泣いて」
「おう」
「アクアも泣いて」
「ああ」
「私も泣いて」
「......ああ」
アイは目を細める。
「なんか……」
少しだけ照れくさそうに。
それでも嬉しそうに。
「やっと、ママになれた気がした」
「……そうか」
「うん」
アイは、そっと俺の肩へ頭を預けた。
温かな体温が伝わってくる。
その重みは、ひどく心地よかった。
「八幡」
「何だ?」
「これからも、四人でいようね」
「当たり前だろ」
「ずっと?」
「ずっと」
「……えへへ」
アイが嬉しそうに笑う。
その笑顔を見ながら、俺は思った。
ずっと。
なんて言葉は。
普通なら随分と曖昧なものだ。
未来なんて誰にも分からない。
明日、何が起こるかすら分からない。
ましてや。
俺たちは、未来が変わることを知っている。
だからこそ、その言葉を軽く口にすることはできなかった。
それでも。
俺は言った。
ずっと、と。
守れるかどうかじゃない。
守る。
その覚悟だけは、もうとっくに決まっている。
その時。
廊下から小さな声が聞こえた。
「……父さん」
「ん?」
アクアだった。
「どうした?」
「……」
俺は立ち上がろうとする。
アクアは何か言いたそうにして。
やがて。
「......ちょっと良い?」
「……おう」
俺は頷いた。
アクアと並んで廊下を歩く。
夜の廊下は静かだった。
足音だけが、二人分。
リビングの方から、アイの声が聞こえてきた。
「……ふふ」
振り返ると、アイがこちらを見ていた。
そして。
「うちの男の子たち、仲良しになったなぁ」
嬉しそうに。
どこか満足そうに。
そんなことを呟いていた。
⸻
寝室。
アクアをベッドで横にさせ、俺はすぐそばの椅子に座った。
布団を肩まで掛ける。
部屋には小さな常夜灯だけが灯っていた。
「父さん」
「何だ?」
少し、間が空いてアクアが言う。
「……ありがとう」
「何が?」
「前の僕の話を聞いてくれて」
「気にするな」
アクアは布団の中で少しだけ身じろぎした。
そして。
「でも……もう一回言いたかった」
「そうか」
俺はベッドの横に腰を下ろす。
そして、そっとアクアの頭を撫でた。
昔よりずっと大きくなった頭。
それでも。
こうして触れてみれば。
やっぱり俺の息子だと感じる。
「おやすみ、アクア」
「……おやすみ、父さん」
俺は立ち上がる。
そして、静かに部屋を出る。
扉を閉める直前。
「……父さん」
「ん?」
振り返る。
アクアが布団の中からこちらを見ていた。
その表情は穏やかだった。
「今の僕は――幸せだと思う」
「…………」
一瞬。
言葉が出なかった。
その言葉は。
俺にとっても、どこか特別だった。
過去を知っているからこそ。
失った未来を知っているからこそ。
アクアが今、自分の口から「幸せ」という言葉を選んだことが。
たまらなく嬉しかった。
俺は、静かに笑う。
「ああ」
そして。
「俺もだよ」
そう言って、扉を閉める。
カチリ。と小さな音が響く。
静かな夜だった。
しかし。
誰も死んでいない。
誰も一人じゃない。
誰も、自分だけで全てを抱えてはいない。
アイもルビーもアクアも、そして俺も。
同じ家で。
同じ時間を生きている。
それだけでいい。
この先、「芸能界」という複雑かつ強大な荒波の中を四人で生きていくうちに
きっと、多くの苦難が目の前に立ちはだかってくるだろう。
それでも。
今度は一人じゃない。
秘密を抱えても。
怖くなっても。
迷っても。
帰る場所がある。
待っていてくれる人がいる。
だから。
この家族は、きっと大丈夫。