休日の昼。
窓から差し込む陽射しは穏やかで、平日の慌ただしさが嘘のように、家の中にはゆったりとした時間が流れていた。
時計の針は正午を少し回ったところ。
テレビからは、休日の昼らしい明るい番組の音が小さく聞こえている。
俺はリビングのソファに腰を下ろし、職場から持ち帰った資料を眺めていた。
紙をめくる音。
ペン先が机を軽く叩く音。
時折、テレビから聞こえてくる笑い声。
そんな何気ない生活音に囲まれながら、俺は資料へ目を落とす。
産業カウンセラーとして働き始めてから、それなりに時間が経った。
大学で学んだ心理学。
そこから得た知識や経験。
そして、自分自身がこれまでに見てきた人間の感情。
それらを使って、俺は今、誰かの心に向き合う仕事をしている。
皮肉なものだ。
昔の俺は、人付き合いなんて面倒で。
他人の感情なんて、できるだけ考えたくなくて。
人間関係そのものを避けて生きていた。
そんな人間が。
今では、人の悩みを聞く仕事をしている。
人生とは分からないものだ。
……まあ。
自分自身のメンタルケアだけは、未だに専門外なのだが。
人の相談には偉そうに助言できるくせに、自分のことになると途端に判断力が落ちる。
我ながら、なかなかに救いがない。
それでも。
この仕事を選んだことを後悔したことはない。
特に俺が関わることの多い芸能界は、一般的な社会とは少し違う。
表向きは華やかだ。
ステージの上では眩しい照明が輝き。
観客からは大きな歓声が上がる。
テレビや雑誌には、笑顔の人間ばかりが映る。
けれど。
その華やかさの裏側には。
人間関係。
プレッシャー。
誹謗中傷。
期待。
競争。
失敗への恐怖。
人気を失うことへの不安。
心をすり減らす要素には事欠かない。
だからこそ。
心理学を学んだことは、無駄ではなかったと思っている。
誰かの人生を直接変えることはできなくても。
その人が一人で壊れてしまう前に。
少しだけ隣に立つことくらいはできる。
そんな仕事だ。
俺が資料を一枚めくった、その時。
「パパー!」
「ん?」
階段の方から、元気な声が響いた。
次いで、ぱたぱたという軽快な足音が近づいてくる。
そして、階段を駆け下りてきたルビーが、その勢いのまま俺へ飛びついてきた。
「パパー!」
「おっと」
反射的に腕を伸ばして受け止める。
細い体が、そのまま俺の胸へ収まった。
「どうした?」
「今日、輝おじさん来るんだよね!」
「ああ」
答えると、ルビーの顔がぱっと明るくなる。
「何時!?」
「知らん」
「えー!」
が、再度俺の答えを聞いた瞬間に、その顔が落胆に変わる。
「俺が予定を管理してると思うか?」
「パパならしてそう」
「しない」
「絶対してると思ったのに」
「俺を何だと思ってるんだ」
少し呆れながら俺は言う。
「何でも知ってるパパ?」
「買い被りすぎだ」
ルビーが楽しそうに笑う。
……そう。
今日はあいつが来る日だ。
神木輝。
昔は、俺のところへ相談しに来ることが多かった。
芸能界という特殊な場所で、人を愛すること。
誰かに期待されること。
自分の感情をどう扱えばいいのか。
自分自身をどう受け入れるのか。
色々な話をした。
当時のあいつは、今よりずっと危うかった。
自分の中にあるものを持て余していて。
それを誰にも見せないようにして。
それでも、どこかで誰かに分かってほしいと思っていた。
そんな人間だった。
俺も似たようなものだったから。
だから話を聞いた。
今となっては。
そんな過去が嘘みたいに、家族ぐるみの付き合いになっている。
しかし。
あいつには一つ、困った特徴がある。
――子供に甘すぎる。
特に、うちの子供たちには。
「姉さん、朝からうるさい」
声がして、俺が顔を向ける。
階段を下りてきたアクアが、眠そうな顔をしながらこちらへ歩いてきた。
「だって輝おじさん来るんだよ!」
「……まあ、僕も楽しみだけど」
「ほら!」
「何が『ほら』なんだ」
「アクアも楽しみじゃん!」
「それと姉さんが朝から騒ぐことは別だろ」
「むー」
ルビーが頬を膨らませる。
俺はそんな二人を眺めながら、少しだけ笑った。
「そんなに楽しみか?」
「うん!」
「まあ...うん」
二人とも、ほとんど同時に頷いた。
「……そうか」
それだけ答える。
けれど。
胸の奥には、少しだけ温かなものが広がっていた。
こういう光景を見るのは。
悪くない。
⸻
それからしばらくして。
家の中に、インターホンの音が響いた。
ピンポーン。
「あっ!」
ルビーの顔が輝く。
「来た!」
次の瞬間。
玄関へ向かって、弾丸のように走っていく。
「おい、廊下走るな」
俺の注意は、すでに遅かった。
「輝おじさーん!」
玄関から、元気な声が聞こえてくる。
「おおおお! ルビーちゃん!」
それに負けないくらい大きな声が返ってきた。
「大きくなったねぇ!」
「先週も会ったよ?」
「先週より大きくなってる!」
「そんなわけないでしょ」
アクアが冷静に突っ込む。
玄関の方から、楽しそうな笑い声が聞こえた。
やがて。
「アクア君!」
「こんにちは、輝さん」
「偉い!今日も可愛い!」
「僕、男なんだけど」
「可愛い!」
「…………」
アクアが黙った。
その表情を想像する。
たぶん。
俺も今、同じ顔をしている。
呆れ。
諦め。
そして、ほんの少しの照れ。
あいつは本当に。
子供相手になると、途端に甘くなる。
やがて、輝が大きな紙袋を抱えてリビングへ入ってきた。
「はい! これ!」
「わぁ!」
ルビーの目が輝く。
紙袋を受け取るなり、中を覗き込む。
「お菓子いっぱい!」
「好きなの選んでいいよ!」
「全部!」
「もちろん!」
「ダメ」
俺が即座に遮った。
「なんで!?」
「全部食ったら夕飯入らなくなるだろ」
「パパのケチ!」
「親として当然だ」
「八幡さん、子供に厳しくないですか?」
輝までこちらへ加勢してくる。
「お前が甘すぎるんだよ」
「だって可愛いんだから仕方ないじゃん!」
「……輝さん」
アクアが呆れたような顔で言う。
「姉さんに甘すぎると、父さんに怒られるよ」
そんなアクアに対し、ヒカルはニヤけながらも何かを渡そうする。
「ふっふーん、これを見たらアクア君もそんなこと言ってられないよ?」
「......?」
輝が別の袋を取り出す。
取り出された袋を見て、アクアが少しだけ首を傾げる。
「……何?」
「本」
「……!」
その瞬間。
アクアの瞳が、ほんの少しだけ輝いた。
分かりやすい。
ルビーとは別方向に、こいつも十分子供だ。
「心理学関係の本。前に興味あるって言ってただろ?」
「......ありがとう」
アクアが本を受け取る。
表紙を確認する目が、明らかに嬉しそうだった。
「あと、これ」
「……何?」
「映画の資料。五反田さんから貰った」
「!」
今度こそ、アクアの表情が明確に変わった。
「本当に?」
「ああ。役者やるなら勉強になるぞ」
「ありがとう」
アクアは大切そうに資料を受け取った。
……なるほど。
俺にはお菓子。
アクアには本と映画資料。
ちゃんと、それぞれの好みを把握している。
単純に子供に甘いだけではないらしい。
まあ。
甘いことに変わりはないが。
「輝おじさん!」
「ん?」
「私にも何かない?」
「もちろんあるよ!」
「やった!」
……ほら来た。
輝が、もう一つ袋を取り出す。
その顔には妙な得意げさがあった。
「……」
俺は嫌な予感がした。
「アイドルのライブチケット」
「えっ!?」
ルビーの目が、これ以上ないくらい大きくなる。
「今度のライブ、一緒に行こう」
「行く!!」
即答だった。
「お前、仕事は?」
「休み取った!」
「早いな」
思わず頭を抱える。
仕事より早い。
さすが芸能界の人間。
……いや、褒めている場合じゃない。
「……輝」
「何です?」
「娘を甘やかすなとは言わんが」
「はい」
「限度ってものをだな」
俺の話を遮って、ヒカルが言う。
「八幡さん」
「......何だ」
輝は少しだけ笑った。
「ルビーちゃんが笑ってる」
「……」
「それで良くないですか?」
「…………」
ぐうの音も出ない。
いや、反論しようと思えばできる。
健康管理だとか。
教育だとか。
予定だとか。
親としての責任だとか。
いくらでも言える。
でも。
ルビーを見る。
満面の笑顔。
目を輝かせて。
両手でチケットを大事そうに握っている。
「パパ!」
「何だ?」
「パパも一緒に行こうよ!」
「俺も?」
「うん!」
「良いね!八幡さんも行こう!」
「俺まで巻き込むな」
「でも、行くなら家族も一緒の方が楽しいですよ?」
「……」
そう言われると弱い。
俺は小さく息を吐いた。
「……分かったよ」
「やったー!」
ルビーがその場で飛び跳ねる。
アクアも、そんな姉の姿を見ながら少し笑っていた。
……まあ。
悪くないか。
⸻
「みんなー?」
その時。
リビングの入り口から、聞き慣れた声がした。
振り返る。
「輝くん!」
「アイちゃん!」
アイが嬉しそうに笑う。
「久しぶり!また綺麗になったね!」
「先週会ったよ?」
「先週よりも綺麗になってる!」
「母さんにもルビーと似たようなこと言ってる……」
アクアが呆れながら言い、それを聞いたアイは苦笑する。
輝は昔から。
アイに対しても、どこか遠慮がない。
昔のような複雑な感情が、今も残っているわけではない。
今の二人は。
ただの友人。
そして。
家族同然の付き合いをしている友人同士だ。
「
「特には」
「じゃあ、みんなでお昼食べよっか」
「賛成!」
「僕も」
「俺も」
「じゃあ決まり!」
アイが手を叩く。
その明るい声につられるように。
家の空気がさらに柔らかくなる。
四人。
いや。
今日は五人。
テーブルを囲む。
ただの昼食。
特別な料理が並んでいるわけでもない。
高級な店でもない。
けれど。
その時間は、妙に穏やかだった。
ルビーは輝に今日学校であったことを楽しそうに話している。
アクアは最近読んだ本について話している。
アイは仕事であった出来事や、スタッフへの愚痴をこぼしている。
俺はそれを聞いて。
輝は全員に相槌を打って。
時々。
「ルビーちゃん、これ食べる?」
などと言いながら、お菓子を追加しようとして。
「食事中だぞ」
俺に止められる。
「じゃあ食後に」
「夕飯前に食わせるな」
「八幡さん、厳しいなぁ」
「お前が甘すぎるだけだ」
「でもルビーちゃん、食べたいって」
それを聞いてルビーが立ち上がる。
「パパ!」
「ダメだ」
しかし、ルビーが何を言うまでもなく、俺は拒否する。
「ケチ!」
「親だからな」
そんなやり取りする。
どこにでもあるような。
そんな、何でもない家族での昼食。
⸻
食後。
少し時間が経った頃。
俺は輝と二人でベランダへ出た。
昼下がりの風が、頬を軽く撫でる。
遠くに見える街は、休日らしい穏やかな空気に包まれていた。
俺は手すりに軽く寄りかかる。
輝も隣に立った。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
家の中から、ルビーとアイの明るい声が聞こえる。
そして、ページをめくるアクアの小さな物音。
その音を聞きながら。
俺がぽつりと口を開いた。
「……楽しそうだな」
「はい」
輝が家の中を見る。
そこではアイとルビーが何か話していて。
アクアは少し離れた場所で、さっき渡した本を読んでいる。
その光景を見つめる輝の横顔は、穏やかだった。
「八幡さん」
「ん?」
「俺」
声の調子が少し変わる。
さっきまでの軽い雰囲気とは違う。
「昔、あなたに相談してたことありましたよね」
「ああ」
「もしあの時、あなたが俺の話を聞いてくれてなかったら」
輝は遠くへ視線を向ける。
風が吹く。
その横顔に、ほんの一瞬だけ昔の影が見えた気がした。
「俺はもっと酷い人間になってたかもしれない」
「……」
俺は何も言わなかった。
あの頃の話を、俺たちは何度もした。
だから。
今さら否定する必要もない。
「だから」
輝がこちらを見る。
そして。
穏やかに笑った。
「今度は俺が、あなたの家族を守る側になりたい」
「……十分助かってるよ」
「そうですか?」
「ああ」
俺は肩をすくめる。
「何より、子供たちが楽しそうだからな」
輝は、もう一度家の中を見る。
そこには。
ルビーがいて
アクアがいて
アイがいた。
「それが一番だ」
輝が笑った。
その笑顔には。
昔のような危うさはなかった。
何かに追い詰められたような影も。
自分自身を持て余すような苦しさも。
そこにはない。
今の輝の顔にあるのは。
ただ、誰かを大切にしたいと思っている人間の顔だった。
それを見て。
俺は少しだけ思う。
人は。
変われるのかもしれない。
過去を消すことはできない。
やってしまったことを、なかったことにもできない。
それでも。
今、誰かを大切にすることはできる。
そして、それを積み重ねていけば。
いつか。
過去とは違う人間になれるのかもしれない。
……まあ。
俺がそんなことを考えるようになった時点で、相当変わったんだろうけどな。
⸻
「おじさーん!」
家の中から、突然ルビーの声が響いた。
「どうしたー?」
「アイス食べたい!」
「すぐに買ってくるよ!」
「待て」
俺が即座に止める。
「夕飯前だ」
「えー!」
ルビーの不満そうな声が中から聞こえた。
「輝おじさーん!」
「八幡さん!少しくらい良いじゃないですか!」
俺は呆れながら輝に言う。
「......輝」
「何ですか?」
「……お前本当に甘いな」
「だって可愛いからしょうがない!」
「……」
俺は深いため息を吐いた。
何度目だ、これ。
この男。
完全に孫を甘やかす祖父のそれである。
……いや。
実際には甥や姪ですらないのだが。
そのくらいの勢いで甘い。
「パパ!」
「何だ?」
ルビーがベランダまでやってくる。
「アイス食べたい!」
「だから夕飯前だって」
「輝おじさん!」
「八幡さん!」
「うるさい」
むくれた顔をして、ルビーが言う。
「パパのケチ!輝おじさんお願い!」
「任せてルビーちゃん!俺が説得する!」
「輝おじさん優しい!」
「そうだろ!」
「調子に乗るな」
家の中まで俺たちの声が響く。
アイはリビングから顔を出して、楽しそうに笑っている。
アクアも本から顔を上げて、呆れたような、それでいてどこか嬉しそうな表情を浮かべていた。
そんな光景を見て、おれは呆れながらも思わずニヤけてしまう。
家族が笑って。
友人が遊びに来て。
子供たちが誰かに甘えて。
俺がそれを呆れながら眺める。
そんな未来なんて。
あの頃の俺には想像すらできなかった。
考えたことすらなかった。
――神木輝。
本来なら。
未来を壊す存在として恐れられていたかもしれない男。
けれど。
この世界のこいつは。
ただの子供たちに甘すぎる――
うちの家族の「おじさん」だった。